危機(1)
主人公視点に戻ります
その日も、始まりは平和だった。
朝食の時に昨夜の残りのジャーキーを貰うと、乾燥して固いそれを柔らかくなるまで舐め回した。こんな美味しい物をくれるのだ、やはり隻眼の騎士は良い人に違いない。
彼に対する警戒は、ジャーキーによって少し和らいだ。もう近くに寄ってもあまり怖くない。
けれど側でじっと見られていると緊張するのは相変わらずだし、私の頭を撫でようと無骨な手が伸びてくると思わず逃げ出してしまうのも変わらない。
そうして隻眼の騎士が残念そうな顔をする度、私も何だか申し訳なく思うのだが——美味しいごはんを貰っている代わりに、撫でさせてあげるくらいいいじゃないかと——動物の、あるいは精霊の本能が、人間に気安く触られるのをよしとしないのである。
それに叩かれる訳じゃないと理解していても、あの大きな手が頭上からゆっくりと覆い被さるように落ちてくるのは怖い。
「まだ撫でるのは無理か」
隻眼の騎士は少し寂しげに笑って言った。
申し訳ないが、まだ無理みたいです。
大体、私は誰にでも尻尾を振る軽い女じゃないんですよ。安く見られちゃ困るな! こんな野生感の欠片もないほんわかしたナリしてますが、精神は孤高の——
「じゃあ、またな」
隻眼の騎士は窓を閉めて、仕事へと向かった。
まだ私の話の途中だよ!
朝食を食べ終えた私は、人の目を警戒しつつ宿舎の裏庭から抜け出した。これから日が暮れるまで、どうやって時間を潰そうか。
子ギツネな私は、仕事も家事も学業も何もする必要がないのだ。毎日暇で仕方がない。
またいつものように敷地内を歩き回って、冒険しようか。
ここ数日は結構大胆に敷地内を散策しているのだが、隻眼の騎士以外の人には、まだ私の存在はバレていないと思う。もしかしたら私には隠密の才能があるのかもしれない。
今日は朝からよく晴れ、冬のこの地方にしては気温も高いようだ。隠れて騎士たちを観察していると、「今日は暑いな」という会話をよく耳にした。
いや、決して暑くはないと思うんだけど。太陽が出ていても雪が融けないし、真冬の東京より気温は低いんじゃないかと思うんだけど。
彼らは、冬になると氷点下が当たり前のこの地での生活に慣れ過ぎて、感覚がおかしくなっているんじゃないだろうか。
でも、それは私も人の事は言えない。雪の精霊だけあって寒さにはめっぽう強いし、確かに今日は暖かいと感じる。
夏になってもこの地方は涼しいが——私が母上と暮らしている山頂付近などは、一年を通して雪が融ける事はないし——もっと南の方へ行けば、真面目に私は暑さで蒸発してしまうかもしれない。成長して行動範囲が広がっても、夏はあまり山から出ない方がよさそうだ。
そうして、昼間も平和に過ぎていった。
柔らかな雪を泳ぐように掻き分けて進んでみたり、友達になりつつある厩舎の馬たちと鼻タッチで挨拶を交わしたり。
あと、鈍臭い私を小馬鹿にするように、かしましい小鳥たちが周りを飛び回るので、売られた喧嘩は買わいでか! と、それに応戦したり……。
動物は精霊である私と母上を畏怖していると思っていたのだが、どうやら畏れられているのは母上だけだったらしいと、母上と離れて残念な事実を知ってしまった。私も大人になって貫禄が出たら、小鳥にからかわれるような事もなくなるだろうか。
さて、事件が起こったのは日が沈んでからのこと。
辺りが暗くなって、キンと空気が冷えてきた宵の口。暖房に慣れた前世の私であったならば肌を刺すようなその寒さに耐えられなかったかもしれないが、今の私は毛玉生物だ。天然のファーのおかげで暖かい。
濡れた鼻と足裏の肉球のみで空気の冷たさを感じながら、私は宿舎の裏にある自分の寝床へと急いでいた。
今日もたくさん動き回ったから、お腹がすいた。隻眼の騎士はまだ仕事中だろうか? それとももうごはんを用意して待っていてくれるかな?
わふわふと息を切らせて彼の元へ向かっていた私だが、その道中で危険は待ち構えていた。
「……?」
はじめ、見えたのは生き物の黒いシルエットだけだった。暗い外で視線の先にいる生物が何なのか即座に判別するのは難しい。
しかし風に乗って漂ってきた匂いから、相手の正体を推測することはできた。
(ノラ犬?)
獣の匂いと、耳に届く荒い息づかい。そういえばシルエットも犬っぽい。
ノラ犬という単語で私が思い浮かべたのは、首輪をつけたまま、呑気な顔をして一匹で街を彷徨っているどこかの飼い犬の姿だった。あんたどっから来たの! と、おばちゃんちっくに話しかけてしまうような。
けれど、相手がゆっくりとこちらに迫り、その姿を目に映せるようになって、私は強烈な危機感を覚えた。
あれはノラ犬なんて可愛いものじゃない。
——野犬だ。野生の犬だ。人間に隷属した事などない、まごう事なき野生の獣だ。
空気が張りつめていて、何だか息苦しい。
ぎらついた目は血走っていて、荒い息が漏れる口からは鋭い牙が覗いていた。彼の飢えを表すように、粘り気のある唾液が糸を引いて地面に落ちていく。眉間と鼻筋にはしわが寄っていて、喉からは低い唸り声が漏れていた。
私の視線の高さから見ると野犬には恐ろしく迫力があり、思わずすくみ上がってしまう。
腰も抜かしそうになったが、気合いで踏ん張る。しかし後ろ足はガクガク震えてきてしまって、そのせいで視界も揺れた。
相手はあきらかに、私の事を獲物として見ている。喉元に噛みついて息の根を止めたら、その後は欲望のままに食い散らかすつもりだ。
野犬はまた一歩、私との距離を詰めた。頭を低くして、飛び掛かるタイミングを計っているかのよう。
彼は昼間私をからかった小鳥たちとは違う。応戦したら殺される。
この体になって初めて、寒気を感じた。肉球の汗がハンパない。
死の恐怖が眼前に迫っている。
私は極度の緊張と恐怖に襲われながらも、自らの命を守るため敵から目を逸らさなかった。相手を刺激しないよう、視線はそのままにじりじりと後ずさっていく。
しかし焦れた野犬がこちらに飛び掛かろうと走り出した瞬間、私も一目散に体を反転させて逃げ出した。
そこからはもう、必死だ。
雪除けのされた細い道をひたすら足を動かして走る。敵の方が足が長く歩幅のハンデがあるので、私は回転数を上げるしかない。
目を剥き、全力で——ここに来る前、子どもから逃げた時よりもずっと本気で——逃げる。
途中でやむなく除雪されていない道を選んだが、幸いにもそこは昼間でも日陰になる所で、雪がある程度冷え固まっていた。体重の軽い私は足を雪に取られずに済んだのだ。後ろを追いかけてくる野犬はざくざくと雪を踏みしめていたが、それでちょうどお互いのスピードは同じ位になった。
ここで少しでも相手との距離を稼ごうと思ったが、またすぐに除雪されている騎士たちの通り道に出たり、融けかかった泥まみれの雪に突っ込んでいったり、逃走経路のコンディションは安定しなかった。闇雲に逃げているせいだ。
「おわっ! な……なんだぁ!?」
途中で仕事終わりらしい騎士たちの集団に遭遇したが、今は彼らの視線を気にしている暇などない。
騎士たちの足下を全速力で駆け抜け、必死で足を動かし続ける。野犬も人間に注意を向けたのはほんの一瞬だけで、獲物である私を追うのは止めなかった
ハッハッハッ、という敵の息づかいだけが私の耳を支配している。振り返っている余裕などないが、きっと相手は口からだらりと舌を出し、唾液をまき散らしながら私を追ってきているのだろう。
敵の気配は、すぐ背後にある。
恐ろしさに毛が逆立つ。
このままでは追いつかれる……!
——と、建物の角を曲がった私の目に映ったのは、敷地の端にひっそりと存在していた池だった。
おそらく人工的に作られたであろうそれは、広さはそれほどでもないが、結構深そうに見えた。除雪した雪をそこに入れているのか、溶け残った塊がいくつか浮いている。
氷こそ張っていないものの、水の中に手を入れれば痛みを感じるくらい冷たいに違いない。
けれど私は、あえてその池の方へと向かっていった。このまま走って逃げても、すぐに追いつかれるのは明白だったから。
私は決死の思いで、冷たい池の中にダイブした。




