永劫のトゥーランドット (さかな 作)
作中で引用した歌詞については、作者没後五十年を経過しています。
会場内は既に熱気とざわめきで溢れかえっていた。
もうじき最終滑走が始まる。名前をコールされれば僕の出番だ。
リンクサイドで叱咤激励するコーチの隣にもう一人、ふんぞり返る男がいる。
他の誰にも認知されないその存在は、僕に向かって生意気そうに金色の眉の端をつり上げた。半透明の体の向こうで壁に掛かった日の丸が揺れている。
「私の歌に見合わぬ演技をしてみろ、一生呪ってやるからな」
「今だって似たようなもんじゃん」
「誰が亡霊か。指導者と言え」
金髪の顎髭を扱きながら、男はふんと小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。周りに聞こえないからといって、このちょび髭の幽霊はいつも偉そうなことばかり言う。普段なら言い返すところだけど、今はそれどころじゃないのだ。
『四年前、ポーランドで偶然出会った一枚のレコードが、彼に引退を思い留まらせたそうです。この曲でもう一度、五輪の舞台に立ちたいと』
会場にコールが響いた。拍手が起こる。コーチに肩を強く叩かれる。
僕は全てを拭い去るようにして、リンクの中央へと滑り出た。
強者の仮面を被れ。
最高の舞台に哀愁はいらない。
太陽は燃え続けるものだ。
そうだろう、パヴェウ?
会場はしんと静まり返っている。
ブレードが氷を削る音だけが耳に届く。
僕は氷上の真ん中から、たった一人に目がけて挑発的な視線を向けた。
「喜べ、パヴェウ。今からあんたに金メダル以上の演技を見せてやる」
「ふん、馬鹿を言え。私にではない――世界に見せてみよ」
普段と変わらない挑発的な笑みを浮かべてパヴェウは言った。
上等だ。僕はにやりと笑い返して目を閉じた。
『八〇年前のテノール歌手・パヴェウが遺した奇跡の歌声と共に――曲はトゥーランドット、「誰も寝てはならぬ」』
管楽器の重低音が始まりの尾をひく。
大きく軌道を描いて――最初のジャンプ。
歓声。
伸びやかに、スピードを上げて、もう一度。
歓声――。
四年間、毎日飽きもせず僕の滑りに口出ししてきたパヴェウは、今日に限って死んだみたいに口を閉ざしている。
たぶん、歌う準備をしているんだろう。
後半二分間に彼の歌の全てを詰め込んだ。
そこで彼は生前果たせなかった夢を叶えようとしているのだ。
己の歌声を世界中に響かせるという夢を。
やがて、悲壮感漂う前半の演奏が終わりに差し掛かった。僕は弧を描いて氷上の中心へ。
弦楽器の音が霧に融けるように消える。
そして……。
――Ma il mio mistero è chiuso in me
パヴェウの声が空気を震わせた。
それは原始の時代から受け継がれてきたヒトの心の琴線を、根本から揺するような深い歌声だった。
圧倒的な力に抗いきれず、衣装の下を鳥肌が駆け抜ける。
その瞬間、僕の中のあらゆる感情が一切の姿を消した。
彼だって同じだろう。僕には分かる。
無念の死を乗り越えるとか、積年の思いを晴らすとか、建前や理屈なんてものは全て吹き飛んでしまったのだ。
ただ歌える喜びに身を任せ、喉を震わせている。
僕は心の打ち震えるままに氷上を駆けた。
無尽蔵に湧き上がる歓喜と自信。
このプログラムを滑りきれるのは世界中でただ一人しかいないという自負。
めちゃくちゃな熱を帯びたパワーが、けれど冷静に身体を突き動かす。
しなやかに弧を描く四肢。
ぐらぐらと沸き立つ熱い塊をバネに高く跳ぶ。
着氷。そして滑走。
音階を登る、荘厳なるテノール。
クライマックスに向けての躍動。
ラストのコンビネーションスピンに入ると、ビブラートの波はいよいよ最高潮に到達する寸前だった。
二つの魂が、精神よりももっと深いところで縒り合わされていく。
――Ed il mio bacio scioglierà!
身体が指先から神の息吹に変わっていくのが分かる。
それは情熱の塊になりごうごうと渦を巻き、会場をまるごと飲み込んだ。拍手が湧き上がる。歓喜に満ちた喝采だ。
今、全ての魂に、同じ瞬間を共にした奇跡を突きつけてやる。
ここに永遠があると証明してみせる!
――All'alba vincerò!
これが僕の、永劫のトゥーランドットだ!
ダン! と片足を氷上に叩きつけた。
音楽が霧消する。一切の名残を留めずに。
沸き起こる歓声も拍手もどこか遠くの方で聞こえていた。
客席を埋め尽くすスタンディングオベーション。
次々と投げ込まれるギフトの雨。
パヴェウ。
身体中が熱に浮かされていた。
強者の仮面はどこかへ落としてしまったらしい。
茫然としたまま振り返った先にリンクサイドが見えた。コーチが涙を流しながら、手放しで喜んでいる。
隣にぽっかりと空いた空間には誰もいない。
僕はもう一度前を向いて、世界中から注がれるあらゆる情熱のただ中に立ちすくみ、天を仰いだ。
永遠はここにある。
そうだろうか。
そうであるといい。
パヴェウ。
パヴェウ。
さようなら、パヴェウ。
僕はもう振り返らなかった。
そうして力強く氷を蹴り、皆の待つキスアンドクライへと滑りだした。




