道草と休憩
「みて! ウサギがいる!」
放牧場を越えたところで、明るい緑が広がる草原の上に茶色いウサギを発見した。
この地域に住むウサギは夏と冬では毛の色が違うのだが、今はちょうど夏毛に生え変わる時期で、背中の辺りと耳の先には白い毛が残っている。掴んで引っ張ると、もふっと塊で抜けるかもしれない。
ちなみに動物に詳しい支団長さん情報によると、この辺りのウサギは茶色い夏毛から白い冬毛に変わる時には毛が脱色されるのだという。
てっきり夏毛に生え変わる時と同じように抜け変わるのかと思ったら、違うんだって。
ウサギとはかなり距離が離れているのに、あちらもこちらの存在に気づいているようだった。
キツネと豹なんてウサギからすれば思いっきり天敵だからか、長い耳を立てて警戒している。
「つかまえよーぜ」
そう言ったクガルグの鼻口部――つまり『ω』の部分はぷっくりと膨らんで、ひげは前に向かって伸びていた。
さてはわくわくしているな?
しかも伏せをするように姿勢を低くし、草陰に隠れて、もう狩りの体勢に入っている。
「ほんきでかみついたりしちゃだめだよ。つかまえたって、食べないんだから」
私は生肉は好きじゃないし、クガルグも精霊らしく物は食べないのだ。
しかしクガルグは集中しすぎて私の言葉をしっかりとは聞いていない。
「うん、ミルフィーはそっちからまわってくれ」
「わかったよ」
ウサギをよく観察すると、日本で飼われているペットのようなほんわり可愛いイメージとは少し違った。
顔は若干長くて凛々しく、全体的に筋肉質だ。特に後ろ足はよく発達している。毛玉な私なんかよりよっぽど強そう。
あんな鋭い雰囲気の野ウサギを私たちが捕まえられるはずがないと思ったので、クガルグに付き合って狩りの真似事をしてみる事にした。
妖精が『また道草をくって!』と言いたげに跳ねて憤慨している。
真っ直ぐに走って行っても逃げられるだけなので、クガルグの言う通りに左から回り込む事にした。
ウサギには興味ないよーというふりをして、大きく円を描くように軽く駆ける。
ウサギリュックを背負いながらウサギを追い詰めようだなんて、ちょっと間抜けかも。
横目で遠くにいるウサギと、じりじりと低い体勢のままで距離を詰めていくクガルグを捉えつつ進む。
ウサギは私の方に気を取られているようだ。顔を持ち上げて、どこに向かうつもりなのかと注視している。
かなり遠回りをしてこちらを見ているウサギの正面に回ったところで、まだまだ相手との距離はあったが、私は思いっきり地面を蹴って駆け出した。
原っぱの草が爪に当って舞い上がり、一歩進むごとにウサギリュックが背中にぶつかる。
邪魔だー!
ウサギは一瞬で後ろを向いて、驚くべき瞬発力で跳ねるように走り去った。
すばしっこい動きで、目で追うのも大変だ。
私との距離は離れる一方だったが、作戦通りなのでこれでいい。うさぎの逃げた先ではクガルグが待ち構えているはずだから。
理想はウサギの方から隠れているクガルグの方へ突っ込んで、クガルグはほとんど走る事なく草陰からバーン! と飛び出して捕まえる、というものだったのだが、現実にはそこまで思い通りにウサギは動いてくれなかった。
クガルグは自分とウサギの距離が一番近くなったタイミングで飛び出したが、それでも双方の距離は十メートル近くあったのだ。
私はその時にはもう息切れしてハッハッと舌を出しながらとろとろ走るだけだったが、クガルグは本気でウサギを捕獲しにかかっていた。
尖った爪を地面に刺して滑るようにぐんぐん進み、ウサギが急に方向転換をしても同じように食らいついていく。
わー、速いなー。私との追いかけっこでいかに手加減されていたのか分かるなー。
しかしそれでも外敵だらけの厳しい環境で生きてきたウサギには敵わなかった。
少しバテてウサギに離されると、クガルグは途端に諦めて失速してしまう。
森の方へ全速力で走り去っていくウサギを眺めながら、私とクガルグは足を止めた。
「くそー!」
爪を研ぐようにして、短い草の生えた地面をバリバリと引っ掻くクガルグ。本当に捕まえてしまっても困るだけなので、私は悔しいとは思わなかった。
「つかれた……」
舌を出したまま私がその場に転がると、クガルグも腰を下ろして毛づくろいに専念し始めた。クガルグは意外と綺麗好きなのである。
隅から隅まで一生懸命毛並みを整えて汚れを落としているので、女子力高いなぁっていつも思っている。絶対怒るから言わないけど。
一方、私は自分ではほとんど毛づくろいをしないので、見かねたクガルグがいつも舐めてくれるのだ。
ティーナさんにブラッシングしてもらっているからいいって言ってるのに、乱れているのを見ると気になるらしい。
今も自分の毛づくろいを終えると、横向きに寝転んでいる私の胸毛を懸命に整えてくれた。
クガルグの舌はザラザラしていて本当に櫛でといたみたいに綺麗になるのだが、私の毛は長いので舐めるのも大変そうだ。エベーっと顎を上げて頑張っている。
「あ、そうだ」
クガルグの毛づくろいが一通り終わったところで、私はハッと思いついた。
『そろそろ出発するよ!』と急かす妖精を何とか引き止めて言う。
「おなかすいたから、ごはん食べる」
まだお昼には早いかもしれないけどいいだろう。狩りを頑張ったから疲れたのだ。
冷静な私の「休憩を取るには早過ぎる。まだ砦からそんなに離れてない」という心の声を無視して、ティーナさんが持たせてくれた昼食を食べる事にした。クガルグも食べるかな。
キツネの姿だと上手くリュックを下ろせないので、キツネ耳としっぽの出た人型に変化する。耳としっぽをなくすのはとっても難しくて、いまだに中途半端な変身しかできない。
この姿でも私はやっぱり幼児で、白銀の長い髪も、白い肌も、どんぐりのように丸い目もお気に入りだけど、美少女と呼んでもらうにはまだ年数がかかりそうだった。
(全く、母上も隻眼の騎士たちもこんなに幼い子どもを一人旅に出すなんて!)
ぷりぷり怒りながらリュックを開いていると、クガルグもいつの間にか人型に変化して、興味津々といった様子で中を覗いてくる。
アラビアンな軽装をまとったクガルグは、ちょっと輪郭がほっそりしたかもしれない。それでもまだまだ幼く見えるし、やっぱり耳としっぽは隠せないでいる。相変わらずあざとい。
「なにが入ってるんだ?」
「ごはんだよ。あとジャーキーも。おいしいからクガルグも食べようよ……ん? なんだろ、これ」
リュックを開けるとまず見えたのは、毒々しい紫色の布だった。
中には柔らかい何かが入っているようで、ふにふにとした感触がする。
リュックがやけにパンパンだと思ったら、この物体が場所をとっていたらしい。
小さな自分の手でそれを掴んで、引っ張ってみた。
しかしリュックの口とほぼ同じ大きさなので、なかなか出てこない。クガルグがリュックの底を持ってくれたので、私は両手で思い切り引いた。
と、ポン! と音がしそうな勢いで、紫の何かがリュックから抜ける。
――そしてそれと同時に私は叫んだ。
「ぎゃあああ!?」
リュックに入っていたのは大きなぬいぐるみだった。布の中に詰まっていたふにふには綿だったらしい。
手触りだけは確かにぬいぐるみだ。手触りだけは。
「なんだ、これ……」
クガルグが瞳孔を開いて前傾姿勢を取った。ぬいぐるみを敵と認識してしまったようだ。
しかし気持ちは分かる。
この気味の悪い紫のぬいぐるみは、おそらくキノコをイメージして作ったものだと思われた。
そしてかさの下には目や口が刺繍されているのだが、それがどう見てもムンクの叫びだったのだ。
どうしてこんなに恐ろしいものが可愛いウサギリュックに詰め込まれているのだろう。嫌がらせ?
一瞬そんなふうに思って謎のキノコキャラ登場におののいたけれど、頭の中にほわんと笑うティーナさんの姿が浮かんできた時、全てに納得がいった思いがした。
これは嫌がらせじゃない。ティーナさんの善意だ。
ただ彼女はちょっとばかし不器用で、色彩感覚が狂っていて、可愛いキャラクターを作り出せるほどの絵心もないので、こんな悲しいモンスターが生み出されてしまったのだ。
胸が痛む。
猫パンチならぬ豹パンチを繰り出すクガルグにこれはただのぬいぐるみだから大丈夫だと言い聞かせ、『逃げよう』と言いたげにブンブン飛び回っている妖精を落ち着かせる。
「たぶん、私がさびしくないように入れてくれたんだと思う」
親切の方向を間違えている気がするけど、私はそのぬいぐるみを有り難く視界に入らない場所にどけて、もう一度リュックを漁った。
中には母上に持たされた手紙の他に、包みが二つ入っていた。一つはジャーキー、そしてもう一つはお昼ごはんだ。
「わぁ、見て」
ティーナさん作のぬいぐるみの衝撃からまだ抜け切れないクガルグの視線を、包みの中に向けさせる。
そこには、私の好きなポテトクレープが入っていた。具がジャガイモなのではなく、すり下ろしたジャガイモが生地に入っていて、日本でよく見るクレープよりぶ厚く食べごたえがあり、もっちりした食感が楽しいのだ。油を引いて焼いているので、端っこはカリッと香ばしい。
普段は野菜やベーコンなんかと一緒に食べる事が多いのだが、今日はバターで焼いてお菓子にアレンジしてあるみたい。
一つは赤いベリージャムを、そしてもう一つはハチミツを塗られて、内側にくるくると細長く丸められている。
きっと用意してくれたのは料理長だろうけど、サンドイッチやおかずを詰めたお弁当だとぐちゃぐちゃになると予想してこれを持たせてくれたに違いない。
「クガルグはジャムのとハチミツの、どっちがいーい?」
「別にいらない。人間がつくったものなんて」
「そんなこと言わないで。おいしいよ。じゃあハチミツのやつあげる」
おすすめの方をあげると見せかけて、私はジャムの方が食べたかったので残った方を渡した。
くんくんと匂いを嗅いでいるクガルグの前で自分のポテトクレープにかじりつく。
もちもちとした食感とジャガイモのほのかな甘味を感じる素朴なお菓子だ。バターの風味にベリージャムの酸味がよく合う。
去年の夏だったかな、採れたてベリーを少なめの砂糖で煮たフレッシュなジャムを食べさせてもらった事もあるけど、形が崩れきっていない実を噛むとじゅわっと果汁が溢れてきて、あれも美味しかったなぁ。
そんな事を考えて幸せな顔をしながら、もぐもぐと口を動かす。
クガルグも恐る恐るといった様子で一口かじり、「ん?」という顔をしてもう一口かじり、そしてまたもう一口……という具合にゆっくりとだが食べ進めていた。気に入ったのかな。
ジャガイモが入っているからか一つ食べただけでもお腹に溜まったけど、大好きなジャーキーの誘惑に耐えられなかったのでこっちも少しだけ食べた。
クガルグにも渡したら、口に入れた途端に分かりやすく表情を輝かせる。
美味しいんだね、分かるよ。やっぱり肉食獣にはクレープより肉なんだね。
「おなかいっぱい……」
眠くなってきたなぁと思ったら、私のその思考を読んだかのように妖精がおでこにぶつかってくる。『起きて、そろそろ出発!』って言ってるらしい。
しかし張り切っている妖精を見ていたら、ふと自分にも妖精を作り出せるのか試してみたくなってしまった。
(やってみよう!)
水をすくうみたいにして両手を胸の前に持ち上げ、自分の力がそこに溜まっていく想像をする。
そしてそれを凝縮させて、光の玉にするイメージ。
「え? うわぁ……!」
できるとは思っていなかったのに、案外簡単に光の玉が生まれてしまった。
母上が作った妖精が大福だとしたらビー玉くらいの大きさしかないが、同じように白く発光しながら宙に浮いている。
「できた! やった!」
興奮して立ち上がると、クガルグもきょとんとしながらリュックを漁るのをやめた――まだジャーキーを食べ足りなかったみたいだ。
「私のようせい……」
何て素敵な響き。メルヘンチックで乙女心をくすぐられる。
生み出したばかりのこの小さな妖精に、私はすでに愛着を抱き始めていた。
しかしその可愛い妖精はといえば……。
「うわっ、ちょっと」
私の周りを高速でブンブンと虫のように飛び回ったかと思うと、素早い動きで上に飛び、下に飛び、右左に忙しなく動き、地面にぶつかり、母上の妖精と衝突し、そしてクガルグにもぶち当たって――ジュッと音を立てて溶けた。
「おれのせいじゃない!」
私に責められる前にクガルグが自己弁護する。
分かってる、分かってるから。クガルグはただそこにいただけで何もしていない。
ただ私の落ち着きのない妖精が勝手に突っ込んでいって自滅しただけだ。
クガルグは炎の精霊だから、未熟な雪の妖精では消滅は免れなかったのだろう。
我が妖精ながら馬鹿な子だ……。
「もう一回ちょうせん……」
「おれもつくる」
二人して、構えた自分の両手を覗き込む。母上の妖精が『おつかいは……?』と言いたげにこっちを見ていた。
これ終わったら行くから!
「やった!」
「おお!」
妖精を作る事自体は簡単なのかもしれない。私もクガルグも成功して、それぞれ白と赤の光を生み出した。
しかしやっぱり双方ビー玉サイズな上、どうしようもないくらいに落ち着きがない。
可憐な妖精というより、夏の終わりに地面で見かけるセミ爆弾のようだ。
あっちに飛んだかと思ったらこっちに飛び、地面に落ちたかと思ったら、そこで狂ったようにぐるぐる円を描いたりして。
ちょっと落ち着いてよ!
そうこうしているうちに私の妖精はまた飛び上がって、同じように落ち着きのないクガルグの妖精とパーン! と正面衝突し……再び消滅した。
「もうっ! ばかぁ!」
自分の妖精のあわてん坊っぷりに思わず声を荒らげてしまった。
しかしどうやら、私には妖精作りはまだ早いようだ。おそらく何度やってもお馬鹿な子が生まれてくるだけだろう。
それに妖精は自分の力を分け与えて作り出すものなので、作った分だけ私が疲れてしまう。
母上くらい力があればどうって事ないのかもしれないけど、幼児の私には負担が大きい。今日はこの辺でやめておいた方がよさそうだ。
「クガルグ、そろそろしゅっぱつしよう」
私はティーナさん作の不気味なぬいぐるみをリュックに押し込み、背負い直すと、キツネの姿に戻って言った。
あんまり道草ばかり食っていられないもんね。




