懐く
うーん、暑い……。
なんでこんなに暑いんだ。今は真冬でしょ?
不快だ。とんでもなく不快だ。
眉間にしわを寄せながら、ゆっくりとまぶたを持ち上げる。
あれ? 私寝てた?
そうして意識を覚醒させた瞬間、私は緊張に身を固めた。
今、私は談話室のような見慣れない部屋の中にいる。ゆらゆらと揺れる暖炉の炎で、室内は落ち着いたオレンジ色に染まっていた。
暑くて不快だったのは、すぐ近くに暖炉があるせいだったらしい。
しかし緊張しているのは、その炎のせいじゃない。
ソファーに座っている誰かの膝の上に、私の体が乗せられているからだ。
私の冷えた体は大きなタオルに包まれていて首くらいしか自由に動かせなかったが、顔を上げなくても匂いで分かる。今私を抱いているのが、全く知らない人間だって事は。
少なくとも、私を池から救い出してくれた隻眼の騎士じゃない。
タオル越しに、体の下に感じる見知らぬ人間の体温。私は本能的に息を潜めていた。この人が誰だか分からなくて怖い。起きているとバレたくない。
しかしそこで、私の鼻がむず痒さを訴えてきた。その訴えを無視する事が出来ず、あっけなくクシャミをこぼす。
「……っくしッ!」
「あら、起きたのかな?」
頭上から降ってきたのは、聞き覚えのない声。
けれどその声が男性のものではなく、優しそうな女性のものだったので恐怖は若干和らいだ。そういえば匂いも、少し甘くていい香り。
私は首をひねって、ちらりと頭上を見た。
「や、やだ……! 上目遣い、可愛い! どうしよう!」
私を膝に乗せていたのは、制服をきっちりと着こなした女性騎士だった。ミルクティー色の長い髪をポニーテイルにしていて、凛とした美しさと乙女のような可愛らしさの両方を兼ね備えた顔立ちをしている。
ここに来てから女性の騎士なんて初めて見た。
「寒くはない?」
女性は気遣うように私の背を撫でた。タオル越しだけど、知らない人に触られて毛が逆立つ。別に気持ち悪いとかそういう意味ではない。警戒とか、緊張でだ。
人間の私なら可愛い女の人に触られるのは大歓迎、と言いたいところだけど、このキツネの体はそうでもないらしい。女性騎士は穏やかで優しそうに見えるけれど、やっぱり知らない人だから、その膝の上で寛ぐのには抵抗がある。
思わず膝から飛び降りて部屋の隅に逃げ出したい衝動に駆られたけど、そんな度胸すらなくて、私はただ彼女の膝の上で体を石のように固くした。
隻眼の騎士はどこにいるんだろう。
目だけを動かして室内を探ってみるが、談話室には私と女性騎士以外に人の気配はない。この談話室を普段使っているであろう多くの騎士たちの男っぽい匂いは残っているけれど、いくつか置かれてあるソファーは全部からっぽだ。
心臓をバクバクさせて、女性騎士が私を解放してくれないかと祈っていると、その緊張が相手にも伝わったらしい。
心配するように声をかけられた。
「お願いだからそんなに怖がらないで。心臓が破裂しちゃいそうじゃない。私はあなたに危害を加えたりしないわ」
背中に置かれた手を伝って、早過ぎる心臓の鼓動が彼女にも感じられたようだ。
女性らしい柔らかな声は安心感を与えてくれるし、頭では彼女の言っている言葉の内容を理解できる。
けど、本能は簡単には人間に気を許さない。
知らない声、知らない匂い、知らない人が怖い。
警戒を続けろと訴えてきて、私の体を強ばらせる。
それに今は、すぐ近くにある暖炉の炎も気にかかるのだ。
今世で火に接したのは初めてだが、どうやら今の体とは相性が悪いらしい。人間にとっては温かいと感じる距離でも、私には暑すぎて少し苦痛だ。
女性騎士は冷えた私の体を温めようとしてくれているんだろうけど、正直このまま暖炉の前で炎にあたっているなら、雪の浮かぶ池の中に戻った方がマシだ。暑い!
私は耐えきれず、タオルの拘束から無理矢理抜け出して床に降り立つと、急いで暖炉の前から遠ざかった。
「あっ……」
女性騎士は私を目で追った後、残念そうに自分の膝の上のタオルの抜け殻を見た。
「おいで。そっちは寒いでしょう?」
いやいや、寒くはない。
体はまだ濡れているが、雪の精霊がこれくらいで風邪を引くとは思えないし。
私は小さな体を犬のようにブルブルッと震わせて、ボリュームダウンした生乾きの毛皮に空気をまとわせた。しかしタオルに包まれたまま寝ていたせいで変な癖がついている。自慢のモフ毛が……!
まぁ完璧に乾いたら、きっと元の『もふぁっ』っと感も戻ってくるだろう。
「おいで」
古い板張りの床に座り込み、自分の前足を一生懸命舐めて毛繕いしていると、女性騎士が立ち上がってゆっくりとこちらに近づいてきた。
私を怖がらせないようにだろうか、その足取りはとても静かだったが、しかし見上げるほど大きな人間に近寄って来られては逃げ出さずにはいられない。
女性騎士は身長が特別高いという訳ではないが、子ギツネな私にとっては人間は皆でかいのだ。
私は慌てて部屋の隅の暗がりに逃げ込んだ。女性騎士は困ったような、ショックを受けたような顔をして言う。
「私、そんなに怖い?」
悲しげに垂れた眉尻に少し罪悪感を覚える。
ごめん、ごめんよ。けど、あなたが怖いんじゃなくて、知らない人間が怖いんだよ。
背後の壁に背中をくっつけて縮こまっていると、女性騎士はそれ以上近寄って来なかった。
「でも野生の子ギツネだもんね。人に慣れてないのは当たり前か」
彼女は少し離れた所でしゃがんで視線を低くし、「怖くないよ〜、ナデナデするだけだよ〜」と言いながら指を動かし、私を誘う。
けれど固まるばかりで一向に動かない私を見て、作戦を変える事にしたようだ。
「やっぱり懐いてもらうには、警戒心をほぐすような美味しい食べ物が必要かな」
そう呟いて立ち上がった。
と同時に、談話室の少し重そうな木製の扉が開かれ、廊下から一人の男性が入ってくる。
灰色の短い髪に、顔の左側を走る大きな傷跡。
部屋に入ってきた男性が隻眼の騎士だと分かった瞬間、私は全身の力が抜けそうなほど安堵していた。自分でもびっくりの安心具合。
相手が綺麗な女の人とはいえ、見慣れぬ部屋で見知らぬ人と二人きりという状況に、私は思ったよりも緊張していたらしい。
女性騎士は振り向いて、しゅんとした顔で隻眼の騎士に話しかけた。
「副長、やっぱりこの子、人間が怖いみたいです。私でも駄目です」
「……そうか。荒っぽい男よりはと思ったが、動物には人間の性別は関係ないのかもしれないな」
二人は部屋の隅にいる私の方を見ながら言った。私は隻眼の騎士に助けられたはずなのに、なぜ目を覚ましたら見知らぬ女性騎士に世話されているのかと思ったが、それは彼なりの配慮だったのかもしれない。
「独り立ちできるまでうちで保護しようかと思ったが、これだけ怯えているようだと逆に可哀想だな。やはり外に出してやった方がいいのかもしれない」
「でも、また野犬に襲われたりしたら……! そうだ、副長はこの子にごはんをあげてらしたんですよね? 今日初めて会った私よりは心を許しているんじゃないでしょうか」
「……いや、そうでもないだろう。食べ物につられていただけで、俺自身に気を許してくれていた訳ではない」
隻眼の騎士はあまり変化のない表情で、しかし少し寂しそうに言った。
確かに私は美味しそうな食べ物につられていたし、隻眼の騎士に完全に懐いていた訳でもなかった。
けれど今は違う。
彼が私を傷つけるような事はするはずないと確信している。なぜなら、隻眼の騎士は冷たい池に飛び込んで、私を助けてくれたんだから。
私の命を救ってくれた人に対して、「私に危害を加えるのでは?」と疑うのは何だか矛盾していておかしいもの。
元々、彼は悪い人間には見えなかったけど、今回の一件で一気に信頼が増した感じだ。私の中の動物らしい警戒心も、隻眼の騎士に対してはほとんど無くなっている。
私はタタタッと軽い足音を響かせながら小走りで女性騎士の横を通り抜け、扉の近くにいた隻眼の騎士に近寄った。
一瞬、彼が緊張したように身じろいだ気配を感じたけど、気にせずその足下に鼻先を寄せる。池に入った後に着替えたのだろう、ズボンやブーツは乾いていて、水の匂いもしなかった。するのは、嗅ぎ覚えのある安心する匂いだけ。
思わずしっぽが揺れた。
「……気を許してくれた訳じゃないとか言って、普通に懐いてるじゃないですか! 副長ずるいです! 羨ましい!」
後ろから、悶えるような女性騎士の声が聞こえた。
「いや……餌をくれると思っているだけだろう……」
隻眼の騎士はそう言いながらも、自分の足下で嬉しそうにしっぽを振る私に驚いているようだった。声が動揺してる。ごはんやジャーキーを持っていない時に、私から彼にここまで近づいたのは初めてだもんな。
池から助け上げられた時に抱きかかえられているから、もうあの無骨な手もそんなに怖くない。一度触れてしまえば、なんて事はなかった。
隻眼の騎士の大きな手は、私を叩いたりしない。逆に守ってくれるものだ。
毛が生乾きなせいで『毛玉感』が半減しているしっぽを揺らしながら、頭上高くにある彼の目を見つめる。ちょっと首が痛い。
隻眼の騎士はそんな私の姿をしばし呆然と眺めた後、はっと気がついたように自分のズボンのポケットを探った。
中から布に包まれたジャーキーを取り出し、納得がいったようにそれを差し出してくる。しゃがんでくれたので顔が近くなった。
「そうか、この匂いに反応して寄って来たんだな」
ほほ笑みを滲ませながらも、少しがっかりしたように隻眼の騎士は言う。
しかし差し出されたジャーキーの匂いは、私の食欲をそそらなかった。今はお腹が空いてないから。
それより食べ物の事しか頭にないと思われているのが心外だ。私はジャーキーの匂いにつられて近寄ったわけじゃない。
隻眼の騎士の側なら安心できると思っただけなのだ。それに助けてもらったお礼も言いたかった。
ちらりと見ただけで一向にジャーキーにかじり付こうとしない私を、隻眼の騎士は不思議に思ったようだ。「どうした? これが好きだろう?」と、匂いを確認させるように何度も鼻先にジャーキーを持ってくる。
もういいよ! 分かってるよ、それが美味しいジャーキーだってことは!
私はその度顔を背け、ジャーキーではなく隻眼の騎士を見つめた。
「副長……その子食べ物につられてるんじゃないですよ。やっぱり副長に懐いてるんですよ」
後ろから女性騎士が声をかけてくる。
そうとも、この鈍い男にちゃんと説明してやって。
「だが、今朝まではこれほど懐いてなかったぞ。どうして急にここまで近づいても平気になったんだ?」
「さっき副長に助けられた事、きっとその子もちゃんと理解してるんですよ。ありがとうって言ってるんじゃないですか?」
よくぞ私の気持ちを代弁してくれた、女性騎士!
さっきは助けてくれてありがとう、そう伝えたくて、私はしゃがんでいる隻眼の騎士の指先を舐めた。
この想い、伝われ! と思って一生懸命舐めた後、癖で自分の鼻もひと舐めしてから隻眼の騎士を見上げる。
彼はやっぱりしばらくは呆然とした表情のまま固まっていたが、やがて短い髪をかきあげる振りをして手のひらで顔を隠した。
しかし私は見たぞ。隠す寸前、隻眼の騎士の表情が嬉しそうに崩れたのを。レアな顔だった。
「いいなぁ、羨ましいです」
女性騎士がぽつりと言う。
彼女も悪い人じゃないと思うから、何度か会う内にきっと私も心を許せると思う。これからゆっくり交遊を深めていこうじゃないか。私の中の動物的な警戒心が解けるまで、もうちょっと待ってほしい。
「今日はもう遅い。腹は減ってないようだし、もう一度眠らせた方がいいな」
平常心を取り戻し、いつも通りの表情に戻った隻眼の騎士は、私の方を見ながらそう言った。さっきまで気を失っていたみたいだけど、言われてみるとまだ眠い。
「外は危険だ。騎士団支部の施設内といっても、お前にとっては様々な危険があるだろう。餌を求めて、今日のように野犬が入り込んでくる事も珍しくはない」
人間は私を言葉の理解できる精霊ではなく、ただの子ギツネだと思っているはずなのに、隻眼の騎士はこちらを真っ直ぐに見ながら語りかけてくれた。それがとても嬉しくて、しっぽの揺れが激しくなる。
騎士二人は私のその反応に笑いながら、「何を喜んでるんだ?」「可愛い。危険があるって言われてるのに、しっぽ振っちゃ駄目じゃない」などと楽しそうに言っている。
「とにかく、だ。人間に保護されて暮らしていく事が野生動物にとって幸せなのかは俺には分からないが、お前のように非力な子どもを外に出して、みすみす野犬の餌にさせるつもりもない。十分に成長するまで、お前の面倒は俺がみよう」
隻眼の騎士の宣言は嬉しかった。私もいつ戻ってくるかもしれない野犬が恐いし、安全な建物の中で保護してもらえるのならそっちの方がいい。
けどたぶん、ここにいられるのは、あと十日くらいなんじゃないだろうか。それくらいには母上が王都から帰ってくるはずだから。
『十分に成長するまで』、私はここにはいられない。
母上が戻ってくるのはすごく嬉しいが、その時にはせっかく仲良くなれた隻眼の騎士とお別れなのは寂しいな。
でもせめてそれまでは彼の厚意に甘えさせてもらって、ここでの生活を楽しもう。
私はそう考えて、もう一度大きくしっぽを振った。




