侵入
頭がつっかえたりしたものの、なんとか鉄柵をくぐり抜け、中へと侵入する。敷地内は広く、やみくもに歩いていたら迷いそうだ。
私はふんふんと匂いを嗅いで、人のいそうな場所を探った。軍事施設だけあって男の人っぽい匂いが多い。母上の甘くかぐわしい香りとは違う。
人がよく通る道は雪かきがしてあったので、それに沿って歩いていくと、やがてひらけた土地に出た。雪の積もった運動場みたいな感じ。
その運動場の一角に十数人の人間が集まっているのを見つけて、私は建物の影に一旦身を隠した。
そして、改めてそっと顔を覗かせる。彼らは剣の訓練中らしく、この寒いのに防寒服も着ていない。仕事をしている人や他の訓練を受けている人もいるだろうから、ここにいるのは、この要塞で生活している人の一部なのかもしれない。この大きな建物に対して、人数が少なすぎるし。
みんな手に剣を持っていたが、それを振るっているのは人垣の中心にいる2人だけ。
「腰が引けている。そんな気概で騎士が務まると思うな」
打ち合っている2人を見守りながら冷静かつ厳しい声でそう言ったのは、鋭い雰囲気をまとった上官らしい男性だった。
『騎士』という前世では馴染みのなかった存在に、ちょっぴりテンションが上がる。
上官らしい男性は、短く整えた灰色の髪に、精悍な顔つきをしていた。背が高く筋肉質で、ボクサーみたいなストイックな体型をしている。体脂肪率3パーセントくらいしかなさそう。
しかし最も目立つ特徴は、顔についた大きな傷痕だ。顔の左側、額から顎の辺りにかけて、剣で斬られたような真っ直ぐな傷痕があって、そのせいで左目は塞がってしまっている。
物陰からじぃーっと隻眼の騎士を観察していると、何の前触れもなく、突然彼がこちらを振り返った。
距離も結構離れているし、まさか気づかれるとは思っていなかったので、目が合った瞬間、私はぎょっと毛を逆立たせて建物の影に体を引っ込めた。
彼の右目は、まっすぐ私を射抜いていた。どうして気づいたんだろう。動いたり、物音をたてたりしていないのに。
まさか視線で感づいたとか? 無遠慮に見つめすぎたか。
彼が近づいて来る気配はない。相変わらず剣と剣のぶつかる金属音は響いているから、何事もなく訓練は続いているはずだ。
呼吸を整えて少し落ち着いてから、私はもう1度そろそろと顔を覗かせた──
──ら、まだ見てた。
あの隻眼の人がまだこっち見てたー!
再度ばっちりと目が合うと同時に私は体を反転させ、その場からバビュン!と逃げ出した。地面を蹴ると、柔らかな雪が舞い上がる。
短い足をしゃかしゃかと回転させながら数十メートル進み、建物の角を曲がってスピードを緩めた。大丈夫、誰も追いかけて来ていない。
ホッと息をついたところで、別に逃げなくてもよかったんじゃないかと冷静に思った。
そもそも私は誰かに王都への道を訊こうと思ってここに入ってきたのだ。──言葉の話せない私がどうやって道を訊くんだ、という問題はまだ解決していないけども。
とにかく人間と接触しないことには何も始まらないではないか。目が合ったくらいで逃げてどうする。私は前世で人間だったのだ。人が凶暴な生き物でないことはよく分かっている。逃げる必要ない。
よし、と自分を勇気づけて1歩踏み出す。
しかし遠くに数人の騎士が歩いているのを見つけ、私はあっさりとしっぽを巻いて外階段の影に隠れた。
母上……。
あなたのおっしゃるように、私は少し臆病なのかもしれません。
実際、今のちんまい私から見ると、人間ってびっくりするほど大きいのだ。間近で見ると結構怖い。
それにこの世界の人たちが、私を見てどういう反応をするのかも分からない。捕まって殺されたり、毛皮を剥がれたりするかも。
見た目は単なる白い子ギツネな私を見て、雪の精霊だと気づく人はいるだろうか。もし気づいたら、その人はどうするだろう。攻撃してくる人はいないと思うけど……。
要するに相手の反応が予想できないのが怖いのだ。私はただのキツネの振りをしていた方が安全なのか、それとも“精霊感”みたいなものを出していった方がいいのか。うむむ。
真剣に悩んでいる最中だったけど、素直な私の体はさっきからずっと眠気を訴えてきていた。今日は昼寝もせずに移動したし、子供にもみくちゃにされたりして大変だったからな。
もう夕方だし、日が落ちるまでにはまだ時間があるが、早めに眠ることにしよう。
私はクアッと大きなあくびを一つして——こんな姿だし、口元を押さえて可愛いあくびなどしない。牙も歯茎も剥きだして豪快にやる——、寝床を探すためコソコソと動き出した。
人間と鉢合わせしないように敷地内を見て回り、最終的に騎士たちの宿舎っぽい建物の裏で眠ることに決めた。それほど広い空間ではないが、背の低い木がぽつぽつと植えてある。きっと春になったら、積もった雪の下から芝生が顔を出すのだろう。
人もめったに通らなそうだし、野良猫なんかのマーキングの匂いもしない。
この裏庭の端には、半分存在を忘れ去られているような小屋があったので、そこを寝床にすることにする。扉は壊れたのか、外されていて見当たらない。
中は狭く、大人が横になれるかどうかくらいの大きさで、雪かき用と思われるシャベルがいくつか置いてあるだけだった。扉がないため少し雪が吹き込んでいるけど、これくらい毛玉生物な私にとっては何でもない。
私は小屋の中に入り、体を丸めて床に寝転がった。
ひとつ心配なことがあるとすれば、すぐそばにある宿舎の1階の窓から、この小屋の中が丸見えだということだろうか。この小屋の入口と宿舎の窓が向かい合ってるんだもんな。
だけどこれから日が沈めば、外は闇に包まれる。小屋の中も真っ暗になって、たとえ向かいの部屋の人が窓から外を見ても、私の姿は見えないんじゃないかな。
私は目をつぶって半分夢の中に足を突っ込みながら、そう適当な予想をつけ……ZZZ……。




