離婚命令と、オレの妃 ー離縁を命じられた日、妻は戦いに向かったー
「・・・ゼンシ様が、オレとシリの離縁を求めている」
手紙を握ったまま、思わずつぶやいた。
宛名は、妻シリの生家――ミンスタ領。
その文字を目で追った瞬間、胸の奥へ、底なしの冷たさが落ちていく。
半月前、オレはミンスタ領と刃を交えた。
勝てるはずのない強国との争いでも、領主として剣を取るしかなかった。
そして今――その報いが来た。
「同盟を破った罰として、シリを返せ・・・そういうことか」
義兄ゼンシ様が黙っているとは思わなかったが、それでも容赦のない書状だった。
「どうなさいますか」
緊張で硬くなったジムの声が、部屋に落ちる。
「重臣を招集してくれ。・・・父上にも声を」
ジムが駆け出していく背を見送り、オレは侍女を呼んだ。
「シリをここへ」
嵐の前の静けさのような空気が、書斎に満ちていく。
◇
やがて書斎の扉が開き、青い瞳を揺らしたシリが現れた。
「・・・離婚命令が来たそうですね」
「あぁ。ゼンシ様は、約束を破られたことに怒っている」
その言葉を聞いた瞬間、シリの瞳が鋭く光った。
「兄上こそ! 同盟を破ってシズル領を攻めたくせに!」
怒りで震える声。
その強さに、オレの胸がかすかに揺れた。
「シリ。これはオレたちふたりで決められることではない。
これから重臣たちと話し合い、領の未来を決める」
淡々と伝える。
けれどシリは一歩前に出た。
「その会議に、私も参加させてください」
息を呑む音が、背後のジムから聞こえた。
重臣会議に女が入るなど――この国では考えられないことだった。
女は政に口を挟まず、男の決定に従うものとされている。
それでも、シリはまっすぐにオレを見た。
「私の知らないところで、自分の未来を決められるのは・・・嫌です」
気高く、揺るぎないまなざし。
その強さに、胸のどこかが妙に熱くなる。
「いいだろう」
口を開いた自分自身に、驚いたのはオレだった。
本来なら許されないはずの要求。
なのに――
彼女の瞳に射抜かれた瞬間、拒むという選択肢が消えていた。
彼女の未来を、彼女のいない場所で勝手に決めるなど。
――できるはずがなかった。
◇
ワスト領の応接室。
重臣十名が揃い、緊急会議の空気が張りつめていた。
オレが入ると、全員が立ち上がり、頭を下げる。
「グユウ、遅いぞ」
父上――マサキが低く言った。
領主を退いた今も、その言葉には絶対的な重みがある。
だが、その直後。
オレの後からシリが姿を現すと、重臣たちは一斉に息を呑んだ。
「妃が?」
ざわつきが広がるなか、
シリは何事もなかったようにジムが用意した椅子へと進み、まっすぐに腰を下ろした。
「グユウ。妃とはいえ、女を重臣会議に参加させるとは何事だ」
父上の声が鋭い。
「女に政治などわかるものか」
隣にいたオーエンは深くうなずき、その灰色の瞳はシリに向けられていた。
ーーその視線が妙に癪だった。
しかし、シリは怯まず立ち上がる。
「私が望んだことです」
凛と響く声。
「問題ございませんわね、義父上」
青く澄んだ瞳が父上を射抜く。
その視線は、まるで王族のような迫力があった。
父上は言葉を失い、重臣たちは思わず背筋を伸ばす。
――シリが部屋にいるだけで、空気が変わる。
その存在感に、皆が圧倒されていた。
◇
会議が始まった。
「本日集まっていただいたのは、ミンスタ領から届いた重要書類の件です」
ジムが羊皮紙を開き、読み上げる。
1.同盟を破った報いとして、グユウとシリは離縁すること
2.離婚の流儀に則り、シリをミンスタ領へ送り返すこと
3.一週間以内に領境の宿へ引き渡すこと
読み上げる声に、重臣たちがざわつく。
「・・・確かに、同盟が崩れたら離婚だ」
サムが言う。
「流儀どおりだな」
「離婚は避けられまい」
父上もうなずく。
空気が重く沈んだとき、オレは静かに告げた。
「シリは、離婚しないと言っている」
瞬間、部屋が凍りつく。
「ありえん!」
「そんな前例はない!」
「妃が拒むなど・・・!」
異議の声が飛び交う。
冷ややかな視線のなか、シリが一歩進み出た。
「先に約束を破ったのはミンスタ領です。
兄上は同盟を無視してシズル領を攻めました」
凛とした声に、重臣たちは息を呑む。
「ワスト領が一方的に悪者にされるのは、おかしいことです」
その青い瞳には、静かな炎が宿っていた。
怒りは抑えられている。
だが、まぎれもなく燃えている。
「私は離婚しません」
家臣、ひとりひとりの目を見据えて告げる。
その瞳は青く、深く、触れれば焼けるような熱を秘めていた。
――炎の青い部分が一番熱いという。
まさに今のシリがそうだ。
重臣たちが圧倒されて声を失うなか、オレはただ見つめていた。
胸の奥に、説明のつかない痛みと熱が混ざり合う。
ーーこの強さに毎回惹かれる。
「シリ様の引き渡しは一週間後と指定されています。いかが致しましょうか」
ジムが静かに問いかける。
「ジム、離縁の際は誰が使者に立つ決まりなの?」
シリがまっすぐに問うた。
「婚礼と同じ家臣が担当します。ワスト領は私が赴き、ミンスタ領は――」
「ゴロクとキヨが来るのね」
シリが淡々と引き取った。
どちらもゼンシに絶対の忠義を誓う、手練れの家臣だ。
「はい。両家の家臣が立ち会い、シリ様を“引き渡す”・・・本来は、その流れとなります」
ジムが言い終えた瞬間、シリは静かに息を吸った。
そして、はっきりと告げる。
「ミンスタ領の交渉役は――私が務めます」
その場の空気が一度止まり、重臣たちは誰もが目を見開いた。
重臣たちが騒然とする中、シリは不思議なほど落ち着いた顔で微笑んだ。
その笑みが一瞬、会議室の空気を変えた。
――なぜ、そんな顔をする。
胸がざわつくのを、オレ自身が一番理解できない。
シリは静かに、しかし鋭く言葉を紡いだ。
「私は『誰かに引き渡される妃』ではありません。
自分の足でミンスタに立ち向かい、自分の言葉で未来を決めます」
その瞬間、会議室の重臣たちは言葉を失った。
ジムが慎重に口を開く。
「しかし、シリ様。あちらはゼンシ様の側近、ゴロク殿とキヨ殿でございます。
あのお二人は・・・」
「わかっています。だからこそ私が交渉します」
淡く揺れる青い瞳。
オレをまっすぐに射抜いた。
「ジムを行かせられません。ゴロクは納得できない話には容赦しません。
引き渡し役は、命の危険があります」
ジムは首を横に振った。
「シリ様。それは家臣の務め。どうかお気遣いなく――」
「いいえ。これは“気遣い”ではありません」
シリは淡々と遮る。
「理不尽な命令に従うつもりはないからです」
彼女の言葉に、重臣たちは息を呑んだ。
ーー本当に、この女は。
普通の妃なら震え上がる状況で、どうして、こんなふうに迷いなく立っていられる。
胸の奥で言いようのない熱が膨らむ。
たまらず、オレは口を開いた。
「シリ。行くのなら、俺が行く」
重臣たちは一斉にザッと立ち上がる。
「グユウ様、それはいけません!」
「討たれれば、ミンスタの思うつぼです!」
「絶対にお止めください!」
オレは構わず言いかけた。
「危険なのはわかっている。だが――」
シリが静かに首を振る。
「グユウさん。あなたは領主です。あなたを危険に晒すわけにはいきません」
その言葉が、妙に胸を締めつける。
“危険だから行くな”ではなく――“あなたを失いたくない”と聞こえてしまう。
シリは会議室を見渡し、凛とした声で告げた。
「私が行きます。それ以外に選択肢はありません」
重臣たちは何も言えず、ただその強さに息を呑んだ。
オレだけが、胸の奥でひとつだけ叫んでいた。
――行くな。
口にはできないその言葉が、喉の奥に苦い痛みとなって残った。
「私は、ワスト領とミンスタ領の架け橋になるために嫁ぎました。
こうして争いに至ったのは・・・私の力が及ばなかった証です」
シリの静かな言葉に、会議室の空気がわずかに揺れた。
「シリ、それは違う」
オレは低く反論する。
「争いは、誰か一人の責で起こるものではない」
だがシリは、首を横に振った。
「けれど、私が兄上の命に背き、離縁を選ばなかったことで・・・ゴロクやキヨが処罰されます。
ジムにも危険が及ぶでしょう。両家の大切な家臣を、私は守りたいのです」
その視線は、重臣たち一人ひとりへ向けられていた。
その瞳は、真剣で、逃げ場のないほど澄んでいる。
「交渉は、私が行きます。
これは妃としてではなく――ひとつの“任務”として」
戦へ向かう兵のような揺るぎなさ。
誰も口を開けなかった。
妃が離縁を拒み、敵方の家臣と交渉に赴く。
前代未聞で、常識外れで――それでも成り立ってしまうほどの迫力が、シリにはあった。
自然と重臣たちの視線が、オレへ向く。
ーー行かせたくない。危険だ。代われるものなら代わりたい。
胸の奥には、ただそれだけが渦巻いていた。
シリはオレの心を見抜いたように、まっすぐに目を合わせてくる。
オレも視線を返す。
険しい、火花の散りそうなほど強い眼差し。
重臣たちは息を呑み、オレたちの“睨み合い”を固唾をのんで見守った。
青い瞳は、迷いなくただ前と先を見据えている。
――止められない。
危険を承知でも、行くつもりなのだ。
妃でありながら、領主の器を持つ女。
結局、惚れた方が負けなのだ。
「・・・前例にない手を選ぶとは。実にシリらしい」
オレは諦めとも、敬意ともつかぬ声で呟いた。
目の前の妻の頑固さと、どうにも譲れぬ強さを噛みしめながら。
「・・・賛成はしない。だが――行ってこい、シリ」
「ありがとうございます」
シリは静かに笑み、まっすぐオレの瞳を見返した。
その一瞬があまりにも美しくて、視線を外せなくなる。
「・・・その強さこそ、シリだ」
思わず目を閉じて言葉を落とす。
「それでは、シリ様が対応に向かわれる・・・その形でよろしいのですね?」
ジムが確認の声を上げる。
オレは、渋々ながら深く頷いた。
その後、会議は――シリが完全に主導権を握ったまま進んでいった。
彼女が描く戦略はどれも鋭く、迷いがない。
状況の整理、相手の性格分析、危険の見積もり、交渉の布石。
ひとつひとつが的確で、もはや重臣たちの方が押されていた。
「・・・なるほど」
「確かに・・・」
「そこまで考えておられるとは」
普段は口の重いサムでさえ、感嘆の息を漏らすほどだ。
会議室の空気が変わっていく。
主導はワストの重臣ではなく、妃――シリへ。
オレは黙ってその様子を見ていた。
圧倒されるのも無理はない。
彼女の思考の速さ、判断の筋の通し方、全体を見渡す視点。
どれも領主であるオレが学ぶべきほどだった。
ーーこれがシリだ。
惚れなおすのと同時に、胸の奥でざわりとした感情が揺れる。
この会議にいる誰よりも強く、誰よりも聡く、誰よりも眩しい。
――なのに、彼女はオレの妃だ。
誇らしさと、不思議な焦りが胸の奥でせめぎ合い、オレは深く息を吐いた。
◇
会議がいったん締めくくられ、重臣たちが席を立ち始めたころ。
シリがそっと近づいてきた。
「グユウさん。ありがとう」
微笑みながら小さく頭を下げる。
その横顔は戦う前の兵ではなく、
ただオレを信じてくれている妻の顔だった。
胸がきゅ、と痛む。
オレはうまく言葉を返せず、ただ黙って頷くことしかできなかった。
シリの青い瞳が一瞬だけ柔らかく揺れ、
それを見ている自分の方が落ち着かなくなる。
ーーシリを守りたい。
それ以上の言葉は喉まで上がってくるのに、
結局ひと言も言えないまま、沈黙だけがふたりの間に落ちた。
離婚会議に同行する家臣は――
ジム、ジェームズ、そして シリが指名したのはオーエンだった。
胸の奥が、ひどくざわつく。
ーーなぜ、オーエンなのだ。
もっと慎重で温厚な家臣はいくらでもいる。
だが、彼女が選んだのは、
誰より真面目で、誰より頑固で、
そして――誰よりシリに惹かれ始めている男。
それを知っているのはオレだけだ。
昨日、厩で見たあの視線。
雨の小屋でシリを抱きとめた腕。
あの時の目は、家臣のそれではなかった。
ーーオーエンだけは、行かせたくない
そう思ってしまう自分に気づき、思わず口を開いた。
「オーエンを、連れていくのか」
無意識に滲んだ声の低さに、シリが少しだけ首を傾げた。
「先ほど説明しました。オーエンは私のことを嫌っていますし、
ワスト領を第一に考える人です。だからこそ、最適な人選だと思います」
シリは当たり前のように言い切った。
ジムが横で、こっそりと苦笑する。
ーー戦略では誰よりも聡いのに、男心となると驚くほど鈍い。
その落差に、オレは何度目かわからない溜息を飲み込んだ。
嫌っているどころか、
オーエンがどれほどシリを目で追っているか、誰より分かっているのはオレ自身だ。
胸の奥に重い熱が沈む。
◇
会議が終わったあと、オレは気づけばシリの腕を掴んでいた。
「シリ、来てくれ」
ほとんど衝動に近い動きだった。
無言で寝室へ連れていくオレに、シリは少し戸惑っていた。
いつも周囲には家臣の目がある。
ふたりきりになれる場所は、ここしかない。
扉を閉めた瞬間、胸の奥の何かが弾けたように、オレはシリを抱きしめた。
「グユウさん・・・どうしたのですか」
突然の抱擁にシリは驚く。
だが離したくない。
行かせたくない。
その想いが、どうしようもなく強くなっていた。
「シリ。離婚協議は・・・領主としては許可をした」
オレが言うと、シリは小さくうなずく。
「けれど」
喉に引っかかった言葉を、なんとか押し出す。
「ひとりの男として、伝えたい。危険すぎる。・・・行かないでほしい」
それは、心の底からの願いだった。
シリの望みはできる限り叶えたい。
周囲がどう言おうと、家臣に呆れられようと構わない。
だが――これだけは譲れない。
「グユウさん・・・」
シリはオレの腕をぎゅっと握った。
「では・・・私が出陣に行かないでとお願いしたら、グユウさんは行くのをやめますか?」
その言葉に、胸が刺されたように痛む。
「それは・・・」
オレはたじろいだ。
「シリに反対されても・・・領主としての責務がある。出陣はする」
「私も同じです」
シリはまっすぐ見てきた。
「あなたの気持ちに応えたい。でも・・・妃としての務めを果たさなければならないのです」
あぁ――そうだ。
オレが何を言っても、シリは止まらない。
彼女の決意は、いつも誰より固い。
分かっていたのに、どうしようもなく想いを口にしてしまった。
「グユウさんは、本当に優しい」
その言葉に、オレは眉を寄せた。
「違う。・・・優しいんじゃない。シリを失うのが、怖いだけだ」
言った瞬間、シリの瞳が揺れた。
泣きそうな顔。
しまったと思った時には遅かった。
「・・・私もです」
震える声。
「グユウさんを失うのが怖い。そして・・・嫌われるのも、怖い」
オレは息を飲んだ。
「今日の会議も・・・そうです。私は好きなようにしています。
でも・・・グユウさんに呆れられないかな、嫌われないかなって・・・いつも不安なんです」
ーーそうか。
世の女性が歩く道から大きく外れた歩みをしているシリは、
そのたびに胸の奥でこんな不安と戦っていたのか。
オレは静かにシリの頬へ手を添えた。
「オレはいつも思っている。
シリには・・・もっと有能な領主の妻がふさわしかったのではないか、と」
彼女に出逢った時から、思っていたことだった。
戦略で結ばれとはいえ、強い彼女の隣に立つ男ではない、と。
いつも思っていた。
「・・・私なんて、扱いづらい女ですよ」
シリは小さく笑った。
「あなたじゃなきゃ務まりません」
ーーそう言ってくれることが嬉しい。
短い沈黙のあと、ふたりの視線がそっと絡まった。
言葉よりも深く、心が触れ合う。
「・・・グユウさん」
「どうした」
シリは鼻をすすり、顔を上げる。
「・・・お願いがあります。聞いてくれますか」
「何でも言え。オレにできることなら」
一瞬の沈黙。
そして。
「・・・もっと、強く抱きしめてほしいです」
「え・・・?」
それは――その意味で、いいのだろうか。
戸惑いの奥に広がる、どうしようもない喜び。
「私を・・・強く抱きしめてください」
見上げる青い瞳。
赤く滲むその目のふち。
揺れる唇。
もう、耐えられなかった。
オレは無言でシリを引き寄せる。
唇が触れた瞬間、
余計な言葉も、不安も、恐れも――すべて遠のいていった。
◇ ◇
月日が経ち、いよいよ明日は離婚協議の日となった。
城内はどこか落ち着かず、兵も侍女も足音が少し速い。
夕方、オレとシリは、いつもの散歩コースである馬場へ向かった。
――これが最後の散歩になるかもしれない。
その思いを振り払っても、何度でも胸の奥へ戻ってくる。
湖面に映る夕日は金色に揺れ、あたり一面が柔らかな光に染まった。
「きれいだわ」
シリがそっとつぶやく。
「・・・あぁ」
オレは、夕日ではなく、横で光を受けるシリの横顔を見つめていた。
湖風が強く吹き、シリの長い金髪が渦を巻くように浮かび上がる。
その姿は、不安を呑み込みながらも前を見て進む者の背中だった。
ーー行かないでほしい。
喉まで出かかった言葉を、奥歯で噛みつぶす。
行かせなければ、彼女の選んだ道を否定することになる。
シリは夕日に向かって一歩踏み出し、その光に溶けるような声で言った。
「何もしなくても離婚させられるなら・・・もがいてみせる」
その決意は、あまりに静かで強かった。
消えてしまいそうな後ろ姿に、気づけばオレは後ろから抱きしめていた。
「・・・シリ。必ず、帰ってこい」
「・・・はい」
シリはオレの腕にそっと手を添えた。
その小さな温もりが、どれほど愛おしいか伝わってくる。
◇
夜。
ふたりで子ども部屋へ向かった。
部屋の奥から、シリのやわらかな子守唄が聞こえる。
2歳になるシンが眠りにつくまで、彼女はいつものように背中を優しくさすっていた。
オレはユウとウイの部屋へ入り、静かに寝顔を見つめた。
ユウは金髪をふわりと広げ、小さな手を頬の下に敷いて眠っている。
その横顔の整い方は、見るたびに息を呑む。
ウイはまだ赤ん坊らしい丸みを帯びた顔で、
そのまぶたの奥には、オレとシリの色を混ぜた群青の瞳が隠れている。
――この子たちが、もしシリを失ったら。
胸が張り裂けそうになる。
ウイはまだ1歳にも満たず、ユウでさえまだ1歳。
母の顔を覚えていない年だ。
どれほど強く抱きしめても、この不安は消えなかった。
そのとき、そっと扉が開き、シリが部屋へ入ってきた。
揺れる蝋燭の光が、彼女の横顔を照らす。
「必ず帰ってくるから」
シリは眠る子どもたちを見つめたまま、震える声でそう言った。
その声の揺れでわかった。
シリも、同じ恐怖を抱えている。
「あぁ」
それ以上は言えなかった。
言えば、崩れてしまいそうだった。
ただ、オレは彼女の震える手を握る。
冷たい指先が、そっとオレの温もりに触れた瞬間、
ふたりはただ静かに息を合わせた。
――明日、何があっても。
離れたくない。
生きて帰ってきてほしい。
それだけだった。
◇
翌朝――ついに離婚協議の日が来た。
冷たい空気が城内を満たし、侍女たちの動きもどこか固い。
身支度を整えたシリが階段を降りてきた瞬間、オレは息を呑んだ。
それは、三年前の結婚式で着ていた“あの”青いドレス。
静かな光を受けて淡く揺れ、彼女の金の髪を一層引き立てていた。
離婚協議に向かうにふさわしい、
夫婦にとって最後になるかもしれない正装。
シリは裾を整え、ふっと柔らかく微笑んだ。
「準備は整いました」
その声は震えていないのに、なぜか胸が締めつけられた。
オレは気づけば、言葉をこぼしていた。
「あの時・・・言えなかったけれど」
シリが少しだけ首を傾げ、振り返る。
「・・・あの時?」
「結婚式」
オレは息を吸い、小さく続けた。
「こんな美しい妃が・・・オレに嫁ぐなんて、夢のようだと思っていた」
ずっと胸の奥でしまい込んでいた言葉。
三年越しにようやく口に出せた。
シリは驚いたように目を瞬かせ、そしてゆっくりと微笑んだ。
「グユウさん」
「どうした」
「その言葉、毎日言ってくれると嬉しいです」
からかうでもなく、ただ素直にそう言ってくれるその声が、愛おしい。
「・・・それは難しい」
毎日そんなことを言っていたら、オレの心が持たない。
シリは小さく笑い、オレもつられて微笑んだ。
言葉より先に、ふたりの腕が静かに伸びた。
強くでも弱くでもない、ただ“離れたくない”という想いだけの抱擁。
その温もりを胸に刻み、オレはゆっくりとシリを手放した。
――必ず、無事で帰ってこい。
腕が離れても、祈りだけは手放さなかった。
◇
城門前には、大勢の者が見送りに集まり、張りつめた空気が静かに揺れていた。
シリは青いドレスの裾を整え、まっすぐオレに向き合った。
「行ってきます」
強い光を宿した青い瞳に、息を呑む。
行かないでほしい――その言葉が喉まで上がったが、
領主として、口にすることは許されない。
だから、思考とは真逆の言葉を絞り出した。
「・・・行ってこい」
シリは小さく、でも確かな意志を込めて頷いた。
「シリ様・・・!」
エマがオレの後ろから飛び出すように進み出た。
「どうして私を連れて行ってくれないのですか!」
老いた乳母の声が震え、胸に刺さる。
ーーオレも同じだ。
思わず拳を握りしめた。
「エマ・・・あなたを連れていくには、危険すぎます。一緒には行けないの」
「そんな危険なところに・・・シリ様はお一人で行かれるのですか!」
エマは涙声で訴える。
シリはそっとエマの頬に両手を添え、その瞳をやさしく覗き込んだ。
「もし私が帰ってこなかったら――ユウとウイを、お願いします」
その瞬間、エマの顔から血の気が引いた。
「かっ・・・帰って来なかったら、など!」
涙で濡れた声が震える。
だがエマは、シリの言葉の裏にある想いを悟ったのだろう。
小さく、しかし確かに頷いた。
「・・・承知いたしました」
シリは微笑んだ。
その笑みがあまりにも凛としていて、胸が痛む。
振り返らず、まっすぐ馬車へ乗り込んだ。
馭者が手綱を引き、馬車が動き出す。
「シリ様――!」
エマは数歩駆け出して、力尽きたように地面に膝をついた。
オレはそっと、エマの肩に手を置く。
「・・・見送る側は、辛いな」
エマは泣きながら、震える声でうなずいた。
小さくなっていく馬車を見つめながら、オレは息を吸い、静かに呟いた。
「・・・祈ろう。シリの、あの強さが――必ず戻る事を」
◇
シリが旅立ってから、領務に向かってみても、文字が目に入ってこなかった。
時間はいつもより遅く、何をしても落ち着かない。
廊下を歩きながらふと立ち止まり、窓辺から遠くを見つめる。
ーーシリは今ごろ、どこを走っているだろうか。
寒くはないか。
無理をしていないか。
胸の奥に、形のない不安が重く沈んだ。
その時、小さな足音が駆け寄ってくる。
「・・・ちちうえ・・・」
不安そうに眉を寄せたシンとユウがオレの前に立っていた。
思わずしゃがみ込み、ふたりを抱きしめる。
「どうした?」
問いかけても、ふたりは言葉より先に、ぎゅっとオレの服を掴むだけだった。
少し離れた場所からヨシノとエマが歩み寄ってきた。
「お二人とも、何かを感じているようです」
エマが静かに言う。
ーーそうか。
胸のざわめきは、オレだけではなかったのだ。
母の不在を、幼い心でも敏感に感じ取っている。
オレはふたりの頭をそっと撫で、小さな手を包み込んだ。
「・・・今日は、一緒に過ごすか」
シンもユウも大きく頷き、オレの胸に顔を埋めてきた。
その温もりが、張りつめていた心を一瞬だけゆるめる。
ーー大丈夫だ。
帰ってくる。
必ず。
オレは抱き寄せたふたりの背を、静かにさすった。
◇
ゆっくりと時が過ぎ――夕方になった。
その頃には、もう座ってなどいられなかった。
オレは城の一番高い見張り台に立ち、
夕焼けに染まる空の下、シリが向かった方角をじっと見つめていた。
隣にいたカツイが、突然息を呑む。
「馬車が、見えます!!」
その一言で、胸が跳ねた。
オレはほとんど転げ落ちるように階段を駆け下り、城門まで走った。
城内の者たちも次々に気づき、門前に押し寄せる。
遠くからでもわかった。
出発の時と同じ顔ぶれだ。
ジム、ジェームズ、オーエン、馭者二人――。
そして。
馬車に・・・シリが乗っているか。
息が詰まる。
鼓動がやけに大きい。
ものすごい勢いで馬車が止まった。
馭者が扉に手をかけるよりも早く、シリ自身が勢いよく扉を開いた。
「ただいま帰りました」
その声が響いた瞬間――空気が揺れた。
ドレスの胸元は血で赤く染まり、首には白い布が巻かれている。
エマは喉をヒュッと鳴らし、侍女たちは手を口に当てて震えた。
だが、城内の者たちは歓声を上げた。
シリが――帰ってきた。
その事実だけで、場の空気が熱を帯びる。
気づけばオレは走り出していた。
止められなかった。
シリの姿を見た瞬間、
胸に押し込めていた感情のすべてが、堰を切ったように溢れ出した。
彼女に触れた瞬間、腕が勝手に抱きしめていた。
そして、次の瞬間――唇が重なった。
生きて戻ってきた。
それだけで、もう理性など残っていなかった。
多くの人々が見守る中で、
オレはただ、彼女の唇を塞ぎ、離さなかった。
ーー帰ってきた。
ーーもう二度と離したくない。
強く抱きしめる腕に、全身の震えが混ざっていた。
侍女たちの黄色い悲鳴が上がった瞬間、ようやく正気が戻った。
目の前には、頬を真っ赤に染め、潤んだ瞳でオレを見つめるシリ。
そして周囲には苦笑する家臣、母、苦虫を噛み潰したような顔のエマ、
そして幼い子どもたち――。
ーーやってしまった。
羞恥が一気に押し寄せる。
慌ててシリから距離を取り、そっけなく手を離した。
顔をそむけ、逃げるように城の中へ向かおうとした瞬間――
「あ、グユウさん! 待って!!」
シリが頬を押さえ、スカートをつまんで追いかけてくる。
その後ろで、エマの悲鳴まじりの声。
「シリ様! 傷の手当をします!」
城門前には、安堵と涙と笑いが入り混じった空気が残っていた。
◇
シリが手当てを受けている間、
オレはジム、ジェームズ、オーエンの報告を静かに聞いた。
シリは、自ら交渉の場に立ち、
ミンスタ兵に囲まれながらも離縁を拒否し、
最後には自ら首を傷つけて帰還の道をこじ開けた――らしい。
ーーなんてことをしたんだ。
ナイフで自分の首を傷つけるなんて。
胸の奥が、恐怖でぎゅっと縮んだ。
「ミンスタ領の家臣はタジタジでしたよ」
ジェームズが嬉しそうに伝える。
「・・・あのような妃は、他にはおりません」
オーエンは言葉を絞り出した。
その声音には尊敬と、苦痛と、嫉妬が入り混じっている。
男である自分たちが成し得なかったことを、シリは軽々とやってのけた。
惹きつける容姿、強さ、振る舞い――憧れの裏で、自分の無力さを突きつけられたのだろう。
ーーその気持ち、オレには痛いほどわかる。
「強くて聡明なお方です。シリ様の行動は・・・時代を変えるかもしれませんね」
ジムが静かに言った。
オレは頑張ってくれた三人に、
ねぎらいと感謝の気持ちを込めて頭を下げた。
◇
長い一日が終わり、ようやく夜が訪れた。
寝室の扉を開けると、いつものようにシリが微笑んでいた。
部屋に足を踏み入れた瞬間、
オレは彼女を引き寄せ、その細い身体を抱きしめた。
「グユウさん・・・?」
シリの瞳が驚きに揺れる。
「どうしたの・・・」
言わせたくなくて、オレはその唇を唇で塞いだ。
シリは目を見開いて身をこわばらせるが、それでもオレは離れられなかった。
何も考えられないほどに、ただ彼女を貪った。
深く、深く。
そのとき湖からの強い風が窓を揺らした。
「・・っ!」
我に返ったように、オレはシリから手を放した。
突然終わった口づけに戸惑い、
シリはほんの少し開いた唇で、息を吸うようにオレを見つめてくる。
「・・・すまない」
シリの首に巻かれた白い包帯が目に入り、胸の奥が締めつけられた。
ーー守れなかった。
彼女は自分の身を傷つけて戻ってきたのに、オレは何をしている。
「疲れているのに・・・すまない」
そう伝えると、
シリは無言でオレの背に腕を回し、優しく撫でるように抱きしめてきた。
「抱いて、くれないのですか?」
柔らかい声。
囁きに近いほど優しい。
「・・・今日は、優しくできそうにないから」
オレが目を逸らして告げると、
「そんなグユウさんも・・・知ってみたいです」
シリは背に回した手にぎゅっと力を込め、耳元でそっと囁いた。
「グユウさん。大好きです」
その瞬間、何かが切れた。
オレは彼女を抱きしめ返し、そのまま黙って抱き上げてベッドに運んだ。
金色の髪がベッドに散らばり、
シリは恥じらいと覚悟を込めた眼差しでオレを見上げる。
「すまない。優しくできない」
「来てください」
その言葉で、最後の理性が消えた。
できるだけ優しく口づけを落としながら、
オレは胸の奥に溜め込んだ思いを少しずつ吐き出していった。
口数の少ないオレは、いつも瞳でしか気持ちを伝えられない。
けれど今夜だけは違った。
「シリ・・・」
名前を、何度も呼んだ。
「名前・・・呼んでくれると嬉しい・・・」
溺れかけるような顔で見上げるシリに、オレは耳元で、もう一度強くその名を囁いた。
「シリ」
◇
しばらくして、胸に抱いた彼女の頭を撫でながら言った。
「・・・頑張ったな、シリ」
シリはぼんやりとオレの黒い瞳を見つめる。
「傷は大丈夫か」
その声に、シリは幸せそうに微笑んだ。
「・・・グユウさんの顔を見るだけで・・・」
そう言って、静かに目を閉じた。
オレはそっとシリの額に口づけを落とした。
シリが起こした行動は、野火のような速さで国中に広まった。
離縁の儀が野外で行われたため、
あの場にいた領民もミンスタ兵も、その一部始終を目撃していたのだ。
「金髪の妃の話を聞かせて!」
子供たちは毎日大人にせがんだ。
「妃だぞ?領主じゃない」
「しかも美人だったらしい」
「ナイフをふるって戦ったとか」
「たった四人で八十人を前にしたそうだ」
その噂は瞬く間に旅人の間を駆け抜け、
ミンスタ領でもワスト領でも語られ、やがては遠い地にも届いていった。
シリ自身はそんなことを何も知らず、
ただオレの腕に抱かれ、安らかに眠っている。
その寝顔を見つめながら、オレはそっと息を吐いた。
ーーオレは、彼女に相応しい男ではない。
強く、聡く、人を惹きつける力を持つ彼女に、
胸を張って「釣り合う」と言える日はきっと来ない。
けれどそれでも。
――彼女がオレを必要としてくれる限り、オレはその隣で、何度でも支え続けよう。
離縁は免れた。
今日、彼女が帰ってきてくれた奇跡を、もう二度と当たり前と思わない。
明日の朝食は――子どもたちと一緒に囲もう。
シリの隣で、当たり前の日常を噛みしめながら。
明日の朝も、その次の朝も――シリの隣で生きていく。
そのささやかな幸せを、今はただ強く抱きしめた。
短編を読んでくださって、ありがとうございます。
本日、新しい短編を書きました。
落城の混乱の中、「姫を守れ」と命じられた四歳の乳母子シュリ。
その日芽生えた想いは、十五歳になった今――許されぬ恋へと変わっていた。
姫と乳母子という越えられない身分差の中で紡がれる、静かで痛い禁断の恋。
短編はこちら → https://book1.adouzi.eu.org/n7680lk/
そして、物語の原点はこちら。
シリの視点で描いた本編連載(完結済)です。
『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』
https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
改めて、読んで頂きありがとうございます。




