別れ
心がざわざわする。
何か嫌な事が起こりそうな予感。
隻眼の騎士や支団長さんたちが祭壇に向かった後、私はティーナさんたちと一緒に砦の中で待機していた。ティーナさんは談話室で何やら難しそうな本を読みながら、落ち着きのない私の様子を窺っている。
「ミルちゃん、心配しなくても大丈夫よ。外の吹雪は相変わらずだけど……副長は無茶をするような人じゃないし、支団長も一緒なんだもの。二人とも冷静な判断ができる人よ。危険を感じれば引き返してくるわ」
ティーナさんは分厚い本を閉じ、うろうろと歩き回る私を捕まえてそっと自分のひざに乗せた。
隻眼の騎士たち、本当に大丈夫かな。雪に埋もれてたりしないかな。そして何より、祭壇まで行って実際に母上に会っていたら……どうなるだろう? 母上は私に怒っているんだろうけど、隻眼の騎士たちに八つ当たりとかしてないよね?
私はティーナさんのひざの上から飛び降りて、またうろうろと部屋の中を歩き回った。不安でじっとしていられない。
「きゅーん!」
喉を絞め、口をすぼめて、なるべく高く細く、か弱い声を発する。母上を呼ぶ時用の声だ。
山の上にいる時はどんなに離れていてもこの声で鳴けば母上が迎えに来てくれたのだが、ここで鳴いても声は届かないらしい。建物の中だし、外の激しい風の音にも声をかき消されてしまう。
「ミルちゃん、大丈夫よ」
ティーナさんが優しい声をかけてくれるが、私の心は落ち着かなかった。隻眼の騎士の元へ行かなきゃならない。そんな気がするのだ。
遠吠えを続ける私に、ティーナさんが切ない表情で眉を下げる。親に置いていかれた子どもを見るかのような、憐れみに満ちた視線を送られた。
「ミルちゃん、副長のこと大好きなのね。そんなに心配なら、一度外へ出てみる? もしかしたら副長たちもそろそろ戻ってくるかもしれないし……。でも入り口の扉からちょっと外を覗くだけよ?」
「きゃん!」
うんうん、それでもいい! 外連れてってー!
私は後ろ足二本で立つと、ティーナさんを誘うように前足を動かした。気がはやると二足歩行になってしまう。
「やだ、そのポーズ可愛い〜」
わかったから! 私が可愛いのはわかったから、早く抱っこして下さい。——私に対してティーナさんは甘く、彼女と二人で移動する時は必ず抱っこされる。ちなみに隻眼の騎士は私を野生に帰すつもりでいるから、『自分で歩いて足を鍛えろ』という教育方針らしく、移動で抱っこされた事はない。ティーナさんも私を甘やかすべきじゃないと思っているようだが、なかなか徹底できないようだ。まぁ私が可愛いのが悪い。
「外へ出るのはやめた方がいいぞ」
悶えていたティーナさんにやっと抱っこしてもらって、いざ廊下へ出ようと思った時だ。談話室の扉が開いて、頭や肩に雪の積もった門番のアニキが中へ入ってきた。こんな吹雪でも、外に立って警備をしていたのかな?
「吹雪が酷くなってきた」
「ええ!? 今までだって十分酷かったのに、これ以上?」
ティーナさんが悲鳴のような声を上げる。
「ああ、まるで雪を伴った台風が接近してきたみたいな……。外にいたら、あっという間に凍りつきそうだ」
そう言ってアニキは着ていた外套を脱いだ。しかし外套は重力に従ってくしゃりと崩れる事はなく、彼の体の形をある程度保ったまま固まっていた。外套に張り付いた雪がそのまま凍っているみたい。きっと今、濡れたタオルを外に出したら、一瞬でカチコチになるんだろう。
「うー、さびー!」
「死ぬ!」
除雪作業に勤しんでいたと思われる騎士たちが、次々談話室に戻ってきた。コワモテ軍団もいる。
彼らはティーナさんの腕の中にいる私の頭を皆で代わる代わる撫でた後——ここの騎士たちには、私の顔を見たらとりあえず頭を撫でるという習性でもあるんだろうか——、暖炉の周りに集まって、体に積もって固まった雪を融かしている。
でも、吹雪がまた一層酷くなったんだとしたら……
「支団長たち、大丈夫かな?」
私の心に浮かんだ言葉を代弁するかのように、誰かが心配そうに呟いた。
「さすがにやばいよな」
「ああ、どんなに凶悪な敵でも相手が人間なら心配なんてしないんだが……さすがの副長や支団長でも、自然には太刀打ちできねぇだろうし」
「迎えに行くべきか?」
「いや、もう少し待った方がいい。支団長たちは雪山に登れる位の装備や非常食は積んで行ったから——」
皆は話を続けていたが、私は途中で何も聞こえなくなった。
本当に私たちは——“私”は、ここで待っていた方がいいのだろうか。
寒さに体力を奪われて、真っ白な地面に倒れる隻眼の騎士たち。そしてその体の上にも雪は容赦なく降り注ぎ、彼らの姿を覆い隠してしまう。
そんな光景が脳裏によぎり、背筋が凍った。
隻眼の騎士たちはとても強いけど、雪や寒さに対しては私の方が強い。
前世ではただの人間だった私だけど、今世ではそうじゃない。私は精霊なのだ。私が皆を守らなきゃ。
特に隻眼の騎士にはとても助けられたから、今こそその恩を返したい!
——そう強く思った時だった。
「……ミルちゃん!?」
頭上から、ティーナさんの驚きの声が聞こえてきた。
「なんだ!?」
「……雪がっ!」
暖炉を囲んでいた騎士たちも、ぎょっとした顔をしてこっちを見ている。
気づけば、私の体を包むようにして小さな吹雪が発生していた。うわぁあ、何これ!
ティーナさんは風に片目をつぶりながらも必死で私を抱きかかえているが、私の体はどんどん雪に変わり、風に乗って舞い上がっていく。
わ、わわわ私の体が、きえ、きききえ、消えて……っ!?
「ミルちゃん!」
「ミルッ!」
ティーナさんが再び叫び、コワモテ軍団やアニキたちがこちらに向かって手を伸ばしながら駆けてくる。
その光景を最後に、私の体の感覚は全て途絶えた。
目も耳も手足も頭も、全てが雪に変わり、談話室の暖かい空気の中に溶けて消えたのだ。
死んだ。
私、死んだ!
何だか分からないけど急に死んでしまった!
精霊の死ってこんなんなの? 私何で唐突に死んだの? 病気だったの?
隻眼の騎士を助けたいと思ってたら急に体が浮くような感覚がして、気づけば風が巻き起こっていて、体が雪に変わっていて……。
とか何とか考えているうちに、散り散りになっていたはずの体が再び形を成していく、そんな感覚がした。
今は何も見えないが、目があって、その上にまぶたがある感覚も戻ってきたので、それを恐る恐る持ち上げてみる。
「……」
とりあえず片目だけ開けて、そろ〜っと周囲を見渡す。もしかして天国にいるんじゃないかと思ったのだが、それにしては天候が荒れていた。猛吹雪だ。
あれ? もしかして私死んでない? 一瞬で建物の中から外に移動しただけ?
冷静になって考えてみると、母上が王都に行く時なんかに、体の周囲に風と雪を巻き起こしてその場からかき消えている事を思い出した。もしかして私もアレをやったんだろうか?
だとすると、一体どこに着いたのか。移動する前に考えていたのは隻眼の騎士の事だけど……。
またそろっと隣を見上げてみる。
あ、いた。
隻眼の騎士、いた。
しかも隻眼の騎士のすぐ目の前には母上もいた。
おまけに二人は……一触即発の雰囲気である。
やっぱり母上は隻眼の騎士に八つ当たりしてたの? やばいやばい! すぐに止めなくっちゃ!
しかし私が鳴き声を上げるより先に、母上がこちらの気配に気づいた。
「……ミルフィリア?」
涙に濡れた目を見開いて呟く。そのか細い声に、胸がぎゅっと締め付けられた。母上、どうして泣いているの?
隻眼の騎士も自分の足下にいる私に気づいて驚いた顔をしている。
「どうしてここに……」
「ミル!?」
後ろからキックスの声もした。振り返ると、支団長さんたちが少し離れたところに立って、皆呆気にとられたような表情でこっちを見ていた。
あ、よかった。皆生きてる。
「ミルフィリアっ!」
欠けている隊員はいないな? と騎士たちの顔を確認していたら、突然地面にひざをついた母上に強く抱きしめられた。
「よくぞ無事でッ……! 妾がどれだけ心配したと……!」
ああそうだ。まずは母上に謝らないといけないんだった。
私はきゅんきゅんと鳴きながら母上の頬を何度も舐め、その涙を消そうとした。心配かけてごめんなさい。雪の精霊の涙は全然しょっぱくなくて、キンと冷たく舌が痺れた。
「ああ、よかった……」
母上は心から安堵したように、息を吐いた。
本当にごめんね。もう勝手に住処を出たりしないから、泣かないで。
「どういう事だ?」
「ミルが……精霊の子?」
キックスたちは混乱しているらしい。驚かせてしまったなら申し訳ない。だけど私は言葉が話せなくて、説明する術を持っていなかったから……。
隻眼の騎士と支団長さんの声は聞こえないけど、母上に抱きしめられている私の事を、信じられない思いで見つめているに違いない。すごい視線を感じる。
「自力で逃げ出してきたのじゃな? 偉いぞ、ミルフィリア。よくぞ母の元まで戻った」
母上は慈愛に満ちた美しい笑顔で私の頭を撫でてくれたが、ふと視線を隻眼の騎士に移すと、今度はその美貌をそのままに、怒りに顔を歪めて声を荒らげた。
「そしてやはり、妾の子を攫ったのは貴様らだったのじゃな!」
攫った? 私を? 隻眼の騎士が?
思いがけない単語が母上の口から出てきて戸惑う。何でそんな事になってるんだ。母上は勝手に出ていった私に怒って、吹雪を起こしてたんじゃないの?
「待ってくれ、ミルは——」
「黙れ! 言い訳など聞かぬ!」
母上は勘違いしている。隻眼の騎士たちは何も悪くないのに。
「きゃん、きゃん!」
私は焦って母上に説明しようとしたが、喉から出てくるのは言葉とは言えない単純な音ばかり。母上の方も激高していて、こちらの鳴き声には反応してくれない。
そうして、怒りに染まった瞳で隻眼の騎士を射抜き、氷のような声で恐ろしい宣言をする。
「貴様らも、砦に残っている騎士どもも皆殺しにしてくれる」
母上の体の中で、目に見えない力がぐんと濃くなったのが分かった。ぎゅっと圧縮されたそれが解放されば、きっとこの場に生きている人間は一人もいなくなる。一瞬で全員が凍りついて、今の立ち姿のまま白く固まるのだ。そんな予感がした。
大好きな母上が、大好きな隻眼の騎士たちの命を奪う。
そんな悲しい事あってはならない。
私は母上を止めようと、声を上げた。言葉は話せないけど、吠え声だって何だっていい。とにかく攻撃を止めたかった。
けれど私の口から飛び出てきたのは吠え声ではなく——
「——やめてっ!」
幼児のようにどこか拙い、しかし高くて愛らしい声だった。
「……ミルフィリア?」
母上は攻撃を止め、ぽかんと口を開けてこっちを見た。
「今の声はそなたか?」
隻眼の騎士も母上と同じような顔をして私を見下ろしていた。そしてたぶん、私も間抜けな顔をしているに違いない。自分でもびっくりしているのだ。
一応きょろきょろと辺りを見回してみるが、それらしき人間の幼児はいなかった。
じゃあやっぱり、今の声は私? 体は子ギツネのままだけど、母上だってキツネの姿の時に普通に人の言葉を喋ってたもんな。
一度落ち着こうと息を吸い、今の感覚を忘れないうちにもう一度言葉を紡いでみる。
「……わたし……ことば、しゃべる」
どこの宇宙人だと突っ込みたくなるほどの片言だ。生まれて1年、こっちの世界の言葉は結構覚えて、人が話している内容はほとんど理解できるけど——特に砦に来てからの2週間ほどで色々な言葉を吸収できた。それまでは母上が話す言葉を聞いていただけだったから——、自分で話すのは初めてなのだ。
発音が難しいよ〜!
上手く舌が回らないよ〜!
普通のキツネの声帯とは違うんだろうけど、この口で喋るって難易度高い。
「わたし——」
「今のは無しじゃ!」
唐突に私の言葉を遮った母上は、何故かちょっと焦ったように私の前に跪き、こう言った。
「そなたの初めての言葉は『母上』だと決まっておる。だから今のは無しじゃ。ほれ、言ってみよ、『は、は、う、え』と」
母上……。
私はちょっと呆れながらも、発音をよく覚えて声を発した。
「はは、うえ……」
「そうじゃ、ミルフィリア!」
喜ぶ母上に、続けて言う。
「ははうえ、カンちがいしてる。わたし、さらわれる、ないのよ。じぶんでおりた」
「……何?」
片眉をあげる母上。
喋るのって頭を使うし結構疲れるけど、ちゃんと説明して誤解を解かなきゃならない。悪いのは私で、隻眼の騎士たちには何の罪もないんだって。
「ははうえ、いなくなるでしょ。だから、わたしさびしくて山おりるの。けど『おうと』まで行く、ムリで……」
隻眼の騎士の『隻眼』って何て言うんだろう。誰もそんな風に隻眼の騎士の事を呼んでなかったから分からない。
まぁいいか、騎士の人たちで。
「……きしの人たちに、ほごしてもらった。この人たち、いい人たち。わたし助けてくれたもん。わるいの、かってに山おりた、わたし」
しゅんと耳を伏せ、母上の怒りが私に落ちるのを待つ。
てっきり怒鳴られると思ったのに、母上は何故か——
「すごいではないか、ミルフィリア!」
——めちゃめちゃ喜んでいた。
感動したように私の頭を撫で回している。
「まだまだ赤ん坊だと思うておったのに、その小さな足で麓まで一人で降りてきたとは……! そなたにそのような根性があるとは知らなんだ。母は嬉しいぞ。言葉も喋れるようになって、移動術も使えるようになって!」
隻眼の騎士たちが置いてけぼりをくらっている。
母上、落ち着いて。
「しかしそなたの成長は嬉しいが、寂しくもあるな……。急いで大人にならずともよい。もう少しの間、妾だけの可愛いミルフィリアでいておくれ」
抱き上げられて、頬ずりされる。
雪の精霊なんて聞くとクールなイメージだが、母上は意外とそうでもない。と、今知った。感情があっちこっちに行きがちな上、起伏も激しい。可愛いけどね。
「ははうえ、ごめんなさい。ゆるす、してくれる?」
「もちろんじゃ。そもそも怒ってなどおらぬ」
「じゃあ、きしの人たちのことも、おこらないよね?」
私がそう言うと、母上はやっと隻眼の騎士たちの存在を思い出したようだ。私を抱き上げたまま、視線を移す。
「そうじゃった。そなたらには悪い事をしたな。どうやら妾の勘違いだったようじゃ」
先ほどとは打って変わって、母上は申し訳なさそうに隻眼の騎士に謝った。
「だが妾も子の事となっては冷静ではおれぬのじゃ。攻撃しようとした事は……どうか許しておくれ」
雰囲気を和らげてしなを作ると、甘えるように許しを請う。これが大人の女のテクなのか。
しかし離れたところにいるキックスすらぽーっとなっていたのに、隻眼の騎士の表情は変わらなかった。それでこそ隻眼の騎士。
「いや、誤解が解けたのならいい」
隻眼の騎士は緊張を解き、肩の力を抜いて言った。その言葉は間違いなく母上に向けられたものだったが、視線はさっきからずっと私の方を向いている。何か色々言いたい事ありそうな顔して……。
「隻眼の騎士……」と話しかけようとして、また『隻眼』を表す言葉が分からず、私は口をつぐんだ。そしてその隙に、上機嫌な母上が話を続ける。
「お詫びと言ってはなんだが、何か困った事が起きればいつでもこの祭壇に来るがよい。妾の力を貸してやるぞ。それから今回の吹雪の事、町の者たちにも謝っておいておくれ。今積もっている雪が融けない限り、この冬はもう雪を降らせないようにすると」
気づけば、いつの間にか吹雪は止んでいた。地上は無風なのに、空を見上げれば雲の動きは早く、すでに太陽が覗いている。三日ぶりの陽の光!
「そして妾の子を保護していてくれた事にも礼を言う。ミルフィリアが随分世話になったようじゃ。礼には何をするべきか……妾の口づけでよいか?」
冗談ぽく言ってほほ笑む母上。精霊ジョークですね。
しかし隻眼の騎士と支団長さん以外の男どもは、期待して締まりのない顔を晒している。デレデレじゃないか。さっき殺されかけてたんだぞ、いいのかそれで。相手が美女なら許すのか!?
ま、心が広いと解釈しておこう。隻眼の騎士も支団長さんも含めて、勘違いした母上の事を怒っている人はいないようで安心した。
でも私の事はどうだろう……。今回の件の元凶だし、嫌われてたら悲しい。
「では、妾はミルフィリアと共に住処に帰るとしよう」
「え……まって、ははうえ」
「子の成長は早いのじゃ。母子水入らずの時間を大切にせねばならぬのでな。そなたらも日が落ちる前に砦に戻るがよい。ではな」
「ま……ははうえ!」
母上と、その腕に抱かれた私の周りに風が巻き起こる。母上は山の上の住処まで移動する気だ。私まだ隻眼の騎士たちに謝ってないし、お世話になったお礼も言ってないのに! というか、まだお別れする覚悟も——
「ミル!」
隻眼の騎士がこちらに手を伸ばした。
が、その手に捕えられると同時に、私の体は雪になって空中に散る。喉や口が消えてしまう前に、私は早口でお別れを言った。
「めいわくかける、ごめんね! おせわ、ありがとう! たのしかった! とりでのみんな、だいすき。また会——」
しかし言いたい事を全て伝えきる前に、私の目の前から隻眼の騎士たちが消えた。
いや、私の方が彼らの前から姿を消したのだろう。




