残照の中で (霧原真 作)
「戻りました、わが主」
ささやくような声が、老いた魔法使いをまどろみからうつつへと引き戻した。
瞼を開くと、小柄な若い娘が寝台の脇に立ち、こちらをじっと覗き込んでいた。
窓から差し込む黄昏の光を受けて、娘の黒髪はつややかに輝いている。その表情は凪いだ水面のように静かで、何を考えているのか読み取れない。ただ黄玉石の色をした瞳のみが、炯々と、荒々しさを潜ませた輝きを放っている。
まるで猛禽の目だ。そう感じるのは、この娘の真の姿を知っているからだろうか。
「よく戻った、セラ。して首尾は」
「手紙は麓の村長に渡しました。十日後に、必ず開封するように言い置いて」
「そうか」
――臨終は近い。できうる限り、始末はつけた。後、残っているのは……
老人はのろのろと左手を持ち上げ、眼前にかざす。たったそれだけの動作が、どうにも大儀だった。
老いさらばえた手だ。皺の寄った皮膚には黒いしみが浮かび、節くれだった指はまるで枯れ枝のよう。
かつては両手の指すべてに、じゃらじゃらと指輪が嵌められていた。だが今、老人の指に輝く指輪はひとつきり。
死期を悟ったあの日、老人は決意した。
支配の指輪を使い魔に渡し、彼らを束縛から解き放とう。
魔法使いが死んでも、支配の指輪はこの世に残る。一旦指輪に名を刻まれた使い魔を、隷属の宿命から解き放つ手段はひとつしかない。
所有者が、使い魔に指輪を譲り渡して宣言するのだ。「お前を解放する」と。
――すでにほとんどの使い魔は解放した。残るはひとり。最初にして最良の使い魔。六〇年余の時を共に過ごしてきた、相棒とも伴侶とも呼ぶべきセラ。
「セラ。いや、セアランディア」
老人は娘を――使い魔セラを、その真の名で呼び直した。
「お前を解放したい」
身じろぎもせずに、セラは老人を見つめ返す。
沈黙が流れた。だが、ややあって、セラが呟くように問いかけてきた。
「……本当に?」
「お前は十分に尽くしてくれた。だが最後にひとつ、私の願いを聞いてくれ」
「何なりと」
「今一度、お前の真の姿を見せてほしい。私が与えたその姿ではなく、あるがままの、お前本来の姿を」
セラは考え込むように小首を傾げ、静かな声で言った。
「ここでは狭すぎます。部屋を壊したくはありません」
「そうだな。屋上に出よう」
寝台から身を起こしかけたところで、老人は苦笑をもらした。
「すまないが支えてくれないか。もう起き上がるのも覚束ないのだ」
「たやすいことです」
間髪入れず答えると、セラは老人の体の下に腕を差し込み、ひょいと抱き上げる。
「このまま屋上に向かいます」
淡々とそう告げると、小柄な娘は、やせ細っているとは言え丈高く骨太な老人をやすやすと両の腕に抱え込み、確かな足取りで寝室から歩み出た。
屋上に着くと、使い魔はその主をそっと下ろした。
「ありがとう」
老人の言葉に無言でうなずき返して、セラは数歩後ずさる。
「では」
その呟きと同時に、まばゆい光がほとばしり出てセラの全身を包み込む。
やがて光は薄らいで、人間よりもはるかに大きい、翼を具えたなにかが現れ出た。
炎をまとった巨大な鷹――『神の鳥』とも呼ばれる高位の妖魔だ。
――ああ、これがセラだった。
最初に召喚したとき、彼は確かにその姿を見ている。だが、使い魔がその真の姿を見せたことは、以来、指折り数えるほどもない。
「満足していただけましたか」
「ああ、ありがとう」
礼を述べると、老人は自分の手元に視線を移し、震える手で左の薬指から最後の指輪を引き抜いた。
「受け取るがいい、セアランディア。今ここに、汝は解放された」
炎まとう鷹がうなずくように大きく首を上下させると、指輪は老人の手から中空に浮かび上がる。そしてそのまま吸い込まれるように鷹の体に重なって――跡形もなく消え去った。
「ありがとう、ディアダン」
その呼びかけに、老人は思わず声をあげそうになる。
今までセラは彼を名前で呼んだことは一度もなかった。わが主――常にそう呼びかけてきたものだ。
「こちらこそ、セラ。さあ、もう行きなさい」
「行くとは、どこへ?」
「どこへでも。好きな所へ」
「ならば、ここに残りましょう」
そう言い放つと、炎の鷹は瞬く間に小柄な娘に身を変じ、老人の隣へと歩み寄る。
「なぜ……?」
「ここにいたいのです」
「お前はもう自由なのに」
「自由だからこそ、です。ディアダン、かつてわが主だったひと、そして今は、わが相棒と呼びたいあなたのそばに」
「相棒と……そう、呼んでくれるのか。私はお前を魔力で隷従させたのに」
「ええ、確かに。最初はあなたを憎みました。でも、ともに過ごした六十二年と四ヶ月と十二日は、豊かな時間だったのです」
日没が迫っていた。程なく太陽は山の端に沈み、闇が訪れるだろう。
けれども残照はいまだ明るく、セラとディアダンを黄金の光で包み込んでいた。




