霧にきえゆけ (青月クロエ 作)
※作者本人ページで同作品の加筆修正版を公開しています。
お昼を過ぎたというのに、黒い霧は晴れそうになかった。
寒い季節柄、各家の石炭使用量は夏場の比じゃない。
あたしが住む貧乏長屋も例に漏れず、鉄さびだらけの煙突からは絶えず煙が流れている。
『ストーブに使う石炭は週にバケツ一杯だけ』
何年も前からの約束事はもう守らなくてもよくなった。
お蔭で、擦り切れた薄い毛布一枚被っているだけなのに室内の暖気は充分保たれている。
シュミーズ姿でいたって全然寒くないし、例えあたしが風邪引いたところで、ここを出ていくあんたには関係ないし。
頭から毛布に包まれベッドの上で膝を抱えるあたしを、あんたはきっと困った顔で見下ろしている。
毛布の細かい毛玉が視界の大半を覆う中、スカートの鮮やかな緑が視界の端にちらちらと映り込む。
そのドレスも彼からの頂き物だよね。
今までの暮らしじゃ一生着ることがなかっただろう代物――、一生得られることがない生活を、あたしを差し置いてあんただけが手に入れた。
小さい頃からいつも一緒にいたじゃない。
都会に憧れる余り田舎を飛び出して、二人でこの長屋借りてさ。
縫製工場のお針子、洗濯婦の仕事、キツイ割に給金がしょぼすぎてすぐ辞めちゃったよね。
花屋の売り子は楽しかったけど、店が潰れちゃったのは残念だった。
酒場の女給は酒癖悪いオヤジ達が鬱陶しくて……、あんた、大人しいから目付けられちゃって。
調子づいてあんたに絡んでくるのを、あたしがよくあしらってやってたっけ。
その内、ちょっと我慢して好きに触らせてやれば、チップをたっぷり貰えるのが分かってきてさ。
あんたが嫌がるから、そういう仕事はあたしが全部肩代わりしてあげてたのに。
結局、酒場も潰れちゃって、あんたもあたしと一緒にそういう仕事するしかなくなって。
真っ暗な煉瓦通りにあたし一人で立たせる訳にはいかないから。
二人一組で動いた方がまだ安全だからって――、勢い込んでた割には、あたしの方が沢山お客取ってたけどね。
あんた、すぐに泣くんだもの。
厄介な客を引き受けるのはいつもあたし……、でも、あんたといられるなら、それで構わなかったんだ。
少しだけ毛布をずらし、目線を上げてみる。
つぶらな青い目は潤み、雀斑の散った下膨れの頬が微かに震えていた。
ほら、やっぱりすぐに泣く。
「そんな顔したって許さないんだから」
「……ごめん……」
「あんたのせいだから。あたしだけが夜の街に出ていって、男引っ掛けなきゃいけなくなったのは」
「か、彼には……、あなたが路頭に迷わないよう援助を頼んでるから……」
「石炭をケチらなくても済む生活を送らせてくれるだけじゃないんだねぇ。気まぐれで買った女を同情で囲うだけじゃなく、相方の生活まで保障してくれるなんて。さっすが、成金様は違う。ついでにあたしも囲ってくれないかな」
小ぶりな唇がきゅっと引き結ばれたが開くことはない。
どんなに酷いことを言っても決して怒らないから、却って刺々しさは増していく。
「あたしがいなきゃ、何もできなかった癖に。それとも」
喉まで出かかった言葉を飲み込み、毛布を頭から被り直す。
歪んだあんたの顔も鮮やかな緑色も視界から消し去りたくて、さっきよりも深く、深く被る。
あんたはため息の一つでも漏らしたかもしれないし、涙を堪えようと洟を啜ったかもしれないけど、あたしの耳には何一つ届いていない。
ヘッドボードの真後ろにある採光窓を振り返る。
毛布で隠された視界では毛玉以外見える筈ないのに。
「そろそろ迎えの馬車が来るから……、もう出るね……。―――――……」
あんたの最後の言葉、毛布越しには聞き取れなかった。
扉が開いた時の軋んだ音、パタ、ン……と扉が完全に閉じられた瞬間の音だけが、鮮明に耳の奥にこびりついている。
頭だけ毛布を外し、もう一度だけ採光窓を振り返る。
この時初めて、あたしはカーテン代わりの黴臭いボロ布が閉めっ放しだったことを思い出した。
薄い布地から透けて差し込む光が、あたしの金の長い髪と白磁の肌を僅かに輝かせる。
少なくとも雨は降っていなさそうだ。
黒い霧は晴れただろうか。
(了)
2018/06/16 作者本人ページでも同作品を公開のため、注を追記




