王都へのおつかい(1)
私は目を丸くして母上を見つめ返した。
「“おーと”って、おうと? 王様たちのいる?」
「そうじゃ。王都の城へは、何度かわらわと共に訪れた事があるであろう?」
「うん、おぼえてる。だけど……私ひとり?」
「そう、一人で行くのじゃ」
「でも母上、私、おうとには飛べないよ」
移動術を使う時、私はまだ場所を目指しては飛べないのだ。それに目標にできる人も限られていて、その中には王様や王妃様たちは入っていない。
せっかくならした寝床の上でおろおろと動き回る。まさか一人で遠距離のおつかいに行かされるとは思っていなかったので動揺してしまう。
しかし母上は無情に続けた。
「うむ。移動術が使えないのは分かっておるが、歩いて行けばよいであろう?」
私は中途半端に口を開けたまま、氷のように固まった。
「王都はそなたの足では遠い。とても心配じゃが、しかしこれも一つの特訓よ。そなたを鍛えるため、わらわは心を鬼にするのじゃ」
母上は寂しそうな表情をして、着物の袖で涙を拭う仕草をした。でも涙は出ていない気がする。
このまま固まっていては本当におつかいに行かされてしまうので、私は何とか体のこわばりを解いて口を動かした。
「は、母上……そんな、むりだよ、私、ひとりでなんて……」
初めてのおつかいって普通、すごく近所のお店に行かせるところから始めるんじゃないの?
王都までって一体何百キロあるんだろう。隻眼の騎士にいつか聞いた情報によると、馬を走らせても二日はかかるとか何とか……。
それを? 私の? この短い足で? 歩く?
私の中の何かが弾けて、人間らしい理性が吹き飛んだ。
「うわーん! むりだよー! ぜったいむりー!」
情けなく張り上げた声がほら穴に響く。
「むり! やだ! むり!」
私はその場でひっくり返って、『おつかいになんか行かないし、ここから一歩も動かない』という意志を体で表現した。
母上が移動術を使って、さっと行ってさっと帰ってくればいいのに。私のためを思った特訓にしても難易度が高過ぎる。
確かに母上には精霊らしい厳しさがあって、今までの特訓でも「足腰を強くするのじゃ」と真冬の雪山ランニングを強制されたり、「倒してみよ」と冬眠しない雪グマの前に放り出されたりした事もあった。
今朝の木登りなんてまだ易しい方なのだ。
けど、そういう特訓をする時は危なくなったらいつでも助けられるよう、母上はいつもすぐ隣についていてくれた。
自分がついている時には無茶をさせるけど、私が住処以外の場所で一人になる事には過敏に反応して心配するのが母上だと思っていたのに。
私の一人旅なんて、母上が一番嫌がる事のはず。
「母上は、いっしょに来てくれないんだよね?」
仰向けに寝転んだまま一応確認してみるけど、
「そうじゃ」
と頷かれてしまった。
そうして母上は、懐から筒状に丸められ、紫色の綺麗な紐で縛られた紙を取り出して言う。
「そなたにはこの手紙を人間の王に届けてもらいたい。できるな?」
「できないぃぃ!」
ばたばたと手足を動かして全身で拒絶を訴える。
元人間としての誇り? 今は無いです。
「やだやだやだやだ! 母上もいっしょじゃなきゃやだ!」
寝床の上をごろごろと転がりながら枯れ草をまき散らした。我ながらうるさい。
しかしこれだけ暴れたら母上も諦めてくれると思ったのだが……。
「ミルフィリア、そんな事を言わずに一度頑張ってみよ」
駄々をこね続ける私に辛抱強く声を掛けてきて、全く諦める気配はなかった。
そうして、ついには私の方が疲れてしまって、もうおつかいに行こうかなという気持ちになってしまう。
「今晩はゆっくり眠って、明日の朝には出発するとよい」
不安そうな顔をしてこちらを見ている母上。
そんな顔をしているのに、どうして私を王都へ行かせようとするんだろう。
「わかった、行くよ……」
母上が何を考えているのかは分からないが、どうにでもなれという気持ちで弱々しく言った。
母上の期待に応えたいという気持ちもある。
「えらいぞ、勇敢な子じゃ」
母上は私をぎゅっと抱きしめて優しく背中を撫でてくれたけど、何だか複雑な気分だ。
「母上……私のこと、すき?」
抱きしめられたまま、母上を見上げる。
あまりよく覚えていないけど、私は前世でも子どもの時に母親にこうやって尋ねた事があったと思う。
母上は、前世での母親と同じように優しい笑顔で答えてくれた。
「もちろんじゃ。愛しておるぞ」
「……ほんとうに? どれくらいすき?」
「どれくらい? “とても”じゃ」
「とてもって、大きさでいうとどれくらい?」
「大きさ!?」
面倒くさい女のようになっている事は自分でも分かっているけど、母上からの愛を確認せずにはいられないのだ。
母上は戸惑いつつも、「これくらい、かの?」と両手を目一杯に広げて見せてくれた。指の先をぷるぷる震わせてぴんと伸ばしてくれているので、とりあえずは満足する。
でもやっぱり、おつかいは行きたくないなぁ……。
母上は一体何を考えているんだろう。
翌朝になっても、やはり私の決意は固まっていなかった。
寝床の上で寝返りを打つが、起き上がればおつかいに行かされてしまうので、まぶたは閉じたままキツネなのに狸寝入りを続ける。
けれどそんな小細工は母上には通用しなかった。
「ミルフィリア、そろそろ起きて出発するのじゃ」
鼻先でごろん! と転がされれば、起きないわけにはいかない。
「うぅ……」
よろよろと起き上がると、母上は人型になって私の毛についた枯れ草を丁寧に取ってくれた。
頬や脇腹の毛の寝ぐせも手櫛で整え、よだれの跡も拭いてくれる。
「砦の者が寄越した肩掛けがどこかにあったな」
母上は住処の奥へ行くと、ごちゃごちゃとした私の宝物の山の中から、前に支団長さんに貰ったショールを引っ張りだした。
ちなみに宝物の山には、いい感じの木の棒とか、つるっとして丸い石とか、森で拾った格好いい鹿の角とかも一緒に置いてある。
あー、あの茶色い物体は去年の夏に摘んだ花かな。捨てなくちゃ。
「おや? こんなものどこで拾ってきたのじゃ、ミルフィリア」
母上が指差したのは、宝の山の一番奥に置かれていたごつごつとした大きな石だ。
私の体より少し小さいくらいの何の変哲もない灰色の石に、綺麗な黄緑色の石が五、六個ほどくっついているもの。
この黄緑色の石はきっと宝石の原石に違いないので大切にしているのだ。
「それ、ヒルグパパからもらったやつ……母上が」
「綺麗だからお前にやろう!」とヒルグパパが担いできたものなのだが、母上がその場で「いらぬ」と切り捨てたから私に回ってきたのだった。
しかし母上はその一件すら覚えていないようだ。
「ヒルグから?」
母上は眉をしかめて、その原石を視界から外した。
可哀想なヒルグパパ。原石は私が大事にするからね。
母上は気を取り直すと、汚れを払ってから私にショールを着せてくれた。ぐちゃぐちゃになって宝物の山に突っ込まれてたのに、上等な布だからか広げたら皺も取れた。
「母上、私おもったんだけど……」
出発の準備が着々と整えられていく中、口を開く。
私にはまだおつかいに行かないための奥の手が残っているのだ。
「私、おうとまでの道がわからないよ。だから一人でいけない。私はおつかいにいきたいけど、道がわからないからいけないの。私はいきたいけど、しょうがないの」
だからおつかいは諦めて! と、私は期待を込めて瞳を輝かせた。
地図だって無いんだから。
「うむ、そうじゃな……」
よし、いいぞ。母上が悩んでいる。このままおつかい中止になりますように!
『おつかいに行けなくて残念』という雰囲気を出さなければいけないのに、私の正直なしっぽがブンブン揺れてしまっている。
ちょっと大人しくしてて!
「ならば、こうしよう」
しかし母上が打開案を思いついてしまったようなので、すぐにしっぽはしゅんと黙った。
母上は手のひらを上に向けて、片手を持ち上げる。
すると次の瞬間、その手のひらの中心からぼうっと青白い光が浮かび上がってきた。
それは丸い形をしていて、母上の手から離れても消える事なく空中にふよふよと浮遊している。
薄暗いほら穴が少し明るくなった。
「なにこれ……?」
私の前までゆっくり飛んできた綺麗な光の玉を、思わずパクッと咥えたくなる。
「それは妖精じゃ。わらわが作り出した雪の妖精」
「ようせい……」
「その妖精には、わらわの力のほんの一部を分け与え、ミルフィリアを王都まで先導するという役目を与えておる。それについて行けば道に迷う事はない。これで道が分からないという問題は解決じゃな」
私はがっかりと肩を落として、のんびりと飛んでいる光の玉を眺めた。
「さあ、そろそろ行くのじゃ」
母上はそこでちらりと住処の外へ視線をやった。何気ない動作だが、その目には警戒が滲んでいるような気がした。
近くに雪グマでも来ているのだろうか?
「まずは砦へ行って騎士たちに挨拶をしてから行くのじゃぞ。王都までそなたの足では何日もかかるであろうからな、その間顔を見せないとなると奴らも心配するであろう」
そうだ、隻眼の騎士たちにもしばらく遊びに来れないっていう事を伝えておかないといけない。
騎士の皆の事まで配慮するなんて、母上にしては気が利いている。
「うん、そうする」
「砦までは移動術を使うのじゃ」
「え? いいの?」
てっきり山を下るのも鍛えるために自分の足で、と言われるかと思ったのに。
母上の考えは独特だからよく分からない。
最後に筒状の手紙を渡されたので、それを口に咥える。
行きたくないけど仕方がない。ここでまた駄々をこねたら母上に呆れられてしまう。
私は頑張るぞという気持ちを何とか奮い立たせて言った。
「ひゃあ、いっへふる(じゃあ、行ってくる)」
妖精が私にぴたっとくっついてきた。
「どうか気をつけておくれ」
移動術を使う瞬間、母上はそう言ってとても心配そうな顔をした。居ても立ってもいられないといった感じで、自分からおつかいを提案したのにこのまま私について来そうな雰囲気ですらある。
「頑張るのじゃぞ」
不安げな母上の声を最後に聞いて、私と妖精は砦へと向かった。




