第二十九話:交渉決裂 (Negotiations Have Failed)
【免責事項】
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・事件などは、風刺を目的として創作されたものであり、実在のものとは一切関係ありません。
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特殊部隊の兵士――イワンと名乗るには、あまりに無名の男――は、人生で最も不可解な状況に直面していた。
彼の任務は、ただ一つ。ホワイトハウスに潜入し、アメリカ大統領を無力化、確保すること。そのために、彼は何ヶ月も訓練を積んできた。シークレットサービスの動きを予測し、あらゆる銃器をマスターし、躊躇なく人を殺せるように、心を殺してきた。
だが、彼の訓練の中に、「ターゲットが床磨き機で武装し、ビジネス交渉を仕掛けてきた場合の対処法」などという項目は、どこにもなかった。
「……動くな。武器を捨てろ」
イワンは、訓練通りに、低い声で警告した。だが、目の前の男――合衆国大統領――は、武器(床磨き機)を捨てるどころか、なぜか、さらに一歩、前に踏み出してきた。
「待ってほしい。まずは、落ち着こう」俺は、完全にビジネスモードだった。相手が銃を構えていようが、怒れるクライアントだと思えば、やることは同じだ。「君が、今回のプロジェクトの現場責任者、ということでいいかね?」
「……プロジェクト?」
「そうだ。君のチームの目的と、我々が提供できる価値が一致すれば、きっとWin-Winの着地点が見つかるはずだ。まずは、君の上司の名前と、会社の連絡先を教えてもらえるか? こちらから、正式にアポイントを取る。話はそれからだ」
俺は、スーツの内ポケットに手を入れた。名刺入れを探す、いつもの癖だ。
だが、その動きが、イワンの緊張を極限まで高めてしまった。
「動くな! ポケットから手を離せ!」
まずい。名刺を持っていないどころか、銃を取り出すと勘違いされている。これが、グローバルスタンダードのビジネスマナーなのか?
イワンは、無線で、仲間に小声で報告していた。
「……こちらアルファ1。ターゲットと接触。だが、状況が……おかしい」
『何があった』
「ターゲットは、床磨き機で武装。意味不明な交渉を……。まるで、狂っているかのようだ」
『……分かった。そのまま、無力化せよ。抵抗すれば、射殺も許可する』
無力化。射殺。
その単語が聞こえた瞬間、俺の中で、何かが、プツリと切れた。
交渉は、決裂だ。
日本の会社でも、ごく稀に、話の通じない相手はいる。そういう時、どうするか。
最終手段は、実力行使だ。
(といっても、普通は、法務部に相談するだけだが)
「……分かった」俺は、構えていた電動ポリッシャーのスイッチを入れた。重低音を響かせて、円盤状のブラシが、高速で回転を始める。「君の会社には、対話の意思がない、ということで、よろしいかな?」
イワンは、困惑した顔で、ライフルの照準を俺に合わせた。
その、照準が、俺の胸の中央で止まる、寸前。
俺は、動いた。
「くらえ!これが、我が社の最終兵器だ!」
腰に差していた洗浄液のスプレーを抜き、イワンの顔面に、全力で噴射した!
「ぐあっ!」
暗視ゴーグルに、泡状の液体がべったりと付着し、イワンの視界は完全に塞がれた。
俺は、その隙を見逃さなかった。
「おおおおおおっ!」
雄叫びを上げながら、回転する電動ポリッシャーを、ヤリのように突き出した!
ガガガガガガガガッ!
床磨き機のブラシが、イワンの構えるライフルの銃身に激突し、凄まじい火花と、金属の削れる嫌な音を立てる。イワンは、あまりの奇襲と、予想外の「武器」の挙動に、体勢を崩した。
いける!
俺は、勝利を確信した。サラリーマンの底力、見せてやる!
だが、相手はプロの兵士だった。
体勢を立て直したイワンは、ライフルの銃床で、俺の持つポリッシャーの柄を、力任せに叩き折った。そして、そのまま俺の腹に、強烈な蹴りを叩き込んだ。
「うぐっ……!」
俺は、壁に叩きつけられ、その場に崩れ落ちた。
ダメだ。勝てない。当たり前だ。俺は、ただのサラリーマンなんだ。
イワンは、暗視ゴーグルを乱暴に脱ぎ捨て、充血した目で俺を睨みつけながら、ライフルの銃口を、ゆっくりと俺に向けた。
「……終わりだ、ミスター・プレジデント」
ああ、ここまでか。
俺は、薄れゆく意識の中で、日本の、あの狭いワンルームの天井を思い出していた。帰りたかった。ただ、帰りたかったんだ。
俺は、静かに、目を閉じた。
その時だった。
「……そこまでよ」
凛とした、しかし、どこか震えている、女性の声が、廊下に響いた。
俺が、うっすらと目を開けると、そこに立っていたのは、信じられない人物だった。
アシュリー補佐官だ。
彼女は、どこから持ってきたのか、消火器を、銃のように構えていた。その才媛の顔は、恐怖と、怒りと、そして、不可解な決意に満ちていた。
「……大統領に、指一本、触れさせないわ」
イワンは、新たな闖入者に、忌々しげに銃口を向け直した。
絶体絶命。
俺と、若き女性補佐官。武装した、テロリスト。
この状況を打開できる人間など、いるはずが……。
「……おやおや」
突如、廊下のもう一方の闇から、第三の声が聞こえた。
それは、やけにのんびりとした、しかし、底知れない凄みを感じさせる、老人の声だった。
「今年のホワイトハウスのパーティーは、私の招待状なしで始まったようだね」
その声の主が、闇の中から姿を現した時、プロの兵士であるイワンの顔が、生まれて初めて、本物の恐怖に引きつった。
そこに立っていたのは、燕尾服に身を包み、銀色のトレイに乗せた紅茶のセットを、片手で優雅に持っている、一人の老執事だった。
「申し訳ありませんが」
老執事は、完璧な笑みを浮かべて言った。
「ここは、清掃の時間ではありません。……お茶の時間ですよ」
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最新話は本日の20時10分更新予定です。




