番外編「村の授業」
挿絵があるので、苦手な方は非表示にしてご覧ください。
絵日記と違ってイラスト見なくても問題ないです。
ニコライは、スノウレア山のほど近くにある村に住んでいる男だ。黒い髪に眼鏡をかけているというくらいしか特徴がないが、優しそうとはよく言われてきた。
そして今は生まれたばかりの息子と妻、妻の両親と一緒に、この田舎の村の小さな家で幸せな生活を送っている。
ニコライは植物学者で若い頃は王都にいたが、寒い地域の植物を調べるためにこの村にやって来て、妻と出会って結婚し、この地に永住する事にしたのだった。
そして妻と結婚してからほどなくして、ニコライは村の子どもたちを集めて授業をするようになった。村には学校がないので、広場に子どもたちを集め、字の読み書きからお金の数え方、この国の歴史、専門である植物の事まで、色々な事を教えている。
長い冬の間は広場は雪に埋まってしまうし寒すぎるので授業は行えないが、夏の今なら子どもたちも凍えずに学ぶ事ができる。
「おはよう、みんな」
「先生、おはよーございます!」
「今日はたくさん参加してくれているね」
ニコライは芝生の上に座っている子どもたちを見て言った。授業は自由参加なので家の手伝いがある時は来られない子もいるが、今日は村の幼い子どもたちがほぼ全員――十五人ほど参加している。
一番上は十二歳で一番下は二歳だが、二歳の子は姉についてきただけで授業の内容はまだちゃんと理解できないだろう。
「じゃあ始めるよ。最近は過去の王様の話をしていたけど、今日は現在の国王陛下の話をしようか」
「はーい」
国王の人となりや政策、これまでに成した事などを、なるべく簡単な言葉で分かりやすく説明する。たまに寝てしまう子もいるが、ニコライの授業はおおむね子どもたちに好評だった。みんな新しい事を知るのが楽しいというようにキラキラした目でこちらを見てくるのだ。
(可愛いなぁ)
ニコライは子どもが好きだった。この村の子どもたちはすれていなくて、特に純粋な気がする。
にこにこしながら授業をしていると、子どもたちがいる後ろの方の草陰に、白い影が見え隠れしている事に気づいた。ここからは少し遠いので何なのかはっきり分からないが、動物だろうと思う。
(猫かな? それとも犬? イタチやウサギにしては大きいし、それに彼らは今は夏毛だから茶色いはず)
一瞬見えた耳の形からしてやはり犬のようだ。危険な野犬だったら子どもたちを避難させなくてはならないが、草の間からそうっと覗いてくる顔を見るに、どうやら子犬らしい。とても脅威にはなりそうもない平和な顔立ちをしている。
(どこかの飼い犬かな?)
授業を続けながら、そう予想をつける。あの顔は人に愛される事を知っている顔だ。野犬はもっと鋭い目をしているから。
子犬はすぐにどこかへ行くかと思ったが、草陰から顔を半分出してこちらを覗いたまま動かない。まるで子どもたちと一緒に授業を聞いているみたいだ。
(白い子犬……)
考えてみたが、村の中で最近飼い犬が子どもを産んだという話は聞かない。
(隣村から来たのか? でもまだ親離れしているとも思えないけど……迷子かな)
子どもたちに、余談として国王と王妃は仲のいいおしどり夫婦であるという話をしながら、ニコライはそんな事を考えていた。
しかしその時……
「あっ!」
最初は半分しか顔を出していなかった子犬が、徐々に草陰から身を乗り出してきた。まるで授業をよく聞こうと前のめりになっているみたいに。しかしそのおかげで、ニコライは子犬の顔をちゃんと見る事ができた。
「せんせー、どうしたの?」
「あ、いや、何でもないんだ。ごめんね、続きを話そう」
子どもにそう返しながら、ニコライはもう一度ちらりと広場の後方を見た。子犬はまた草陰に戻っていて、姿は見えなくなってしまっている。
(あれは犬じゃなくてキツネだった。白い子ギツネだ……)
ニコライのこめかみに冷や汗が垂れる。緊張と興奮でだ。
(この辺りにはキツネは多くいるけど、冬でも被毛が白くならない種類のものだし、白変種がいるという目撃談を聞いた事もない。だけどさっきのは確かに真っ白な……綺麗な白銀の子ギツネだった。つまりそれは――)
――あの子ギツネが、スノウレア山を住処にしている雪の精霊である可能性が高いという事だ。
この村の人たちは精霊の存在をとても大切にしている。神より身近な存在として信仰しているといってもいいし、スノウレア山の麓には雪の精霊に酒や食べ物を捧げる祭壇が作られている。
ニコライもこの村に来てからは精霊の存在を重んじるようになった。スノウレア山には登ってはいけないと村の住民たちから言われているので、植物の調査をしたくてもそれを守っているし、スノウレア山と連なる山々に入る時も一応祭壇に酒を捧げてお伺いを立てている。
最初のうちは本当に精霊はいるのかと疑っていた部分もあるが、捧げた供物はたいてい無くなっているし、祭壇の周りにキツネの大きな足跡や女性の足跡――それにここ数年は小さな子ギツネの足跡や子どもの足跡も残っていたりするので、ニコライも信じざるを得なかった。
それに最近では、この近くにある砦に子ギツネが遊びに来ているという話も聞く。にわかに信じられない話だが、どうやら騎士たちに懐いているらしいのだ。
ニコライはそれを聞いて精霊の子どもが見られるなんて羨ましいと思っていたが、ついに自分もその子どもの姿を見る事ができた。
(なんて幸運なんだ。帰ったら妻に話そう)
その日の授業を終えると、ニコライはわくわくしながら家に帰ったのだった。
そして翌日、また同じ時間にニコライは広場で授業をしていた。昨日、雪の精霊の子どもを見たので、今日はそれに関連する話をしようと決めていた。
「今日は北の砦のお話をしよう」
ニコライはいつものように穏やかな声で授業を始める。
「村の近くにある砦の事は知っているね? あそこにはどんな人たちがいるのかな?」
「はーい! 騎士さまたち!」
一人の子どもが元気よく手を上げて答えた。ニコライは満足げに頷く。
「そうだね。砦には騎士が大勢いる」
「騎士さまはつよいんだよ!」
「それに剣を持ってる!」
「顔はこわいけど優しいんだよ。村の雪かきしてくれるもん」
「あはは、そうだね」
子どもたちは知っている事を授業で習うと嬉しくなるらしく、自分が持っている情報を次々に口に出す。
「騎士の人たちのお仕事は何か知ってるかな?」
「雪かき!」
「雪かき以外には?」
ニコライがそう尋ねた時、広場の後方の草陰にまた白い影が見えた。
今日もあの子ギツネが来ているのだ。顔を半分出してこちらを覗き、耳をそばだて授業を聞いている。
ニコライは昨日と同じように興奮し、そして少し緊張しつつ先を続けた。子どもたちにも精霊を見せてあげたい気持ちはあるが、彼らは子ギツネに気づくと大騒ぎするだろうし、そうなれば子ギツネはもうここに来てくれないかもしれないから、子どもたちに気づかれないようなるべく平静を装って。
「騎士の仕事は国を守る事だよ。彼らは、僕らや僕らの生活を守ってくれているんだ」
「悪い人がいたら捕まえてくれるんでしょ?」
「そうだよ。だから僕たちは安心して暮らせるんだ。それに彼らは精霊の事も守ってる。騎士たちがスノウレア山の見回りをしているのを見た事ないかい?」
「なーい」
「わたし、あるよ!」
話の合間に、ニコライは子どもたちに向けていた視線を一瞬草陰に向けた。白い子ギツネはいつの間にか草陰の中から出て来ていて、もふぁっとした大きなしっぽまで見る事ができた。
「先生! ぼくはおじいちゃんとスノウレア山に行った事あるよ。祭壇に行ったんだ」
「わたしも行ったことある!」
「でもぼくは精霊さまの足あとも見たもん!」
「わたしも見た事あるもん!」
ニコライが子ギツネに気を取られている間に、子どもたちの話は違う方向へ進んでいた。なのでニコライは騎士の話は一旦置いて、精霊の話をする事にした。〝本人〟が来ている前で精霊の事を語るのは少し緊張したが……。
「スノウレア山にいる精霊は、何の精霊だったっけ?」
「雪!」
子どもたちのほとんどが同時に声を上げた。
そして後方では白い影がじりじりと近づいてきている気がしたのでニコライがさっとそちらを向くと、こちらに歩いてきていた子ギツネはピタッと立ち止まる。まるで止まっていたら見えていないという独自のルールが存在するみたいに。
ニコライはそのルールに従い、気づいていない振りをしてすぐに視線を外した。
「えっと……じゃあ雪の精霊はどんな姿をしているか知っているかな?」
「キツネだよ!」
「白いキツネ!」
「でも人にもなれるんだよ!」
身近な雪の精霊の事は子どもたちもよく知っているようだ。親から教えられているんだろう。
「そうだね、白いキツネの姿でいる時もあるし、人の姿でいる時もある。人の姿の時はとても美しい女性の姿をしているらしいよ。それに精霊の子どもも……」
そこまで話してまたちらっと子ギツネの方を見た時、ニコライはビクッと肩を揺らした。
子ギツネがさっきより近くにいたからだ。
(徐々に近づいて来てる……)
子ギツネは子どもたちの二メートルほど後ろまで迫っていた。精霊はあまり人間とは接触しないと思っていたのに、何のつもりなのだろう? まだ子どもだから警戒心が薄いのだろうか?
ニコライはそんな事を考えながら、ドキドキしつつ授業を続ける。
「ええと、精霊の子どもも人間の子どもの姿になれるんだ」
「先生、見たことあるの?」
「僕はないよ」
子ギツネ姿の精霊の子どもなら、今そこにいるけれど。
「だけど村長さんが騎士の人からそういう話を聞いたんだって」
「ふぅん」
ニコライは子ギツネをちらちら気にしつつ授業に集中しようとする。
「みんなは、雪の精霊のスノウレアはどれくらい生きているか知ってるかな?」
そう質問すると、子どもたちは一斉に「はい!」「はい、知ってる!」と元気に手を挙げた。
「うん、それじゃあ誰に答えてもらおうかな」
子どもたちを順番に見たニコライだったが、一番端まで目をやってぎょっとする。
そこに子ギツネがちょこんと座っていたからだ。
さらに人間の子どもたちと同じように、一生懸命手を挙げている。
(ええ~!?)
ニコライはとても動揺した。まさか精霊に授業に参加されるとは思わなかった。自分の母親の年齢を問う質問だったから、「知ってる!」とばかりに思わず手を挙げてしまったのだろうか。
一番端にいる子ギツネの隣はメーリャという二歳の女の子で、こくこくと船を漕いで寝ているので自分の隣に白い毛玉が出現している事には気づいていない。その他の子たちもニコライの方を見ていて、子ギツネに視線をやっている子はいない。
まさか子ギツネを当てるわけにもいかないので、ニコライは子ギツネから遠いところにいる男の子を当てた。
「え、ええっと……じゃあヘンリク、答えてくれるかな?」
子ギツネは残念そうに手を下ろし、ヘンリクの方を見る。
ヘンリクは大きな声で答えた。
「千年!」
「千年かぁ、それは長生き過ぎるかな。精霊はそれくらい生きるのかもしれないけれど、スノウレアはもっと若いようだよ」
ニコライがそう言うと、子どもたちはまた一斉に「はい!」「はい!」と手を挙げる。もちろん子ギツネも。
しかもニコライが自分に気づいていないと思っているのか、可愛らしい声で「せんせー!」と小さく呼んでアピールしている。どうやら人の言葉も喋れるらしい。
しかし幸いにも、その声は人間の子どもたちの声に混じって目立たなかった。
「えっと……じゃあ、アニヤ」
ニコライがアニヤという女の子を当てると、子ギツネはまた残念そうに手を下ろし、アニヤの答えを聞こうとそちらに顔を向ける。
「はい! 百年だと思います!」
残念ながらアニヤの答えも違ったので、ニコライはもう正解を言う事にした。このまま子どもたちに答えさせていたら、そのうちみんな手を挙げている子ギツネの存在に気づくんじゃないかと思ったからだ。
「残念、スノウレアはおよそ三百年ほど生きていると言われているよ」
ニコライの言葉に、子ギツネが小さく二度頷いた。どうやら答えは合っていたようだ。
ニコライが何となくホッとした時、空からポツポツと雨粒が降ってきた。
「おや、雨だ。向こうの空も暗くなっているね」
子どもたちが風邪を引いてはいけないし、本格的に降り出す前に家に返した方がいいかもしれないと考える。
子ギツネも鼻先を天に向けて空模様を気にしていた。
「今日の授業はここまでにしようか。大きい子は小さい子を家まで送ってあげてね。手を繋いで帰るんだよ」
ニコライがそう指示すると、兄弟でも兄弟でなくても大きい子どもは小さい子どもと手を繋ぎ、一緒に広場を出て行く。
「先生、さようならー!」
「はい、また明日ね」
手を振る子どもたちにニコライも手を振って応える。
そして広場には、子どもたちの後ろ姿を見送るニコライと子ギツネだけが残った。
子ギツネはお座りしたまま、仲良く手を繋いで帰っていく子どもたちを羨ましそうに見ている。
(精霊は、兄弟とかいないのかな……)
確か精霊は一人しか子を持たないという話を何かの本で読んだ事がある。おそらくここにいる子ギツネも一人っ子なのだろう。
(そういえばこの子に名前はあるんだろうか?)
ふとそんな事を考える。ニコライは文系の気弱な男なので、優しい人たちだとは分かっていても、砦のいかつい騎士たちに気軽に話しかける事はできず、彼らがこの子ギツネを何と呼んでいるのか知らなかった。
ニコライたち村人は『雪の精霊の子』などと呼んでいるが、騎士たちもそうなのだろうか。何か可愛い名前があるといいのだが……。
そんな事を考えて子ギツネの丸い後頭部を見ていたら、ふと子ギツネが振り返った。
「あ」
声を漏らしたのはニコライだ。
子ギツネは自分のすぐ後ろにニコライがいた事にびっくりした様子で少し毛を膨らませると、我に返って警戒心を取り戻し、急いで草陰に走っていく。
「あ、待って……!」
授業に参加して挙手までしていたのに今さら慌てて逃げても遅いのではないかと思いつつ、ニコライは子ギツネの後を追った。
あのふわふわでモフモフな子ギツネを、もう少し見ていたいと思ったのだ。
子ギツネはニコライが追ってきている事に気づくと、草の中を跳ねるように駆けて、村の真ん中を通っている道まで飛び出た。この道を右に進むと、北の砦やスノウレア山に行く事ができる。
「ちゃんと戻れるかな……」
あまり追いかけても怖がらせてしまうかと、ニコライは広場を出ずに足を止めた。子ギツネはちゃんと右に曲がって走っていったので少し安心する。
と、その道の先で、見回りに来たらしい砦の騎士たちが馬に乗ってこちらに近づいて来ているのが見えた。
遠目に見ても、騎士たちは体も大きくて強面だ。だからこそその辺の山賊より強そうでとても頼りになるのだが、やっぱり少し威圧感がある。
(本当に子ギツネは砦の騎士たちに懐いているのかな?)
『いかつい騎士たち』と『小さな子ギツネ』という生物として大きな差がある二組の距離が近づいて行くのを見ながら、ニコライはハラハラした。
精霊の子が砦に遊びに来ているという噂は聞いていたものの、実際に彼らが仲良くしているところは見た事がないのだ。
しかしニコライの心配は必要なかったようで、子ギツネは騎士たちが道の先にいると気づいても逃げたりせず、そのまま走っていく。なんとしっぽを振りながら。
そして騎士たちも子ギツネに気づいて驚いたように言った。
「ミル! こんなところで何をしてるんだ?」
先頭にいた隻眼の騎士が馬を降り、パタパタとしっぽを振る子ギツネを抱き上げる。精霊に対して失礼だが、ちょっと離れたこの距離から子ギツネを見ると、もう本当に白い毛玉にしか見えない。全体的に丸い。
「村の……、せんせーが……じゅぎょう……」
子ギツネの小さな声はニコライのところまで届かなかったが、途切れ途切れには聞こえてきた。
「ミルちゃんか……」
ニコライは、騎士が子ギツネをそう呼んだ事を思い出して呟いた。精霊の子にもちゃんと名前があったようだ。
「よかった。名前がないと寂しいもんね」
仲のいい騎士たちと子ギツネを見ながら、ニコライは笑って言った。
ミルという名の子ギツネが、また授業に来てくれるといいなと思いながら。




