046_ある晴れた日、または完全な瞬間(Однажды солнечный день или прекрасный момент)
「待て!」
右手に剣を構えたまま、オリガは扉の向こう側へ突入する。オリガから半歩遅れ、ニフシェも扉をくぐる。
ここは、チャラティパッド=ハデシュにある、植物園の一角である。広いドーム状の建物の中には、南大陸では見られない針葉樹や、温帯でしか芽吹かない植物が、美しさを競い合っていた。
「どこ行った……?!」
中央で立ち止まると、オリガは周囲を見回す。中央からは、四本の道が伸びている。ニフシェたちが入った一本を除いて、残りは三本。二人が追いかける”標的”は、そのどれかを通り、別の区画へと逃げたようだった。
チャラティパッド=ハデシュは、カシュム土侯国の古都に当たる。ここに、北大陸からの工作員が潜入し、土地の有力者と秘密裏に接触している情報が入ってきたのが、一週間ほど前になる。
オリガとニフシェ、それから気鋭の使徒騎士たちが、この地に入り、調査を続けていた。工作員の正体を掴みかけた矢先、工作員から二人に仕掛けてきたのである。かくして、二人は工作員を追い、この植物園までたどり着いた。
「何か分からないか?」
後ろからやって来たニフシェに、オリガは尋ねる。オリガが「何か」と尋ねるのは、ニフシェの聴力を当てにしているときだった。”麒麟”の魔法使いであるニフシェは、どれほどわずかな音であっても聞き漏らさない。
「分からない」
ニフシェは首を振った。ニフシェに聞こえるのは、小さな虫の羽音と、ドーム内の温度を一定に保つために循環するファンの音、それから、目の前にいる相棒の、荒い息づかいだけだった。
「お前が何も聞こえない、ってことは、ここにはいない、ってことだ。そうだろ」
オリガの言い方は、まるでみずからに言い聞かせているかのようだった。
「まっすぐ行こう」
ニフシェが口を開きかけた矢先、オリガが振り向きざまに言った。腕を伸ばすと、オリガはベンチの傍らにあった台座を指さす。台座にはめられた黄銅の板には、見取り図が彫られている。
「左も右も、別の建屋に続いてる。それだと、外に出られない。後発の部隊があたしらを追いかけてるのなら、”標的”はそいつらと鉢合わせる」
図版を指でなぞりながら、オリガは説明する。
「あたしがアイツだったら、どうするか? 迷わず、外に出ようとする。いくらアイツが強いと言っても、複数人を同時にかいくぐったりはできない。であれば、隠れたりはしないで、まっすぐ出口に向かうはず。行こう!」
そう言うと、オリガは正面の道をかけ出そうとする。しかし、ニフシェは後を追わなかった。
「ニフシェ?」
ニフシェの方を振り向くと、オリガがいら立たしげに言った。
「何やってんだよ」
「オリガ、追いかけるべきじゃないよ」
「は?」
オリガは声を上げた。その声は大きく、怒気を孕んでいた。
「追いかけない?」
「待った方がいい――」
「今、あたしらは“標的”を見失っている」
ニフシェの言葉をさえぎり、オリガは畳みかける。
「見失っている以上、探さなければいけない。探して、再び追いかけなければいけない。そういう状況であるにもかかわらず、お前は、『追いかけない』と言ってる。そういうことだよな?」
「そう」
「あっはっは!」
オリガは笑った。
「ここで逃したら、また消息が掴めなくなる。調査が振出しに戻る」
「分かってるさ、だからこそ、だよ」
「見ただろ、お前だって――」
自分自身の右の二の腕を、オリガはたたく。逃走劇が始まる直前、オリガの一閃により、”標的”は腕を負傷していた。
「アイツは、逃げ一択しかないはずなんだ。ビビんなよ、あたしらはアイツなんかより強い」
「走っている途中で気付いたんだ、オリガ」
顔を覆っている“相棒”を前にして、ニフシェは言った。
「彼女の足音は、一定じゃなかった。歩幅が乱れていたし、かかとを床に擦り付ける音もあった。でも、怪我のせいじゃない。わざわざ、後ろを振り向いていたんだと思う。本気で逃げるつもりなら、全速力で走るなら、そんなことはしない」
「何でそんなことを――」
「待ってるんだよ、アイツは」
「何を?」
「ボクたちが、ちゃんと追いかけてきているかどうかを」
「何のために?」
「奥に引きずり込むために、あるいは、ボクたちの注意を……もっと別のところに反らしたいんだと思う」
オリガは押し黙ってしまった。
「それに、オリガ、思い出して。アイツの潜伏している屋敷に忍び込んだとき、最初に仕掛けてきたのは、アイツからだった」
「ああ、そうだな」
オリガは鼻を鳴らした。
「それがどうしたってんだ。返り討ちにしてやっただろ」
「それが問題なんだよ。あの仕掛け方は稚拙だった。これまでとは比べ物にならないくらい――」
「わざとやってる、って言いたいのか」
「そう」
「あれがアイツの実力だよ」
違う――。そう言いかけたニフシェだったが、結局口には出さなかった。どういうわけかニフシェは、オリガが次に何を言うのか、すべて分かっていた。
――アイツは逃げていた。
次にオリガは、そのように言う。
「アイツは逃げていた」
オリガは言った。
「普通に逃げていた。それを、あたしたちは普通に逃した。だから、普通に探し出して、普通に捕まえる。普通だろ? 難しいことなんかないんだよ」
「オリガ、もしそんなに簡単なら――」
会話を切り上げ、通路へ駆け出そうとしていたオリガのことを、ニフシェは呼び止める。呼び止めながら、ニフシェは、次に自分が何を言おうとしているのかを、すべて分かっていた。
「もしそんなに簡単なら、テレザは死ななかったはずだ」
テレザ――その名前に、オリガが肩を震わせる。そんなオリガの反応は予想以上であったために、ニフシェも唾を呑み込んだ。
テレザは騎士であり、オリガが可愛がっていた後輩だった。一か月前に、北大陸からの工作員と交戦し、テレザは命を落としている。
「キミがアイツを憎んでいるのは分かる」
オリガの両肩に手を掛けると、ニフシェは言った。
「だけど、アイツはそれにつけ込んでる。ボクたちから逃げているのには、必ず理由がある。キミが本当にアイツを捕まえたいのなら、今は辛抱のときなんだよ」
「――求めよ、さらば与えられん」
「え?」
唐突な聖句に、ニフシェはうろたえる。その聖句は、ニフシェが聞いたこともないものだった。
「『マタイによる福音書』、北大陸の偽書さ。キミの姉さんから教わった」
うつむき加減だったオリガが、顔を上げた。
オリガは笑っていた。
「お前には、何でもお見通しってわけだな。ハハハ」
ニフシェから離れると、オリガは展示されているホオズキの前まで歩き、手すりに寄りかかる。オリガは、一切の興味を失ってしまったかのような態度だったが、やり場のない怒りのはけ口を、どこかに求めようとしていることが、ニフシェには分かった。
オリガは、ニフシェが自分の意見に賛同しないことが悔しいだけではない、後輩の死をニフシェに指摘されたこと、そのこと自体が、踏んではならないオリガの影だったのだ。
そのときがくる――ニフシェは、そんな覚悟を持っていた。オリガは、この後、
――なあ、ニフシェ、あたしが、キミのこと嫌いだって知ってたかい?
と、ニフシェに尋ねる。オリガとニフシェとは、相棒として、これまで上手くやって来たし、上手くやって来ていると、周囲も考えている。
しかし、それは偽りにすぎない。オリガは、ニフシェのことを嫌っている。オリガが自分を嫌っていることを、ニフシェも知っている。とは言うものの、正面から「嫌いだ」と言われたときに、どのように返事をすればいいのか、ニフシェは分からなかった。だからこの後、ニフシェは、
――知ってるさ
と答えてしまう。その瞬間、踏んではならなかったオリガの影を、ニフシェは完全に踏み抜いてしまう。オリガがニフシェを憎んでいるのは、ニフシェが貴族で、裕福で、教養があり、魔法の才能があるから、というだけではない。それらと比較して何も持っていない自分と、そのように比較してしまう自分の性根を、オリガは憎んでいる。
それでも、これまで二人が破綻なくやりおおせてきたのは、「ニフシェを嫌っている」ということを、オリガがニフシェに対して隠しおおせているからだった。少なくとも、オリガは隠しおおせているつもりになっている。そのささやかな隠し事のお蔭で、オリガは精神的に、ニフシェに優位に立てている。「嫌いだ」の一言で、自分はニフシェを、いつでも好きなように傷つけることができる――オリガはそう考えている。
これらのことを、ニフシェはなぜか知っていた。そのことを内心で不思議に思いながらも、ニフシェはこれから起きることを、自分自身で制御できなかった。
「なあ、ニフシェ、」
手すりに背を預けた姿勢で、オリガが言った。ニフシェの目の前で、一度観た映画のような鮮やかさで、未来が展開していく。
「あたしが、キミのこと嫌いだって知ってたかい?」
ニフシェは、すぐには答えなかった。
「知ってるさ」
ドーム内の空調がうなり、オリガの背後にあったホオズキの枝葉が、静かに揺れた。
「知ってる?」
「知ってる」
目の前で青ざめていくオリガを見るうちに、ニフシェは後ろめたい気持ちになった。初めに仕掛けてきたのはオリガだが、それでも、これほどまでに残酷なことだとは、ニフシェは考えなかった。
「何だよ、それ」
失笑気味に言うと、オリガは自分の手元に視線を落とす。それは、厳しく叱られた後の、子供のような仕草だった。
「ずっと知ってたのか? それでいて……仲良しを演じていて……あたしのこと……ずっと馬鹿にして……」
「オリガ、違う」
「馬鹿みたいじゃないか……!」
手すりから離れ、ニフシェからも遠ざかると、オリガは言った。
「全部、馬鹿みたいじゃないか……!」
そう言うと、オリガはただひとりで通路を歩き、奥の扉を開け放とうとする。――ニフシェの直観が、怖ろしいことを告げる。このように完全な瞬間を、“敵”はずっと待ちわびていたのだ。
「待って――」
声を上げ、ニフシェはオリガに追いすがろうとする。だが、オリガはもう、扉の把手に手を掛け、扉を開け放っているところだった。
扉の反対側には、“敵”が立っている。笑う鬼の仮面を被った“敵”は、オリガの眉間に向かって、まっすぐ銃を抜き放っている。
止める暇はなかった。
銃声と共に、ニフシェの視界が光に包まれる。




