父上を呼ぶ
父上の住処は、隣国にある深い森の中の静かな湖だ。
翡翠色の湖は大きく、たいてい霧がかかっている事もあって対岸は見えない。今は日が落ちて暗いから尚更だ。
「父上!」
涙を拭って大きな声で叫んだ。
湿潤な空気をたっぷり吸い込めば肺が潤うような感じがする。
父上は巨大な蛇の姿で湖に浸かり、頭だけを岸に出していた。私はちょうどその頭の上に移動してきたみたい。
だが父上は眠っているようで、私が来た事に気づいていない。
「父上、おきて! 父上!」
頭の上でジャンプしても応答はなし。耳元で叫ぼうにも耳がどこだか分からないし、皮膚はつるつるしているので咬みついて起こす事もできない。
他に父上の弱点はどこだろうかと考えると、“目”くらいしか思いつかなかった。
頭の上から精一杯手を伸ばして、まぶたを閉じている父上の巨大な目玉を叩く。
普通の蛇は人間のようなまぶたはないらしいけど、父上は眩しいのが嫌だったので作ったらしい。
「父上! おねがい! おきて!」
思い切りバシバシ叩いていたら、勢い余って頭から転げ落ちてしまった。
柔らかな草の生えた地面に体をぶつけつつもよろよろと立ち上がり、父上にすがりつく。
「父上っ! ……たすけてっ、おねがい……! せきがんのきしがっ、ううっ……」
泣いている場合じゃないのに、ぐすぐすと涙が溢れて止まらない。こうしている一分一秒の間にも、隻眼の騎士は痛みに苦しんでいるに違いないのに。
最後はもう言葉も出ずに「きゅんきゅん」と助けを求めて鳴くだけだった。
けれどその緊急用の声がよかったのか、眠っている父上もようやく気づいてまぶたを持ち上げてくれた。
「ぢぢうえぇぇ……」
目から鼻から色々な液体を流している私の様子を見て、父上は一度まばたきをする。
「……どうした?」
「ぢぢうえっ! せきがんのぎしがっ、ひどいケガでっ! なんでか、わかんないげどっ、ははうえのとこにもっ、行けないしっ……!」
ひっく、としゃくりあげながらとにかく緊急事態である事を伝えようとすると、いつもはのんびりしていて天然ボケの父上も、私が何か深刻な事態に陥っているのだろうと察してくれたようだった。
一瞬淡い光に包まれてちゃぷんと水音が聞こえたかと思ったら、父上は人に姿を変えていた。
薄い水色の髪は膝くらいまで伸びていて、真っ白な古代ギリシャ風の衣装に、派手にならない程度の銀の装飾品を身につけている。
顔立ちは端正だけど、蛇の時と同じく表情筋は死んでいるので、大理石で作られた美しい彫刻のようにも見える。
だけど今はその硝子みたいな翡翠の瞳にも、私を心配しているような感情がうかがえた。
「何が……あった……?」
「私といっしょにきてっ!」
父上のゆっくりとしたお喋りのペースに合わせている時間はないので、私は父上に飛びついて抱っこしてもらうと、移動術を使って隻眼の騎士の元に戻る事にした。
二人一緒に移動するなんて今までやった事がなかったけど、この時はそんな事は何も考えずに術を発動していた。
結果、私の体が吹雪に変わると、その吹雪に父上も巻き込むような感じで一緒に飛んでいく事ができた。
「ミルちゃん……!?」
父上とアリドラ国の森の中へ戻ると、ティーナさんや団長さんが一瞬目を見開いて、初めて目にする水の精霊の姿に驚いていた。
けれどまたすぐに隻眼の騎士の手当に集中する。
支団長さんとキックスも鳥の相手を続けたままだ。
「ここは少々、風が……強いな……」
長い髪が乱れるのを直そうともせずに父上が言う。私はその腕から飛び出すと、一目散に隻眼の騎士に近寄った。
意識はあるが、やはり辛そうだ。出血も上手く止まっていない。
「せきがんのきしっ!」
私は隻眼の騎士の頬を何度か舐めて励ましてから、父上を振り返った。
「父上! 私、どうしたらいい!? せいれいって、ケガを治したりできる? 私になにができる?」
「助けたい、のか……? しかし人間は切られれば……血を流すし……いつか、死ぬものだ……」
「そうだけどっ! 今は死なせたくない!」
達観している父上とは違い、私はわがままなのだ。
摂理を捻じ曲げても隻眼の騎士の怪我を治したいし、死なせたくない。自分の力も父上の力も使えるものは何だって使って隻眼の騎士を助けてみせる。
「父上、おねがい! せきがんのきしを助けたい! だって、私を助けたせいで大けがをしたんだよ……っ」
最後は泣いて声が震えてしまった。
父上にはまた諭されるかと思ったが、どうやらあまり自然の法則に従うつもりもないようだった。
「そうか……。お前が、そう望むなら……この人間を、助けねばな」
父上がそう言って手をかざすと、うつ伏せに倒れている隻眼の騎士の周りの地面から、透明な水が湧き上がってきた。
ちゃぷちゃぷとみずみずしい音を立てながら重力に逆らって、隻眼の騎士の体をドーム状に包み込む。
そしてその瞬間、隻眼の騎士は眠るように目を閉じた。
「これは……」
ティーナさんと団長さんは一歩後ろに下がって、透明な水に包まれた隻眼の騎士を凝視した。
隻眼の騎士の背中の傷口から出た血液は、一度水に広がって溶けかけたものの、またゆっくりと体の中へ戻っていく。
服に染みこんだ血も地面へと垂れた血も、全部だ。
「傷が深い……。完全に治るには……少し、時間がかかるだろう」
父上はいつもと変わらない淡々とした調子で言ったが、私の声は一気に弾んだ。
「なおるの!? せきがんのきしは助かるんだね!?」
「そうだ……助かる。この人間がお前を助けたように……私はこの人間を助けるのだ」
父上が頷いたのを見て、垂れていたしっぽも元気になる。
凍りついていた心臓に温かさが戻ったような気分になって、ホッとするあまりまた涙が出そうになった。
「せきがんのきしっ……! うう、よかった……!」
父上が怪我を直せるなんて知らなかった。結果的に母上を呼ぶよりよかったのかもしれない。
「よかった、副長!」
キックスが鳥の攻撃を弾きながら言う。
父上は少しだけ顔を動かして、キックスと支団長さんが相手をしている鳥を見た。
「風の精霊……いや、妖精か。……鬱陶しいものだ」




