戦略で結ばれた夫婦が、秘密を受け入れた日
政略で結ばれた夫婦が、互いの心を開き、秘密をも受け入れ、やがて本当の夫婦となっていく物語。
◇
「シリ様! お待ちください!」
城内のホールに、私の声が響き渡った。
はるか前方を、金色の髪をなびかせて疾走する妃がいる。
私がお仕えする妃、シリ様だ。
長いドレスの裾を踏んで転びそうになり――瞬間、ヒヤリとしたが、
彼女は見事に体勢を立て直し、そのまま裾を手に持って走り出した。
「シリ様! おやめください!! そのような淫らな格好は・・・!」
この時代、足を見せるのは裸をさらすに等しい。
私が金切り声を上げても、彼女は耳を貸さない。
勢いよく城門を開け放ち、裾を捲り上げたまま、
帰還してきた夫――領主グユウ様のもとへ猛烈な勢いで駆け寄っていった。
「お帰りなさい!」
弾んだ声が響く。
私は必死に息を整えながら、扉にもたれ、それを見届けた。
隣にいた家来が心配そうに問いかける。
「エマ・・・大丈夫ですか?」
「・・・大丈夫・・・では・・・ありません」
荒い呼吸の合間に答える。
私はエマ。
ワスト領の妃、シリ様の乳母である。
この夫婦は、わずか二ヶ月半前に結婚された。
――とはいえ、互いを想いあって結ばれたわけではない。
領土のため、愛も情もない、典型的な政略結婚だった。
妃シリ様は気が強く、思ったことを率直に口にされる。
一方の旦那様、グユウ様は、寡黙すぎて無表情すぎるお方。
結婚当初、シリ様は何度も癇癪を起こしては、全力で夫にぶつかっていた。
周囲の目には「理想の妃」とは程遠い姿に映ったかもしれない。
けれど――傍で見つめていた私には分かるのだ。
あの激しさこそが、無口なグユウ様の心を動かしたのだと。
今、二人の間には確かに静かな愛情が芽生えている。
相変わらず言葉少ないグユウ様だが、シリ様を見つめる黒い瞳には、かすかな揺らぎが宿る。
声色も柔らかい。
そしてシリ様も。
私の知らない、深い眼差しとやわらかな表情で、グユウ様を見つめている。
乳母として長く仕えてきたが、あのような瞳のシリ様を見たのは初めてだった。
夕暮れの湖畔で、黙って並んでいるだけの二人。
その背中を見守りながら、私は思う。
――言葉以上の絆とは、このことだ。
◇
一見すれば、幸せそうな新婚夫婦。
けれど、私の胸には深い影が落ちている。
――シリ様は妊娠しているかもしれない。
最終の月のものは、嫁ぐ前にあったきり。
今は旦那様の前では元気そうに振る舞っておられるけれど、食欲は落ち、やたらと眠っている。
新婚早々の懐妊。
世間一般ならば祝福の出来事だろう。
けれど私は知っている。
シリ様は嫁ぐ二日前、領主である実の兄――ゼンシ様に無理やり奪われたのだ。
翌朝、呆然と座り込むシリ様の傍らに、私はただ無言で寄り添うことしかできなかった。
何もできなかったのだ。
もしお腹に子がいるのなら――父親は誰なのか。
夫であるグユウ様か、それとも・・・兄ゼンシ様の子か。
今はまだ、誰にも分からない。
「シリ様、もしかして・・・」
問いかけると、怯えた瞳が全てを物語っていた。
ーーこれは私の推測に過ぎない。
若い女性なら、疲れや心労で月のものが遅れることもある。
どうか、そうであってほしいと願いながら、私は医師を呼ぶことにした。
◇
「おめでとうございます。ご懐妊されていますよ」
医師の声に、部屋の空気が凍りついた。
青ざめたシリ様の横で、私は「しばらくは公にしないで」と頼み、賃金を握らせる。
医師が去ると、重苦しい沈黙だけが残った。
――もし実兄との過去をグユウ様が知ったら。
胸が締めつけられる。
絶対に、この秘密は口にできない。
シリ様は寝台に腰をかけたまま、肩を小刻みに震わせていた。
「シリ様・・・」
私はそっと声をかける。
「グユウ様には、妊娠したと告げればよいのです」
静かな声で告げた言葉が、重苦しい空気を切り裂いた。
驚いたように私を見つめるシリ様。
けれど私は表情を崩さず、淡々と続けた。
「たとえ恐れていることが真実だったとしても・・・子は必ずシリ様に似るはず。何の心配もありません」
「・・・エマ、気づいていたの? あの夜のことを・・・」
その声は震え、青い瞳に涙が溢れる。
私は小さく頷いた。
すがるように手を伸ばしてきたシリ様を、強く抱きしめる。
そして心の中で誓った。
――この秘密を守り抜く、と。
「もしお腹の子が・・・あの人の子であっても、容姿はシリ様に似るはず。
母親似の子として皆が納得します」
シリ様とゼンシ様、兄妹だけあって、その容姿はそっくりだった。
シリ様は手を固く握りしめる。
「・・・グユウさんは私に嘘をつかないと約束してくれた。私も正直に話さなくては」
「いけません、シリ様!」
思わず声が震えた。
私は彼女の手を握り締め、その瞳を覗き込む。
「お子様は・・・グユウ様の子かもしれないのです。
たとえ真実が別であったとしても、口にしてはならないことがあります。
グユウ様と長く過ごされたいと望むのならなおさらです」
シリ様は目を閉じ、長く息を吐いた。
「・・・わかったわ。グユウさんには、妊娠したことだけを伝える」
その声には、決意と哀しみとが入り交じっていた。
◇
タイミングの悪いことに、この日はゼンシ様がレーク城を訪れる日だった。
まだ夜明けも浅いというのに、城内はすでに慌ただしく動いている。
廊下を行き交う侍女や家臣の顔には、緊張と不安の色が濃い。
シリ様もまた、揺れる心を押し隠しながら身支度を整えられていた。
けれど私には分かる。
その胸の奥にあるのは、恐怖と、決して口にしてはならない秘密――。
この日は暑く、白く薄いローンのドレスを選んだ。
裾には淡い紫色の刺繍がほどこされ、涼やかな印象を添える。
黄金色の髪は高く結い上げ、そこに淡い光を放つピンクの飾り櫛を挿した。
グユウ様から頂いたものだと聞いている。
その瞬間、あまりに美しくて、私は思わず息を呑んだ。
「遅くなりました」
長いドレスの裾をひきずりながら食堂に現れたシリ様に、グユウ様の頬がさっと赤らんだ。
視線は飾り櫛に向かい、やがてシリ様の顔へ。
寡黙なお方は言葉を発しない。
けれど、その黒い瞳とわずかな表情の揺らぎは、
「きれいだ」と何度も告げているのと同じだった。
「身体は大丈夫か」
優しい声が落ちる。
「大丈夫です。ご心配をおかけしました」
シリ様が微笑むと、グユウ様は短く「そうか」とだけ答えた。
けれど私は知っている。
そのひとことに、どれほどの想いが込められているかを。
想い合う二人の幸福を、私が壊してはならない。
この秘密だけは、誰にも話さない。
そう心に誓いながら、私は拳を固く握りしめた。
◇
門の外に馬車が停まり、赤と白の旗が風にはためく。
誰もが息を呑んだ。
あの方が、来られたのだ。
黄金色の髪、青い瞳。
鋭い眼差しと、周囲を圧倒する空気。
ただ立っているだけで、城に影を落とすような存在感――それがシリ様の兄、ゼンシ様だった。
「義兄上、お待ちしておりました」
グユウ様が深々と頭を下げる。
その背後に控えていたシリ様は、一瞬、身をすくませたように見えた。
けれど次の瞬間、勇気を振り絞ったかのように前へ進み出る。
「兄上・・・お久しゅうございます」
微笑んでそう言うシリ様の声は、わずかに震えていた。
私は思わず胸を押さえた。
ゼンシ様の視線がシリ様を射抜く。
その眼差しに、私は底知れぬ欲と支配を感じ取った。
――また、あの夜のように。
ゼンシ様の白く細い指が、シリ様の首筋に添えられた。
その瞬間、シリ様の肩がびくりと震える。
「髪は結わずに下ろした方が似合う」
低い声が、耳元に落とされた。
後ろに控えていた私にすら、かろうじて聞き取れるほどの小さな囁きだった。
恐怖のせいか、シリ様は声を発することもできず、ただ小さくうなずく。
ゼンシ様の指先が顎を掬い上げ、顔を間近に引き寄せる。
「青色が似合う」
ピンクの髪飾りに一瞥をくれ、その視線は冷たく唇にまで落ちてきた。
――触れるのではないか。
私は息を呑み、思わず唇を震わせた。
「・・・後で話そう」
そう囁いた声は、明らかに妹を愛玩する言葉ではなかった。
まるで、グユウ様に見せつけるかのような仕草。
私は恐怖と怒りで胸が焼けつきそうになった。
だが――グユウ様はただ静かに、無言で義兄を見つめているだけだった。
その黒い瞳に何が宿っていたのか、私には読み取ることができなかった。
◇
ゼンシ様の手が離れた瞬間、シリ様はわずかに息を吐かれた。
兄妹のやり取りは、ほんの数秒のことにすぎなかったはずなのに、私には途方もなく長い時間に思えた。
「・・・疲れました。部屋に戻ります」
かすかな声でそう告げ、シリ様は裾を握りしめて歩き出す。
震える足取り。
だが、倒れるわけにはいかないとでも言うように、姿勢だけは正しておられた。
私は慌ててその背に従った。
扉を閉めると同時に、シリ様は膝から崩れ落ちるように床へ座り込まれた。
「シリ様・・・」
声をかけ、私は背に手を添えた。
部屋の中には私たち二人だけ。
けれど、あの恐怖と絶望はまだ色濃く残っていた。
胸の奥が締めつけられる。
――この方を守らなければ。
でも・・・どうしたら良いのだろう。
途方に暮れながら、シリ様の肩を抱き支え続けた。
◇
そのままゼンシ様はグユウ様と会談に入り、私は胸のざわめきを抑えきれぬまま一日を過ごした。
夜更け。
寝室の扉が控えめに叩かれる音がした。
訪れたのは重臣ジムであった。
「シリ様、お伝えすることがございます」
「ジム、夜遅くにありがとう」
ジムは深刻な面持ちで口を開いた。
「・・・ゼンシ様から伝言を預かっております」
「兄上が・・・何か」
シリ様の声が硬くなる。
私の胸にも、冷たいものが走った。
「明日の早朝、シリ様と二人だけでお話をされたいとのこと。東側に部屋をご用意しました。
周囲には家臣を置かず、兄妹ゆっくりと・・・とのご意向です」
一瞬、耳が音を失った。
ーー二人きり? そんな。
まさか、またあの夜のようなことが。
血の気が引いていくのを自覚しながら、私は必死に立っている脚に力を込めた。
シリ様は無言のまま、ただ静かに頷かれている。
その姿を見て、胸が張り裂けそうになった
「わかりました。グユウさんは、その事をご存知ですか」
語尾を震わせまいと、シリ様は気丈に問い返す。
「はい。グユウ様の前で、ゼンシ様ご自身がお話しされました」
シリ様はしばし黙し、やがて顔を上げられた。
その青い瞳には、恐怖よりも別の光が宿っていた。
「ジム・・・お願いがあるの」
「何なりと」
ジムは膝をつき、耳を傾ける。
次に放たれた言葉に、私は息を呑んだ。
「明日の朝、東側の部屋の隠し小部屋に待機してください。
そして、私と兄上の会話を、すべて記録してほしいの」
「・・・記録、でございますか?」
ジムの顔に困惑が走る。
私も同じだった。
兄妹の密談を、あえて外に残すなど聞いたことがない。
けれど、シリ様はきっぱりと続けた。
「ええ。何があっても部屋から出てはいけません。
その記録を、グユウさんに渡して。そして・・・エマにも」
その瞬間、胸が締めつけられた。
ーーなぜ私にまで?
震える心臓を押さえながら、ただうなずくしかなかった。
ジムもまた顔を強張らせながら深く頭を下げる。
「・・・承知いたしました」
シリ様の横顔は、静かな決意に包まれていた。
ーーシリ様、何をお考えですか?
答えを探ろうとしても、その表情からは何もわからなかった。
◇
あくる日。
まだ日も昇らぬ早朝、部屋にはろうそくの灯りが淡く揺れていた。
無言のまま髪にブラシを通すたび、シリ様の呼吸は浅くなる。
纏われたのは、ゼンシ様好みの濃い青色のドレス。
髪は結わず、金の波をそのまま流した。
「エマ、帯を取って。ええ、その銀色のものを」
命じられるまま、ほっそりとした腰に飾り帯を巻く。
「・・・お腹に、ですか」
思わず遠慮がちに尋ねる。
「ええ。お腹に巻いてほしいの」
きっぱりとした声。
まるで自分を鎧うようだった。
支度が整い、彼女は静かに告げる。
「行ってきます」
その瞳は、戦場に赴く兵士のように険しく研ぎ澄まされていた。
妃、それも妊娠中のお方が――兄と対峙しようとしている。
――大丈夫だろうか。
姿勢を正し、毅然と歩み去っていく背中を見送りながら、
私は胸の奥をぎゅっと掴まれる思いだった。
◇
シリ様が去られてから、私は何をするでもなく寝室に待機していた。
考えれば考えるほど、胸に浮かぶのは最悪の想像ばかり。
祈るように時を刻み、やっと三十分ほどが過ぎたころ――寝室の扉が慌ただしく叩かれた。
扉を開けると、ジムが荒い息を吐きながら立っていた。
「終わりました。すぐに東側の部屋へ・・・!」
「承知しました!」
私は夢中で駆け出した。
こんな短時間で面談が終わるなんて――どうか、何もなかったと信じたい。
せめて、シリ様のお顔をこの目で確かめるまでは安心できない。
東側の部屋に飛び込むと、そこには机に凭れ、ぐったりとしたシリ様の姿があった。
「シリ様・・・!」
震える声で呼びかけると、シリ様はゆっくりと身を起こされた。
その身体は鉛のように重そうで、顔色も蒼白だった。
「エマ、心配することは何も起こらなかったわ。詳しくは・・・ジムに聞いて」
力のない声でそう告げられる。
私は、その言葉の裏に潜む壮絶さに気づくこともなく、ただ安堵の涙がにじんだ。
「シリ様・・・お疲れです。少し休まれては」
「そんな時間はないの」
首を振られた瞳は、燃えるような静けさを帯びていた。
「急いでお見送りをしないと」
「こんな時間に・・・? どなたをお見送りに」
「兄上がお帰りよ。急用でお急ぎなの」
シリ様は微笑みながら立ち上がられた。
その背中には、もはや怯えも迷いもなく――ただ、覚悟と誇りが漂っていた。
◇
ゼンシ様は、まるで逃げるように城を後にされた。
あの鋭い瞳の領主が、あんなにも落ち着きを欠いた姿を見せるなんて。
――何かあったに違いない。
だが、それが何なのか、私にはさっぱりわからなかった。
そんな折、シリ様がふいに私の方へ振り返られた。
「エマ、悪いけれど・・・城下の薬師に届け物をお願いできるかしら」
それは侍女に頼めば済むような、些細な用事だった。
「私が参りますが・・・シリ様は大丈夫で?」
思わず問い返す。
「ええ。少し一人になりたいの」
やわらかな微笑み。
だが、その瞳の奥には、言葉にできない何かが潜んでいた。
私は深く頭を下げ、部屋を辞した。
◇
城に戻ると、蒼白な顔のジムが私を待っていた。
無言のまま部屋に通され、彼が差し出したのは一枚の羊皮紙――報告書だった。
震える手で受け取ると、そこには簡潔な筆致でこう記されていた。
――ゼンシ様、シリ様に接近し、口づけを試みる。
――シリ様、ナイフを手に取り、自らの首に当てる。
――両者、言葉を交わし、最後は和解に至る。
わずか数行。
けれど、その背後にどれほどの壮絶なやり取りがあったのか、想像するだけで血の気が引いた。
「・・・これは・・・」
私は言葉を失くした。
報告書を持つ指先が震える。
「私の予想ですが・・・これは、シリ様が遺言のつもりで私に指示を託したんだと思います」
ジムの声がかすれる。
「遺言・・・?」
乾いた声が室内に響いた。
「はい」
報告書は、何度も握りしめられ、くしゃくしゃになり、伸ばされた形跡があった。
グユウ様もこれを読まれたに違いない。
「シリ様は・・・」
「馬場に行かれました。グユウ様が今、跡を追っておられます」
その言葉を聞いた瞬間、私は弾かれたように椅子から立ち上がった。
――シリ様は、グユウ様に秘密を話すかもしれない。止めなくては!
思わずドアノブに手をかけた私の手を、ジムが制した。
「どこへ行かれるのですか」
「シリ様・・・シリ様のところに行かなくては」
震える声で言うと、ジムが静かに口を開いた。
「今、お二人で話し合っておられます」
私は思わずジムの顔を見つめた。
「お二人に、委ねたらどうですか」
その言葉に、胸の奥が冷たくなる。
ーーこの人は、どこまで理解しているのだろう。
けれど、それを聞く勇気は私にはなかった。
ジムの言葉に、私はドアノブから手を離した。
胸の奥がざわついて、今にも駆け出したい衝動に駆られる。
私はただ、祈るしかなかった。
ーーどうか、シリ様をお守りください。
どうか、あのお二人の絆が壊れませんように。
◇
やがて、玄関の方から足音が響いた。
振り向いた私は、息を呑む。
――そこにいたのは、並んで歩くシリ様とグユウ様。
二人は何も語らず、ただ自然に手を繋いでいた。
その手は固く結ばれ、決して離れることはない――そう告げているように見えた。
私は胸に熱いものが込み上げ、堪えきれずシリ様に抱きついた。
「・・・シリ様・・・」
声が震えてしまう。
シリ様は少し驚いたように目を見開かれたが、すぐに優しい微笑みを浮かべられた。
「エマ、心配かけてごめんね」
「シリ様は本当に・・・心臓が持ちません」
私は涙ながらに言葉を漏らした。
「昼食の用意ができています」
ジムが穏やかに告げる。
◇
私とシリ様は並んで歩きながら、ホールへと向かった。
けれど、胸のざわめきは消えない。
思わず、躊躇いがちに口を開く。
「シリ様・・・その・・・」
――グユウ様に、どこまで話されたのだろうか。
「エマ・・・全てを話したわ」
「全て・・・?!」
声が裏返ってしまった。
シリ様は少し微笑まれて、静かに続ける。
「私が子供を産んだら・・・“オレの子だ”と、グユウさんは言ってくれたの」
耳を疑った。
ーー本当に?
信じたい言葉。
けれど疑問も拭えない。
「そして・・・ね」
シリ様の声が弾んだ。
「グユウさん、笑ってくれたの。にっこりと」
嬉しそうに告げるその横顔に、胸が熱くなる。
――あの無表情なグユウ様が、にっこり笑う?
信じがたい話だった。
だが、嘘を言っている瞳ではなかった。
◇
昼食の席は、まるで宴のようだった。
ゼンシ様の訪問に備えて働きづめだった人々――家臣も侍女も女中も馬丁も、皆が顔をそろえていた。
用意された食卓には、温かな料理が並び、疲れを癒すように笑い声が広がっていく。
その中で、グユウ様がすっと立ち上がられた。
「皆に知らせたいことがある」
低く響く声に、場のざわめきが静まる。
「シリに子ができた。来年二月には産まれる」
一瞬の沈黙。
そして、どっと湧き上がる歓声。
「おめでとうございます!」
「万歳!」
「領主様にお世継ぎが!」
喜びの声が重なり、涙ぐむ者もいる。
その中心で、シリ様は顔を赤らめ、こほんと咳をして小さくうなずかれた。
――妊娠は、確かに祝福されるべき出来事なのだ。
私は胸が熱くなった。
ここ数日、恐怖と絶望の影しか見えていなかったのに・・・
この瞬間、城中が一つになり、未来を信じて喜んでいた。
ふと横を見ると、グユウ様とシリ様が互いに微笑み合っていた。
無表情なはずの御方の口元が、わずかに緩んでいる。
ほんの一瞬だったが――確かに笑っておられた。
――あぁ、本当に。
私は目頭を押さえながら、心の中で静かに誓った。
この幸せを壊してはならない。
その秘密を知るのは――シリ様と、グユウ様と、そして私だけ。
たった三人の胸の奥に閉じ込められた、永遠に封じられるべき真実なのだ。
政略で結ばれた夫婦は、もはや政略ではない。
互いの心を開き、秘密さえも受け入れた。
その証を守るのが、私の役目だ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
評価をしていただいた方、ありがとうございます。
この短編は『秘密を抱えた政略結婚』本編のスピンオフで、
乳母エマ視点によるエピソード(第11作目)です。
短編だけでもお楽しみいただけますが、
本編を読むと二人のすれ違いや政略の背景がより深く伝わります。
本編はこちら
『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』
(Nコード:N2799Jo)
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本日、新作短編を投稿しました。
「あの妃より美しい女を探せ」
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