最期のベル (莉々 作)
幼い頃から、僕には夢があった。それは、世界一の時計を作ること。
代々続く稼業は時計屋だった。父の時代は不景気で、もっぱら修理の依頼しか来ず、父の洗練された技術は日の目を見なかったが、父はその技術のすべてを僕に教えた。それは小さな歯車や螺子を自分で削り加工して作るところからという、地道な作業。けれどお天道様の昇る空を見るより、道端に植わった色とりどりの花たちを見るよりも、小さな歯車の重なりを延々と観察する方がずっと楽しかった。僕は同世代の子どもたちとも遊ばず、引きこもっていた。寂しくはなかった。だって自分のやりたいことに一日中耽っていられるのだから!
僕の転機は、十八歳になった年に訪れた。店に入ってきたのは、黒いローブを纏った女性だった。僕は彼女を見た時、『魔女だ』と思った。彼女もまた、魔女だと名乗った。
魔法の時計が欲しい――
彼女の依頼だった。とても曖昧な依頼だ。懐中時計に何を求めているのか尋ねても、彼女はただ、魔法、と呟くばかりだった。
どんな魔法でも構わない。私が生きた証になるような、そんな魔法の時計が欲しいの。
彼女は、僕に魔術書を見せた。そこには僕には到底読めない外国の言葉で書かれた呪文や、魔法陣の絵が載っていた。全部、手書きだった。
僕はまともに遊んだことがなかったから、魔女の持ちかけた新しい世界に柄にもなくはしゃいだ。なんだかワクワクした。失った少年時代を取り戻したような心地だった。
店を閉めて、ただ彼女の望む時計を作ることだけに専念した。彼女の魔法陣からデザインを起こしたり、歯車の噛み合わせのヒントを得たり。彼女は僕に収入が入らないことを憂慮して、やがて僕の代わりに店を開いた。彼女には、時計を修理する技術まであった。僕の住む町で同じような技術を持つ技師に心当たりはなかったが、彼女は「これも魔法」と微笑んだ。僕はそうかと単純に納得して、ただひたすらに、試作品づくりに明け暮れた。試作品の数は、百を超えた。
彼女の気に入る時計は、現れない。
街の人々は、僕についに嫁さんができたなどと噂した。僕にはまったくそんな気はなかった。彼女に尋ねてみたが、彼女もまた、僕と添い遂げる気はないようだった。僕らは店主と客の関係でしかなく、友人と言えるほどには親しくなく……けれど僕は彼女を信頼していたから、店を任せられた。長らく一緒に過ごすうち、僕は彼女の手癖を覚えた。魔術書の文字も絵も、すべて彼女の手書きだということには気づいていた。
その日は来た。突然だった。警官が僕の店に乗り込んだ。あっという間に、彼女は連れ去られた。魔女は裁きを受けなければならないのです――警官はそう言って、僕の肩に手を置き、痛ましげに眉尻を下げた。
惑わされてさぞお辛かったでしょう。あの魔女のせいで、あなたが店じまいをしたり、外へ出なくなったと聞きましたよ――
一度だけ、牢に入った彼女との対面が許された。彼女の手首に重い手枷がつながれているのを見て、僕は泣きだしてしまった。魔女は泣かないでと困ったように笑った。
「私はずっと追われていたの。逃げて逃げて逃げて、あなたの店に辿り着いた。魔法の時計をちょうだいと言ったわね。けれども私はもうあなたからもらっているの。……良い時間だった」
僕は店に戻り、扉に鍵をかけ、一つの懐中時計を作り始めた。
処刑の日は間もなくやって来た。彼女が磔にされている。その足元にはたくさんの木切れがあって、役人にたくさんの油をかけられた。
僕は、完成した時計を――彼女からも見えるよう大きめに作ったそれを掲げた。遠くからだったけれど、彼女と僕は確かに目が合ったと、そう思っている。
歓声が僕の耳を潰す。それでも、これから訪れるたった二つの音だけを記憶に残すために、僕は耳を澄ました。
リーン。
魔女の処刑の時間を広場の鐘が告げると同時、僕の握る時計が鳴った。
それは、喧騒の中でも澄み切った音で良く響いたように思えた。
松明から火が移される。魔女のうめき声と叫び声は、僕には聞こえなかった。ただただ、時計の次の音を待ち続けた。肉が焼け焦げていく酷い匂いが鼻につんと来て、目から涙が滲んだ。
火がすべて消え、灰のすべてが空へ吸い込まれた瞬間、もう一度、僕の時計はリン、と鳴った。そうして、時を刻むのをやめた。
その後店を再開した。思ったよりも長く生きてしまったが、僕はあれから、針の動く時計を持ち歩いたことがない。いつでも、あの時計だけを身に着けていた。
……ああ、もうお別れのようだよ。直に天使が僕を迎えに来るだろう。それとも、彼女を救えなかった僕には悪魔がやって来るだろうか。どうなるかはわからない。死なないことにはね。
お別れだよ、僕の大切な時計。僕の魔女の終わりの時を告げて止まった、世界で一つの大事な相棒。さようなら。君が僕の棺にも入ってくれること、そっと願っている。




