闇の精霊
「ルナベラ」
紫色の長毛の猫に向かって、サンナルシスはそう声をかけた。
ルナベラ――それがこの猫の名前らしい。
「サンナルシス」
猫の方もサンナルシスの名前を呼ぶ。静かで綺麗な女性の声だった。二人は知り合いのようだ。
そして猫はやはり精霊だったようで、次の瞬間には大人の女性に姿を変えていた。
背の高さは母上と同じくらいで、艶のある黒髪は膝の辺りまであるストレート、そして森の中では動きにくそうなドレスを着ていた。ドレスは色こそ落ち着いた紫で、丈は足首まであるが、黒いフリルやリボン、レースが使われたゴスロリっぽい感じのものだ。
靴は編み上げの黒いブーツで、黒いレースの手袋をつけており、頭にも黒いレースでできたベールを被っている。
ベールは短く、目が隠れているだけだが、目が見えないと相手がどんな人物なのかいまいち読み取れない。
彼女がこちらに近づいてくると、サンナルシスはハッとして私とクガルグを自分のマントに包んで隠した。
「ルナベラ、ちょうどお前のところに行こうとしていたところだ」
サンナルシスはわくわくしているような、高揚した声で言う。
「今度こそきっと喜ぶぞ」
「私が喜ぶ?」
楽しげなサンナルシスに対して、ルナベラの声はちょっと冷たい。でもきつい印象はなく、大人しそうな雰囲気の声だ。
そしてサンナルシスは「見ろ!」と言いながらマントを取った。そこにはサンナルシスに抱っこされた私とクガルグがいたのだが、ルナベラは別に驚かなかった。サンナルシスがマントで隠す前に私たちのことを見ていたから当たり前だ。
「精霊の子……ですよね? それに後ろの彼は、に、人間?」
ルナベラは緊張気味に言う。偉そうなサンナルシスと比べて、おどおどした感じだ。
サンナルシスは笑顔で答える。
「そうだ! 人間の方はまぁ置いておいてくれ。一緒についてきてしまっただけだ。それよりこの子供たちを見ろ! こんなに幼い精霊の子供を、私は二人も見つけたのだ。やはり人間の子供より精霊の子供の方がいいだろう。ルナベラもきっと喜ぶと思って連れてきた」
「サンナルシス、私は……」
「毛皮の色も白と黒で良い感じだ。金色でないのは惜しいが、こちらの白いミルフィリアの方は私の子にしよう。だからルナベラはこの黒いクガルグの方を後継ぎとして育てればいい」
「サンナルシス」
ルナベラは困ったように言う。
「けれどその子たちには、本当の親がいるでしょう? 今までの人間の子供たちもそうでしたけど……。他人の子を連れて来ても私たちの子供にすることはできないと、何度言ったら分かるんです。その子たちがいなくなったこと、親が気づけばすぐにここに飛んできますよ。きっとすごく怒ります……」
ルナベラはちょっと怯えて自分の両手をぎゅっと握った。
「親が来たって私が追い返す。私は精霊の中で最も強い光の精霊だぞ」
「あなたは確かに強いですけど……。最も強いというのは自称ですし」
ルナベラは後半の言葉はぼそぼそと呟いた。何となくルナベラはサンナルシスよりもまともな精霊な気がする。
しかしルナベラがおどおどしている間にも、サンナルシスは自分の話を進めていた。
「さぁ、ルナベラ! クガルグを抱いてみろ。ミルフィリアでもいいぞ。私たちの子だ!」
「ちょっと、サンナルシス……」
ルナベラはサンナルシスから私とクガルグを押し付けられて、慌てながら抱っこした。
けれど抱いた瞬間に、彼女は顔をほころばせる。
「ふわふわ……。可愛い」
目元はベールで隠れていて見えないが、口元はほほ笑んでいた。優しそうな精霊だ。
サンナルシスもそんなルナベラの姿を見て嬉しそうにしながら言う。
「これで私たちは完璧だ」
するとルナベラは笑みを消してサンナルシスの方へ顔を向けた。
「……サンナルシス、この子たちは可愛いですが、本当の親のところへ戻さないと」
「戻す必要はない。ミルフィリアもクガルグももう我々の子供なのだ」
「駄目ですよ。そんなことはできません」
二人は私とクガルグの頭上で言い合いを始める。
「ルナベラ、何も問題はない。ミルフィリアたちの親が来たら私が対処する」
「対処って、戦って追い返すつもりなんでしょう? そんなことすればサンナルシスはただの極悪な精霊です。あなたにそんなことさせたくないです」
「私のことは心配するな。強い私が戦いで負けることはない」
「そういう心配をしているんじゃないんですったら!」
ルナベラはついに怒って声を荒らげた。
「もう子供は連れてきては駄目だと言っているのに次から次へと連れてくるし、どうしてサンナルシスはそんなに勝手なんです! どうしていつも私の意見を聞いてくれないんですか!」
ルナベラがこんなふうに怒りをあらわにするなんて、きっと今までなかったのだろう、サンナルシスは目を丸くしている。
溜まっていたものを爆発させて「はぁはぁ」と息を乱しているルナベラに、今度はサンナルシスがおどおどしながら言う。
「わ、私はお前のためを思って……」
サンナルシスが子供を連れ去っていたのは、ルナベラのためだったらしい。彼女が喜ぶだろうと思って行動していたようだ。
でもルナベラはそんなこと望んでいなかったみたい。
「どーいうことなの?」
私はルナベラを見上げて尋ねた。何だか込み入った事情がありそうだ。
「まぁ! もう喋れるんですね」
ルナベラはそこでまたちょっとほほ笑んで私を見た後、ベールの奥でサンナルシスを睨みつけたように見えた。
「日が暮れる頃には、帰ってこない我が子を心配して親が迎えに来るでしょう。ですがこの子たちはすぐにでも親元に戻した方がいいと思います。親への謝罪もあなたは素直にできないでしょうから、私が一緒に行って謝ってきます。サンナルシスはここで反省していてください」
そしてそれだけ言うと、ルナベラは私とクガルグを抱っこしたまま森の奥へ歩いて行く。
「ル、ルナベラ……!」
「そこにいてください。この子たちに少し話を聞きます」
追いかけてこようとしたサンナルシスだったが、ルナベラに釘を刺されてしゅんとしてしまった。結構打たれ弱いみたい。
「せきがんのきしは一緒でいいでしょ?」
私が尋ねると、ルナベラは「隻眼の騎士?」と言った後、後ろを見て納得した。
「ああ、あの人間ですね」
隻眼の騎士は私たちを追ってこちらに歩いてきていたのだ。
「人間とはほとんど交流したことがないので少し怖いですが……。ねぇ、人間ってみんなあんなに強そうなのですか?」
ルナベラは隻眼の騎士をちらりと見て小声で尋ねてくる。私は彼女を安心させるために答えた。
「だいじょうぶ。せきがんのきしが特別強そうなだけだよ。でもルナベラは、ほんとうに人間とあまり関わったことがないの?」
「ええ、サンナルシス以外の精霊ともほとんど関わったことはありません。怖くって……。この住処の森から出たことはあまりないんです」
ルナベラは引きこもりの精霊らしい。私は周囲を見渡して言う。
「この森はルナベラのすみかだったんだね」
「そうです。広くて中心部までは人間も入ってこないし、静かなので気に入っているんです。……さぁ、ここに座りましょう」
ルナベラは腰かけるのにちょうどいい倒木に私とクガルグを置き、自分も座った。だけど私は倒木の上から落ちないように足をプルプルさせていたので、結局ルナベラが膝に乗せてくれた。
そして彼女は隻眼の騎士を見て、ちょっと怯えつつ声をかける。
「あ、あなたもどうぞ。立っているのは疲れるでしょう?」
「大丈夫です。こちらの方が落ち着くので」
隻眼の騎士は断って立ったままでいた。ルナベラは「余計なことを聞いたかしら?」と心配している。精霊にしては随分気弱と言うか、周りに気を遣ってしまうタイプみたい。
「いえ、お気遣いいただきありがとうございます」
隻眼の騎士もそう言ってフォローしていた。
胸を撫で下ろすルナベラに、私は改めて尋ねた。
「ルナベラって、やみの精霊なの?」
ルナベラの雰囲気は、まさに闇という感じだった。でも、闇というと『悪』みたいなイメージもあるけど、そっちの闇じゃない。恐ろしくて不気味な雰囲気でもない。
ルナベラは、眠っている生き物や植物を優しく包み込む、夜の闇みたいな穏やかな空気をまとっているのだ。「おやすみ」と言って頭を撫でてくれる母親のような温かさを感じる。
「ええ、自己紹介が遅れましたね。私はルナベラ。闇の精霊です。あなたはミルフィリアちゃん、あなたはクガルグくんですね」
「うん。ゆきとほのおの精霊なの」
「雪と炎の……。それにしては仲が良さそうですね。正反対の性質なのに」
意外そうに言うルナベラに、私はクガルグをちらりと見ながら返した。
「うん、さいしょはクガルグと一緒にいるとあついなって思ってたんだけど、もう慣れてきたよ。それにクガルグはけっこう優しいし。夏はあついから、わたしを日かげに入れようとしてくれたりするの」
「そうなんですか」
ルナベラはほほ笑ましそうに言う。クガルグはしっぽをぱたんと動かして照れていた。
「でも、ルナベラとサンナルシスも反対のせいしつだよね?」
私はルナベラを見上げて聞いた。
「だけど二人は仲がよさそうだった。ルナベラとサンナルシスはどういう関係なの?」




