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寡黙な領主 ―沈黙と離別の果てに―

長すぎるので前編・後編にわけます。

ーーグユウ様、どうか何かお話しください。


若き領主は、妻を前にしてさえ言葉を失っていた。


老臣ジムは、その沈黙が今度こそ破られることを祈っていた。


ジム・ボイドの灰色の瞳は、不安に揺れていた。


彼の正面に座るのは、ワスト領の若き領主、グユウ・セン。


二十一歳になったばかりの青年だ。


本日、グユウ様はめでたく結婚を迎えた。


だが、それは想いを交わした相手との婚姻ではなく、領の未来のために結ばれた政略結婚だった。


遠路はるばる嫁いできた妃マリーと、領主として初めて同じ席に着いた午後。


テーブルには、焼きたてのスコーンと、透きとおるような琥珀色の紅茶。


りんごの砂糖漬けが甘い香りを放っている。


しかし、室内にはただ重たい沈黙だけが流れていた。


グユウは、まるで銅像のように動かず、言葉を口にしない。


耐えかねたジムは、咄嗟に声をかけた。


「マリー様・・・よろしければ、お茶を召し上がってくださいませ」


その一言に、妃はほっとしたように微笑み、細い指でカップを持ち上げた。


「・・・頂きます」


その声音はかすかに震えていた。


気まずい沈黙の中、マリーがようやく口を開いた。


「・・・ワスト領は、空気が澄んでいて、とても綺麗です」


せっかく花嫁が勇気を振り絞ったというのに、グユウの返事は短かった。


「そうか」


まっすぐ前だけを見据え、彼女の方を振り向きもしない。


声をかけたマリーは、唇を噛みしめて俯いた。


――まるで、話しかけたことを後悔するかのように。


ジムは小さくため息をつく。


グユウ様を、幼い頃から見守ってきた。


剣術も学問も優秀だ。


だが、こと女性となると口を閉ざしてしまう。


何を話せばよいのか分からず、苦手意識ばかりが先に立つ。


少なくとも、見た目は申し分ない。


背が高く、墨を流したような黒髪、切れ長の黒い瞳。


その姿は、誰もが目を奪われるほど整っている。


――だが。


領主としても、ひとりの男としても、致命的なのは「口下手」であることだ。


ジムは知っていた。


グユウ様が誰よりも優しいことを。


しかし、優しさは言葉にし、態度で示さなければ伝わらない。


それ以降、二人の間に会話は生まれなかった。




結婚式の儀を終え、夜を迎える。


初夜の見張り役として、ジムは寝室の隠し小部屋に控えることとなっていた。


「グユウ様・・・少しはお話をしてあげねば」

思わず口にした言葉は、余計なお世話であることを承知していた。


「・・・わかっている」

グユウは俯いたまま、短く答えた。


しかし、やがて訪れた初夜の場。


ジムは、仕切り越しにその気配を感じながら、思わず頭を抱えた。


――あまりにも無言すぎる。


いくら政略結婚といえど、言葉ひとつ、名を呼ぶことさえなく、ただ義務のように花嫁を抱く。


それは若さゆえの不器用さなのか、それとも心の余裕のなさなのか。


ーー妃の名を、せめて一度でも口にしてくれたなら。


そう思わずにはいられなかった。



結婚からひと月が過ぎても、夫婦のあいだに具体的な会話は生まれなかった。


マリーの顔からは次第に表情が消え、やがて笑顔を見ることもなくなった。


その変化に、グユウも危機感を覚えたのだろう。


不器用ながら、懸命に言葉を探し、話しかけようとする姿はあった。


だが、すでに広がってしまった溝は埋まらず、二人の心はますます離れていった。


やがて、わずかな回数の交わりを経て、マリーは身ごもった。


しかしそれを境に体調を崩し、寝室を避け、自室に閉じこもるようになってしまう。


途方に暮れるグユウの姿に、ジムは胸を痛めた。


領主としても、夫としても、どうしてよいのか分からないのだ。


家臣たちと共に仲を取り持とうと努めたものの、状況は改善されなかった。


――正しいはずの政略結婚。


だが、本当にこれで良かったのか。


ジムの心には、答えの出ない問いだけが澱のように残っていった。




やがて月日が流れ、マリーは男の子を出産した。


ジムは思った。――これこそ、夫婦の仲を取り戻す好機だと。


産声をあげたばかりの子を腕に抱き、グユウはじっとその顔を見つめていた。


その眼差しの奥に、これまで決して表に出さなかった喜びがかすかに灯っている。


長年そばで彼を見守ってきたジムには、それがはっきりと分かった。


だが、母となったマリーの目には、違って映った。


赤子を抱きながらも言葉ひとつかけず、無表情のまま立つ夫。


その姿は、冷たい石像と何ら変わらなかった。



子が産まれて三か月後のことだった。


ワスト領に、強大なミンスタ領からの使者が訪れた。


差し出された手紙には――

「ミンスタ領主ゼンシ、グユウ殿に面会を望む」

とだけ、端的に記されていた。


断る理由など、どこにもない。


むしろ拒めば、領地そのものを危うくしかねない。


ジムは文面を読み終えたとき、胸の奥に冷たいものが走るのを感じた。


そして、若き領主を伴い、ゼンシとの面会に向かう覚悟を固めた。


面会の間に足を踏み入れた瞬間、ジムは息を呑んだ。


玉座に座すのは、まるで光をまとったような男だった。


輝く金髪は陽光を受けて白銀に近く、瞳は深い湖のような青。


年の頃は三十前後か。


だが、その美貌には人を寄せつけぬ鋭さが宿っている。


ただ座しているだけで、場を支配する威圧感。


ーーこの方が、ゼンシ様か。


ジムの喉は乾き、背筋に冷たいものが走った。


そんな中でも、グユウは淡々と挨拶を述べ、椅子に腰を下ろす。


その無表情な横顔に、ジムはわずかに安堵した。


「グユウ・・・」

ゼンシは薄く微笑むと、言葉を紡いだ。


「我がミンスタ領と、同盟を結ばぬか」


「・・・同盟、ですか」


「あぁ。その暁には、我が妹をワスト領に嫁がせよう」

微笑みは優雅だが、その声は冷ややかに響いた。


ゼンシの口にした「同盟」という言葉には、「服従」に近い響きがあった。


彼がワスト領を望む理由は明白だ。


王都ミヤビへと通じる街道――それが、この小さな領地の最大の価値であった。


「・・・申し出はありがたいのですが、私には妻子がございます」

グユウは淡々と答える。


その声音には、わずかな揺らぎもない。


「ふむ。妻子がいるのか」


ゼンシは大して意に介さぬようにカップを取り上げた。


そして、まるで雑事を片づけるかのように言い放つ。


「離縁しろ」


ジムは息を呑んだ。


その声音には、情も怒りもなく、ただ事務的な冷たさしかなかった。


それがかえって、刃のように鋭く響いた。


その言葉に、グユウは黙したままだった。


――例え心が通い合っていなくとも。


それでも妻子を守ろうとする気持ちが、グユウ様なりに確かにあるのだと、ジムには思えた。


沈黙を続けるグユウに、ゼンシは顎をわずかに上げて吐き捨てる。


「・・・ミンスタ領の姫を、妾にするつもりか?」


挑発的な言葉にも、グユウは動じなかった。


漆黒の瞳は、凪いだ湖面のように微動だにしない。


その無表情の奥に、何を秘めているのか――ジムですら読み取れなかった。


やがて、ゼンシはふっと笑みを浮かべ、ゆるりと立ち上がった。


「返事は・・・早めに頼む」


その声は、甘美でありながら冷たい刃のようだった。


ジムの背筋を、ぞわりと冷たいものが這い上がった。



その夜、領に戻ったジムは、ただちに重臣を集め、緊急会議を開いた。


広間には重苦しい空気が漂い、誰もが沈痛な面持ちで席につく。


議題は一つ――ミンスタ領からの同盟の申し出。


ゼンシは兵を糾合し、次々と周辺を呑み込んでいる。


勢いは凄まじく、名声は「冷酷」「強欲」と悪評ばかり。


そんな男の妹を娶るなど、到底認められぬ。


重臣たちは口を揃えて「断るべきだ」と主張し、場は荒れに荒れた。


「ワスト領に、あの男の妹を迎えるなどあり得ぬ!」


「同盟など結べば、いずれ呑み込まれるのはこちらだ!」


憤りと恐怖が入り混じり、声がぶつかり合う。


その中で、若き領主グユウはただ黙して座っていた。


ーー冷静に聞いているのか、それとも何も考えていないのか。


無表情の横顔を見つめながら、ジムは胸の奥で呻く。


ーーグユウ様、何かお話してください。


やがて、ジムは思い切って声を上げた。


「今、この同盟を断れば、ワスト領は攻め込まれます」


その一言に広間は凍りついた。


誰もが薄々感じていたことを、現実として突きつけられたのだ。


領力の弱いワスト領では、ゼンシの軍勢に抗う術はない。


静まり返る中、ジムはさらに問いかける。


「・・・グユウ様は、どう思われますか」


途端に、視線が一斉に若き領主へ注がれる。


「・・・離婚は、望んでいない」

「ゼンシ様は・・・尊敬すべき領主だ」


断片的な言葉。


それは彼なりの思いだとジムには分かったが、結論にはならない。


会議はなお紛糾し、最後は押し切られるように決定が下された。



――ミンスタ領との同盟を受け入れ、新たな妃を迎えること。


今の妃とは離縁すること。


その重い結末を前にしても、グユウは反論せず、ただ静かに受け入れた。


無表情のまま、黙して座すその姿を見ながら、ジムの胸はひどく痛んだ。


ーーグユウ様。これは、あなたの望む道なのですか。



会議の翌日。


ジムは重い口を開いた。


「・・・マリー様に、離縁の件をお伝えしなければなりません」


その言葉に、グユウはわずかに顔を曇らせ、目を伏せる。


「・・・わかった」


産まれたばかりの男の子――シン。


ジムは言葉を継いだ。


「シン様は・・・男児ゆえ、この地でお育てすることになります」


「・・・あぁ」


未来のワスト領の跡取り。


母のもとへ返すわけにはいかない。


それは冷徹な理でありながら、避けられぬ現実だった。


やがて、グユウは気の進まぬまま、マリーを執務室へ呼び出した。


久方ぶりに姿を見せたマリーは、俯いたまま椅子に腰を下ろす。


その顔には、かつての笑みの欠片すらない。


視線は合わせられず、声も届かない。


グユウは、その姿を前にして――言葉を失った。


告げねばならぬ事実を、ただ胸に抱えたまま。


隣に立つジムの胸は、ひどく締めつけられるようだった。


長い沈黙の末、グユウはようやく口を開いた。


それは挨拶も、前置きもなく、唐突に放たれた要件だけの言葉だった。


「・・・離縁してほしい」


マリーは驚いたように顔を上げる。


そのときのグユウの顔は、ジムの目には悲しみに満ちているように映った。


けれど、マリーの目に映ったのは――無表情のまま、冷ややかに別れを告げる夫の姿に違いない。


彼女は唇をきつく噛み、やがて伏し目がちに答えた。


「・・・承知しました」


短くそう告げると、マリーは椅子を立ち、背を向けて執務室を去った。


残されたグユウは、手のひらを強く握りしめ、唇を噛みしめていた。


声にならぬ思いを胸に抱えながら。


慌てたジムは、その後マリーのもとを訪れ、事情を説明した。


けれど彼女は悲嘆に暮れるでもなく、むしろ生家に帰れることを安堵しているように見えた。


この時代の女性に求められる美徳は、「疑問を抱かず、言葉にせず、微笑んでいること」。


マリーは、その理想を体現した妃だった。


――だからこそ、なおさら胸が痛んだ。



マリーは離縁を告げられてから、わずか四日で城を発つことになった。


別れの場においても、彼女は理想的な妃であり続けた。


「・・・お世話になりました」

淡々と、静かに告げる。


「・・・あぁ」

グユウの声は掠れ、どこか切なさを帯びていた。


けれど、それ以上の言葉は出てこない。


マリーは振り向くことなく馬車に乗り込み、扉が閉ざされる。


その後ろ姿を、グユウはただじっと見つめていた。


背後では、乳母ヨシノの腕に抱かれたシンが状況を察したかのように声を上げて泣いていた。


小さくなっていく馬車を、グユウは動かぬまま目で追い続ける。


その姿には、深い傷が刻まれているのが分かった。


――だが、それに気づける者は、よほど彼を観察してきた者だけだろう。


「・・・グユウ様」

ジムは慰めるように声をかけた。


「オレは・・・結婚に向いていない」

グユウは遠くを見つめたまま、かすかにつぶやいた。


ーーそんなことはありません。


そう言いたかった。


だが、簡単な慰めの言葉は喉を過ぎず、胸の奥に留まった。


やがて訪れる次の婚姻の影が、ジムの胸に重くのしかかる。


ミンスタ領の姫。


あのゼンシの妹であり、二十歳を過ぎても嫁がなかった女。


一ヶ月後、彼女がこの城にやって来る。


――果たして、グユウ様とやっていける姫なのだろうか。


不安ばかりが、ジムの心に募っていった。



◇ 


一ヶ月後。


ジムはミンスタ領のシュドリー城へ、姫を迎えに赴いた。


四日の旅路を経てたどり着いたその城は、荘厳にして豪華。


灰色の石造りは威厳を放ち、門をくぐった瞬間、レーク城とは比べものにならぬ豊かさが伝わってきた。


「・・・すごい城だ」

同行した重臣ジェームズが、思わずため息をもらす。


「この領と争っても、勝てるはずもないな」

もう一人の重臣サムが、淡々と口にした。


三人は控えの間に案内され、そこで振る舞われたのは見事な料理の数々だった。


皿に盛られた牛肉、華やかな見目の菓子。


ワスト領ではまず口にできぬ贅沢に、一同は思わず言葉を失った。


飾り立てられた室内を見渡しながら、ジムは深く息を吐く。


「・・・シリ様は、この城で二十年を育った。質素なワスト領の暮らしに、馴染めるのだろうか」

その声には、抑えきれぬ後悔が滲んでいた。


ジェームズはローストビーフを口にし、かすかに目を見開いた。


「贅沢に慣れた、わがままな姫かもしれん・・・」

美味であることは隠せない顔だった。


サムはカップの紅茶にクリームを落とし、苦笑を浮かべる。


「あのゼンシの妹だ。きっと、恐ろしい女に違いない」


ジムは黙して二人のやりとりを聞いていた。


胸の奥には、重く澱むような不安が広がっていった。



やがて三人は広間に通され、ゼンシの前で恭しく頭を下げた。


そこにいたのは、圧倒的な存在感を放つ美しき領主。


初めて相まみえたジェームズもサムも、その冷ややかな青い瞳と場を支配する威圧に、言葉を失っていた。


「・・・シリを呼べ」

ゼンシが低く命じる。


ほどなく、軽やかな足音が近づき、三人の目の前でぴたりと止まった。


恐る恐る顔を上げた彼らの視線の先に――姫は立っていた。


白と赤のモザ家の旗を背に、鮮やかな青のドレスを纏った、背の高い女性。


金の髪が揺れ、その瞳は衣よりもさらに深い青で、真っ直ぐにこちらを見据えている。


一瞬、空気が凍りついた。


「・・・美しい」

ジェームズが熱に浮かされたように呟く。


涼やかでありながら、刺すような気品をまとった美貌。


丁重に挨拶をするその姿に、ジェームズもサムも圧倒され、声を失った。


我に返ったジムがようやく形式的な言葉を返す。


だが、その胸の奥では不安が膨れ上がっていく。


――あの気高い姫と、寡黙なグユウ様が、本当にやっていけるのか。


無理だ。


破綻すれば同盟も瓦解する。


それはワスト領にとって、命取りだ。


背中に冷や汗が流れるのを、ジムははっきりと感じていた。


シリを引き合わせた後のゼンシは、満足そうに唇を歪める。


それはまるで、「小領に妹を与えてやる」と無言で告げる圧力の笑みだった。




その日の午後、花嫁行列はワスト領へと向かった。


本来ならば、婚姻の費用は両家で折半するもの。


だが今回はすべて、ミンスタ領が負担した。


真意は定かではないが――ゼンシがグユウを気に入った、そんな噂さえ囁かれていた。


きらびやかで途方もなく長い花嫁行列を眺めながら、馬上のジムは深くため息をつく。


「これが・・・果たして我らにふさわしい縁なのか」



五日の旅を経て、豪華な馬車はついにレーク城にたどり着いた。


その眩い車体を見つめるほどに、ジムの不安は募っていく。


馬車の中には――目を疑うほど美しい姫、シリがいる。


ーーグユウ様は、きちんと挨拶をなさるだろうか。


やがて、馬車は城門前で止まった。


夕暮れ寸前の美しい春の夕方。


「シリ様、ご到着!」

ジムの声が城門に響きわたる。


松明の炎が揺れ、門前に立つ若き領主の影が長く伸びる。

ジムは深く息を吸い、扉に手をかけた。


――どうか、今度こそ言葉が生まれますように。


金具が外れ、静かに扉が開く。

闇から白い手がのび、裾が光をすくいあげた。


次の瞬間、世界が息を止める。


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