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幸せは私は決めるーー逃げなかった妻の物語

「身体の調子はどうだ」

寝室に響く穏やかな声に、私は思わず笑みをこぼした。


声の主は――グユウ様。

私が仕えるシリ様の夫であり、ワスト領の若き領主。


「大丈夫です」

シリ様が頬を赤らめながら答える。


ここはレーク城の産室。

シリ様は、三週間前に二人目のお子をお産みになった。


ウイと名付けられたその赤子は、絹糸のような金褐色の産毛を持ち、

群青色の瞳をした愛らしい子だった。


その容姿は、まさしくお二人の血を受け継いだ証。


赤子を抱く二人の姿は、まるで春の日差しのように温かく、

見ているだけで胸が満たされた。


一年前も、シリ様は出産された。

その時に生まれた赤子は、金髪に青い瞳の女の子。


――父親は、グユウ様ではなく、

シリ様の兄、ミンスタ領主ゼンシ様。


あのとき、泣き崩れたシリ様を、グユウ様は大きな愛で包まれた。

誰もが諦めかけた夫婦の絆を、彼は必死に繋いだ。


幾つもの痛みを越え、ようやく、

この若い夫婦は本当の家族になった――そう思っていた。


けれど。


産室の扉を閉め、一歩外へ出ると、その穏やかさは一瞬で消えた。


廊下の端には、かき集められた武器と兵糧。

兵たちが慌ただしく行き来している。

金属音と怒号が、どこか遠くで響いていた。


――争いの匂いがする。


少しして、グユウ様が産室を出られた。

私と目が合う。


「グユウ様・・・」

声をかけると、彼はしばし黙り、俯いたまま言った。


「まだ体調が戻っていないシリには、内密にしてくれ」


「・・・はい」


それだけ告げると、グユウ様は静かに廊下を歩き去っていった。


その背を見つめながら、私は胸の奥で呟いた。


――戦が始まる。


部屋に戻ると、シリ様は寝台の上で静かに赤子を抱いていた。


その横顔をそっと見つめる。


穏やかで、幸福そのものの顔。


産まれたときからずっと彼女の傍にいたけれど、

これほど満ち足りた表情を見るのは初めてだった。


――神様、どうか、この穏やかな幸せが続きますように。


私は心の中で、必死に祈った。


けれど、その祈りが届くことはなかった。



翌日、グユウ様は産室に姿を見せなかった。


出産以来、一日に何度も顔を出していたのに。


最初は静かに待っていたシリ様の顔が、

昼を過ぎるころには、少しずつ不安の影を帯びていった。


扉を隔てた廊下の向こうからは、

いつもと違う――ざわめきが聞こえる。


武具の軋む音、兵の足音、低い声で交わされる命令。


空気が、重い。


「エマ・・・城内で何が起きているの?」


シリ様の問いに、私は答えることができなかった。


何も知らないふりをして、たたんでいた布に視線を落とす。


「エマ」

もう一度、名前を呼ばれる。


声にわずかな震えが混じっていた。


言葉を探していると――産室の扉が静かに開いた。


入ってきたのは、グユウ様。


その顔には疲労の色が濃く滲んでいた。


「・・・グユウさん」


安堵と嬉しさが入り混じったような笑みを、シリ様は浮かべた。


グユウ様は黙ったまま、寝台の隣にある椅子に腰を下ろす。


今日は、ウイ様を抱かない。


いつもなら真っ先に腕に取るのに。


「身体の調子はどうだ?」


その声は、どこか遠くを見ているようだった。


「今回は回復が早いです。明日には・・・もう寝室に戻れると思います」


シリ様の頬が、ふっと赤く染まる。


「・・・それは良かった」


グユウ様の声が、かすかに安堵で揺れた。


けれど次の瞬間、その瞳に決意の影が落ちた。


「エマ、外へ出てくれないか」


「・・・承知しました」


胸の奥で、何かが冷たく沈む。

私は無言で一礼し、産室を後にした。


――これが、終わりの始まりになる。


そんな予感が、背中を冷たく撫でていった。


扉を閉めたあと、私は動けなかった。


静まり返った空気の中で、声がかすかに漏れ聞こえてきた。


「・・・ゼンシ様が、シズル領を攻めた」


その名を耳にした瞬間、私は息を呑んだ。


廊下の灯が、わずかに揺れた気がした。

心臓の鼓動が早まる。


「兄上が・・・?」

シリ様の声は小さく震えていた。


「家臣たちは怒っている。・・・ゼンシ様を撃つことに決まった」


短い沈黙。


木の床が、風に軋むような音を立てた。


「明朝、出陣する」


グユウ様の声は低く、固く、悲しみに滲んでいた。


それは、シリ様の生家と争うことを意味していた。


私は、そのまま立ち尽くすしかなかった。


中へ入ってはいけない。

けれど、離れることもできない。


「・・・そんな」

シリ様の声が掠れた。


あの凛とした方の声が、まるで泣き出しそうに細い。


「この城を出てくれ。ワストが裏切ることをゼンシ様に知らせて――そのままミンスタに帰れ」


言葉の意味が、胸に突き刺さる。


――シリ様を、逃がす。


それが、どれほど苦しい決断なのかを、私は知っていた。


「・・・なぜ、そんな」


「生き延びるためだ。シリを、そして娘たちを守るために」


廊下の灯が滲んで見えた。

涙が頬を伝っていることに気づく。


扉の向こうで、布の擦れる音がした。

きっと、二人は近づいたのだろう。


「・・・グユウさん」


その声に、彼の息が乱れるのがわかった。


言葉にならない想いが、静かな産室を満たしていく。


私は目を閉じ、耳を塞いだ。


それでも、二人の声は心の奥に届いてしまう。


――想い合っているのに、別れを選ぶ。


それがどれほど痛いものか、想像もできなかった。


やがて、扉が静かに開いた。


春の風が、一筋、頬を撫でる。


その風の中に、シリ様の嗚咽が混じっていた。


グユウ様が私を見て、静かに口を開く。


「この後のことはジムに任せてある。・・・エマ、シリと娘たちを頼んだ」


彼の瞳は、切なげに揺れていた。


「グユウ様・・・」

思わず縋るように声をかける。


「エマ・・・頼む」


短く言い残し、グユウ様は静かに頭を下げて、廊下を歩き去った。


私は何もできず、ただその場で膝をついた。


――ウイ様が産まれて、幸せな日々が続くと思っていたのに。


神様は、なんてむごいことをなさるのだろう。


「エマ」


しばらくすると、静かな声が上から降りた。

見上げると、重臣ジムが立っていた。


「お話があります」


促されるまま、私はジムに案内され、奥の部屋へ入った。


ジムは落ち着かない様子で、壁際の椅子に並んで腰を下ろす。


――極秘の話なのだと、すぐに悟った。


「明日の朝、我々がゼンシ様を攻撃することはご存じですか」


「存じております」

そう答えると、ジムは小さく息を吐いた。


産室にこもっていなければ、聡いシリ様ならすぐに気づいたはずだ。


城の空気は、もう戦の匂いで満ちていた。


「グユウ様は、最後まで悩んでおられました。

争いが始まれば・・・シリ様が困ることを」


「だったら、止めてくださればよかったのに」

自然と声が震えた。


「どうにもなりませんでした」

ジムは首を振り、うつむいた。


「家臣たちの怒りは限界でした。

無断で街道を使い、約束を破ったゼンシ様を庇うことは、

ワスト領の民を見捨てるに等しい、と」


正論だった。


それほど、ゼンシ様の行いは重かった。


ミンスタ領出身の私でさえ、反論できなかった。


「グユウ様が支持を続ければ、家臣たちは背くでしょう。

そして、それは――領が割れるということです」


ジムは言葉を切り、扉のほうを見やった。


ここからが本題なのだと、私は悟った。


「今夜のうちに、シリ様とお子様方の荷物をおまとめください。

明日の朝、北門からゼンシ様のもとへ出発していただきます」


「逃げる・・・ということですか」


「はい。馬車と馭者をひとり、北門に残しておきます。

そこから領境の宿へ向かってください。ミンスタの家臣が待っています」


「そこで・・・謀反の報せを?」


「ええ。シリ様からの報告であれば、

ゼンシ様もすぐには剣を向けないでしょう」


「・・・そんなことをして、ワスト領はどうなるのです」


「わかりません。

ただ、グユウ様は――シリ様と子どもたちを生かす道を選ばれました」


私は何も言えなかった。


「そのまま、ミンスタ領へお逃げください」


ジムの声は静かで、どこか祈るようだった。


「ジム・・・あなたはミンスタ領の味方なのですか」

思わず問いかけると、彼はかすかに笑った。


「違います」


「エマがシリ様を想うのと同じように、私もグユウ様を大切に思っているだけです。

だからこれは命令ではなく、願いとして伝えます。

どうか――シリ様をお守りください」


「・・・わかりました。私にできる限りのことを」


短く礼を交わし、私は部屋を出た。


足が震えていた。


向かったのは、お二人の寝室。

そこは、いつも穏やかな空気に包まれた場所だった。


ワスト領の旗印が刻まれたティーカップが二つ、

ソファとローテーブルの上に並んでいる。


その傍らには、シリ様の好物――黄色いプラムの砂糖漬け。


ここで、あの二人はよく語り合っていた。

愛と夢と、未来のことを。


私は黙って荷造りを始めた。

嫁入り道具の箱に、最低限の衣を詰めていく。


衣類は嵩張るから、すべては持っていけない。


真っ先に、乗馬服を入れた。


これは嫁ぐ前、シリ様が最初に箱へ詰めたもの。


きっと大切な品なのだ。


そして最後に、ピンクのドレスと髪飾りをそっと畳む。


――グユウ様が贈ったもの。


服に興味を示さないシリ様が、唯一、大切にしていた衣装だった。


手を触れた瞬間、込み上げてくるものを必死で堪えた。


「・・・辛い任務だわ」


それでも、手を止めなかった。


やるべきことは、まだ山ほどある。


夜明けが、静かに近づいていた。



あくる朝、レーク城は争いを前に、張り詰めた空気に包まれていた。


産室もまた、静かながら異様な緊張に満ちている。


シリ様の頬は青ざめ、唇には、強く噛みしめた痕が残っていた。


その指先は、何かを握りしめるように固く震えている。


私は、ただそのそばに寄り添うことしかできなかった。


――今日で、レーク城を去る。


「私が・・・しっかりしていれば・・・」

シリ様が、悔しさを滲ませて呟いた。


ワスト領とミンスタ領の間を取り持つこと。


それが彼女に課せられた、姫としての務めだった。


けれど今、両者は剣を交えようとしている。


生家と嫁ぎ先が争う――それは、彼女にとって何よりもつらい現実だった。


扉が静かに開き、グユウ様が入ってこられた。


高い背に、紺の軍服。

肩に掛けた青いマントが、重々しく揺れる。

刺繍されたワスト領の旗印が、彼の背負う責務そのもののように見えた。


シリ様とグユウ様の瞳が、静かに交わる。


そこには言葉にならない想いが滲んでいた。


グユウ様は、二人の子どもをひとりずつ抱き上げた。


小さな手が頬を掴み、何も知らぬ瞳で父を見つめる。


「・・・ユウ、大きくなったら父を忘れてしまうかもしれないな」

そう呟く声が、かすかに震えていた。


産まれたばかりのウイ様は、幸せそうに眠っている。


その頬に口づけを落とし、グユウ様は目を閉じた。


「シリと二人きりにしてほしい」


その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。


――あぁ。別れの言葉を伝えるのだ。


私は小さく頷き、悲しげに見つめ合う二人を背に、静かに産室を出た。



しばらくすると、産室の扉の外に佇むグユウ様を見かけた。


辛そうな、悲しげな表情。


その横にジムがそっと寄り添う。


「グユウ様・・・」


扉の内側から、泣きじゃくるシリ様の声が微かに漏れてくる。


「・・・行こう」


グユウ様は短く言い、静かにホールへと歩き出した。


ジムが一度だけ振り返り、私と目を合わせて頷く。


私も静かに頷き返した。


「お元気で」

ジムの声は穏やかで、どこか祈るようだった。


私はそっと産室の扉を開けた。


部屋の中央で、シリ様は泣き崩れていた。


肩を震わせるその背中を、私は何も言わずに撫でた。


「シリ様・・・」


その背中に手を当てると、悲しみと切なさで震えている。


「シリ様・・・やらなくてはいけないことがあります」


私は感情に蓋をして口を開いた。


シリ様は黙って頷く。


悲しみに浸る時間は、あまりに短い。


城を抜ける時刻は十時。

その時間帯は、家臣や侍女たちが休憩に入るわずかな隙。


――それが唯一の脱出の機会だった。


けれど、シリ様は静かに呟いた。


「最後に・・・シンに会いたい」


グユウ様と前妻の子、シン様。

血の繋がりはなくとも、シリ様は彼を心から愛していた。

そしてシン様もまた、シリ様を本当の母のように慕っていた。


子供部屋に入ると、シン様がすぐに気づいて駆け寄ってきた。


「ははうえ!」


無邪気な声が響く。

シリ様は思わず膝をつき、抱きしめた。


「シン・・・!」


その鳶色の髪を撫で、頬を寄せる。


黒い瞳がまっすぐに見つめ返す――それはグユウ様と同じ瞳だった。


シリ様の頬を流れる涙を、シン様は不思議そうに見つめた。


「痛いの?」


「ううん、違うの・・・」

震える声で微笑み、彼の髪を撫でる。


「シン、大好きよ」


何度もそう告げて、何度も抱きしめた。


見つめる私の目にも、涙が滲んでいた。


――女の子の姫たちは、この城を出られる。


けれど、男の子のシン様は残るしかない。


血が繋がっていなくても、

別れを告げなければならない現実は、あまりにも酷だった。


やがて、シリ様はシン様の頬を両手で包み、もう一度だけ微笑んだ。


「シン、元気でね」


その声が震え、私の胸の奥を切り裂いた。


――運命の歯車は、もう動き始めている。


そして、まもなく時計の針は10時になろうとしていた。


私は急いで玄関へ向かった。


背後から、シリ様の足音が小さく続く。


廊下を進みながら、シリ様は一つひとつの柱や壁を、愛おしそうに見つめていた。


まるで、この城のすべてを胸に焼き付けるように。


「・・・グユウさんは、夫で・・・初恋の人で・・・恋人だった」

シリ様の声が、かすかに震えた。


書斎の前を通りかかった時、彼女は足を止めた。


「ここで・・・ウイを授かったとき、グユウさんは喜んでくれたの」


その表情には、深い哀しみと、穏やかな光が同居していた。


私の目から見ても、

シリ様はミンスタ領で過ごした二十年よりも、

ワスト領で過ごしたたった二年の方が、ずっと幸福そうだった。


――グユウ様が、ありのままのシリ様を認めてくださったからだ。


けれど今、その人がいる場所から離れなければならない。


胸が締めつけられる。


玄関の重い扉を押し開け、城外へ出る。

春の風が、髪を揺らした。


「変ね」


シリ様が小さく呟いた。


侍女たちや女中たちは、私たちの姿を見ても誰一人声をかけない。

気づかないふりをしているのだ。


――ワスト領を抜け、故郷へ戻ることを、黙って許してくれている。


皆、優しい人たち。

領主であるグユウ様と同じように。


馬車は、馬場の奥に用意されていた。

家臣たちの目を避けるため、玄関までは乗りつけられない。


すでに乳母と幼い姫君たちが、馬車の中で待っている。


「シリ様、急ぎましょう」

私は声をかけた。


シリ様は小さく頷き、足を速めた。


馬場へ向かう道は、いつもグユウ様と散歩した小径だった。

見慣れた風景が、胸を締めつける。


木々の間から、陽の光を受けてロク湖がきらめいている。

その中心に、チク島が静かに浮かんでいた。


「あぁ・・・」


シリ様の口から、息のような声が漏れた。


そして、力が抜けたように地面に座り込んだ。


その瞳に映る湖面は、涙に揺れていた。


私は慌てて傍に膝をつき、手を取った。


けれど、言葉は出なかった。


――この人は今、愛するすべてを置いていくのだ。


春の風が、二人の頬をなでた。


「シリ様」

私は震える声で呼びかけた。


「・・・行かなくてはなりません」

静かに、けれど切実に。


「・・・なぜ、行かなくてはいけないの?」

シリ様の声は、かすかに震えていた。


「シリ様には、任務がございます」

言葉が詰まりながらも、なんとか伝える。


――ワスト領が裏切ることがあれば、ミンスタ領に即座に報せること。


それが、シリ様に課せられた務めだった。


「兄上は・・・人でなしだわ」


唐突なその言葉に、息を呑む。


「兄は約束を破って、ワストを裏切った。それだけじゃない。嫁ぐ前の私に、乱暴をしたの」


その声は悲しみではなく、怒りで震えていた。


「そんな人でなしのために、私は――グユウさんと離れるの?」


怒りに染まった青い瞳が、湖面のように揺らめいた。


私は胸の奥が焼けるような思いで言った。


「グユウ様は・・・シリ様の幸せを願っておられます。だからこそ、逃げるようにと・・・」


一刻でも早く、シリ様を馬車に乗せなければ。


焦る気持ちを押さえ、声を上げる。


「この城はいずれ滅びる。・・・それでも、シリ様に生きていてほしいのです」


「幸せ・・・」


シリ様が呟くように繰り返した。


「そうです。生き延びることが、グユウ様の――」


そこまで言いかけた時。


「・・・行かない」


あまりにも小さな声だった。


「・・・え?」

思わず聞き返す。


シリ様は、ゆっくりと立ち上がった。


その顔には、もう迷いがなかった。


湖から吹く風が、彼女の髪をそっと揺らす。


その瞳は、深い青に光っていた。


「エマ・・・ごめんなさい」

静かな声だった。


けれど、その言葉には揺るぎない意志が宿っていた。


「・・・戻らないわ」


シリ様は、迷いのない足取りで馬車の方へ向かった。


「え・・・シリ様?」


私は息を詰まらせながら、その背を追いかけた。


春の風が、草を揺らし、裾を翻す。


「ヨシノ、モナカ――城に戻りましょう」


その声は凛として、揺るぎがなかった。


「シリ様、どういうおつもりですか!」


思わず掴みかかる勢いで叫んでしまう。


シリ様は、振り向いた。


その瞳は澄みきっていて、恐れの色がなかった。


「もう、兄上には従わない」

静かな声だった。


しかし、その一言には確かな決意が宿っていた。


「私がどう生きたいか――それは、私が決めるの」


風が吹き抜け、シリ様の金色の髪が光を帯びる。


その姿がまるで神聖なもののように見えて、私は言葉を失った。


「それでは・・・それでは、定めを外れることになります!」

絞り出すように叫ぶ。


女が己の意志で道を選ぶことなど、許されない時代だ。


それを分かっていて、なおシリ様は前を向いていた。


「幸せは私が決めるの。誰が決めるものではない」


そう言い切った後に、


「ごめんね、エマ」


シリ様は静かに微笑んだ。


その笑みがあまりに穏やかで、涙が滲んだ。


私は何も言えなかった。


その背中を見つめながら――彼女が、本当の意味で“生きる道”を選んだのだと悟った。


シリ様は、ゆっくりと城へ歩き出した。


玄関の扉を押し開ける。


その瞬間、廊下にいた侍女たちが息を呑んだ。

誰もが、言葉を失って立ち尽くす。


「シリ様・・・?」


誰かが震える声で呼ぶ。


家臣のカツイでさえ、目を見開いたままつぶやいた。


「お逃げに・・・ならないのですか?」


それでも、シリ様は止まらなかった。


凛とした背筋のまま、光の差す廊下をまっすぐに歩いていった。


――もう、誰の命令でもない。


自らの意志で生きるために。


「カツイ」


シリ様の声が、静かに響いた。


玄関の奥にいたカツイが、驚いたように姿勢を正す。


「グユウさんは、どこで争っているの?」


その口調は淡々としていた。


けれど、瞳の奥には強い光が宿っている。


「え、えぇと・・・その・・・」


カツイは視線を泳がせ、落ち着かぬ様子で身体を揺らした。


「どこ?」


シリ様が一歩近づく。


その眼差しが壁にかかる地図へ向けられる。


「・・・領境です。不意打ちの・・・争いだと」


カツイは答えた途端、しまったという顔をした。


言ってはいけないことを口にしたのだ。


けれど、シリ様は静かに頷いた。


「そう。やっぱりね」


壁の地図に指を伸ばし、境界線の一点をそっとなぞる。


「カツイ、私は知っているの。

グユウさんは――兄を討とうとしているのよね」


カツイは気まずそうに目を逸らす。


「その場所なら・・・この城に戻るのは早そうね」


シリ様は地図を見つめながら、静かに呟いた。


「え、ええ・・・まぁ・・・」

カツイは額に浮いた汗が、一筋流れ落ちた。


「準備をしましょうか!」


突然、シリ様の声が張り上げられた。


その響きに、廊下の空気が一瞬にして張り詰める。


「じゅ、準備・・・とは?」

カツイがしどろもどろに尋ねる。


シリ様は迷いなく言い切った。


「戦が終わったら、兵たちは疲れきっているはずよ。お腹も空かせて帰ってくるわ」


シリ様は腕まくりをしながら、静かに言った。


「皆で兵を迎える準備をしましょう」


その言葉に、周囲の家臣や侍女たちがざわめく。


誰もが想定していなかった提案だった。


「勝っても、負けても――皆でご飯を食べれば、心が一つになるの」

シリ様の声が響いた。


「やりましょう!」


その瞳は、燃えるように強い光を宿していた。


一瞬の沈黙ののち、カツイが「はっ!」と返事をし、

それを皮切りに人々が動き出した。


シリ様の指揮のもと、料理人、侍女、馬丁、家臣までもが総出で準備を始める。


廊下には鍋の音、薪のはぜる音、笑い声、そして、人の声が戻ってきた。


つい先ほどまで静まり返っていた城が、

まるで生き返ったように温かな活気に満ちていく。



翌朝、控えめなノックの音とともに、カツイが姿を見せた。


「我が軍・・・勝ちました」


「兄は?」


「・・・逃れたようです」


「そう」


シリ様は静かに目を閉じた。


ーー争いには勝った。けれど、兄を逃したということは、

いずれこの城に報復が訪れる。


それでも、声に出したのは一言だけだった。


「兵が帰ってくるわ。準備を始めましょう」


ゆっくりと席を立つ。

その背筋は、少しの揺らぎもなかった。



玄関の扉が、重々しく開かれた。


戦の塵をまとったグユウ様が、静かに城に入ってくる。


その姿を見つけると、シリ様は歩み寄り、柔らかく微笑まれた。


「お帰りなさい」


グユウ様の目が見開かれる。


「シリ・・・」

かすれた声が、胸の奥から零れ落ちる。


シリ様は振り返り、背後に控えていた兵たちに声をかけた。


「皆さんも、どうぞ」


その声は澄んでいて、

戦の匂いを一瞬で和らげるような優しさに満ちていた。


美味しそうな香り、兵たちの笑い声、談笑。

戦の直後とは思えぬほど、和やかな雰囲気が生まれていく。


ジムがそっと私に近づき、声をかけた。


「エマ。何があったのですか」


「私たちは、馬車で逃げようとしたんです」


ジムは黙ってうなずく。


「直前で、シリ様が逃げることを拒否しました」


「なんと・・・」


「シリ様のお命を守るために、説得をしました。

けれど・・・揺るぎませんでした」


私は小さなため息をつく。


「そうですか」


「シリ様が、どんな想いでその決断をしたのか・・・私にはわかりません。

でも、少なくとも今は幸せそうです」


ジムはホールを見渡した。


満ち足りた笑顔で食事をする兵士たちの姿に、どこか心が洗われるようだった。


「この食事は・・・シリ様の提案ですか」


「ええ。ミンスタ領では、戦に勝っても負けても兵士に料理を振る舞っていました。

皆で美味しいものを食べれば、結束が生まれ、兵も強くなる――

それが、シリ様の父上の考えです」


「そうですか。ワスト領では、そのような習慣がありませんでした」


ジムは兵士たちの楽しげな様子を見て、穏やかに微笑んだ。


「良いことですね。今後、取り入れたいです」


「シリ様が指揮をとりました。料理人、侍女、馬丁まで総動員して。

あれだけ人を巻き込んで動かす方は、そうそういません」


「・・・お休みいただきましょう。お子を産んで日も浅いのに」


そう呟き、私は急いでシリ様の寝室へ向かった。


寝台に横たわるシリ様は、申し訳なさそうに目を伏せる。


「エマ、ごめんね」


「エマには・・・いつも苦労をかけさせているわね」


私はシリ様の金色の髪をそっと撫でる。


「もう慣れております」


そう微笑むと、シリ様はかすかに涙を浮かべた。


「でも・・・」


「私は、シリ様のその強さに呆れながらも・・・惹かれてしまうのです」


思わず、苦笑いがこぼれる。


「エマ、ありがとう」


シリ様はそっと私の手を取った。


「きっと、グユウ様も・・・シリ様のそういうところをお好きだと思いますよ」


そう言って、優しく布団を掛けた。


「ゆっくりお休みください」


そう告げて寝室を出る。


廊下では、緊張した面持ちで歩くグユウ様とすれ違った。


「エマ・・・」


グユウ様がためらいがちに声をかける。


「お二人で、ゆっくりお話しください」


頭を下げたまま、私は静かにホールへ戻った。


荷解きをしなくては。


今日から――また、この城で暮らすの

最後までお読み頂き、ありがとうございました。


無事に二人で生きると決めたシリとグユウ。


その後のことを短編で先ほど公開しました。


◆嫌いが恋の入口だなんて――誰が想像しただろう


https://book1.adouzi.eu.org/N5943LJ/


妃シリを“嫌い”と決めつけていた家臣オーエンが、

その感情の正体に気づいてゆく物語です。


よろしければ、こちらもお読みください。


そして、物語の原点はこちら。

シリの視点で描いた本編連載(完結済)です。


『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』

https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/


評価とブックマークありがとうございます。励みになります。


改めて、読んでくださりありがとうございます。

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