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12/22

戦略で結ばれた夫婦が、秘密を受け入れた日

政略で結ばれた夫婦が、互いの心を開き、秘密をも受け入れ、やがて本当の夫婦となっていく物語。



「シリ様! お待ちください!」

城内のホールに、私の声が響き渡った。


はるか前方を、金色の髪をなびかせて疾走する妃がいる。


私がお仕えする妃、シリ様だ。


長いドレスの裾を踏んで転びそうになり――瞬間、ヒヤリとしたが、

彼女は見事に体勢を立て直し、そのまま裾を手に持って走り出した。


「シリ様! おやめください!! そのような淫らな格好は・・・!」


この時代、足を見せるのは裸をさらすに等しい。


私が金切り声を上げても、彼女は耳を貸さない。


勢いよく城門を開け放ち、裾を捲り上げたまま、

帰還してきた夫――領主グユウ様のもとへ猛烈な勢いで駆け寄っていった。


「お帰りなさい!」

弾んだ声が響く。


私は必死に息を整えながら、扉にもたれ、それを見届けた。


隣にいた家来が心配そうに問いかける。


「エマ・・・大丈夫ですか?」


「・・・大丈夫・・・では・・・ありません」

荒い呼吸の合間に答える。


私はエマ。


ワスト領の妃、シリ様の乳母である。


この夫婦は、わずか二ヶ月半前に結婚された。


――とはいえ、互いを想いあって結ばれたわけではない。


領土のため、愛も情もない、典型的な政略結婚だった。


妃シリ様は気が強く、思ったことを率直に口にされる。


一方の旦那様、グユウ様は、寡黙すぎて無表情すぎるお方。


結婚当初、シリ様は何度も癇癪を起こしては、全力で夫にぶつかっていた。


周囲の目には「理想の妃」とは程遠い姿に映ったかもしれない。


けれど――傍で見つめていた私には分かるのだ。


あの激しさこそが、無口なグユウ様の心を動かしたのだと。


今、二人の間には確かに静かな愛情が芽生えている。


相変わらず言葉少ないグユウ様だが、シリ様を見つめる黒い瞳には、かすかな揺らぎが宿る。


声色も柔らかい。


そしてシリ様も。


私の知らない、深い眼差しとやわらかな表情で、グユウ様を見つめている。


乳母として長く仕えてきたが、あのような瞳のシリ様を見たのは初めてだった。


夕暮れの湖畔で、黙って並んでいるだけの二人。


その背中を見守りながら、私は思う。


――言葉以上の絆とは、このことだ。



一見すれば、幸せそうな新婚夫婦。


けれど、私の胸には深い影が落ちている。


――シリ様は妊娠しているかもしれない。


最終の月のものは、嫁ぐ前にあったきり。


今は旦那様の前では元気そうに振る舞っておられるけれど、食欲は落ち、やたらと眠っている。


新婚早々の懐妊。

世間一般ならば祝福の出来事だろう。


けれど私は知っている。


シリ様は嫁ぐ二日前、領主である実の兄――ゼンシ様に無理やり奪われたのだ。


翌朝、呆然と座り込むシリ様の傍らに、私はただ無言で寄り添うことしかできなかった。


何もできなかったのだ。


もしお腹に子がいるのなら――父親は誰なのか。


夫であるグユウ様か、それとも・・・兄ゼンシ様の子か。


今はまだ、誰にも分からない。


「シリ様、もしかして・・・」

問いかけると、怯えた瞳が全てを物語っていた。


ーーこれは私の推測に過ぎない。


若い女性なら、疲れや心労で月のものが遅れることもある。


どうか、そうであってほしいと願いながら、私は医師を呼ぶことにした。



「おめでとうございます。ご懐妊されていますよ」

医師の声に、部屋の空気が凍りついた。


青ざめたシリ様の横で、私は「しばらくは公にしないで」と頼み、賃金を握らせる。


医師が去ると、重苦しい沈黙だけが残った。


――もし実兄との過去をグユウ様が知ったら。


胸が締めつけられる。


絶対に、この秘密は口にできない。


シリ様は寝台に腰をかけたまま、肩を小刻みに震わせていた。


「シリ様・・・」

私はそっと声をかける。


「グユウ様には、妊娠したと告げればよいのです」

静かな声で告げた言葉が、重苦しい空気を切り裂いた。


驚いたように私を見つめるシリ様。


けれど私は表情を崩さず、淡々と続けた。


「たとえ恐れていることが真実だったとしても・・・子は必ずシリ様に似るはず。何の心配もありません」


「・・・エマ、気づいていたの? あの夜のことを・・・」

その声は震え、青い瞳に涙が溢れる。


私は小さく頷いた。


すがるように手を伸ばしてきたシリ様を、強く抱きしめる。


そして心の中で誓った。


――この秘密を守り抜く、と。


「もしお腹の子が・・・あの人の子であっても、容姿はシリ様に似るはず。

母親似の子として皆が納得します」


シリ様とゼンシ様、兄妹だけあって、その容姿はそっくりだった。


シリ様は手を固く握りしめる。


「・・・グユウさんは私に嘘をつかないと約束してくれた。私も正直に話さなくては」


「いけません、シリ様!」

思わず声が震えた。


私は彼女の手を握り締め、その瞳を覗き込む。


「お子様は・・・グユウ様の子かもしれないのです。

たとえ真実が別であったとしても、口にしてはならないことがあります。

グユウ様と長く過ごされたいと望むのならなおさらです」


シリ様は目を閉じ、長く息を吐いた。


「・・・わかったわ。グユウさんには、妊娠したことだけを伝える」


その声には、決意と哀しみとが入り交じっていた。



タイミングの悪いことに、この日はゼンシ様がレーク城を訪れる日だった。


まだ夜明けも浅いというのに、城内はすでに慌ただしく動いている。


廊下を行き交う侍女や家臣の顔には、緊張と不安の色が濃い。



シリ様もまた、揺れる心を押し隠しながら身支度を整えられていた。


けれど私には分かる。


その胸の奥にあるのは、恐怖と、決して口にしてはならない秘密――。


この日は暑く、白く薄いローンのドレスを選んだ。


裾には淡い紫色の刺繍がほどこされ、涼やかな印象を添える。


黄金色の髪は高く結い上げ、そこに淡い光を放つピンクの飾り櫛を挿した。


グユウ様から頂いたものだと聞いている。


その瞬間、あまりに美しくて、私は思わず息を呑んだ。


「遅くなりました」

長いドレスの裾をひきずりながら食堂に現れたシリ様に、グユウ様の頬がさっと赤らんだ。


視線は飾り櫛に向かい、やがてシリ様の顔へ。


寡黙なお方は言葉を発しない。


けれど、その黒い瞳とわずかな表情の揺らぎは、

「きれいだ」と何度も告げているのと同じだった。


「身体は大丈夫か」

優しい声が落ちる。


「大丈夫です。ご心配をおかけしました」

シリ様が微笑むと、グユウ様は短く「そうか」とだけ答えた。


けれど私は知っている。


そのひとことに、どれほどの想いが込められているかを。


想い合う二人の幸福を、私が壊してはならない。


この秘密だけは、誰にも話さない。


そう心に誓いながら、私は拳を固く握りしめた。



門の外に馬車が停まり、赤と白の旗が風にはためく。


誰もが息を呑んだ。


あの方が、来られたのだ。


黄金色の髪、青い瞳。


鋭い眼差しと、周囲を圧倒する空気。


ただ立っているだけで、城に影を落とすような存在感――それがシリ様の兄、ゼンシ様だった。


「義兄上、お待ちしておりました」

グユウ様が深々と頭を下げる。


その背後に控えていたシリ様は、一瞬、身をすくませたように見えた。


けれど次の瞬間、勇気を振り絞ったかのように前へ進み出る。


「兄上・・・お久しゅうございます」

微笑んでそう言うシリ様の声は、わずかに震えていた。


私は思わず胸を押さえた。


ゼンシ様の視線がシリ様を射抜く。


その眼差しに、私は底知れぬ欲と支配を感じ取った。


――また、あの夜のように。


ゼンシ様の白く細い指が、シリ様の首筋に添えられた。


その瞬間、シリ様の肩がびくりと震える。


「髪は結わずに下ろした方が似合う」

低い声が、耳元に落とされた。


後ろに控えていた私にすら、かろうじて聞き取れるほどの小さな囁きだった。


恐怖のせいか、シリ様は声を発することもできず、ただ小さくうなずく。


ゼンシ様の指先が顎を掬い上げ、顔を間近に引き寄せる。


「青色が似合う」

ピンクの髪飾りに一瞥をくれ、その視線は冷たく唇にまで落ちてきた。


――触れるのではないか。

私は息を呑み、思わず唇を震わせた。


「・・・後で話そう」

そう囁いた声は、明らかに妹を愛玩する言葉ではなかった。


まるで、グユウ様に見せつけるかのような仕草。


私は恐怖と怒りで胸が焼けつきそうになった。


だが――グユウ様はただ静かに、無言で義兄を見つめているだけだった。


その黒い瞳に何が宿っていたのか、私には読み取ることができなかった。



ゼンシ様の手が離れた瞬間、シリ様はわずかに息を吐かれた。


兄妹のやり取りは、ほんの数秒のことにすぎなかったはずなのに、私には途方もなく長い時間に思えた。


「・・・疲れました。部屋に戻ります」

かすかな声でそう告げ、シリ様は裾を握りしめて歩き出す。


震える足取り。


だが、倒れるわけにはいかないとでも言うように、姿勢だけは正しておられた。


私は慌ててその背に従った。


扉を閉めると同時に、シリ様は膝から崩れ落ちるように床へ座り込まれた。


「シリ様・・・」

声をかけ、私は背に手を添えた。


部屋の中には私たち二人だけ。


けれど、あの恐怖と絶望はまだ色濃く残っていた。


胸の奥が締めつけられる。


――この方を守らなければ。


でも・・・どうしたら良いのだろう。


途方に暮れながら、シリ様の肩を抱き支え続けた。



そのままゼンシ様はグユウ様と会談に入り、私は胸のざわめきを抑えきれぬまま一日を過ごした。


夜更け。


寝室の扉が控えめに叩かれる音がした。


訪れたのは重臣ジムであった。


「シリ様、お伝えすることがございます」

「ジム、夜遅くにありがとう」


ジムは深刻な面持ちで口を開いた。


「・・・ゼンシ様から伝言を預かっております」


「兄上が・・・何か」

シリ様の声が硬くなる。


私の胸にも、冷たいものが走った。


「明日の早朝、シリ様と二人だけでお話をされたいとのこと。東側に部屋をご用意しました。

周囲には家臣を置かず、兄妹ゆっくりと・・・とのご意向です」


一瞬、耳が音を失った。


ーー二人きり? そんな。


まさか、またあの夜のようなことが。


血の気が引いていくのを自覚しながら、私は必死に立っている脚に力を込めた。


シリ様は無言のまま、ただ静かに頷かれている。


その姿を見て、胸が張り裂けそうになった


「わかりました。グユウさんは、その事をご存知ですか」

語尾を震わせまいと、シリ様は気丈に問い返す。


「はい。グユウ様の前で、ゼンシ様ご自身がお話しされました」


シリ様はしばし黙し、やがて顔を上げられた。


その青い瞳には、恐怖よりも別の光が宿っていた。


「ジム・・・お願いがあるの」


「何なりと」

ジムは膝をつき、耳を傾ける。


次に放たれた言葉に、私は息を呑んだ。


「明日の朝、東側の部屋の隠し小部屋に待機してください。

そして、私と兄上の会話を、すべて記録してほしいの」


「・・・記録、でございますか?」

ジムの顔に困惑が走る。


私も同じだった。


兄妹の密談を、あえて外に残すなど聞いたことがない。


けれど、シリ様はきっぱりと続けた。


「ええ。何があっても部屋から出てはいけません。

その記録を、グユウさんに渡して。そして・・・エマにも」


その瞬間、胸が締めつけられた。


ーーなぜ私にまで? 


震える心臓を押さえながら、ただうなずくしかなかった。


ジムもまた顔を強張らせながら深く頭を下げる。


「・・・承知いたしました」


シリ様の横顔は、静かな決意に包まれていた。


ーーシリ様、何をお考えですか?


答えを探ろうとしても、その表情からは何もわからなかった。



あくる日。

まだ日も昇らぬ早朝、部屋にはろうそくの灯りが淡く揺れていた。


無言のまま髪にブラシを通すたび、シリ様の呼吸は浅くなる。


纏われたのは、ゼンシ様好みの濃い青色のドレス。


髪は結わず、金の波をそのまま流した。


「エマ、帯を取って。ええ、その銀色のものを」

命じられるまま、ほっそりとした腰に飾り帯を巻く。


「・・・お腹に、ですか」

思わず遠慮がちに尋ねる。


「ええ。お腹に巻いてほしいの」

きっぱりとした声。


まるで自分を鎧うようだった。


支度が整い、彼女は静かに告げる。


「行ってきます」


その瞳は、戦場に赴く兵士のように険しく研ぎ澄まされていた。


妃、それも妊娠中のお方が――兄と対峙しようとしている。


――大丈夫だろうか。


姿勢を正し、毅然と歩み去っていく背中を見送りながら、

私は胸の奥をぎゅっと掴まれる思いだった。



シリ様が去られてから、私は何をするでもなく寝室に待機していた。


考えれば考えるほど、胸に浮かぶのは最悪の想像ばかり。


祈るように時を刻み、やっと三十分ほどが過ぎたころ――寝室の扉が慌ただしく叩かれた。


扉を開けると、ジムが荒い息を吐きながら立っていた。


「終わりました。すぐに東側の部屋へ・・・!」

「承知しました!」


私は夢中で駆け出した。


こんな短時間で面談が終わるなんて――どうか、何もなかったと信じたい。


せめて、シリ様のお顔をこの目で確かめるまでは安心できない。


東側の部屋に飛び込むと、そこには机に凭れ、ぐったりとしたシリ様の姿があった。


「シリ様・・・!」


震える声で呼びかけると、シリ様はゆっくりと身を起こされた。


その身体は鉛のように重そうで、顔色も蒼白だった。


「エマ、心配することは何も起こらなかったわ。詳しくは・・・ジムに聞いて」

力のない声でそう告げられる。


私は、その言葉の裏に潜む壮絶さに気づくこともなく、ただ安堵の涙がにじんだ。


「シリ様・・・お疲れです。少し休まれては」


「そんな時間はないの」

首を振られた瞳は、燃えるような静けさを帯びていた。


「急いでお見送りをしないと」


「こんな時間に・・・? どなたをお見送りに」


「兄上がお帰りよ。急用でお急ぎなの」

シリ様は微笑みながら立ち上がられた。


その背中には、もはや怯えも迷いもなく――ただ、覚悟と誇りが漂っていた。



ゼンシ様は、まるで逃げるように城を後にされた。


あの鋭い瞳の領主が、あんなにも落ち着きを欠いた姿を見せるなんて。


――何かあったに違いない。


だが、それが何なのか、私にはさっぱりわからなかった。


そんな折、シリ様がふいに私の方へ振り返られた。


「エマ、悪いけれど・・・城下の薬師に届け物をお願いできるかしら」

それは侍女に頼めば済むような、些細な用事だった。


「私が参りますが・・・シリ様は大丈夫で?」

思わず問い返す。


「ええ。少し一人になりたいの」

やわらかな微笑み。


だが、その瞳の奥には、言葉にできない何かが潜んでいた。


私は深く頭を下げ、部屋を辞した。



城に戻ると、蒼白な顔のジムが私を待っていた。


無言のまま部屋に通され、彼が差し出したのは一枚の羊皮紙――報告書だった。


震える手で受け取ると、そこには簡潔な筆致でこう記されていた。


――ゼンシ様、シリ様に接近し、口づけを試みる。

――シリ様、ナイフを手に取り、自らの首に当てる。

――両者、言葉を交わし、最後は和解に至る。


わずか数行。


けれど、その背後にどれほどの壮絶なやり取りがあったのか、想像するだけで血の気が引いた。


「・・・これは・・・」

私は言葉を失くした。


報告書を持つ指先が震える。


「私の予想ですが・・・これは、シリ様が遺言のつもりで私に指示を託したんだと思います」

ジムの声がかすれる。


「遺言・・・?」

乾いた声が室内に響いた。


「はい」

報告書は、何度も握りしめられ、くしゃくしゃになり、伸ばされた形跡があった。


グユウ様もこれを読まれたに違いない。


「シリ様は・・・」


「馬場に行かれました。グユウ様が今、跡を追っておられます」


その言葉を聞いた瞬間、私は弾かれたように椅子から立ち上がった。


――シリ様は、グユウ様に秘密を話すかもしれない。止めなくては!


思わずドアノブに手をかけた私の手を、ジムが制した。


「どこへ行かれるのですか」


「シリ様・・・シリ様のところに行かなくては」

震える声で言うと、ジムが静かに口を開いた。


「今、お二人で話し合っておられます」


私は思わずジムの顔を見つめた。


「お二人に、委ねたらどうですか」


その言葉に、胸の奥が冷たくなる。


ーーこの人は、どこまで理解しているのだろう。


けれど、それを聞く勇気は私にはなかった。


ジムの言葉に、私はドアノブから手を離した。


胸の奥がざわついて、今にも駆け出したい衝動に駆られる。


私はただ、祈るしかなかった。


ーーどうか、シリ様をお守りください。


どうか、あのお二人の絆が壊れませんように。



やがて、玄関の方から足音が響いた。


振り向いた私は、息を呑む。


――そこにいたのは、並んで歩くシリ様とグユウ様。


二人は何も語らず、ただ自然に手を繋いでいた。


その手は固く結ばれ、決して離れることはない――そう告げているように見えた。


私は胸に熱いものが込み上げ、堪えきれずシリ様に抱きついた。


「・・・シリ様・・・」

声が震えてしまう。


シリ様は少し驚いたように目を見開かれたが、すぐに優しい微笑みを浮かべられた。


「エマ、心配かけてごめんね」


「シリ様は本当に・・・心臓が持ちません」

私は涙ながらに言葉を漏らした。


「昼食の用意ができています」

ジムが穏やかに告げる。



私とシリ様は並んで歩きながら、ホールへと向かった。


けれど、胸のざわめきは消えない。


思わず、躊躇いがちに口を開く。


「シリ様・・・その・・・」

――グユウ様に、どこまで話されたのだろうか。


「エマ・・・全てを話したわ」


「全て・・・?!」

声が裏返ってしまった。


シリ様は少し微笑まれて、静かに続ける。


「私が子供を産んだら・・・“オレの子だ”と、グユウさんは言ってくれたの」


耳を疑った。


ーー本当に? 


信じたい言葉。


けれど疑問も拭えない。


「そして・・・ね」

シリ様の声が弾んだ。


「グユウさん、笑ってくれたの。にっこりと」

嬉しそうに告げるその横顔に、胸が熱くなる。


――あの無表情なグユウ様が、にっこり笑う?


信じがたい話だった。


だが、嘘を言っている瞳ではなかった。



昼食の席は、まるで宴のようだった。


ゼンシ様の訪問に備えて働きづめだった人々――家臣も侍女も女中も馬丁も、皆が顔をそろえていた。


用意された食卓には、温かな料理が並び、疲れを癒すように笑い声が広がっていく。


その中で、グユウ様がすっと立ち上がられた。


「皆に知らせたいことがある」

低く響く声に、場のざわめきが静まる。


「シリに子ができた。来年二月には産まれる」


一瞬の沈黙。


そして、どっと湧き上がる歓声。


「おめでとうございます!」

「万歳!」

「領主様にお世継ぎが!」


喜びの声が重なり、涙ぐむ者もいる。


その中心で、シリ様は顔を赤らめ、こほんと咳をして小さくうなずかれた。


――妊娠は、確かに祝福されるべき出来事なのだ。


私は胸が熱くなった。


ここ数日、恐怖と絶望の影しか見えていなかったのに・・・

この瞬間、城中が一つになり、未来を信じて喜んでいた。


ふと横を見ると、グユウ様とシリ様が互いに微笑み合っていた。


無表情なはずの御方の口元が、わずかに緩んでいる。


ほんの一瞬だったが――確かに笑っておられた。


――あぁ、本当に。


私は目頭を押さえながら、心の中で静かに誓った。


この幸せを壊してはならない。


その秘密を知るのは――シリ様と、グユウ様と、そして私だけ。


たった三人の胸の奥に閉じ込められた、永遠に封じられるべき真実なのだ。


政略で結ばれた夫婦は、もはや政略ではない。


互いの心を開き、秘密さえも受け入れた。


その証を守るのが、私の役目だ。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

評価をしていただいた方、ありがとうございます。


この短編は『秘密を抱えた政略結婚』本編のスピンオフで、

乳母エマ視点によるエピソード(第11作目)です。


短編だけでもお楽しみいただけますが、

本編を読むと二人のすれ違いや政略の背景がより深く伝わります。


本編はこちら

『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』

(Nコード:N2799Jo)

https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/



本日、新作短編を投稿しました。


「あの妃より美しい女を探せ」

https://book1.adouzi.eu.org/n5007le/



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