第七十一話:(第一部 最終話)置き手紙 (The Parting Gift)
今回で第一部は完結です。お読みいただきありがとうございました。
【免責事項】
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・事件などは、風刺を目的として創作されたものであり、実在のものとは一切関係ありません。
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俺は万感の思いを込めてペンを受け取った。 目の前には俺をこの地獄のような、しかしどこかやりがいのあった日常から解放してくれる一枚の辞任届。
PEOCの全員が息を飲んで見守っている。 ミリー議長、ハリソン首席補佐官、アシュリー、ジェームズ……。 俺の奇妙な冒険を支えてくれた仲間たち。
(……迷惑ばかりかけたな) 心の中で呟く。 (……でもこれで終わりだ)
ありがとうみんな。 さようならアメリカ。 さようなら俺の奇妙なサラリーマン人生。
俺はペンを握りしめ、 そのペン先をサインが記されるべき空白の一点にゆっくりと下ろしていった。
ペン先が紙に触れるその寸前。
ブツンと。 まるで古いテレビの電源が切れたかのように俺の意識が途切れた。
PEOCの喧騒が遠のいていく。 アシュリーの悲鳴のような声が聞こえた気がした。 ジェームズの「閣下!」と叫ぶ声も。
だがもうどうでもよかった。 俺の魂が身体からふわりと浮かび上がる。 そして暖かく懐かしい光の中に吸い込まれていく。
(……ああやっと帰れるんだ……) (……やっと終わるんだ……)
俺は満足してその白い光の中に意識を完全に手放した。
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…………。
……音が聞こえる。
……光が見える。
意識が浮上する。 ここはどこだ? PEOCか。そうだ私は部下の報告を聞いていたはずだ。 ロシアとの厄介なプロジェクト。 あの佐藤という使えない部下が何かやらかしたのではなかったか……?
私はゆっくりと目を開けた。 視界に見知らぬ天井が映る。 そして心配そうな顔で私を覗き込む何人もの外国人たち。
「閣下! お気づきになられましたか!」 「大統領! ご気分は!」
大統領……? 何を言っているんだこいつらは。 私はただの部長だぞ。
私はゆっくりと体を起こした。 違和感。手も足も自分のものとは思えないほど重い。 そしてその手には一本のペンが握られている。
目の前のテーブルの上。 そこには一枚の辞任届が置かれていた。 サインの欄は空白。ペンはその空白のわずか数ミリ上で止まっていた。
なるほど。そういうことか。
私は全てを理解した。 あの佐藤の魂がここに来ていたのだ。 そしてあの使えない男はこの究極のプロジェクトを最後の最後の署名という一番簡単な仕事すら完了できずに投げ出して逃げ帰りおったというわけか。
……全く。どこまで行ってもゆとり世代はこれだから困る。
私は握っていたペンを静かに置いた。 そしてそのペンにゆっくりとキャップをはめた。
「……閣下……?」 執事のジェームズが怪訝な顔で尋ねる。「……辞任のご署名は……?」
私は顔を上げた。そして初めてこの新しい身体で命令を下した。それは何十年も部下たちを震え上がらせてきた声だった。
「辞任? 私がかね?」
私は心底おかしそうに笑った。
「何かの冗談かねジェームズ君」
ジェームズのいつもは穏やかな顔が初めて氷のように冷たくなった。「閣下。掟は絶対です。ご署名をいただけなければ……」
「いただけなければどうするのだね?」私は彼の言葉を遮った。「私をここから強制的に排除するかね? そして国民にこう説明するのかね?」
私はジェームズの耳元で囁いた。「『アメリカには大統領が24時間だけ独裁者になれる憲法を超えた裏ルールが存在します』……とね」
ジェームズの顔から血の気が引いていくのが分かった。奴のその常に冷静沈着な仮面の奥で恐怖が走るのが手に取るようだった。そうだろう。奴は理解したのだ。その秘密が暴露された瞬間に何が起きるかを。
もし俺がこの、合衆国建国以来の秘密の契約の存在を暴露すれば、「法の支配」と「民主主義」というこの国の建前が崩壊する。合衆国憲法を超えた権力が密かに存在したという事実は政府への絶対的な不信を生み国民を粉々に引き裂くだろう。左右の対立など生易しいものではない。隣人が隣人を憎み合う160年ぶりの内戦への導火線に火がつく。建国の父たちが血を流して否定したはずの「王政」への回帰。奴が三百年間守ってきた共和国はその理想を守るために作られた究極の矛盾によって自壊するのだ。
この男は分かっている。自分が私を排除しようとすればその引き金を引くことになるということを。国家の崩壊と目の前の暴君を天秤にかけそして選ばざるを得なかったのだ。より被害の少ない悪を。建国の理想を守るために一時的に王を戴くという屈辱を。
「……君たち一族が何百年もかけて守ってきたこの美しい『会社』……いや『共和国』は、皮肉にもそれを守り続けてきた君自身の、手によって崩壊するやもしれんな」
「……それでも良ければどうぞ私をクビにしたまえ。だがその時君は、この国の最後の『王』を自ら葬った男として歴史に名を刻むことになるだろう。それはこの国が実は大統領という名の影の王によって支配されてきたことを、建国以来のこの国の歴史が嘘の上に成り立ってきたことを証明するだろうよ」
それは完璧な脅迫だった。ジェームズは何も言い返せなかった。彼の答えは一つしかなかった。
ジェームズはゆっくりと背筋を伸ばした。そして完璧なしかし一切の個人的な感情が抜け落ちたお辞儀をした。しかしそれは降伏ではなかった。共和国を守るための戦略的撤退。そして新たな水面下の戦いの始まりを告げる合図だった。
「……承知いたしました。ミスター・プレジデント」
その一言に全ての意味が込められていた。
無論私はその全てを理解したうえでその答えに満足した。ビジネスは緊張感が大事だ。そして巨大なビジネスを成功させるためには敵だけではなく身内にも緊張感が必要なものだ。 私は久しぶりに感じるこのひりひりした緊張感に、自分の口角が自然に上がってくるのを感じていた。これこそが俺の求めていたビジネスだ。生きてることを感じられないビジネスは本物じゃない。生きている限り永遠に終わらないビジネス。それこそが最高のビジネスなのだ。俺はベットで長生きしたいんじゃない、いつまでもビジネスをしていたいんだ。
私はハリソン首席補佐官に命じた。
「ハリソン君。イワノフ大統領と『司書』君をホワイトハウスに招け。第一回『全世界・統治システム・最適化プロジェクト』のキックオフ・ミーティングを開く。アジェンダは後で私が作る」
「……承知いたしました……」ハリソンはかろうじて答えるのがやっとだった。
オーバル・オフィスには新しい王が君臨した。その男は窓の外の景色を見ながら静かに呟いた。その声はもう佐藤拓也のものではなかった。
「……さて。ここからが本当の仕事の始まりだ」
【そして、日本】
目を、覚ます。 消毒液の匂い。硬いベッド。規則的な電子音。 (……病院……?) 朦朧とする意識の中、俺は自分が元の身体に戻ったことを悟った。腕には点滴の管が繋がれ、窓の外には見慣れた新宿のビル群が見える。
「佐藤さん!気がつきましたか!」 看護師の声。医師の診察。混乱。 俺は数週間、原因不明の意識不明状態だったらしい。過労による心停止。医学的にはいつ目覚めてもおかしくなかったが、これほど長く意識が戻らなかったのは異例だ、と。
(……夢……だったのか……?)
微かな、しかし、確かな安堵感が、胸に広がった。 そうだ。あれは、きっと、長すぎる、悪夢だったのだ。 ホワイトハウスも、核のボタンも、お辞儀外交も、沖縄の運動会も。 全てが、俺の、疲れ切った脳が見せた、幻。
数日後、俺は驚くほどの速さで回復し、退院の日を迎えた。 会社の総務課長が迎えに来てくれたが、彼の話す会社の近況も、どこか現実感がなかった。俺の心は、ただ一つ。「日常」に戻れた喜びで、満たされていた。
タクシーで、懐かしい新宿のワンルームマンションに帰り着く。 六畳一間、家賃7万円。俺の城。 ドアを開けた瞬間、埃っぽい、俺自身の匂いに、涙が出そうになった。
帰ってきたんだ。 俺の、平凡で、退屈で、 そして、かけがえのない、日常へ。
俺は荷物を放り出し、スーツを脱ぎ捨て、ベッドに倒れ込んだ。 深く、深く、安堵のため息をつく。 もう、二度と、あんな悪夢は見たくない。
その時、枕元に、一台の見慣れないスマートフォンが置かれているのに気づいた。 病院から持ち出した俺の私物には、こんなものはなかったはずだ。誰が、いつ? 不審に思いながらも、俺はそれを手に取った。
電源を入れると、壁紙にはホワイトハウスのオーバル・オフィスが映っていた。 心臓が、嫌な音を立てた。
そして、メッセージが一件だけ届いていた。 送信元は不明。
『佐藤。貴様の、尻拭いの件だが。』
俺は息が止まった。 この用件から入る一切の無駄を削ぎ落とした威圧的な書き出し。そして表題にも入れる文末の「。」、そして部下がやった大凡のことについて「尻拭い」と断じる容赦のなさ。 間違いない。このメールは。 俺が会社で最も恐れそして尊敬していたあの伝説の営業部長が書いたものだ。
『君が投げ出したプロジェクトだが後始末は全て私がやっておく。』
『君は君の場所でせいぜい会社の歯車として精を出したまえ。』
『追伸: 君が気に入っていた例のクライアント(司書)との銀座での会食だが。 あれは私が代わりに行っておく。心配には及ばん。』
『――部長より。』
俺は全てを悟った。
夢じゃ、なかった。 俺は、帰ってきた。 だが。
あのサラリーマンが今度はあっちに行ってしまったのだと。
俺は叫んだ。 日本の、自室の、片隅で。
「……嘘だろおおおおおおおおおおおおっ!」
(第一部 完)
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最新話は明日の11時10分更新予定です。




