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抱かぬ妻を愛し抜いた ー沈黙の夫と春の約束ー

妻、シリの出産から二十日が経った。


産室の戸を開けるたび、小さな泣き声が耳に届く。

そのたびに、オレの胸の奥があたたかくなる。


難産だったシリの身体は、まだ本調子ではない。


「身体は・・・辛くないか?」

言葉にしてみても、うまく伝わらない。


「大丈夫です」

シリは柔らかく微笑む。


その顔が見たくて、オレは何度も産室に足を運ぶ。


産まれたばかりの娘、ユウの顔を覗き込む。


その瞳は、驚くほど青かった。


日に日に、その顔立ちはシリに似てきていた。


・・・そして、あの夜、シリを傷つけた彼女の兄にも。


ユウはオレの子ではない。


それでも、愛しいと思った。


シリが命を懸けて産んだ子だ。


だから、オレの子だと、そう言い聞かせた。



◇ 出産四十日目の朝


シリの身体は徐々に回復してきた。


今日は、娘ユウを連れて父母に挨拶へ行く日だった。


この家にシリを連れて行くのは、初めてだ。


彼女が嫁いだ当初、父は“ミンスタの魔女”と呼び、シリを遠ざけていた。


母は穏やかだが、父に逆らわぬ人だ。


この家では、ユウの父親の件は秘密にしている。


それを知っているのは、シリとオレ、そして乳母のエマだけだ。


オレに似ていないユウを見て、

ふたりがどんな顔を見せるか、正直、不安だった。


城から屋敷までは歩いて十五分。


風が冷たい。


シリは乳母にユウを抱かせながら、何度もその顔を覗き込んでいた。


その仕草がいじらしいほど優しくて、胸の奥が熱くなる。


屋敷の玄関前で、重臣オーエンが待っていた。


頼りになる重臣だが、シリには依然として冷ややかだった。


無言で頭を下げるだけで、視線を合わせようとしない。


客間の戸を開けると、父と母が並んで座っていた。


父は領主を退いて久しいが、未だに家中では誰も逆らえない。


その眼光が、まずシリに注がれる。


しばらくの沈黙のあと、父が言った。


「元気そうだな」

それだけで、少しだけ空気が和らいだ。


「ユウを抱いてください」

オレがそう言うと、乳母が慎重に赤子を父の腕へ渡した。


眠っていたユウが、まぶたを開いた。


光を映したような青い瞳。


父も母も、息を呑んだ。


――頼む。オレの子供だと思ってくれ。


胸の奥で、そう祈った。


隣に立っているシリも、緊張しているせいか震えていた。


父の口元がわずかに動く。


その瞬間、オレの指先に力がこもった。


「・・・可愛い子だな」


ほっと息をついた。


そのひと言で、すべてが救われた気がした。


「本当に」

母が小さく頷く。


「この姫は、将来美人になる」

その声音は穏やかで、柔らかかった。


ーーああ・・・よかった。


疑わない。


ユウを抱く父の手に、ためらいはなかった。


そのことに胸をなでおろしたのも束の間だった。


「次は男の子を頼むぞ」

いつもと変わらぬ調子で言う父の声。


産声をあげたばかりの子を抱いた妻に、

“次を”と願うのがこの領の常識だとわかっている。


けれど、その瞬間、喉の奥に何かが詰まった。


シリは静かに頭を下げていた。


その横顔に、かすかな疲れと、揺るがぬ気丈さが滲む。


――命を賭けて産んだ人に、もう一度、あの痛みを背負わせたいとは思えない。


それでも、口を開く勇気が出なかった。


「励みます」

そう言うしかなかった。


父の屋敷を出てから、風が冷たかった。


シリの肩をそっと抱き寄せながら、

その手の下で、彼女の細い骨ばった背を感じた。


ーーどれほど、彼女に無理をさせてきたのだろう。


「疲れただろう」


そう声をかけると、シリはかすかに笑った。


その笑顔に救われると同時に、胸の奥で何かが痛んだ。


ーー触れたい。


抱きしめたい。


けれど今は、それを口にしてはいけない気がした。



その日から、シリは再び同じ寝室で過ごすようになった。


産後の隔離が解け、久しぶりに同じ部屋で迎える夜。


ーーあぁ。彼女に触れたい。


でも、そんなことはできない。


シリはいつも通り穏やかに微笑んで、「おやすみなさい」と寝台に入る。


一緒の寝台に入る。


隣にいる彼女のぬくもりが、薄布越しに伝わる。


ただそれだけで、心臓の鼓動がうるさい。


思わず腕を伸ばし、彼女の肩を抱き寄せた。


頬に触れる髪の香り。


額にそっと口づけを落とす。


シリが、じっとこちらを見つめた。


その瞳に何かを求める光が宿る。


手が伸びかけたが、必死に抑えた。


「・・・疲れているだろう」

そう言って、静かに身を離す。


そんな夜が、半月ほど続いた。


触れたいのに触れられず、

言葉を交わすたびに、距離ばかりが広がっていく。


父に言われた「次は男の子を」が、頭の奥でこだまする。


あの言葉を聞いたとき、シリの指先が小さく震えた。


見て見ぬふりをしたのは、臆病だったからだ。


ーーもう、これ以上彼女に痛みを背負わせたくない。




ある晩、寝台の端で月明かりを見ていたとき、ふと思った。


ーーせめて、身体だけでも癒やしてやりたい。


そうすれば、少しは笑顔を取り戻せるだろうか。


「・・・シリを、温泉に連れて行きたい」


翌日の昼食時、思わず口をついて出た言葉だった。


シリが驚いたように顔を上げ、フォークを置く。


「温泉・・・ですか?」


「城の近くに、良い湯がある。湯治にちょうどいい」


家臣のジムが膝を揃え、補足する。


「産後の身体には温泉が効くと聞きます」


乳母のエマも頷いた。


「確かに、温めるのは良いことでございます」


シリが少しだけ微笑んだ。


その笑みが久しぶりで、胸が締めつけられた。


ーーあぁ、この笑顔を取り戻したい。


それだけでいい。




馬車に揺られ、山のふもとまで五分ほど。


春の陽がやわらかく、湯気がかすかに漂っているのが遠目にも見えた。


湯場は木の板と布で囲われた簡素な造りで、山肌から湯が湧き出している。


赤茶けた湯は鉱物の匂いを含み、夜気の中でゆらめいていた。


「このお湯に・・・入るんですか?」

シリの声は不安げだ。


「ああ。服を脱いで、ゆっくり浸かるといい」

そう答えながらも、目を合わせられなかった。


「髪が濡れると後が大変だ。縛っておけ」

それだけを言い残し、先に湯へ入った。


湯の中は思ったより熱く、身体がじんわりと緩む。


耳の奥で、心音が大きく響いた。


やがて、布のすれる音。


シリが入ってくる。


お湯の表面が波立つ。


「・・・気持ちが良いです」

背中越しに、その声が届く。


オレは短く答えた。


「そうか」


振り向くことができなかった。


ーーあれほど痛みに耐えた身体に、触れてしまったら彼女を傷つけるかもしれない。


そう思いながらも、湯に浮かぶシリの姿を想像するだけで邪な気持ちが湧き上がる。


ーー見てはいけない。


見たら、また抱きたくなる。


「・・・オレは、もう上がる」

早口でそう言い、立ち上がった。


湯気の中、シリが何か言いかけたように見えた。


けれど、聞き取れなかった。


 ◇


帰りの馬車の中は、静かだった。


シリは窓の外を見ている。


春の風がカーテンを揺らす。


ーー温泉に誘ったのに、笑顔を見られなかった。


逆に距離を作ってしまった気がして、胸が苦しかった。


ほんの少しでいい。


肩に触れたい、声をかけたい。


それだけなのに、身体が動かない。


『父の言葉なんて、気にするな』

そう言えばよかったのだ。


だが、言えなかった。


何を言っても、軽く聞こえそうで。


沈黙の中で、蹄の音だけが乾いた地面を刻んでいた。


オレはその音を聞きながら、シリの横顔を盗み見た。


彼女の睫毛がわずかに揺れている。


泣いてはいない。


けれど、その静けさが、涙より痛かった。



その夜、寝室に静かな月明かりが差し込んでいた。


シリは先に寝台に入り、背を向けていた。


いつもと変わらぬはずの夜。


けれど、何かが違った。


ーー沈黙が、妙に重い。


オレが寝台の端に腰を下ろした。


布団の中の距離はわずか。


触れられるほど近いのに、触れられない。


「・・・おやすみ」

そう伝えた。


いつもより遅い息づかい。寝息の気配がない。


シリがぽつりと呟いた。


「・・・グユウさん、私のこと・・・嫌いになったのですか?」


息が止まった。


思わず顔を向ける。


「どうして、目を合わせてくれないのですか」

彼女は布団の上に身を起こしていた。


暗がりの中、涙が頬を伝っている。


「出産前は・・・あんなに優しかったのに・・・いまは、もう・・・」

声が詰まり、言葉が途切れる。


何を言えばいいかわからなかった。


ただ、彼女が泣いているという事実が胸を締めつけた。


呆然とシリの顔を見つめるしかなかった。


「どうして、口づけをしてくれないのですか?」

その声は涙声だった。


「違う・・・そんなことはない」

やっとの思いで言葉が出た。


「じゃあ、なぜ触れてくれないのですか。・・・ユウの父が、あなたではないから?」

その一言が、胸に深く突き刺さった。


「シリ・・・」

呼ぶ声が掠れた。


オレは慌てて起き上がり、彼女を抱き寄せた。


「違うんだ。そうじゃない」


彼女の身体が震えている。


頬を濡らす涙が、肩に落ちた。


「私は・・・あなたに、見てほしかっただけなのに・・・」

泣きながらシリが叫ぶ。


その言葉に、何かが切れた。


オレは彼女を強く抱きしめた。


「シリ、すまない」

耳元で囁く。


「グユウさんは・・・何も悪いことはしていません」

シリは泣きながら首を振る。


「もう、私のこと・・・好いてないんでしょう?」


「・・・難産だったと、医師から聞いた」

耳元で呟く。


「痛みに耐えて、命を懸けて、ユウを産んでくれた。

そんなシリに、また“次を”なんて言われて・・・。オレには、何も言えなかった」


シリの呼吸が止まる。


そっと彼女を離し、顔を見つめた。


「私のことを心配してくれるのなら・・・どうして、目も合わせてくれないのですか?」

少し拗ねた口調で視線を落とす。


「それは・・・」

オレは口ごもる。


「何ですか?」

シリは少し口調を強めて、顎を上げた。


「目を合わせると・・・シリを抱きたくなるからだ」

恥ずかしさのあまり、目を伏せる。


彼女の瞳が、大きく揺れた。


「だから、口づけもしてくれなかったのですか?」


彼女の問いに黙って頷いた。


「温泉の時に背を向けたのは・・・」


「あれは目の毒だ」


「毒?」


「シリの肌を見たら、邪な気持ちが出てくる」


ふっと空間が解ける音が聞こえた。


恐る恐る顔を向けると、シリは泣きながら笑っていた。


「・・・そんな事、言ってくれないと、わからないですよ」


「そうだな」

オレも少しだけ苦笑いをした。


ーー言わなくても伝わると思っていた。


でも、それでは伝わらないのだ。


シリが静かに息を整え、顔を上げた。


「私の身体は、もう大丈夫です」


その一言に、心臓が跳ねた。


「・・・本当に?」

思わず口元が緩んでしまう。


彼女は頷いた。


「口づけをしてもらえなくて、寂しかったです」

潤んだ瞳で見上げてくる。


もう、理性など保てなかった。


オレは彼女の首筋に顔を埋め、腕を回した。


「・・・シリ」


唇を寄せ、そっと触れる。


その瞬間、すべての沈黙がほどけた。


彼女がオレの胸元を掴み、囁く。


「・・・もっと、強くお願いします」


熱がこみ上げる。


オレは彼女を押し倒し、唇を重ねた。


何度も、何度も。


息を吸うたび、彼女の匂いが胸に広がる。


シリの小さな声が震えていた。


「グユウさん・・・好きです」


世界が静まり返る。


その言葉が、心の奥に落ちていく。




「・・・すまない」

無意識にそう呟いた。


彼女は力なく首を振る。


腕の中にいる彼女を抱きしめながら、震える声で続けた。


「優しくしたかったのに・・・うまくできなかった」


「大丈夫ですよ」

少し息が上がった彼女が微笑む。


「グユウさん、思ったことは口にしてもらわないと・・・」


「すまない」


「数日間、ずっと不安でした」


ーーオレの行動が彼女を傷つけてしまった。


シリを抱き寄せ、唇を彼女の髪に押し当てた。


「シリ・・・好きだ」


その言葉に、彼女の瞳がかすかに潤む。


夜風がカーテンを揺らし、春の香が流れ込む。


あの時、ようやく気づいた。


想いあうということは、ただ想うだけでは駄目なのだ。


互いに歩みより、痛みを知ることなのだ、と。



夜が明けた。


薄い朝の光が、寝室のカーテン越しに差し込む。


シリの髪が枕の上に広がり、頬にはかすかな赤みが残っている。


彼女の寝息を聞きながら、オレは静かに目を閉じた。


――この温もりを、ようやく取り戻せた。


外では、鳥の声がしていた。


その日、家臣たちにユウのお披露目が控えていた。


窓辺の光を受けて、シリはピンク色のドレスに袖を通す。


その生地は、昨年オレが贈ったものだった。


白い肌に柔らかく映え、胸元に咲く薔薇の刺繍が春のように揺れる。


「お似合いです、シリ様」

乳母エマの声が弾む。


侍女たちが頷き、シリは照れたように微笑んだ。


その姿を見た瞬間、胸の奥で何かがほどけた。


ただ見とれていた。


「・・・綺麗だ」

思わず、声が漏れた。


シリが振り返る。


オレの瞳を見つめ、ゆっくりと微笑んだ。


ユウを抱き上げ、広間へ向かう。


招かれた家臣たちが見守る中で、オレは高らかに言った。


「オレとシリの子、ユウだ」


静まり返った空間に、声が響く。


その一言に込めたのは、血の真実ではなく、覚悟だった。


ーーこの子が誰の血を継いでいようと関係ない。


シリが命を懸けて産んだ子なら、オレの子だ。


この腕で守ると決めた。


シリが小さく頷く。


その目には、涙が光っていた。


「ありがとう、グユウさん」

声にならぬ口の動きがそう言っていた。


周囲から拍手が起こり、笑い声が弾む。


誰も疑わず、ただ新しい命の誕生を祝っていた。


オレはその中で、そっとシリの手を握った。


その手は、あの日よりも温かかった。


――この光が、どうか長く続きますように。


シリがこちらを見上げ、静かに微笑む。


その笑顔を胸に焼きつけながら、オレは心の中で誓った。


ーーたとえ、これからどんな影が訪れようと。


オレは彼女を想い続ける。


それが、彼女と娘に与えられた唯一の約束だった。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


この短編は『秘密を抱えた政略結婚』本編のスピンオフで、

グユウ視点によるエピソード(第12作目)です。


短編だけでもお楽しみいただけますが、

本編を読むと二人のすれ違いや政略の背景がより深く伝わります。


▼シリーズ本編


**『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』**

https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/

<完結>


先ほど、短編を公開しました。


「男の子を産まねばならない妻が、女の子を抱いて笑った」


https://book1.adouzi.eu.org/n1547lh/


政略で結ばれた夫婦。


義務に縛られながらも、彼女は愛を知り、命を抱いた。


――「この子以外、誰にもなってほしくないの」


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