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18/22

戦の後に妻は「幸せは私が決めます」と言った

妻のシリが出産してから、三週間が経った。

産室で休む彼女に逢いたくて、オレは一日に何度もそこへ足を運ぶ。


春の日差しの中、シリは微笑んでいた。

その頬の色、細い指の動き――すべてが、命の奇跡のように見えた。


「惹きつける瞳だわ」


生まれたばかりの赤子・ウイの瞳は、光の加減によって色が違って見えた。

時に灰色、時に淡い青。そして、黒色。


オレとシリの瞳の色を混ぜた色。


結婚して二年。

オレたちには、三人の子がいる。


一人目は前妻との子、男の子のシン。

二人目は、シリと彼女の兄とのあいだに生まれた娘、ユウ。


そして三人目が、生まれたばかりのウイ。


――オレとシリの、初めての子ども。


「お前たちの妹だ」

オレは子どもたちを呼び寄せ、ウイを抱き上げて見せた。


二歳のシンと一歳のユウは、戸惑いながらもじっと覗き込んでいる。

小さな指が伸び、ウイの頬にそっと触れた。


春の光が部屋に満ちていた。

湖から吹く風はやわらかく、庭の枝先には新しい芽が光っていた。


――ようやく、本当の家族になれた。


そう思った瞬間、胸の奥にじんわりと温かいものが広がった。


この時間が永遠に続けばいいと願った。


けれど、産室の扉を閉めて一歩外へ出た途端、オレの顔から笑みは消えた。


廊下の空気が重く、冷たい。


遠くから人の声が交じり合い、城全体が落ち着かないざわめきに包まれている。


幸福の光がまぶしいほどに――その影が、すでに忍び寄っていた。



昨夜、北の見張りから報せが届いた。


ミンスタ領の軍が、ワストの街道を無断で通過したという。


先頭に立っていたのは、シリの兄――ゼンシだった。


その行き先は、シズル領。

友人トナカが治める、ワスト領の同盟地だ。


本来、ワストとミンスタの間には「シズル領を許可なく攻撃しない」という取り決めがあった。


その約束こそ、シリとの婚姻を決めた理由だった。


だが、結婚して二年。

義兄ゼンシは、その約束をあっさりと破った。


その瞬間から、平穏だった日々は崩れはじめた。


オレは机に広げられた地図を見つめ、何度も息を吐いた。


ワストとシズル、そしてミンスタ。


保っていた均衡が、音もなく崩れはじめている。


家臣たちは口々に言った。


「ゼンシを撃て」と。


怒りはすでに限界に達していた。


もともと、ゼンシの妹――シリとの政略結婚に反対していた者は多い。


そのゼンシが、ワストの街道を無断で使い、約束を破った。


彼を庇うことは、領の民を見捨てるに等しい。


重臣オーエンは机を叩き、声を荒げた。


「グユウ様、もはや見過ごせませぬ!」


その気迫に、部屋の空気が震えた。


ーーシリの生家であるミンスタ領と争いたくない。


それが、オレの本音だった。


けれど、そんな本音を通せば家臣たちは背く。


そして、それはすなわち――領が割れるということだ。


領を守るためには、避けられない。


領主として、それが正しい判断なのだろう。


だが――


シリを思えば、胸の奥が焼けるように痛んだ。


兄を討つ。

生家と争う。

それを妻に告げねばならない。


あの青い瞳が曇る顔を思うだけで、息が詰まった。


「・・・グユウ様」


重臣ジムの声が、決断を促すように静かに響く。


オレは黙って頷いた。


「明朝、出陣する」


言葉にした途端、胸の内で何かが崩れた。


――シリと、娘たちを生かさなければ。


この戦に、彼女を巻き込んではならない。


会議の後、オレは机から立ち上がり、静かな決意を胸に産室へ向かった。


扉の前で一度だけ深く息を吸う。


シリに、別れを告げるために。


いや――生かすために、別れを選ぶのだ。



産室の扉を開けると、春の光が差し込んでいた。


シリは窓辺の椅子に座り、ウイを抱いていた。


その頬には穏やかな紅が差していて、髪に透ける光が柔らかく揺れている。


あまりにも静かで、あまりにも美しい光景だった。


このまま時が止まればいい――ほんの一瞬、そんな愚かな願いを抱いた。


「グユウさん」

シリが顔を上げる。


オレの姿を見つけて、安堵の笑みを浮かべた。


「今日は遅かったですね」


その声の優しさに、胸が痛んだ。


結婚して、まもなく二年になる。


それでもオレは、シリが本当に自分の妻になったことを、どこかでまだ信じきれずにいた。


美しく、聡明で、誰からも敬われる女が、

この自分を好いてくれる――それは、夢のような出来事だった。


夢が壊れぬようにと、

オレの心はいまだにシリの前では、爪先立つ思いだった。


「シリ、話したいことがある」


彼女の腕の中で、眠っていたウイがかすかに身じろぎする。

小さな命のぬくもりが、産室の空気をやわらげた。


シリが顔を上げる。


その青い瞳に見つめられ、言葉が一瞬、喉に詰まる。


けれど、言わねばならない。


オレはシリのそばに屈み、まっすぐにその瞳を見た。


「ゼンシ様が・・・シズル領を攻めた」


言葉にした瞬間、幸福の空気が砕けた。


シリの指先が震えた。

ただ、真っ直ぐにオレを見つめている。


「兄が・・・約束を破ったのですね」


オレは静かに頷いた。


「家臣たちは憤っている。ゼンシ様を撃つと決まった。明朝、出陣する」


沈黙が落ちた。


窓の外の春の光が、まるで遠い日の記憶のように冷たく見えた。


「・・・そんな」

小さな声が震える。


その声が、心の奥を切り裂いた。


「シリ、この城から逃げてくれ。ゼンシ様に、ワストの兵が動くと伝えるんだ。

そして・・・そのまま、生家に帰れ」


シリの瞳が大きく見開かれた。


驚きと痛みが交錯する。


「どうして・・・?」


「生き延びるためだ」


掠れた声が、自分のものとは思えなかった。


「シリがこの城に残れば、ゼンシ様の怒りが向く。その前に・・・逃げてくれ」


シリは聡い女だ。


オレの治めるワスト領が、武でも富でもミンスタ領に敵わぬことを、誰よりも知っている。


滅びるとわかっている城に、

彼女と子どもたちを残すことなどできるはずがない。


シリは唇を噛み、膝の上のウイを抱きしめた。


その指先が、かすかに震えていた。


「・・・どうして、そんなことを。私が兄に報告をしたら、ワスト領は滅びるのですよ。

私に内緒にして・・・明日出陣をすればよかったのに」


オレは首を振った。


「オレは、お前に嘘をつかないと決めた。だから言う」


シリの青い瞳から、涙が一粒こぼれ落ちた。


「守るためだ。お前と、子どもたちを」


その言葉を言うだけで、胸が裂けそうだった。


「グユウさん・・・」

シリの瞳は涙で揺らいだ。


「領主としてのオレは未熟だ」

オレは、子供ごと、シリを軽く抱きしめた。


「シリ・・・好いているという言葉では足りない。

オレのところに嫁いで・・・子を産んでくれてありがとう」


ーー離したくない。


けれど、それは許されないことだった。


オレも、そして、シリも責任がある立場なのだ。


「馬車を一台用意してある。オレが出陣をしたら、すぐにユウとウイを連れてこの城を出てくれ」


そう話すと、彼女は蒼白な顔をして俯いた。


政略結婚、それは愛でも情でもなくーーお互いの家を結びつける結婚。


シリは、生家にオレの裏切りを伝える義務があるのだ。


「・・・シリ。どんな形でもいい。

お前が無事に生きてくれたら、オレはそれでいい」


そう伝え、産室から出て行った。


胸の奥が切なさと悲しみで疼く。


ーーこれで良いのだ。


そう言い聞かせた。


その夜、シリはユウとウイの乳母たちと共に、

城を離れるための支度を進めていた。


衣を畳む音、包みを結ぶ音が、寝室から途切れ途切れに響いていた。


誰も言葉を発しない。


それぞれが、胸の奥で何かを噛みしめていた。



翌朝――出陣を前に、オレはもう一度だけ産室を訪れた。


扉を開けると、シリがいた。


髪は乱れ、頬はこけ、目の下には深い影が落ちている。


一睡もできなかったのだろう。


それでも、彼女は立ち上がり、まっすぐにオレを見た。


最後の別れの時が来た。


最初にユウを抱いた。


青い瞳、輝く金髪――シリにそっくりな子だ。

けれどその父は、シリの兄。

今まさに、オレが戦おうとしている男だった。


小さな体を抱き上げると、ユウはじっとオレを見つめた。


その真っ直ぐな視線に、思わず胸が締めつけられる。


「ユウ、大きくなったら、父を忘れてしまうかもしれないな」

ぽつりとこぼれた言葉に、自分でも驚いた。

抱きしめる腕に、自然と力がこもる。


「けれど・・・オレは、一日たりともお前を忘れない」


ユウは何も言わず、ただその瞳でオレを見返していた。


まるで、すべてを理解しているかのように。


そのあと、産まれてまだ二十日しか経たぬウイを抱いた。


オレとシリにとって、初めての子ども。


何も知らないその子は、幸せそうな顔で眠っていた。


この小さな命が、オレのことを覚えているはずもない。


オレはそっと抱きしめ、愛おしげに目を閉じた。


「・・・ウイのことを、頼む」


乳母にウイを渡すと、彼女は唇を噛み、涙をこらえながら深く頭を下げた。


乳母たちは肩を震わせながら、静かに部屋を出ていった。


やがて、産室にはオレとシリだけが残った。


「シリ・・・」

オレは彼女の顔を両手で包み込んだ。


「ユウとウイのことを頼む」


シリはオレの瞳をまっすぐに見つめ、黙って頷いた。


――もう決めているのだ。


この城を出ることも、子を連れて行くことも。


そして、きっとオレの前で泣かないことも。


その強さが、余計に胸を締めつけた。


オレはそっと近づき、彼女の細い肩に手を置いた。


その時、シリが静かに言った。


「・・・グユウさん。最後に、口づけをしてください」


予想もしなかった言葉だった。


一瞬、息が止まる。


離れたくない――その想いが、胸の奥で音を立てた。


どちらからともなく目を閉じ、唇が触れ合った。


これ以上続ければ、きっと離れられなくなる。


オレはすぐに唇を離した。


けれど――


「もっと・・・」

シリが、震える声で願った。


「もっと、してください」


その瞳に込められた想いに、もう抗えなかった。


唇を重ねる。

深く、長く。

息が足りなくなっても、離れたくなかった。


苦しくて、それでも離れたくなくて、オレたちは何度も唇を重ねた。


――離れたくない。


ドアを優しく叩く音がした。


家臣ジムの気配。


もう時間だ。


唇を離し、扉の外に向かって声をかける。


「もう少し、待ってくれ」


産室に差し込む春の光のなかで、もう一度、シリを見下ろした。


淡い日差しを受けた彼女の髪は光を帯び、

青い瞳には、人を魅するほどの強い光が宿っていた。


「シリ・・・どこにいても、シリの幸せを願っている」


涙で揺れる瞳をつくづく見つめ、それだけを言い残して、身を離した。


行かなくてはならない。


背を向け、扉へ歩み出す。


背後で、かすかな衣擦れの音。


シリが、静かにその場にしゃがみ込んだのがわかった。


――駆け寄ることはできない。


扉を閉める。


閉じた瞬間、

「・・・あぁ」

絞り出すような声が、内側から聞こえた。


シリの泣き声を背に、オレは目を閉じた。


「・・・グユウ様」

ジムが、静かに声をかける。


オレは顔を上げ、心を押し殺して歩き出した。


領主として、民のため、家臣のために――戦わなければならない。


ホールでは、すでに家臣たちの雄叫びが響いていた。


それは、戦の始まりを告げる音。


兵たちの足音が、重々しくレーク城を離れていく。


――シリ。どうか、幸せに。


その想いを胸に、オレは戦場へ向かった。



「逃した」

シズル領・領主でもあり、友人のトナカが忌々しげに吐き捨てた。


「あぁ」

オレも、短く返すしかなかった。


義兄――ゼンシ様は、オレの裏切りに激昂した。


「グユウめ! 義兄を撃つとは何事だ!」

怒号が響き、彼は挟み撃ちを恐れて険しい山道へと逃げた。


討ち取ることは叶わなかったが、戦はワストとシズルの勝利で終わった。


トナカが息を整えながら問う。

「シリは、どうした?」


「ミンスタ領に返した」

そう答えたが、胸の奥が軋んだ。


オレの口調に、トナカは察したようにうなずく。


「シリが・・・幸せに過ごせるなら、それでいい」

自分に言い聞かせるように呟く。


「必ずゼンシを撃とう」

トナカが差し出した手を、オレは強く握り返した。


「あぁ」


握り返したその手の温もりだけが、戦の余韻の中で唯一の救いだった。



翌朝、城に帰る道のりは沈んだものだった。


春の風がゆるやかに吹き、草木の匂いが馬の息づかいに混じる。


戦が終わったというのに、胸の奥の重さは消えなかった。


義兄を裏切り、シリを失った。


勝ったはずの戦が、何ひとつ誇れない。


いつもは・・・遠出のたびに、シリがいる城に早く帰りたくて、馬を飛ばした。


ーーもう、シリはいない。


レーク城が見えてきた。


ジムが隣で小さく言った。


「・・・グユウ様、少しお休みを」

オレは無言で頷き、馬を降りた。


城門が開く。


見慣れた木壁と、懐かしい空気。


それなのに、もう帰る場所ではないように感じた。


玄関の扉を押す。

ひんやりとした空気が頬を撫でた。


その瞬間――


「・・・お帰りなさい」


静かな声が、風に溶けるように響いた。


目の前にシリがいた。


白いエプロン姿で、まるで侍女のように控えめな装い。


けれど、その青い瞳だけが、すべてを物語っていた。


一瞬、言葉が出なかった。


息をすることさえ忘れた。


「勝利・・・おめでとうございます」

シリは微笑んだ。


夢ではない。


けれど現実だと受け止めるには、まだ時間が足りなかった。


逃したはずだった。


命に変えてでも守りたかったシリ、安全な故郷に戻るように指示をしたはず。


「シリ・・・なぜ」


掠れた声で尋ねると、彼女は答えなかった。


ただ、穏やかな笑みを浮かべ、後ろに控える家臣たちに声をかける。


「皆さんの食事を準備しています」


焼きたてのパンの香りが漂い、

ハーブの効いたスープの匂いがホールに満ちていく。


戦いを終えた兵たちは、戸惑いながらもその香りに目を細めた。


シリは、全員の前に立ち、静かに頭を下げた。


「皆さま、お疲れさまでした。今日はどうか、身体を休めてください」


その声に、ざわついていた空気が次第に静まり、やがてホールは不思議な温かさに包まれた。


料理人と女中たちが、次々と器にチキンスープを注いでいく。


シリが一歩前へ出て、両手でスープの器をオレに差し出した。


「どうか召し上がってください」


その優しい声に、ほんの一瞬、戦場の記憶が遠のいた。


スープを口にしようとしたそのとき――


「グユウ様! お待ちください!」

オーエンが血相を変えて駆け込んできた。


「毒かもしれません! もし全員が食べれば、ワスト領は――」


場が一気に凍りついた。


「毒など入れていません」

シリがきっぱりと言い放つ。


その勝気な瞳に、オーエンは言葉を失った。


「それでも不安なら、私が証明します」


シリはオレの手から器を取り戻すと、その場でスープを啜り、パンをちぎって食べた。


静まり返った空間に、スープを飲む音だけが響いた。


「皆で作りました。安心して召し上がってください」


毅然とした声がホールに響く。


兵たちが顔を見合わせ、やがて一人、また一人と器を手に取った。


温かい香りと笑い声が広がり、

戦の直後とは思えぬほど、和やかな空気が満ちていく。


オーエンは恥ずかしそうにうつむいた。


「オーエン」

シリが穏やかに呼びかけた。


「あなたは良い家臣です」


「出過ぎた真似をしました」

オーエンは悔しげに頭を下げる。


「あなたがいれば、グユウさんは安心です」


見上げると、

シリの青い瞳は、さっきまでの強さとは違う光で、

やさしくオーエンを包み込んでいた。


その姿を見つめながら、

オレは胸の奥に熱いものがこみ上げるのを感じた。


――この人は、強くて、賢い。

どんな男よりも勇敢で、そして、美しい。


だからこそ、気になる。


なぜ――この城に残ったのか。


今すぐシリの肩を掴んで問い詰めたかった。


けれど、その時間はなかった。


領主には、片付けねばならない仕事が山のようにある。


すべてを終え、高鳴る胸を押さえながら寝室へ向かった。


扉を開けると、そこにシリがいた。


背筋をまっすぐに伸ばし、強く、美しい瞳でオレを見つめていた。


星のような光を宿した目から、

負けず、曲げず、諦めない意志が滲んでいた。


――この瞳に、何度心を奪われてきたことか。


シリはいつも、疑問を口にし、前に向かって行動で答える女だった。


だからこそ、オレが流されてはいけない。


彼女の幸せを考えれば、なおさら。


「シリ・・・どうして逃げなかったんだ」

静かに問うと、彼女は一歩も引かずに言った。


「逃げません」

その瞳は、相変わらず強く光っていた。


「私はここにいます」


「シリ、ここにいてはダメだ。

近いうちに、ゼンシ様はこの城を攻めてくる」

思わず彼女の肩をつかんだ。


「攻めるでしょう。兄上なら」


「逃げた方がいい。オレは・・・シリに幸せになってほしい」


シリは黙ったまま、じっとオレを見つめた。


その青い瞳の奥に、かすかな哀しみが揺れた気がした。


美しいその目を見て、オレの心がわずかに揺らぐ。


けれど、すぐに気持ちを押し殺す。


「シリ、今なら間に合う。ミンスタ領に戻れ」


シリは静かに首を振った。


「殺されてしまうかもしれないのだぞ」

懇願するような声が、自分のものとは思えなかった。


「戻ったとしても・・・私はまだ二十二歳。

子を産める女には、利用価値があります。

生家に戻れば、兄に命じられ、また別の男に嫁ぐでしょう。

グユウさんを想いながら、知らない男に抱かれる。それが幸せだと思いますか?」


言葉が出なかった。


シリを手放す覚悟はしていたはずなのに。


その先のことなど、考えたこともなかった。


オレの答えを待たずに、シリは再び口を開いた。


「それとも・・・兄上の慰み者になるかもしれませんね」


その言葉に胸が痛んだ。


喉が焼けるようで、言葉が出なかった。


「幸せって、なんでしょうか」

シリが遠くを見つめて呟く。


「安全な場所で、知らない男に抱かれることでしょうか」

挑むような瞳が、まっすぐにオレを射抜いた。


「女は嫁ぎ先を選べません。

けれど、どう生きたいかは選べます。選べるのなら、私はこの場所を選びたい」


そう言って、シリは立ち上がった。


一歩、また一歩と歩み寄り、オレの前で止まる。


「私はこの城に残ります」


強い光を宿した瞳が、すぐ目の前にあった。


あまりに美しくて、言葉を失った。


「幸せは他人が決めることではありません。私が決めます」


次の瞬間、オレは衝動のままに彼女を抱き寄せていた。


「シリ・・・なんてことを言うんだ」

声が震え、泣き声に近かった。


「いいんです」


「・・・きっと後悔する」

「しません」


シリの首筋に顔を埋め、さらに抱きしめる。


そのぬくもりに、心が軋む。


「・・・グユウさん」

「シリ・・・未熟ですまない。けれど、オレは嬉しい」


「口づけを、してもらえますか」

その声に、オレは息を呑んだ。


恐る恐る唇を寄せ、そっと触れるように口づけをした。


離れた瞬間、シリが囁く。


「もっと・・・してください」


迷いのないその瞳が、闇の中でもはっきりと見えた。


再び唇を重ねる。

時間の感覚が遠のいていく。


吐息が混じり、呼吸が乱れる。


気づけば、二人はベッドにもつれ込んでいた。


見上げるシリが微笑む。


それだけで、心が震えた。


――彼女が選んだ道に、自分はふさわしいのか。


彼女を幸せにできるのか。


自信がなかった。


「グユウさん」

シリが身体を起こし、穏やかに言った。


「私が決めたことです。迷わないでください」


その強い言葉に、思わず吹き出す。


「シリは・・・強いな」


「それは、グユウさんが隣にいるからですよ」

囁きながら、彼女は微笑んだ。


オレは息を呑んだ。


「・・・オレのそばにいて、いいのか」


「グユウさんじゃないと、ダメなんです」


彼女の瞳に宿る決意に、胸が締めつけられた。


この人は、自分よりもずっと強い。


守るために手放そうとした。


けれど――


自分のいない場所で彼女が泣くことの方が、何倍も怖いと知ってしまった。


気づけば、もう一度抱き寄せていた。



「無理をさせてしまった・・・身体は大丈夫か」


息を整えながら問いかけると、シリは少し息を弾ませてオレの手を握った。


「大丈夫です」

力のない声でそう言い、幸せそうに微笑んで瞼を閉じた。


その横顔を見つめながら、オレは静かに息を吐いた。


――もう離さない。


この人が望む場所に、オレも共に立とう。


未熟な領主だとしても、

彼女に相応しい男に、夫に、そして父親になろう。


腕の中のシリを、もう二度と離さぬように強く抱きしめた。


春の風が、窓の隙間から静かに吹き込んだ。


最後までお読み頂き、ありがとうございました。


彼らの物語には、まだ語られていない出来事があります。

――グユウが出陣し、シリが「逃げるように」と言われた朝のこと。


その出来事を、侍女エマの視点で描いた短編を先ほど公開しました。

よろしければ、こちらもお読みください。


『幸せは、私が決める――逃げなかった妃の物語』

https://book1.adouzi.eu.org/n5564li/


戦に背を向けず、愛と誇りを貫いた妃の決意を描いています。



そして、物語の原点はこちら。

シリの視点で描いた本編連載(完結済)です。


『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』

https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/


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