表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/22

無口な領主ですが、初夜の翌日から姫に翻弄されています

早朝、ワスト領の馬場で稽古に励む青年がいた。


細身ながらしなやかな体躯。


汗に濡れた黒髪と白い肌、切れ長の瞳は凪いだ湖のように静かだったが――剣を振るう腕には熱がこもっていた。


振るうたびに鋭さを増す剣筋に、家臣たちは息を呑み、互いに目を見交わす。


青年の名はグユウ。23歳。


ワスト領を背負う若き領主である。


彼は五日前に政略の婚姻を結んだ。

迎え入れた妃の名はシリ。


昨夜、初めて夫婦となった。


「・・・グユウ様。今朝は随分と気迫がこもっておりますな」

見守っていた重臣ジェームズが、冗談めかして言う。


「気のせいだ」

短く返す声には感情がない。


だが胸の奥では、荒れ狂う嵐が渦を巻いていた。


――昨夜のシリの姿が、頭から離れない。


不安を隠し、強がりながらも必死に自分を受け入れようとした様子。


背中に縋りつく腕の震え。


そして震える声で呼ばれた名――「グユウさん」。


思い出すたびに頬が緩みそうになり、慌てて気を引き締める。


剣を納めながら、ふと空を仰ぐ。


グユウはふと疑問を抱いた。


―― この感情を抱く資格が、オレにあるのか。


彼女は強大なミンスタ領から嫁いできた。


二十歳にして初めての婚姻。


一方、オレは弱小のワスト領を背負う身。


彼女の兄であるミンスタ領主・ゼンシ。


恐れられながらも人を惹きつけるカリスマを備えた、炎のような男――圧倒的な力で国を動かしていた。


シリの佇まいが、他の妃たちと明らかに異なるのは――その血の濃さゆえだろう。


輝く金髪と透き通る青い瞳。


その美貌には、凛とした強さと気高さがにじんでいた。


ーー本来なら、彼女はもっと豊かな地で、安泰の未来を得られたはずだ。


胸の奥で、そんな声が囁く。



一方のオレは、二度目の婚姻。


前妻とは心を通わせることなく離縁し、その傷は今も消えていない。


――彼女は本来、オレの隣に座るはずの人間ではない。


だが、昨夜、オレの名を呼んだ声は紛れもなく自分に向けられていた。


ーーもう一度、彼女に触れたい。


そんな想いは、前妻との日々には一度も芽生えなかった。



汗をかいたので、いつものように水を浴びようと、グユウは無造作にシャツを脱いだ。


鍛えられた細身の背に目を奪われ、家臣たちの間に小さなどよめきが広がる。


その異変を感じて振り返ったグユウの視線の先では、

ジェームズが面白そうに笑い、隣のサムの肩を軽く叩いていた。


サムは気まずそうに空咳をしながら視線を逸らす。


――この時、グユウは気づいていなかった。


背中に残る赤く細い爪痕を。


それが、昨夜シリが必死にしがみついた証であることを。


夫婦の仲が、早くも家臣たちに知れ渡ったとは露知らず――。


グユウは緊張を押し隠すように、いつもの足取りでシリの待つ食堂へ向かった。


朝食の時間である。


◇ 食堂


シリはすでに食卓の前に座っていた。


差し込む朝の光が金の髪を照らし、その周囲だけが柔らかな輝きに満ちている。


左耳の上には、真紅の薔薇が一輪。


金髪に青い瞳、そして赤い薔薇――その取り合わせは、朝に似つかわしくないほど鮮烈で、美しかった。


思わず、グユウは足を止める。


視線が吸い寄せられるのを抑えきれない。


しかし、その想いは外見に表れることはない。


無表情のまま食堂に足を踏み入れる姿は、ただの寡黙な青年にしか見えなかった。


テーブル越しに、ふとシリの青い瞳が彼を捉える。


その瞬間、わずかな緊張が空気を震わせた。


グユウの胸にあった不安は、ひとまず解消された。


自分から声をかけるという試練を回避できたのだ。


「・・・おはようございます」

先に口を開いたのはシリだった。


その声は、どこか硬く尖っていた。


「あぁ」

ようやく、グユウも声を返す。


なぜ、ただ『おはよう』と言えないのか。


微笑み合い、挨拶を交わす。


それだけのことが、なぜできない。


朝食は静かに始まった。


その間、ふたりの間に会話はない。


機械的に食事を口に運びながら、グユウは思う。



結婚は二度目。


ーーけれど、オレは女性の経験が少ない。


前妻とは、数度の交わりで子ができた。


それ以来、一年以上、夜を共にすることはなかった。


昨夜は、なるべく優しく触れたはずだった。


痛ませぬように。怖がらせぬように。


それでも――。


思わず、自分の手を見つめる。


剣に慣れた指先は荒れ、硬いマメがいくつも残っている。


オレの至らぬ触れ方で、シリに怖い思いをさせたのではないかと胸が疼いた。


静かに食事をとる彼女の様子が、かえって不安を募らせていった。



突然、シリは髪に挿していた赤い薔薇を引き抜き、そっとポケットにしまった。


――どうした? 似合っているのに。


グユウはそう声をかけたかった。


だが、うつむきながら食事を口に運ぶ彼女に、決して言葉をかけることはできなかった。



朝食が終わると、グユウは婚礼で滞っていた領務に取りかかった。


一方のシリは、自室に籠り、花嫁道具の整理をしていると聞く。


レーク城は狭く、古びた城だった。


その中で何度か彼女とすれ違ったが、どう振る舞うべきか分からず、視線を合わせられない。


ーーこれはまずい。


前の結婚と同じ匂いがする。


このままではすれ違い、シリとの距離が離れていくような予感がした。


そう予感しながらも、解消する術はさっぱり分からなかった。


膨大な領務に追われて、気がつけば夕方になっていた。


昼食は各自の部屋でとるため、シリと顔を合わせたのは朝食の時だけだ。


ふと窓の外に目をやると、馬場の先をシリがひとり散歩しているのが見えた。


その姿を認めた瞬間、グユウは決心する。


挽回する機会はここしかないと、グユウは腹を括った。


机に積んだ書類を置き去りにして、彼は馬場へと駆け出した。


その慌ただしい様子は、周囲には滑稽に映ったのかもしれない。



そばにいたジムがわずかに口元を緩めた。


若き主君の慌ただしい姿に、呆れではなく安堵を覚えたのだ。


――ようやく、シリ様に向き合おうとしておられる。


そんな眼差しを、グユウは振り返る余裕もなく駆け抜けていった。



走り抜けた先、小高い丘の向こうにロク湖が夕陽を映していた。


湖面はオレンジ色に染まり、小さな島がぽっかりと浮かんでいる。


金の髪が風に揺れ、毅然とした後ろ姿が湖を見つめていた。


グユウは勇気を振り絞り、声をかける。


「・・・散歩か」


シリが驚いたように振り向いた。


その顔があまりに美しく、グユウには目を合わせることができなかった。


湖の先をぼんやりと見つめがら、胸中は嵐のように乱れていた。


必死の思いで、ようやく言葉を口にした。


「・・・身体は大丈夫か」


ーーこれが、オレの全力だ。


「だ・・・大丈夫です!」

シリは慌てたように背筋を伸ばす。


「そうか」


それきり沈黙が落ちる。


湖風が頬を優しく撫で、夕陽が水面に赤く滲んでいたが、その光景はグユウの目には映らなかった。


次に出た言葉は、あまりに見当違いなものだった。


「・・・ゼンシ様に手紙を出しているのか」


「はい」


「それが仕事だ。励んでくれ」


シリの役目――それは生家ミンスタ領への報告。


妃であると同時に、公式の間者でもあった。


グユウがそう告げると、シリは小さなため息を落とす。


それはやるせなさを帯びた吐息だと、彼は察した。


――何か、気に障ることを言ったのだろうか。


シリはドレスを握りしめ、姿勢を正す。


「ええ。励みます」


その声は硬く、触れれば触れるほどに拒むような響きを帯びていた。


グユウは胸の奥で重たく呟く。


――どうやら彼女の機嫌を損ねたらしい。


グユウは手を握りしめた。


オレは結婚に向いていない――そう思わずにはいられなかった。



その夜。


グユウは先に寝室のベッドに腰掛けていた。


――こういうことは、二度目が難しい。


一度目は勢いに任せ、任務のような気持ちで初夜に挑めた。


しかし二度目は・・・どうすればよいのか。


途方に暮れていたその時、寝室の扉が静かに開いた。


白い寝間着に身を包んだシリが入ってくる。


薄布は灯りに透け、胸元がわずかに緩んでいる。


その白さに、グユウは思わずめまいを覚えた。


その想いが態度に滲まぬよう、グユウは慌ててベッドにもぐり込み、シリに背を向けた。


胸の鼓動がやけに大きく響き、眠ったふりをするしかなかった。



次の瞬間、ベッドの前にシリがひらりと立ちはだかった。


顔は怒りに満ち、青い瞳が鋭く光っている。


恐る恐る顔を上げたグユウに、氷のように冷たい声が降り注いだ。


「・・・グユウさん。昨夜の私に、ご不満ですか」


シリは怒りに震え、唇をわななかせながら、ほっそりした身体全体を小刻みに揺らしていた。


その姿を目にし、グユウはベッドに横たわったまま凍りつく。


「・・・どうして、今日は素っ気ないのですか」

最初の声はかすれ、震えていた。


「そんなに、私が・・・ダメだったのですか」


シリの声が途切れる。


唇が震え、瞳の奥で光が揺らめいた。


突きつけられた言葉に、グユウは返す言葉を失った。


沈黙がやけに長く感じられ、胸の奥がざわつく。


ーーどう受け止めればよいのか分からない。


その間に、シリの肩が落ち、力なく拳がほどけていった


「顔も見たくないほど・・・嫌なのですか」


次の瞬間、堰を切ったように涙が頬を伝う。


弁解の余地を与えぬほどの早口だった。


慌てて、グユウはベッドから身を起こした。


「・・・ミンスタ領のスパイだからですか!」


その叫びが部屋の空気を凍らせた。


「違う・・・」

グユウの顔はこわばる。


「何が違うんですか!!」

シリの絶叫とともに、青い瞳からは止めどなく涙がこぼれ落ちた。


次の瞬間、シリは激しく泣き出した。


「・・・言ってくれないと、わかりません」


涙に濡れた声に、グユウの胸が強く疼いた。


――オレが不安を抱いていたように、シリもまた、不安に揺れていたのだ。


気がつけば、グユウは立ち上がっていた。


震えるシリをその胸に抱き寄せ、閉じ込める。


「・・・シリ。すまない」

囁きは優しく、かすれていた。


「その・・・オレも、同じように思っていた」


戸惑いに揺れる手が、彼女の背を落ち着きなくさまよった。


「・・・何がですか」

シリの声は硬く、張りつめていた。


「シリに避けられていると思っていた」

グユウの低い声に、腕の中のシリの身体がびくりと震える。


「・・・えっ」


「昨夜、辛い思いをさせたのではないかと・・・ずっと心配していた」


ゆっくりと、シリが顔を上げる。


涙に濡れた青い瞳が揺れて、グユウの視線を捕らえた。


「・・・シリ。すまない」

落ち込んだ声で、グユウは再び謝った。


結局のところ――

女心に鈍感で口下手なグユウと、勝手な勘違いに苛立っていたシリとの、すれ違いにすぎなかった。


「・・・ごめんなさい」

興奮が鎮まり、シリの声は次第に落ち着きを取り戻す。


そっと背中に手を回す仕草に、グユウは思わずめまいを覚えた。


――刺激が強すぎる。


それを表に出さぬよう、顔の表情筋すら動かさないように気を張る。


――気の利いたことが言えない。


己の口下手さを呪いながら、グユウは小さく頷き、静かに彼女を抱きしめた。


薄い布地越しに触れ合うと、伝わる心音が重なり合う。


ふと、シリが顔を上げる。


「・・・誤解、解けました?」


間近で揺らめく青い瞳。


機嫌を伺いながらも、何かを乞うようなその眼差しに、抑えていた感情が静かに溢れ出していく。


唇をゆっくりと近づけた。


触れた瞬間、溶けてしまいそうな熱をシリの唇に移す。


最初は遠慮がちに。


だが次第に、抑えきれない衝動が募っていく。


柔らかな唇をそっと開かせ、舌先を差し入れる。


何度も角度を変え、繰り返し求める。


シリは身を固くしながらも、その全てを受け止め、やがてぎこちなく応えていった。


慣れぬ感覚に息は乱れ、目が泳ぐ。


シリが恐る恐る瞼を上げると――


そこには、熱を帯び、余裕を失った表情のグユウがいた。




月の光が、静かに寝室を照らしていた。


乱れたベッドの中に、意識の朦朧としたシリが横たわっている。


張りついた金の髪をそっとかき分け、グユウは額に唇を落とした。


「・・・ん」


かすかな声とともに、シリが眉を寄せる。


その仕草が愛らしくもあり、同時に不安を誘う。


――オレは、果たして優しくできただろうか。


「・・・ゆっくり、夫婦になろう」

グユウが囁いた。


まだ結婚して五日目。

出会って、わずか五日。

互いを深くは知らない。


だからこそ――これから語り合い、見つめ合い、触れ合って、夫婦になりたい。


そう、心から願った。


シリは目を閉じ、かすかに頷いた。


脱力した身体を抱きしめていると、ほどなくして静かな寝息が聞こえてくる。


――眠ったようだ。


この時代の女性に求められる美徳は、疑問を抱かず、口にせず、ただ微笑んでいること。


だが、シリの言動はその道から大きく外れていた。


ふと悟る。


――前妻とすれ違ったのも、言葉を交わせなかったからだ。


シリの言動は、口下手なグユウにとって、それはむしろ救いだった。




翌朝は、土の中から芽吹きが顔を出すような、柔らかな陽気だった。


レーク城の食堂には、朝食にりんごの砂糖漬けが並ぶ。


これはシリの好物だ。


グユウは、口にした時の表情を見たくて、そっと横顔を盗み見る。


ひと口食べたシリの顔がぱっと綻んだ。


その様子に、グユウも密かに頬を緩める。


だが、シリの思考は甘味の喜びだけでは止まらなかった。


目を星のように輝かせ、身を乗り出す。


「こんなに美味しい果物は、ワスト領の特産品にしたいわ!」

その声は食堂に響く。


「りんごの木の育て方を学んで生産量を増やせば、皆が潤うのではないかしら。小麦が育たない土地に――」


「シリ様!」


乳母のエマが、鋭く声を張り上げた。


女性が領の政策に口を出すなど、出しゃばりにほかならない。


花や刺繍、他愛のない話をして殿方に癒しを与える。


――それが、彼女に昔から教え込んできた「妃の務め」だった。


シリはしょんぼりと肩を落とし、反省するように黙って俯いた。


「・・・エマ」

グユウが静かに、しかしはっきりと名を呼んだ。


突然の呼びかけに、エマは驚いた顔をする。


――グユウ様が、私の名前を。

そもそもご存じだとは思っていなかった。


「そのままでいい」

短く、つぶやくように。


食堂にいたエマはもちろん、

ジムも侍女たちも、そしてシリでさえも言葉の意味がつかめず、呆然とした。


「・・・オレはシリのそういうところが・・・気に入っている」


その一言が落ちた瞬間、場の空気が変わった。


そして何より、グユウ自身が一番驚いていた。


――オレは・・・なんてことを。


頬を赤らめ、顔を隠すように立ち上がる。


「ジム、会議に行くぞ」

足早に席を離れ、食堂を出ていった。


残されたシリの胸は、高鳴りでいっぱいだった。


――そのままでいい。


癇癪を起こす私も、意見を言う私も、乗馬が好きな私も。


全部、認めてくれる人がいた。


その心の奥で、何かが小さく芽吹き始めていた。


一方、廊下を進むグユウは、恥ずかしさを隠すように俯きながら歩く。


「グユウ様」

背後から穏やかな声がかかった。


ジムだった。


「本日は、会議の予定はありません」


その声音に滲む喜びを聞き取りながらも、グユウは言葉を返さず、ただ黙って頷いた。


執務室に入ると、ようやく大きく息を吐く。


あんなふうに考えもせず言葉を口にしたのは、生まれて初めてだった。


――それも、シリの影響なのだろうか。


窓の外を仰ぐと、眩しい陽光が差し込んでいた。


目を細めながら、心に誓う。


――オレは彼女に相応しいものではない。


けれど、彼女に相応しい男になる。


これは、結婚六日目の小さな一幕にすぎない。


廊下の外では、ジムとエマがそっと笑みを交わしていた。


――若き領主夫妻を支える日々も、まだ始まったばかりだ。


ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!


この短編は『秘密を抱えた政略結婚』本編のスピンオフとして、無口な夫グユウの視点で描いてみました。

本編では姫シリの視点から政略結婚と戦乱の物語が綴られていきます。

短編だけでも楽しめますが、本編を読むと二人のすれ違いや政略の背景がより深く伝わると思います。


本編はこちら

『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』

(Nコード:N2799Jo)


昨日、短編四作品目を書きました。


寡黙な領主 グユウと勝気な姫 シリ 結婚して10日目の出来事。


「金色の妃に恋した、寡黙な領主」

https://book1.adouzi.eu.org/N9994KZ/


感想やブクマで応援いただけると、とても励みになります✨

ぜひ本編も覗いてみてください!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ