068_シミュレーション(симуляция)
世界が遠ざかっていく! ――そんな感覚に襲われながら、クニカは虚空の中で足をばたつかせる。やがて、別世界の重力に、クニカの身体は捉えられる。
別世界に両足で着地すると、クニカは一歩を踏み出した。眼前に広がるのは、一面の闇である。風を手でしのぎながら、クニカは前へ進む。
突然、足がぬかるみに沈み込んだかと思えば、クニカの視界が一気に開けた。闇に慣れきっていたクニカは、おびただしい光の前に目を細める。
日射しを受けた水たまりのような、饐えた臭いをクニカは嗅ぐ。目が慣れてくるとともに、クニカはその世界が、夢で何度も訪れた”うすあかり”の世界であると気付く。
クニカの後ろから、誰かの足音がする。振り返ってみれば、そこには少女が立っている。亜麻色の髪を肩まで垂らし、青色のシャツを着た、サンダル履きの少女。夢で出会った、青白い、鉛色の光を胸に秘めた少女が、クニカの前にいた。
少女は左手に、長剣を握りしめている。刃に映り込むみずからの姿に、クニカの全身が震える。
「事態は変わりはじめている」
少女の言葉に、クニカは後ずさる。
「今となっては、キミは邪魔になりつつある」
――我らの下に降るといい。
戦捷記念競技場での、サリシュ=キントゥスの司令官の言葉を、クニカは思い出す。
「帝国と、どういう関係なの?」
剣の先端を目で追いながら、クニカは尋ねる。
「あなたも騎士なんでしょう? なのに――」
「夢は何ものも創造しない」
クニカの問いかけなど、少女は意に介していないようだった。
「だからこそ、キミを損なうにはおあつらえ向きの場所だ」
「来ないで……!」
右腕を振り上げると、クニカは”天雷”をイメージする。右手に魔力が集中し、光が集められ、白い稲妻が、クニカの手の中で火花を散らした。
「それ以上近づいたら――」
「オリガの奥義をコピーしたか」
天雷を前にしても、少女は動じなかった。
「いいな。退屈しない。ボクたちは偽者の神だ――」
何を言っても無駄。クニカはそう判断し、握りしめていた稲妻を、少女に振りかぶる。白い稲妻は、鞭のようになって、少女に殺到する。
しかし、少女は右手を伸ばすと、稲妻に腕を突き出した。
「あっ?!」
クニカは叫ぶ。少女が手を触れた途端、天雷の光は周囲に乱反射した。目を開けたときにはもう、投げつけたはずの天雷は、少女の右手に吸い込まれ、矮小化されていた。
少女は右腕を震わせる。小さくなったはずの天雷が、再び大きくなる。クニカは息を呑んだ。天雷に、少女は魔力を注ぎ込んでいる。
「どうした、笑えよ?」
クニカが作り出したものよりも大きく、まばゆい天雷を、少女は右手に握りしめる。天雷の輝きが眩し過ぎるために、”うすあかり”の世界全体が、一段暗くなったかのようだった。
逃げ出そうとしたクニカだったが、足が動かない。そのときクニカは、自分の影が、天雷に向かって、すなわち光源に伸びていることに気付いた。クニカの影は、少女の足下まで伸びている。
少女は、自分の影を踏んでいる。――クニカがそれを悟ったのと、少女が天雷を解き放ったのは、ほぼ同時だった。天雷は、クニカの右半身をかすめ、はるか後方に穿たれる。視野の端で空間がゆがみ、静電気を帯びた水蒸気の塊が、巨大なキノコ雲を形成する。
自然は、真空を埋め尽くさずにはいられない。風が殺到して上昇気流を形成し、中空で冷却された水蒸気が、雨となって地面に降り注ぐ。”うすあかり”の世界は、まだらに世界を照らしながら、クニカの全身を水浸しにしていく。雨に濡れる久しぶりの感覚の滑稽さと、死が間近に迫り、去っていったことの感覚とがひしめき合い、クニカはなぜか、泣きたくも、笑いたくもなった。
何の予備動作もなく、少女は肉薄すると、長剣の先端をクニカの喉に突き立てる。
「うっ……?!」
反射的に、クニカは顎を引く。少女はすんでのところで剣を静止させたが、勢いに呑まれ、クニカはぬかるみに尻餅をついた。
「や、やめて……!」
剣の先端が、クニカの喉元に触れている。雫になった血液が、首からこぼれ落ちる。
「やめて……」
「さようなら」
少女は剣を振り上げる。
もうダメだ。――観念し、目を閉じた矢先。金属同士の触れあう音が、クニカの耳にこだました。
身体に痛みが走るのを覚悟していたクニカは、おそるおそる目を開く。黒いローブを身にまとった女性が、みずからの長剣で、少女の長剣を受け止めている。
「ペルジェ……!」
女性の名前を、クニカは呼ぶ。緑の長髪を持つ東の巫皇・ペルガーリアが、少女の前に立ちはだかっていた。
「久しぶりだな。ニフリート」
ペルガーリアが、少女に呼びかける。ニフリート――それが、この少女の名前のようだった。
「寂しいじゃないか。便りのひとつも寄越さないなんて」
「ペルジェ……!」
少女が――ニフリートが言った。その声は、押し殺したように低かった。
「会えて嬉しいよ……!」
「偶然だな? オレも同じことを考えてた」
よく通る男声で、ペルガーリアは言ってみせる。ペルガーリアとニフリート、二人の正面で交錯する長剣が、込められた力の余りに、小刻みに音を立てる。
「気が合うこともあるんだな? オレが何を考えてるか、当ててみろ」
「ボクは前にも増して強くなっている。キミよりも!」
肘を折り畳むようにして、ニフリートが剣を振り上げる。剣を跳ね上げられ、ペルガーリアは後ろへ下がった。
その隙を、ニフリートは逃さない。ペルガーリアの胸元に、ニフリートはみずからの右腕を突き立てる。
「ペルジェ!」
クニカの目の前で、ペルガーリアが硬直する。ニフリートの右腕から闇が噴き上がり、ペルガーリアの身体を浸食する。
ペルガーリアは逃れようとするが、ニフリートが身じろぎを許さない。ペルガーリアの背中に腕を回すと、子供をいたわるように、ニフリートはペルガーリアを抱きしめる。
ペルガーリアの全身が、ニフリートの闇に呑まれようとする――。
しかし、次の瞬間、ニフリートは目を見開くと、ペルガーリアの身体から飛びのいた。ペルガーリアの額から、白い光があふれ出ていることに、クニカも気付く。
「バカにするのも……いい加減にしろ……」
ペルガーリアの声が響く。全身を呑み込もうとしていた闇に亀裂が走り、隙間から純白の光があふれ出る。次の瞬間、闇は光の前に砕け散った。何事もなかったかのように、ペルガーリアは立っている。
ペルガーリアをにらむと、ニフリートは、再び剣を構えようとする。
(今だ……!)
その瞬間を狙って、クニカはニフリートの剣に焦点を当てる。解き放たれた“竜”の魔力が、ニフリートの長剣を、たちどころにして錆に変える。ニフリートの掌中で、長剣は根元からへし折れ、ぬかるみに落ち、崩れてしまった。
「おい、二対一だぜ」
ペルガーリアが口笛を吹いた。
「まだ始まりに過ぎない――」
「下がってろ!」
クニカの正面に立つと、ペルガーリアが剣を振り上げる。その瞬間、ニフリートが指を鳴らした。乾いた音とともに、地平線が大きく回転し始め、クニカの視界の中で、空と陸とが渦を巻き始める。
「クニカ、起きろ!」
ペルガーリアが叫ぶ。
ペルガーリアの言葉を受けた途端、クニカは不意に、現実の世界で目をつぶっている、みずからの存在を実感した。”うすあかり”の世界から締め出されると同時に、クニカの意識は、チカラアリへと舞い戻る――。




