偽りの子を抱く私を、夫は“オレたちの子だ”と言った
オレの元に妻が嫁いで十か月。
季節はまた、雪の降る冬へと巡った。
古い年が美しく去り、新しい年が明けた朝、
妻、シリはふくらんだ腹をそっと撫でて言った。
「もっとお腹が出るものだと思っていたの」
笑いながらも、どこか不安げだった。
「シリ様は背が高いので、お腹が目立たないのですよ」
乳母のエマがそう伝えた。
オレはそのやり取りを静かに見守っていた。
嫁ぐ二日前――
兄がシリの部屋を訪れたと聞いた。
その夜のことを、オレが知ったのは数ヶ月前。
妊娠を打ち明けた時、シリは涙ながらに言った。
「お腹の子は・・・あなたの子かもしれない。そして、兄の子かもしれないの」
初めてシリに触れた夜、
怯え、震えていた理由を――その時、初めて理解した。
――この子は、誰の子なのだろう。
少しずつ膨らむ彼女のお腹を見るたびに思う。
オレの子か、それともあの男の子か。
答えは出ない。
けれど、どちらでもいいと、次第に思うようになった。
彼女が生きて、笑ってくれるなら、それでいい。
彼女が、この城に来てから、オレの世界は変わった。
夜の寝室で、シリがオレに甘え、微笑んくれる。
それが嬉しくて、オレはどんなに忙しくても夜には部屋に戻った。
夜、眠る前に彼女のお腹に手を当て、「まだか」と尋ねるのが習慣になった。
胎の奥で小さな命が動くたび、
オレは自分の胸の奥まであたたかくなるのを感じた。
「そんなに真剣な顔をしても、まだ出てきませんよ」
そう言って笑うシリの顔が、春の光のようだった。
窓の外は深い雪に覆われた。
冷たい風が窓を震わせ、白い吐息が部屋の灯りに溶けていく。
温暖なミンスタで育ったシリには、この寒さが厳しいらしい。
凍える指先を見て、オレは何度もその手を包み込んだ。
温かな息を吹きかけると、シリはくすぐったそうに笑った。
「寒いです」と言うたびに、オレは何度でもその手を温めた。
次第に、彼女は寒くなくても、それを口にすることがわかった。
嘘だと知っていても、嬉しかった。
――この時間が、ずっと続けばいい。
そう思っていた。
だが二月。
晴れた雪の朝、彼女が腹を押さえ、息を詰まらせた。
午前中、少しずつお腹が痛むようになってきた。
痛みは次第に強くなり、医師と助産婦を呼んだ。
オレは何もできず、ただ書斎で待つしかなかった。
外は静かだった。
蝋燭の炎がかすかに揺れ、雪が窓の外を白く覆っていく。
医師と助産婦が部屋に入ってから、どれほどの時間が経ったのかわからない。
蝋燭の炎が短くなり、外では雪が降り続いていた。
部屋の前では、シリの苦しそうな呻き声が響く。
途中で何度か、「もう・・・だめ」という声も聞こえた。
そのたびに足が止まり、
何もできない自分の無力さに胸が締めつけられた。
出産は“命懸け”だ。
産婦も子も、無事に生きて朝を迎えられるとは限らない。
多くの女が、命を落としてきた。
そう思えば思うほど、心がざわつく。
戦場では血に染まった叫びを幾度も聞いた。
けれど、今ほど心が裂かれたことはない。
「シリ・・・頼む、無事でいてくれ」
そう願うことしかできなかった。
「いつになったら・・・」
誰にも届かぬ声で呟いた。
戦の夜よりも、はるかに長い夜だった。
やがて、長い沈黙を破るように、部屋の奥から産声が上がった。
最初はかすかに、次第に力強く、
雪をも揺らすほどの泣き声だった。
その瞬間、胸の奥が崩れたように熱くなった。
「・・・シリ」
思わず名を呼ぶ。
声が震えた。
医師が駆け寄り、深く頭を下げた。
「おめでとうございます。元気な女の子です」
城中がどよめき、
雪に閉ざされた夜の空気が、少しだけ温かくなった気がした。
随分と長い間、部屋に呼ばれるまで待たされた。
――シリは無事なのか。
我慢できずに、廊下を行ったり来たりする。
そのうち、助産婦に声をかけた。
「入ってもいいだろうか」
少しして、ようやく扉の向こうから返事があった。
「どうぞ、お入りください」
扉を開けると、温かい空気とともに薬草と血の匂いが漂ってきた。
部屋は静かで、蝋燭の炎がわずかに揺れている。
寝台の上で、シリが布団を頭からかぶっていた。
布団の膨らみが小さく震えているように見える。
声をかけようとしても、喉がうまく動かない。
乳母のエマがこちらを振り向いた。
その瞬間、彼女は腕に抱いていた白い布の包みを、
まるで何かを守るように胸の奥へと抱き寄せた。
その仕草だけで、胸が締めつけられた。
――見せたくない何かが、そこにある。
オレはゆっくりと歩み寄り、静かに口を開いた。
「シリ・・・頑張ったな」
布団の中で隠れている彼女に、静かに声をかけた。
返事はない。
ただ、布団の上が小さく震えている。
その震えが、泣いているのか、恐れているのか――それもわからなかった。
オレはしばらくその場に立ち尽くし、
やがて、布団の端にそっと手を置いた。
「・・・もういい。無事でいてくれたなら、それでいい」
自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
その言葉を聞いた途端、
布団の中の震えが、少しだけおさまった気がした。
「エマ、赤ん坊を抱かせてもらえないだろうか」
隠すように赤ん坊を抱いているエマに、静かに声をかけた。
エマは一瞬、身を固くした。
その腕に包まれた小さな白い布が、わずかに動く。
「・・・シリ様」
震える声で、エマはシリの判断を仰いだ。
短い沈黙のあと――布団の中で動く気配があった。
彼女はゆっくりと布団から顔を出した。
涙で赤く腫れた目が、まっすぐこちらを見つめている。
唇が小さく震え、掠れた声で言った。
「・・・エマ、グユウさんに赤ん坊を抱かせて」
エマはそっと歩み寄り、腕の中の白い布を抱え直した。
小さな息づかいが、その胸のあたりでかすかに動く。
「どうぞ」
エマはためらいながらも、赤ん坊を俺の腕に預けた。
受け取った瞬間、思わず息をのんだ。
驚くほど軽く、柔らかく、そして温かい。
掌の中で小さな命が確かに息をしている。
金の髪が淡い光を帯びていた。
その髪の隙間から、青い瞳がゆっくりと開く。
一瞬、胸が痛んだ――あの男と同じ色だった。
けれど、不思議と憎しみは浮かばなかった。
この子は泣きもせず、ただまっすぐに俺を見上げていた。
その瞳の奥に、シリの面影が見えた気がした。
「シリ」
布団の方へ顔を向けて、静かに言った。
「オレが望んでいた子だ」
「この子は母親に似て、美人になるだろう」
目を細めて笑う俺の姿に、乳母のエマは息をのんで見つめていた。
人前で笑顔を見せるのは、滅多にないことだった。
「グユウさんっ」
泣き出すシリの顔を見て、もう一度笑った。
「シリ、可愛い赤ん坊だ。抱いてみろ」
赤ん坊をシリにそっと手渡す。
「・・・可愛い・・・」
腕の中でうごめく赤ん坊を抱いて、シリは泣きながら笑った。
その横顔が、あまりにも美しくて、胸が痛くなるほどだった。
オレはそっと彼女の肩を抱き寄せ、静かに言った。
「もう何も言わなくていい。これからはオレが二人を守る」
オレは赤子をもう一度抱き直し、頬に指先で触れた。
小さな唇がもぞりと動き、
その温もりが胸の奥まで沁みていく。
「この子の名は、ユウとしよう」
「ユウ・・・?」
「グユウの“ユウ”だ。オレの命の一部を、この子に残したい」
赤ん坊は小さく息を吐き、すやすやと眠りについた。
長い睫毛が、頬に影を落としていた。
「・・・素敵な名前です」
シリの瞳から再び涙が溢れた。
涙を流しながら、エマは静かに赤ん坊を受け取った。
「オレたちの子供だ。かわいいな」
その言葉に、シリは涙の中で小さく笑った。
2人は手を握り合い、
黒い瞳と青い瞳に溢れ出た涙の中から、そっと微笑みを交わした。
外では雪がやみ、白い光が静かに窓を照らしていた。
レーク城の小さな部屋に、
新しい命のぬくもりが、確かに灯っていた。
冬が終わりを告げる朝――その光の中で、オレは初めて、
「父になる」という意味を知った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
少し雰囲気の違う短編を書きました。
『霊感少女カンナは、爽くんと友達になりたい!』(N6131KJ)
https://book1.adouzi.eu.org/N6131KJ/
平凡な女子高生カンナと、イケメンなのに“霊好き”な爽くん。
修学旅行の行き先は――まさかの血天井。
霊感少女の恋と騒動を描いた、現代ラブコメ短編です。
重厚な政略の物語とは少し離れて、
気軽に読める作品に仕上げました。
お口直しにどうぞ。
※この短編は、こちらの短編集に入れません




