女性騎士ティーナ
ティーナは、この北の砦唯一の女性騎士だ。
そもそも女性騎士の数自体が少ない上、配属されたのがこんな辺境の地とあっては仕方がない事なのかもしれないが。
けれどティーナは左遷された訳ではなく、自ら志願してこの地へやってきた。
雪に囲まれた北の砦での過酷な生活に耐えられればきっと根性もつくだろうし、騎士としての自信もつくのではと思ったのである。
騎士団の中では、やはり女性は周りから舐められがちだが、北の砦での任務を勤めた事があるとなれば別だ。誰からも認めてもらえるだろう。それだけこの地での生活は厳しいのだ。
だから、望んでここにやってきた物好きはティーナぐらいのものだった。
他の者たちは大体、王都や他の支団でやんちゃをしたりして、「根性鍛え直してこい!」とここへ送り込まれてきたのである。
周りにあるのは大自然のみで、冬には毎日のように雪かきに追われ、恐ろしい『鉄人副長』の訓練にも耐えねばならない。それ故、毎年配属されてくる若手騎士たちの顔には悲壮感すら滲んでいる。
しかしここでの冬を何度か乗り越えれば、そこいらの生半可な騎士など目ではなくなるほどの体力と精神力を手に入れられるのである。
ティーナは朝の身支度を整えると、静かに自分の部屋を出た。
女性と言えども、ただの新人騎士一人のために別の宿舎を用意してもらえるはずはない。ティーナも他の男性騎士たちと同じ宿舎で自室を貰い、寝泊まりしていた。ただ、通常若手は2〜4人部屋になるのだが、そこは特別に1人部屋を与えてもらっている。
しかも隣部屋には『氷の支団長』、向かい部屋には『鉄人副長』という鉄壁の布陣が組まれた角部屋だ。男だらけの宿舎で寝ていながら、ティーナが今まで一度も身の危険を感じた事がないのは、支団長と副長のガードのお陰かもしれない。
ティーナはふと向かいの扉を見た。尊敬する副長グレイルの部屋。
グレイルは他の騎士たちのように左遷されてここに来た訳ではなく、ここのくせ者たちをまとめ上げ、鍛え直すために、王都の騎士団長に頼まれて数年前からここの副長をやっているらしい。
彼ほど信頼できて頼れる上司はいないとティーナは思う。そしてそう思うのはティーナだけではなく、他の騎士たちも同じ。怖がりつつも、皆グレイルを尊敬しているのだ。
まだ朝早い時間だというのに、グレイルの部屋からは人が寝ている気配を感じない。毎日、まだ完全に日が昇らないうちから体を鍛えているという噂は本当らしい。今日など、よく晴れているからこそ気温はぐっと冷え込んでいるというのに。
ティーナは白い息を吐いて、ぶるっと肩を震わせた。
食堂へ行って朝ご飯を食べようと、自室の鍵を閉めて、『氷の支団長』の部屋の前を通り過ぎる。支団長の朝も早いらしいが、副長のように外で鍛錬している様子はなく、何をしているのかは分からない。自室で本でも読んでいるのだろうか。
支団長といえば……ティーナは自ら希望してここへやって来たのは自分ひとりだと思っていたが、それは違うと最近知った。
本人から直接聞いた訳ではないが、支団長も自分から北の砦での任務を志願したらしいのだ。その理由は特に支団長と親しい訳ではないティーナには分からないが。
ティーナが静かに廊下を進んでいると、手前の部屋の扉が突然内側に開いた。
中から出て来たのは、どこか少年らしさが抜けきらない顔立ちの金髪の騎士だ。名前をキックスと言って、ティーナと同期の——しかしここでの生活歴は2年先輩の顔馴染みである。
とはいえ、この砦には80人ほどしか騎士はいないので、大体みんな顔馴染みではあるのだが。
「お、ティーナじゃんか。おはよう」
「おはよう、キックス」
目の前の青年に挨拶を返しながらも、朝早いこの時間帯に彼と出くわす事に違和感を覚えた。
「どうしたの? もう少し眠っていても遅刻しないわよ。今日は随分早起きじゃない」
グレイルほどではないにしろ、ティーナも早起きの方だ。あと30分もすれば他の騎士たちが一斉に起き出してくるので、寝癖をつけた男たちで宿舎が騒がしくなる前にと、早めに身支度を済ませるようにしているのである。
対してキックスは朝が弱かったはずだが……。彼はティーナの言葉に、あくびと共に返事をした。
「俺、夜勤だったんだよ。これからメシ食って寝んの」
「ああ、それで。あなたの隊、昨夜は国境警備だっけ?」
「そうそう。相変わらず暇だった」
北の砦の騎士たちに課せられる主な任務の一つは国境警備だ。とはいえ、この地域に隣接する国とは近年では大きな争いもないし、今まで不法入国者などを見かけた事もない。
なぜならこの地域と隣国との間には、雪の精霊が住むスノウレア山を中心とする山脈が横たわっていて、国境を越えるのが難しいのだ。
どれもこれも標高の高い雪山なので、冬は言わずもがな、夏ですら雪が残って遭難や凍死の危険が非常に高い。過去、隣国から不法に入国しようとする者もいたのかもしれないが、彼らはきっと砦の騎士たちに見つかる前に、山奥で命を落としているのだろう。
夜通しの国境警備というのは、暇すぎて逆に辛い任務の一つだった。
その他の任務には、周辺の町の見回りもある。ただ巡回して住民たちの生活を見守るだけでなく、冬には飢えて人里に降りて来た獣を退治したり、除雪を手伝ったりというのも仕事のうちだ。
そしてスノウレア山の麓の巡回、警備も大事な任務の一つ。
強大な力を持つ精霊は、普通の人間だけでなく、欲を持った人間にもとても魅力的に映るらしい。
スノウレア山には純粋に精霊に祈りを捧げにくる地元住民だけでなく、精霊の力を自分のものにしたいと、邪な考えを持って訪れる者も少なくないのだ。
もっとも、そういう人間が山を登ろうとしても、頂上付近にいる雪の精霊にまみえる前に寒さで力尽きるだろうが、それでも警備と取り締まりを怠る事は出来ない。
何故なら雪の精霊スノウレアは、人間に手を貸し、この国を守ってくれる有り難い存在で、国王からも国境警備よりスノウレア山の警備の方に力を注げと言われているからだ。
確かに、もし精霊が誰か個人や他の国に捕われる事になれば、それだけでこの国には大損害だ。特にスノウレアほど人間に協力的な精霊はいないから。
よくも悪くも、精霊というのは非情だ。基本はあまり人間の事に干渉はしない彼らの中で、スノウレアの存在は大きい。
ティーナは精霊を見た事がないが、噂に聞く雪の女王は息を呑むほどの美貌だと聞く。
そんな風に人間を超越した存在に一度会ってみたいと思っているのは、ティーナだけではないだろう。仲間の騎士たちは皆、よく冗談まじりに「どれだけの美女か見てみたい」などと話しては盛り上がっていたから。
「これから食堂へ行くなら、一緒に行きましょう」
ティーナが聞くと、キックスは軽い調子で「おう」と頷いた。
二人で早朝の食堂に入ると、人はまばらだった。ティーナにとってはいつもの光景だが、キックスは「席を確保すんのが楽だな」などと呟いている。
かと思うと、ふと足を止めて急に怪訝な顔をし出した。彼が意外に鋭い観察力を持っているのはよく分かっているので、ティーナも素早く周囲を見回す。
確かに、何だかおかしい。中で朝食をとっている仲間の騎士たちの視線が、ある一方向に吸い寄せられているのである。
パンやスープを口に運びながら、だらしなく顔の筋肉を緩めて何かを見つめている。
「なんだ、気持ち悪いな」
キックスが明け透けに言う。ティーナも同じ気持ちだった。
が、彼らの視線を辿って納得する。
「あ! 昨日の……ミルちゃん!」
食堂の端の方では早朝の鍛錬を終えたらしい副長グレイルが食事をとっていたのだが、その足下に白いふわふわした毛玉が見えたのだ。
近づいていくと、その毛玉にはちゃんと耳や尾があって、少し丸っこい子ギツネだという事が分かる。
ティーナはほんわかした気持ちになった。あの可愛らしい生き物を目に映すだけで、癒し効果が凄まじい。もう食堂にいる他の騎士たちのにやけ顔を気持ち悪いとは言えない。
「ミル? ……ああ、噂の子ギツネか。ってか、何で中にいるんだ? そして何で副長に懐いてんの?」
昨晩の一件を知らぬキックスに事情を——野犬に襲われた事、そして元々ごはんをあげていた副長が部屋で保護する事になったという事まで——説明しながら、グレイルと子ギツネの元へ近づいていく。
子ギツネはもう自分のごはんを食べ終えていたらしく、空になった皿を名残惜しそうに舐めていたのだが、ティーナたちの接近に気づくと慌ててグレイルの長い足の陰に隠れた。
「ミルちゃん、私だよ〜。昨日会ったの覚えてない?」
ティーナはなるべく優しい声を出した。
すると子ギツネは耳をぴくぴくと動かし、恐る恐るといった様子でグレイルの足の後ろから顔を覗かせた。
その姿にティーナはうっかり鼻血を出しそうになった。きっと食堂にいる他の面々も同じだろう。
子ギツネの小さな足が、グレイルのブーツに包まれた足の甲をさりげなく踏んでいるのがたまらない。本人はこっちに注意を向けていて、踏んでいる事に気づいていないのだろう。
「名前を付けたのか?」
子ギツネを前に鼻息を荒くしていたティーナは、グレイルの至極冷静な声にハッと我に返った。
彼もすでに食事を終えて、こちらに向き直っている。
「お、おはようございます、副長! すみません、騒がしくして」
「おはようございます、副長」
ティーナは慌てて、キックスはいつも通りグレイルに挨拶をした。
「あの! 名前……っていっても、敷地内でその子を見かけるようになってから、勝手に私が心の中で呼んでただけのものなんです」
冷や汗をかきながら弁解する。別に名付け親になろうと思っている訳ではないのだ。
キックスが不思議そうに言った。
「なんでミル?」
「単純で説明するのも恥ずかしいんだけど……ミルクみたいに真っ白だからミルちゃん……」
顔を赤くしながらティーナが言うと、
「そういえば名前を付けるのを忘れていたな。覚えやすいしミルでいいんじゃないか? な、ミル?」
グレイルがあっさりと許可を出し、子ギツネもしっぽを振ってそれを承認した。気のせいか目が輝いて、喜んでいるように見える。
「いいんですか? 私が考えた名前で……。う、嬉しいです」
「でも副長、この間はその子ギツネに餌あげてたなんて言ってなかったじゃないですか。なに密かに餌付けしてるんすか。ずりー」
「訊かれなかったから答えなかったまでだ」
「そのコは北の砦のアイドルなのに独り占めしてー。ずりー。やらしー」
キックスの良い所は、誰にでも物怖じせず接するところだ。しかし悪い所もまた同じ。
副長に「夜勤明けに稽古をつけられたいのか」と凄まれて、やっと大人しくなった。が、懲りてはいない。明るい声を出して子ギツネを呼んだ。
「おいで、ミルー!」
遠慮なく近づいてくるキックスに対し、子ギツネは再びグレイルの足の後ろへ隠れてしまう。
「もう。怖がらせちゃ駄目よ」
「あまり大きな声を出すな」
ティーナとグレイルが同時にキックスに注意する。
「すみません……でも俺も触りたい。すげー触り心地よさそう」
キックスは少年のような顔をして、しゃがんだまま子ギツネをじっと見つめている。
そして子ギツネはその視線を感じて、さらに縮こまってしまっていた。ドキドキという心臓の音が、こちらにまで聞こえてきそうだ。
「ミルちゃんと仲良くなりたいなら、時間をかけなきゃ。私だってまだ気を許してもらってないんだからね」
ティーナが少し寂しそうにそう言うと、子ギツネがまたひょっこりと顔を出し、ティーナの方を見て言い訳するようにきゅんきゅんと小さく鳴き始めた。
しかし子ギツネが何を訴えているのかは分からない。分かるのは、子ギツネの鳴き声も可愛いという事だけだ。それは間違いなかった。
それからしばらく話を続けていたティーナたちだったが、だんだんと食堂に人が増え、それにつれて子ギツネが緊張を高め始めたところで、グレイルが席を立った。
「そろそろこいつを……ミルを部屋に戻してくる。まだ人に囲まれるのは慣れないだろうしな」
グレイルが食器をカウンターに返しに行くと、子ギツネも慌ててその後を追って行った。グレイルにくっついていないと不安なのか、短い足を必死に動かしているのが可愛らしい。
カウンターの所で料理長に「メシは美味かったか?」と声をかけられた子ギツネは、その野太い声に少々腰を引きつつも、「きゃん」と甲高く鳴いた。
「すごい、返事してるみたい」
「自分に話しかけられてるって、何となく分かるんじゃね?」
それを見ながらティーナとキックスが感想を漏らす。二人は朝食をとるためここに残るが、グレイルは食器を返して料理長と短い会話を交わすとすぐに食堂を後にした。
カウンターから出入り口の方まで食堂を突っ切って行くと、増え始めた騎士たちの注目を浴びる。キックスとは違って皆心得ているので、静かに見守っている感じだ。
子ギツネは、娯楽も楽しみも少ないこの北の砦の、大いなる癒しになりつつある。子ギツネを見ている男どもの、とろけきっただらしのない顔を観察して、そうティーナは思った。
雪に閉ざされたこの地には、いつもどこか寂しく陰鬱とした空気が流れていたが、今年の冬はきっと違う。
グレイルを追いかける子ギツネを見ているだけで、すでに皆心和んでいるのだ。ちょこまかと一生懸命動く姿に、食堂の雰囲気も明るくなる。
しかし子ギツネが必死で自分の後を追ってくるというのに、歩調を緩めるだけで決して抱き上げたりしないあたりがグレイルらしいとティーナは苦笑した。
自分だったらきっとどこへ行くにも抱っこしてしまうが、それでは子ギツネのためにもならないのだ。いずれは自然に帰さなければならないと分かっているからこその、グレイルの厳しさであり優しさなのだろう。
「ところで、支団長はこの件知ってんの?」
グレイルと子ギツネを見送りながら、キックスが言う。
「副長がもう話を通しているんじゃないの? まだだとしても今日中に報告されると思うわよ」
「ふーん、『氷の支団長』があの子ギツネを見た時の反応、見てみたいなー、俺」
キックスはにやりと笑って言った。




