カイル号の余生 (Veilchen(悠井すみれ) 作)
※作者本人ページで同作品の加筆版を公開しています。
夫の葬儀の映像は、世界中で報道された。「祖国のために殉職した兵士の棺に寄り添う相棒」として。ジャーマンシェパードのカイルは、夫が訓練して戦場でも常に共にいた忠実な軍用犬だ。参列者の最前列にいた私は、カメラのフレームに収まってはいなかった。
兵士と犬の絆をもてはやす記事や感想に触れる度に、私は叫びたい衝動に駆られた。
夫の相棒は、伴侶はカイルだけじゃない。私が棺に取り縋らなかったのは、悲しくなかったからじゃない。カイルは、その賢さは夫が常々話していたけど、しょせんは犬だ。だから死というものを理解できなくて、突然姿を消した相棒の匂いから離れられない、ただそれだけだ。
でも、画面や紙面の向こうの相手に私の声を届ける術なんてない。一人ではこの悲しみと喪失感と、あと何だか分からない衝動に向き合うことができなくて――だから、私はカイルを引き取ることを申し出た。カイルは、夫の形見のようなものだから。
引退後の軍用犬の処遇については、微妙な問題も多いとか。訓練された犬の中には、一般家庭で寛ぐという環境に馴染めない子もいる。ふとした弾みに訓練された通りの攻撃性を見せてしまうこともあるし、高すぎる身体能力は犯罪に悪用されることもあり得る。そもそも大型犬の世話だけでも簡単なことじゃない。
でも、殉職兵士の遺族は少なくとも身元は確かだし、世界中に広まった夫とカイルの美談を考えれば、未亡人が引き取るのは順当な結末だったのだろう。ほどなくしてカイルを引き取る許可がおりた。
玄関先に鎮座するシェパードを見て、私は思わず怯んだ。実際に見ると、やはり大きい。黒い目で従順に私を見上げているものの、黒と茶の毛並みの下には強靭な筋肉を纏っているのが見て取れたし、尖った口吻には鋭い牙が潜んでいるのだ。
でも、矛盾するけど、意外と小さいな、とも思った。カイルの三角の耳の先は私のお腹にも届きそうなのに。
きっと、後ろ足で立って夫とハグする写真を何度も見ていたからだろう。今はリビングに飾られている、夫のお気に入りの写真――だった。私と映った写真は、結婚式のを除けば意外なほど少なくて、カイルと一緒の時の方が彼の表情をよく捉えていたのだ。人間が笑うように、舌と牙を見せて口を開けた――あの写真の朗らかさが、今のカイルからは消えていた。それで一回り小さく見えるのだろう。
「カイル。来て」
とにかく家に慣れさせなければ、と。短く命じた時――私の横を、黒い風が駆け抜けた。カイルが命令に反して駆け出したのだ。巨体が夫の部屋の扉に体当たりする音を聞いて、思わず叫ぶ。
「カイル――いないの! あの人は、もう!」
同時に、目の奥から熱いものが滲んだ。夫とこの家で暮らしたのはごく短い間だった。私と過ごした時間よりも、戦場で――カイルと――過ごした時間の方が長いくらい。でも、夫はここにも、私の傍にも確かにいたのだ。カイルが匂いを嗅ぎつけて、面影を探してしまうくらいに。
扉を破壊せんばかりのカイルの勢いに気圧されて開けてやると、彼は突風のように室内へ飛び込んだ。整えたきり触れていないベッド、まだ衣類が入っているクローゼット。机や本棚。カイルはあらゆる隙間に鼻先を突っ込んでいく。彼の任務だった爆発物捜査もかくや、カイルは必死に夫を探していた。
でも、最初はぴんと立っていたカイルの耳も、喜びに激しく振られていた尻尾も、すぐに萎れてしまう。夫はここにもいないのだ。軍用犬の鋭い感覚があればこそ、理解してしまったのだろう。その姿は、哀れで心を痛めるものだった。でも――
「そんなに好きならどうして守ってくれなかったの……!」
項垂れたカイルの傍らに頽れるようにして、口走ってしまう。カイルを引き取った本当の理由、この子に問い質したかったことを。
本当は分かっている。たとえ寝食を共にしていても、優れた身体能力を持っていても、できないことはある。カイルだって夫を守りたかったはずなのに。
「どうして、あの人は――」
犬に嫉妬した上に八つ当たりなんて、夫が見たら何というか。情けなさに絶句して俯くと、頬に熱いものが触れた。涙が零れた――だけでは、ない。
「カイル」
カイルの舌が、私の涙を舐め取っていた。湿った鼻先が頬に押し当てられて、少し生臭い息遣いが感じられる。普通なら軍用犬がすることじゃないはずだけど――私を、慰めているみたい。私の悲しみを察したということは、つまり――
「分かった、の……?」
カイルも理解したのだ。夫が、相棒がもうどこにもいないことを。そして、彼と同じ喪失を、私も抱えていると。
温かい毛皮に腕を回すと、カイルは小さく鳴いて私に身体をすり寄せてきた。私たちが共に抱える夫という空白は、きっと埋まることはない。でも、倒れないように支え合っていくことはできるのかもしれない。カイルの毛皮を涙で濡らしながら、私はそう思った。
2018/05/23 作者本人ページでも同作品を公開のため、注を追記




