あの妃より美しい女を探せ ーある家臣の敗北ー
夜の蝋燭が細く揺れていた。
「妃が身ごもった」――マサキ様の低い声が部屋に響く。
俺の主であり、領主グユウ様の父だ。
「めでたいことだ」と口では言いながら、顔には苦々しい影が浮かんでいた。
3ヶ月前に強領 ミンスタ領から嫁いできた妃シリ様。
結婚早々、もう身ごもった。
「息子は、あの妃に骨抜きにされておる」
マサキ様の声には、明らかな不満がにじんでいる。
周囲の家臣たちがうなずいた。
「確かに、あの美しさなら・・・」と。
だが俺は黙っていられなかった。
「あの妃は敵領と通じています。いずれこの領を生家に乗っ取らせるつもりだ!」
声を張り上げると、空気が凍る。
それでも引かなかった。
「魔女だ。グユウ様を惑わす女だ!」
拳を卓に叩きつけると、蝋燭の炎が揺らいだ。
マサキ様は、じっと俺を見つめてから命じた。
「オーエン、領内から若く美しい娘を探せ。第二夫人だ。
あの妃より美しい女を見つけ出して、息子の目を覚まさせろ」
「・・・承知しました」
そう答えながら、胸の奥が静かに疼いた。
――どれほど美しい女を見ても、あの妃ほど心を奪う者はいないだろう。
◇
翌朝、俺は馬場へ向かった。
そこに、青いドレスの裾を風に揺らす妃の姿があった。
光を受けた髪が金の粒のようにきらめき、
振り返る仕草すら一枚の絵画のようだった。
彼女が笑うたび、世界の色が変わる気がした。
――あの方が、“魔女”と呼ばれる妃。
確かに容姿は抜きん出ている。
あの頑なだったグユウ様が惚れるのも、無理はない。
その笑顔を目にした瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。
俺はただ、立ち尽くすしかなかった。
「・・・俺は騙されない。魔女には」
そう自分に言い聞かせた時、
妃がドレスの裾をたくし上げ、馬の脚元にしゃがみ込んだ。
「こら、暴れないの。蹄鉄が歪んでるわ」
白い指で、蹄を押さえる。
泥がはね、青い布を汚した。
「何をしているのですか」
思わず声が出た。
女が、ましてや妃が、馬の世話をするなど聞いたことがない。
馬は兵や下僕が扱うもので、貴婦人が触れるなどあり得ぬことだ。
なのに――この妃は、平然と蹄を点検している。
彼女は振り向き、悪びれもせず笑った。
「放っておいたら、この子、走れなくなるのよ」
陽光の中で、金の髪がふわりと揺れる。
指先も頬も泥まみれなのに――その姿は、どうしようもなく美しかった。
――変わった女だ。
常識など、まるで通じない。
だが、だからこそ目が離せない。
俺は息を呑み、ただ見惚れていた。
――あぁ、たしかに魔女だ。
男を惑わすとは、こういうことを言うのだろう。
◇
「グユウ様にふさわしい第二夫人を見つける」
俺はそう決意し、必死に候補探しを始めた。
羊皮紙には、領内の娘たちの名が、年齢と家柄と共に整然と記されている。
その姿を見て、重臣のジェームズが笑いながら言った。
「ついでにお前の妻候補を探せ」
――確かに、もっともだ。
『美しい』と評判の娘の家を訪ね、何人も面談を重ねた。
どの娘も美しく、しとやかで、礼儀正しく、非の打ちどころがない。
――妃にするなら、こういう娘が良い。
そう思いながらも、胸の奥に何かが引っかかった。
第二夫人の話を持ちかけると、娘たちは黙って俯いた。
代わりに父親たちが恵比寿顔で了承する。
第ニ夫人とはいえ、領主の妾になれるのだ。
家の名誉になる。
だがその空気が、俺にはどこか冷たく感じられた。
ーー不思議なものだ。
多くの女に会っても、何かが足りないと思ってしまう。
余計なことを言わない、淑やかで、微笑む。
理想的な女性なのに。
しばらく考えた末に気づいた。
ーーどの女にも、“芯”がないのだ。
明確な意志がなく、控えめで、誰かの顔色をうかがうような娘ばかり。
妃のように、自らの手で蹄を押さえ、泥にまみれるような女など――
この領には、ひとりとしていなかった。
当たり前だ。
あんな女、この領にはいない。
国中を探したところで、あれほどの女がいるものか。
理想的な女ばかりを見てきたのに――何かが違う。
ため息をつきながら、俺は城へ戻った。
机の上には、まだ羊皮紙が広げられたままだ。
整然と並ぶ名前と家柄の列。
そのひとつひとつが、急に色あせて見えた。
そこへ、重臣のジェームズが顔を出した。
「どうだ? いい女は見つかったか」
俺は黙って首を振った。
「いないのか?」
「・・・いない」
ジェームズは目を丸くして、俺の隣に腰を下ろした。
「どうした。リストに載っている女は、どれも器量がいいはずだ」
「美しいさ」
俺は小さくうなずき、目を伏せた。
「だが・・・違うんだ」
「違う?」
「そうだ」
声が自然と低くなる。
「この中の誰も、心に残らない。笑っても、語っても、何も響かない」
ジェームズは怪訝そうに眉を寄せた。
「お前はどんな女が好きなんだ?」
その言葉に、脳裏をよぎったのは――あの妃。
スカートの裾をたくし上げて馬を追う姿。
木の枝に登り、風に笑う姿。
誰の意見にも屈せず、はっきりと物を言う唇。
表情がくるくる変わる、まっすぐな瞳。
気づけば、息を呑んでいた。
――何を考えている。あの方は、領主の妻だ。
俺がどうこう思っていい相手ではない。
それなのに、胸の奥が妙に熱く、呼吸が乱れる。
「おい、どうした? 恋の相談なら聞くぞ」
ジェームズが冗談めかして言う。
「そんなことはない!!」
思わず大声を出して、立ち上がった。
蝋燭の炎が揺れ、影が壁に跳ねた。
ジェームズは苦笑しながら肩をすくめる。
俺は拳を握りしめ、背を向けた。
――違う。慕っているわけではない。
ただ、あの妃が他の女とは違うというだけだ。
そう言い聞かせながら、胸のざわめきを押し殺した。
けれどその夜、眠りについても、瞼の裏にはあの青いドレスが揺れていた。
◇
翌日、レーク城のホールには、百名を超える家臣たちが集まっていた。
集会の理由は二つ。
ひとつは、遠征の準備の最終確認。
もうひとつは――領主グユウ様に第二夫人を迎えるよう進言するためだ。
壇上に領主夫婦が現れた瞬間、空気が張りつめた。
背の高い二人が壇上に立つと圧巻だ。
俺の視線は、自然と妃へと吸い寄せられる。
柔らかな光をまとう純白の衣。
風に流れるような金の髪。
堂々と立つその姿は、ひとりの妃ではなく、ひとつの象徴のようだった。
――美しい。
否定したくても、目を逸らせない。
その圧倒的な存在感に、胸の奥が熱くなる。
あの美しさゆえに、人は彼女を“ミンスタの魔女”と呼ぶ。
だが俺には、そう呼ぶことでしか自分を保てない。
マサキ様が俺に頷く。
俺は深く頭を下げ、壇上へ進み出た。
「グユウ様、キユ家の娘は器量良しと聞いております。一度、お目通りを」
第二夫人を持つこと――それは領主として当然のこと。
多くの子をなし、他領に嫁がせ、同盟を強める。
それがこの国の常識であり、繁栄の基盤でもあった。
ただし、第二夫人を迎えるには、妃の承諾が必要だ。
そのため、俺は領主夫婦の前で提案を申し上げた。
妃は、微動だにせず前を見据えていた。
硬く、美しい横顔。
まるで、誰の言葉も寄せつけぬ氷の彫像のようだった。
「断る」
グユウ様の返答は短く、迷いがなかった。
「しかし・・・! グユウ様!」
思わず声が上ずる。
城の家臣たちは皆、同じ不安を抱いていた。
ーーグユウ様が妃にあまりにも心を傾けている。
その姿は、まるで神に跪く信徒のようだった。
もちろん、夫婦仲が良いのは喜ばしい。
だが、行き過ぎれば判断を誤る。
前妻の時は冷え切っていたぶん、余計に不安が募るのだ。
それに――あの妃。
あのミンスタから嫁いだ娘。
彼女がこの領を、生家の支配下に置こうとしているのではないか。
そんな囁きが、城中に広がっていた。
他の家臣たちも、俺に賛同するように口を開いた。
「グユウ様、第二夫人のことはお考えですか?」
「全く考えていない」
その一言に、場が静まり返る。
まるで風まで息を潜めたようだった。
「それでは・・・」
誰かが小さくつぶやく。
不満の空気がわずかに流れた。
「子をもうけることは大事だと承知している。だがそれ以上に、この領を豊かにすることが先だ」
グユウ様の低く通る声に、思わず息を呑む。
まっすぐな黒い瞳が、揺らぎひとつなく前を見据えている。
「・・・仰るとおりです」
俺は渋々ながら、そう答えた。
それでも――胸の奥では、別のざわめきが止まらなかった。
壇上に立つグユウ様の声が、静かなホールに響いた。
「国全体が不安定になる。いまこそ、領を自らの力で支えねばならぬ」
だが次に語られたのは、誰も予想しなかった提案だった。
「りんごの栽培と、街道の整備だ」
地図を広げ、理路整然と語るグユウ様の声が響く。
かつて沈黙していた男の姿はそこになかった。
――この堂々とした姿が、あのグユウ様なのか。
驚きと同時に、妙な焦燥が胸に残る。
今まで、グユウ様は、会議でもほとんど口を開かず、
結婚も離婚も、再婚の時ですら何も言わなかった。
ただ静かに、置物のように座っていた領主。
その方が今、地図を広げ、未来を語っている。
誰がこんな姿を想像しただろう。
その横で、妃が静かに微笑んだ。
まるで、夫の言葉を誇らしげに見守るように。
ーーグユウ様は素晴らしい領主だ。
この策を思いつくとは、誰も想像していなかった。
俺は胸の内でそう呟いた。
妃の笑みは、美しいが・・・政治の話とは無縁のもの。
あの妃はただ、賢き夫を支える装飾のような存在だ。
ーー領政は、男の領分だ。
そう思い込むことで、俺は自分の動揺を誤魔化した。
「素晴らしい提案です」
俺は深く頭を下げた。
その直後、グユウ様は静かに口を開いた。
「この提案は、シリが考えた」
一瞬、空気が止まった。
誰かが小さく息を呑む音が聞こえた。
ーー妃が?
あの妃が、領政の案を?
馬を世話し、泥にまみれるような女が?
信じられなかった。
信じたくなかった。
「シリは賢い。これより良い案があるのなら教えてくれ」
ーー誰も答えることはできなかった。
ホールの百名が一斉に頭を下げた。
妃は恥ずかしそうに肩をすくめ、その金の髪がゆらりと揺れた。
ーーやはり、美しい。
だが同時に、得体の知れない怖さがある。
ーー男が百人いても、この女には敵わない。
そう思った瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。
どんなに理屈を並べても、それだけは否定できなかった。
◇
会議が終わり、ホールを出たあと、俺は重臣のジムに声をかけた。
「何故だかわからないけれど、グユウ様が急に変わったような・・・そんな気がします」
ーー以前のグユウ様なら、第二夫人の提案を受け入れていただろう。
「そうですね。お子ができて領主としての自覚が増したのでしょうか」
ジムが答える。
「雰囲気だけではなく顔つきも変わられた」
視線の先には、馬場に佇む領主夫婦の後ろ姿。
仲睦まじく、グユウ様の瞳から溢れんばかりの愛情が注がれている。
その視線を受け止めて、穏やかに微笑む妃。
「それは・・・シリ様のお陰でしょうか。あの2人は本当に仲が良いですから」
ジムの声に、胸の奥がざらついた。
嫉妬とも敗北ともつかぬ苦い感情が、喉の奥に刺さったまま消えなかった。
◇
あの二人の姿を見ていると、
――もう、第二夫人の提案などできなかった。
グユウ様は寡黙なお方だ。
けれど、言葉は少なくとも、妃を見つめる瞳とその表情を見れば、
もう何も言えなくなってしまう。
そして、実際に第二夫人を探していた俺も、今ははっきりと思う。
――あの妃以上に、魅力的な女はいない。
悔しいことに、彼女のおかげで領の経済は豊かになった。
“魔女”ではなく、窮地を救った“女神”となったのだ。
結局、グユウ様は生涯、ただ一人の妃を愛した。
不器用に、一途に妃を愛し続ける領主。
その傍らに立つ、強く美しい妃。
二人の間には、誰も入り込む余地などない。
だからこそ、せめて――
この命が尽きるまで、
あの御方たちを守ろうと思う。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
この短編は『秘密を抱えた政略結婚』本編のスピンオフで、
家臣オーエン視点によるエピソード(第13作目)です。
短編だけでもお楽しみいただけますが、
本編を読むと二人のすれ違いや政略の背景がより深く伝わります。
▼シリーズ本編
**『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』**
https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
<完結>
**『秘密を抱えた政略結婚2 〜娘を守るために、仕方なく妾持ちの領主に嫁ぎました〜』**
https://book1.adouzi.eu.org/n0514kj/
<完結>
そして現在、
その娘・ユウを主人公とした第3部を連載中です。
**『秘密を抱えた政略結婚 ―血に刻まれた静かな復讐 禁断の恋が運命を変える―』**
https://book1.adouzi.eu.org/n9067la/
<連載中>
血に抗い、恋に揺れながら――
彼女たちはそれぞれの愛を選んでいきます。




