ドングリとお風呂
春に行った王都へのおつかいから半年が経ち、そろそろこの辺りにも冬が近づいてきた。
住処のあるスノウレア山の頂上は母上が夏でも雪を降らせていて一年中雪景色だけど、この季節になると自然の雪も降り始める。
しかしその麓にある北の砦では、まだみぞれすら降ってくれない。
砦に遊びに来ていた私は、濡れた地面を眺めてため息をついた。
昨日の大雨のせいで芝生のないところはドロドロになっていて、コンディションは最悪だ。これじゃあ砦の建物の周りを一人でぐるぐる回る単独レースごっこができない。今日の予定が狂ってしまった。
毛皮は濡れるし、肉球はびちゃっとして気持ち悪くなるから、雨はあまり好きじゃない。
人間だった頃は雪だって特別好きというわけではなかったと思うんだけど、今は麓の方にも早く雪が降ってくれないかなと思うし、地上の全てが雪に覆われて真っ白になったら素敵だな、なんて事も考えてしまう。
私も段々と正しい雪の精霊になってきているのかもしれない。
(今日は外で遊ぶのやめよう)
まだ仕事をしていた隻眼の騎士の元に戻ろうとしたところで、私はふと視線の先にあった一本の木に注目した。
その根本にドングリがいくつか置いてあったからだ。
何であんなところにドングリが? と不思議に思うと同時に、砦のいかつい騎士たちがドングリを拾い集めて少年のように喜んでいる図を想像してしまった。
みんなそんなに純粋だっただろうか……。
しばし微妙な顔をして遠くのドングリを見つめていたが、途中でハッと気がついた。
あれはあそこに置かれているんじゃなく、土の中に埋められていたものが昨日の大雨で出てきてしまったのだ。きっと埋めたのはリスに違いない。
冬に備えて集めたドングリだろうから、埋め直してあげた方がいいのかな。そう思って、私は仕方なく濡れた地面へ足を進めた。
木の根もとに到着すると、前足でドングリをちょいちょいと脇に避けてから、ドロドロの土に数センチの穴を掘る。
最初は気が進まなかったのに、一旦外へ出てしまうと肉球が濡れるのも体が汚れるのもどうでもよくなった。
というか、泥遊びをしているようで楽しいかもしれない。
下がっていたしっぽが揺れ始める。穴を掘ると泥がびちゃびちゃと飛んでお腹や後ろ足にかかってしまうけど、それももう気にならない。むしろとことんまで汚れてしまおうという気分になった。
私はわくわくと高まっていく気分に合わせて、穴を掘る前足の動きを激しくする。
久しぶりの穴掘り、楽しいかも!
しかし穴掘りだけではウズウズと興奮してきたエネルギーを十分に発散できないと思った私は、顔を上げてその場から駆け出した。
時々こうやって勝手に上がっていってしまう私のテンション、誰かどうにかしてほしい。
木の周りを二周してから訓練場の方へ全速力で突っ走ると、舌を出して笑顔になり、そこでしばらくわふわふと走り回る。
どうしてただ走っているだけなのにこんなに楽しいのだろうか。足が四本もあって、走るのに向いている体だからかな。人間の時より疲れにくいからかな。
けれど泥だらけで駆け回るという至福の時間は、長くは続かなかった。
「あ、ミル! 汚ぇ!」
「風呂行きだな」
訓練場の端を通りかかったキックスとジルドに発見されてしまったのだ。
やばい! と一瞬硬直した後、お風呂は嫌だと、私はまた全速力で来た道を戻っていく。
「逃げた」
ジルドが言い、
「こら! こっち来いって!」
キックスが叫ぶ。
私はその声を背中に受けながら、さっきまでいた木の側まで帰ってくると、そこでドングリを目にして本来の目的を思い出す。
私はリスのためにこれを埋め直そうとしていたんだった!
すでに掘ってある穴に前足でまたちょいちょいとドングリを戻し、その上から土を盛ると、最後にぺちぺちと土を押さえる。いい感じ!
これでリスは真冬に飢える事はないだろう。とてもいい事をした。
しかし気分よく建物の中へ戻ろうと体を反転させたところで、私は思わぬ人物を目にして不完全な悲鳴を上げる。
「ひゃ……っ!」
腕を組んで外に立っていたのは、隻眼の騎士だった。
隻眼の騎士の視線は、私の泥にまみれた足やお腹に向けられている。
私は瞠目して固まる事しかできず、さっきまで上を向いていたしっぽも一瞬でしゅんと垂れ下がる。
い、いつからそこにいたのかな~。
「あ、あの、どんぐりが、リスが、リスがこまるから」
もごもごと言い訳しながら、その場でお座りをする。お尻としっぽが濡れて不快だけど、お座りしておいた方が反省しているように見えるかもしれない。
隻眼の騎士を前に逃走しても後が怖いので、キックスの時とは違って全面降伏の構えだ。
緊張の面持ちで数秒間相手と見つめ合う。
怒られるかなと思ったら、隻眼の騎士は意外にもあっさりと許してくれたようだった。しょうがないなというふうに笑って言う。
「泥遊びは楽しかったか?」
叱られなかった事に安堵して、私は隻眼の騎士に駆け寄る。
隻眼の騎士は優しいから好き!
「うん、けっこう楽しかった!」
あははー、と呑気に笑っていたら、隻眼の騎士に抱き上げられて有無を言わさず浴場がある方へと連れて行かれた。
え? いやいや、ちょっと。ちょっと待ってください。話が違う!
隻眼の騎士は怒ってはいないが、私をお風呂に入れて綺麗にするつもりなのだと気づいた瞬間、おろおろと言い訳を再開する。
「ちがうの、遊んでたんじゃないの。リスのどんぐりがでてたから、それを埋めなおしてたの」
「そうか、いい事をしたな」
頭をぽんぽんされ、なだめられるが、ここで抵抗をやめれば浴場へと一直線だ。きゅんきゅん鳴いて隻眼の騎士にすがる。
お風呂やだ! お願いします、お風呂嫌だ!
隻眼の騎士はいつになく困った顔をしているけど、浴場へ進める足は止めてくれない。
「ミル、このままではいられないだろう。綺麗にしないと」
泥が固まってカピカピになったまま生きていくか、苦手なお風呂に入るか、難しい二択だ。
けれどこのままでも住処に戻って雪の上でごろごろしていればそのうち綺麗になるような気がするから、やっぱりお風呂は遠慮したい。
北の砦の浴場は温泉を引いているから、その火の気の強いお湯をかけられたりするのが嫌なのだ。温泉のお湯に浸かるくらいなら、冷水で洗ってくれた方がむしろ気持ちいいのに。
実際に泣くほどじゃないけど、心ではしくしくと涙を流しながら、私は隻眼の騎士の腕の中でうなだれた。
「お風呂を頑張ったらジャーキーをやろう、な?」
隻眼の騎士が励ましてくれるけど、今はジャーキーくらいでは元気になれない。
砦の騎士たちが利用している広い浴場に着き、脱衣所に入ると、隻眼の騎士は制服の上着を脱いでズボンの裾を捲り上げた。そして洗い場の方へ私を連れて行く。
湯船に張られたお湯を桶ですくうと、そこに水を足して温度を下げてくれた。私は熱いお湯が苦手なのだと理解してくれているみたいだが、ぬるくしてもまだ火の気は残っているんだよね。
冷たい水の方がいいと頼めばきっとそれを叶えてくれるだろうけど、それだと隻眼の騎士の手がかじかんでしまう。私にはちょうどいい冷たさでも、人間には辛いと思うのだ。
結局、私は隻眼の騎士にされるがまま、桶の中でばしゃばしゃと洗われたのだった。
隻眼の騎士に全身をタオルで拭かれながら、死んだような顔をして自分の前足を眺める。
私の足って寸胴だと思ってたけど、毛が濡れると足首のくびれが出現するみたい。
動いているのは隻眼の騎士ばかりで私はじっと洗われているだけだったというのに、なんだか疲れた。
お風呂上がりで体がぽかぽかと火照っているこの感じも人間だったら気持ちよかっただろうけど、雪の精霊にとっては不快だ。雪に埋まって体を冷やしたくなる。
「よく頑張ったな」
タオルで拭くついでにごしごしと頭を撫でられたので、鼻を鳴らして甘えておく。
「じっと大人しくしていて偉かったぞ」
隻眼の騎士は褒めて育てる方針らしく、些細な事でも「すごいぞ」「偉いぞ」と褒めてくれるので嬉しくなる。なんだか気分がよくなってきた。
しっぽを上げて、あぐらをかいている隻眼の騎士の脚の上に乗ると、うふふと笑って相手を見上げる。
「機嫌は直ったか? 綺麗になったし、石鹸のおかげでいい匂いもするし、風呂も悪いものじゃないだろう」
石鹸というのは普通の石鹸じゃなくて、支団長さんが私用に買っておいてくれたらしい薔薇の香りのするピンク色の石鹸の事だ。
今日はそれで体を洗われたので、今、私は全身からフローラルな香りを放っている。
しかし確かにいい香りなんだけど、自分の体臭とは違うので落ち着かない。私の中に人間と精霊と子ギツネの人格があるとしたら、子ギツネが「こんな匂いをさせてちゃ、自然界では目立っちゃうよ」と慌てているのだ。
隻眼の騎士の脚の上で、まだ湿った体をブルルッと振ってみるが匂いは取れない。むしろ余計に薔薇の香りが広がって鼻がひくひくした。座ってペロペロと体を舐めてみても駄目だ。
と、落ち着かない気分でいるところへ、コワモテ軍団がガヤガヤと脱衣所に入ってきた。
みんな全身泥だらけだし、相変わらず顔が怖い。
「あ、副長。ミルも」
「ミル、濡れると細くなってキツネらしく見えるな」
「最近、冬毛のせいでさらに丸くなってたからな」
コワモテ軍団は全部で六人いるけど、みんな同じ隊に所属しているらしく、大体いつも一緒にいる。
そしてみんな隻眼の騎士の事を尊敬しているみたい。砦の騎士は全員そうかもしれないけど、特にって感じ。
同じコワモテとしての親近感を感じているのだろう、きっと。
「何事だ?」
隻眼の騎士は泥で汚れたコワモテ軍団を見て顔をしかめた。
「まさかお前たちまでドングリを埋め直していたんじゃないだろうな」
「ドングリ? いえ、馬が興奮して暴れたので落ち着かせようと格闘していたら、この有様です」
そう言って首をすくめたのは、赤毛であご鬚があるグレゴリオだ。歳は三十代後半くらい。
ちなみにその他のコワモテ軍団メンバーは、色素の薄い目や髪をしたロシアの暗殺者みたいなロドスさん、坊主頭で人を二、三人殺していそうな目つきのギル、巨漢の大男バウンツ、縦にでっかくて騎士というより傭兵みたいなダズ、そしてヤンキーみたいなモヒカンをしているジェッツだ。
全員濁点が入っていて、なんとなく名前までいかつい。
ロドスさんが一番年上で、物静かだけどみんなをまとめている感じ。私も何となく『さん』付けで呼んでしまう。
グレゴリオはよく喋るサブリーダーで、ギルとバウンツ、ダズは二十代半ばくらいの中堅騎士、ジェッツはまだ若手でキックスやジルドたちとも仲が良かったりするが、この三人が揃うとろくな事をしないので困る。
この前、私は三人に捕まって、自慢の胸毛に三つ編みをたくさん作られたのだ。解くの大変だったんだから!
コワモテ軍団はその名の通り、無骨な騎士たちが集まる北の砦のメンバーの中でも特に顔が凶悪な人たちだけど、みんな自分の見た目の怖さを気にしていて、実は結構繊細で優しかったりする。
「お、ミル。何だかいい匂いがするな」
「そういえば俺、ここ三日ぐらいミル触ってねぇや」
グレゴリオがスンと鼻を鳴らした後で、ジェッツがこちらに手を伸ばしてきた。
しかし汚れた手で触らないよう、隻眼の騎士が注意をする。
「今、洗ったばかりだ。触りたいならお前たちも風呂に入ってからにしろ」
「うう、目の前にいるのに触れない……」
ジェッツが残念そうに手を引っ込めると、後には土と雨、そして汗が混じったような匂いが残った。
その自然の匂いに私は何故かとても心そそられて、泥だらけのコワモテ軍団に体を擦りつけたいという強い衝動に駆られる。
私の中の子ギツネが、彼らの匂いで薔薇の不自然な香りを消したがっているのだ。
けれど人間の私としてはコワモテ軍団の汗臭い匂いを体につけるのは遠慮したいし、彼らにすりすりしたら泥でまた体が汚れてしまう。せっかくお風呂という試練を乗り越えたのに、再び洗い場に逆戻りなんてごめんだ。
私は四本ある足の全てに力を入れて、体が勝手に前進しないよう踏ん張った。薔薇の香りの方がいい匂いなのに、動物の本能って困る!
駄目だよ私、駄目だって! 行っちゃ駄目!




