ヒルグパパ
「ねぇねぇ母上、クガルグとヒルグパパってさ……」
私を抱いて山を下っていく母上に声を掛ける。山頂付近には雪しかないので、木の生えている場所まで移動するのだろう。
残念な事に木登り特訓は続行されるらしい。
「あやつはそなたの父ではないぞ」
「わかってる。パパっていうのは、クガルグのパパって意味だよ」
母上は私の『ヒルグパパ』呼びにいい顔をしない。眉間のしわが深くなった。
「それでクガルグたちってさ、この国のみなみにいるんだよね?」
「そうじゃな」
クガルグ親子は私たちと同じこのアリドラ国に住んでいて、その住処は南にある火山である。
私もクガルグに会うため、そして怖いもの見たさという理由で二度ほど移動術を使って飛んでいった事があるけれど、マグマが常に流れ出ているような灼熱地獄ではなかったのでホッとした記憶がある。
というのも、その火山は活火山ではあるらしいのだが、過去に噴火したのは四◯◯年以上前で、現在も噴火の兆候のない静かな火山なのだ。
火口から山を下っていくにつれて植物も増えていき、クガルグたちが暮らしている緑の森も広がっている。
実は炎の精霊さんは元々、太陽が一年中ギラギラと照りつけているような南の国にいたらしいのだが、一五◯年ほど昔にこの国へ移動してきたという。
しかしアリドラ国は、北のスノウレア山付近一帯を除いて温帯気候なのだ。夏はそれなりに暑くなるけれど、南の国と比べれば随分過ごしやすい。
『どうして、そんなにあつくないこの国にきたの?』
クガルグたちの住処へ遊びに行った時、私はヒルグパパに質問した事がある。南の国の気候の方が、炎の精霊にとっては合うんじゃないかと思ったから。
だけど彼は白い歯を見せて快活に笑うと、こう理由を述べた。
『俺はスノウレアを追って来たのだ。子づくりするのに、近くに住んでいた方がいいかと思ってな!』
本当はもっとスノウレア山に近いところに住むつもりだったらしいけど、それは子づくりと同時に母上が断固拒否したみたい。
じゃあもうちょっと離れるかという事で南の端に居を構え、母上もそこならまぁぎりぎり許すと許可を出したとか。
子づくりを断られたのにアリドラ国に留まったという事は、ヒルグパパはやっぱり母上に情を寄せているんだろうなと思う。
ただ、それは私から見るとかなりさっぱりした感情で、人間のように繊細で面倒なものではない。
だからこそ母上以外の相手と抵抗なく番う事もでき、クガルグも生まれたし、恋敵のような存在との子どもである私にも何ら複雑な想いは抱いていない様子なのだ。
こういう感じ、長い時を生きてきた精霊らしいなぁと思う。
私が知っている精霊は、今のところ母上と父上、そしてヒルグパパだけだが、その三人を年齢順に並べると、母上が二八九歳(適当に数えている本人談)、炎の精霊さんが約四◯◯歳、父上が約一一〇〇歳となり、やはり長く生きるに従って、性格が大らかになっていっているのが分かる。
父上なんて大らかを通り越してもうほとんど感情の起伏がないし、私が一人でうるさくはしゃぎ回っていても決して怒ったりはしないのだ。
ただ大蛇の姿でいる時に騒がしくすると、無言で口の中に収納されたりはするけれど。
あれ毎回飲み込まれるんじゃないかってドキドキするから止めてほしい。
「さっきのは、ヒルグパパからのおてがみだったの?」
このまま木登りに連れて行かれるのが嫌なので、何とか母上の気を特訓から逸そうとする。
二人で恋バナでもしようよ!
けれど母上はずっと難しい顔をしていて、とても恋バナには乗ってくれそうになかった。
「そなたは気にせずともよい」
母上の目尻はいつもつんと上がっているけれど、今はさらに吊り上がって不機嫌そうだ。
そんなにヒルグパパの事、嫌いなのかな。確かにデリカシーは皆無だし暑苦しいけど、いい人なのに。
と、そんな事を考えているうちに針葉樹が広がる森に着いてしまった。
「それ、登ってみせよ」
母上は私を一本の木の前に下ろして言う。おうちに帰って寝たいと思いながらも、一応チャレンジはしてみる事にした。
しかし爪が上手く木の皮に引っかからなくて苦戦する。前足を幹にかけて立ち、後ろ足で跳ねて飛びついてみるが、これ以上どうやったって上に行けない。
何度か頑張ってから、哀れっぽく母上を見上げる。
「母上、むりだよ。私、ねこじゃないもの……」
「何を言う。野生のキツネどもも木に登って休んでおるぞ。よいか、母を見ておれ」
そう言ってキツネの姿に戻った母上は、なるべく太い木を選んで助走をつけると勢いよく上に駆け登っていった。高いところにある枝に乗って一旦こちらを見下ろすと、その枝が折れる前に軽やかに地面まで下りてくる。
「わあ! 母上すごい!」
普通のキツネよりも大きいのに、真っ直ぐ生えている木に簡単に登ってしまった。私は感動して弾んだ声を上げる。
母上はちょっと得意げな顔をしていた。
「では、次はそなたの番じゃな」
「あ……」
一瞬で冷める興奮。その後は母上の鼻でお尻を押されながら、木登りに精を出す事になるのだった。
「後ろ足にしっかり力を入れるのじゃ!」
「ひーん!」
午前中に木登り特訓でヘロヘロになった後、私はいつものように砦へ向かった。
母上に「行ってくる!」と伝えると、山の住処から隻眼の騎士を目指して移動術を使う。
最近では支団長さんやティーナさんを目標にしても五回に一回くらいは成功するようになったが、キックスについては一度も成功した事がない。
その人のところに行きたい! という強い気持ちが大切なせいかもしれない。
頭の中に隻眼の騎士の姿を思い浮かべ、そこへ飛んでいくところを想像すると、私の体は小さな吹雪に変わって渦を巻き、消えていった。
この時の自分の体がなくなる感覚はちょっと怖くて、いつまで経っても慣れない。
だけどそれも一瞬で、次に目を開けた時には隻眼の騎士のところに着いているはず……と思ったら、何故か暗くて狭い場所に出てしまった。
すぐ目の前は木の壁で、天井はすごく低い。
何だここ! 何だここ! とパニックになりながら目の前の壁を前足でしゃかしゃかと激しく引っ掻く。
心の中で隻眼の騎士を呼びつつ「きゃんきゃん!」と鳴き声を上げていると――
「ミル?」
後ろから救世主の声が聞こえたので、すぐさま振り向いた。隻眼の騎士は椅子に座りながら、上半身を曲げて私のいる場所を覗きこんでいる。
あれ? もしかしてここって、隻眼の騎士の執務室にある机の内側だった?
後ろも確認せずに焦って騒いた事が恥ずかしい。机の内側を引っ掻いていた前足をそっと戻した。
「そんなところで何をしているんだ。来たなら出てくればいいだろう」
首根っこを掴まれて、隻眼の騎士の膝の上に乗せられる。怖がって動転していた事はバレてないようだ。よかった。
私の移動術は精度が低く、『隻眼の騎士を中心に半径十メートル以内ならどこでも』という適当な感じで飛んでしまうので、たまにこうやって思わぬところに出る事もある。
前に隻眼の騎士が見回りの帰りに馬で駆けていた時は、馬の上でも前方の地面でもなく、後方の地面に現れてしまったものだから、隻眼の騎士に気づかれる事なく置いていかれたりもした。
ぎゃわぎゃわ鳴きながら必死で追いかけた思い出。
「あと少しで終わるからな」
隻眼の騎士は私の頭にポンと片手を乗せて、仕事の続きに取り掛かった。机の上の書類に何かを書き込んでいるけど、私にはさっぱり内容が分からない。
いつか文字の読み書きもできるようになりたいので、今から勉強しておこうかと隻眼の騎士の書く文字を目で追ってみた。
が、どうにもつまらない。
途中からは机に顎を置くと楽だという事に気づき、やる気のないスタイルで適当にペン先の動きを観察する。今日のごはんは何かなぁ……。




