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一途に、不器用にーー政略の妻、魔女と呼ばれた妃と

「妾など何人いてもいい、と笑う者が大半の世。

けれど――政略の妻、ただ一人を選んだ男がいた。


23歳の若さで領主となったグユウは、貧しい小領を治めている。


再婚相手として嫁いできたのは、

強領ミンスタの姫――“魔女”とも呼ばれた、気性の激しい女だった。



結婚して二ヶ月。

政略で嫁いできた妻シリと過ごす日々は、まだ新しく、

オレにとって楽しく、夢のようなものだった。


その妻と、初めて一週間も離れることになった。


義兄ゼンシとの会談のため、領境まで出向かねばならない。


「七日ほどで戻る」

そう告げると、シリは一瞬だけ目を見開いた。


驚いたような、その青い瞳。


けれど、すぐに微笑み、「・・・そうですか」と答えた。


淡い笑みの裏に、不安の影がかすかに揺れた気がする。


ーーなぜだろう。


理由はわからない。


胸の奥に小さなざわめきが広がる。


オレと離れて過ごすのに、寂しさを感じているからだろうか。


そんな考えが一瞬浮かぶ。


ーーいや、まさか。


こんな美しい妻が、オレと離れることを寂しがっているなんて。


調子に乗るな。


「・・・話し合いだけだ」

思いついた言葉を口にしたが、彼女の表情は曇ったままだった。


不安を拭える言葉は他に見つからず、出発の時間が迫る。


結局、「行ってくる」とだけ告げて城を出た。


城門を出て振り返ると、まだシリがそこに立っていた。


風に金の髪を揺らしながら、じっとこちらを見つめている。


その瞳の奥に、何があるのか。


オレには、まだ掴めなかった。



宿場町に到着すると、ざわめきが耳に飛び込んでくる。


行き交う人々の声、荷馬車の車輪の軋み、店先の呼び込み。


――静かなレーク城とはまるで別世界だ。


ジムが馬を並べて教えてくれる。


「この宿場町は、モザ家の定宿でもあります」

「そうか」

オレは短く返した。


ーーシリをここへ連れてきたら、どう感じるだろう。


ふと、そんな考えがよぎる。


すぐに頭を振った。


いまは会談だ。



「義兄上、お待たせしました」

宿に着くと、義兄ゼンシはすでに席に着いていた。


オレは深く頭を下げる。


「グユウ、元気にしていたか」

「はい。義兄上もお変わりなく」


義兄上はオレの顔をじっと見たあと、ふっと笑った。


「良い顔をしている。・・・シリとは仲良くやっているか」

「・・・慣れました」


その言葉を聞いて、義兄上の口元がさらに緩む。


「なるほど、あれは気が強いからな」


和やかな空気のまま会談は進んだ。


領境の整備や物資の流れについて話し合い、細かな調整も滞りなく終える。



夜、書き物をしていると、扉を叩く音がした。


ジムが応対に出ると、若い侍女が酒瓶を抱えて立っていた。


「ゼンシ様からのお心遣いです」

柔らかな微笑みと共に、深々と頭を下げる。


名をジェーンと名乗った。


大きな鳶色の瞳が潤み、ふっくらとした唇が笑みを形づくっている。


ーー接待に侍女を差し出す。


それは、領主同士の場ではよくある“もてなし”。


義兄上なりの配慮なのだろう。


「・・・オレは酒を飲まない」

短く答えると、彼女の笑みがわずかに揺らぐ。


それでも諦めきれない様子で、ジェーンは机に近づいた。


「お酒がだめなら・・・お菓子を。あるいは――」

潤んだ瞳でこちらを見上げてくる。


だが、胸の奥はまるで石のように動かない。


浮かんだのはシリの顔だけだった。


「・・・明日は鍛錬がある。休むつもりだ」

淡々と告げ、ジムに彼女を送らせる手配をした。


去り際、かすれた声が耳に残った。


「理由を・・・教えてください。ゼンシ様に報告しなければなりません」


少しの沈黙ののち、オレは正直に言った。


「・・・すまない。シリに嘘をつきたくない」


それだけだった。


扉が閉まり、静寂が戻る。


オレは息を吐き、額に手を当てた。


――義兄上の厚意を無下にしたかもしれない。


だが、受け入れることはできなかった。


ーーシリに、嘘はつけない。


ただそれだけが、胸の奥で重く揺れていた。



翌日、会談を終えて、義兄ゼンシはテーブルにカップを置いた。


「・・・そういえば、ジェーンを抱かずに帰らせたそうだな」

低く笑みを浮かべる。


「お気遣いは、誠に感謝しております」

オレは頭を下げた。


「妾など、何人いても構わぬのに。真面目な義弟よ」


その声音は冗談めいていたが、オレは何も返さなかった。


――妾など、欲しくない。


欲しいのは、シリただ一人。


「シリは気が強くて異端・・・グユウは生真面目すぎて異端だ」


ゼンシは肩をすくめ、カップの紅茶を飲み干した。



出立まで少し時間が空いた。


宿場町の店先で、小さな飾り櫛に目がとまった。


淡い桃色の石が、シリの笑顔を思わせる。


気づけば手に取っていた。


「・・・似合うかもしれない」

思わず声に出してしまう。


ジムが横目でこちらを見た。


「シリ様へのお土産に?」


オレは無表情を装いながらも、顔が熱くなるのを感じた。


「・・・あぁ」


小さな包みを懐にしまい込み、歩き出す。


胸の奥にかすかな高鳴りがあった。


――早くシリに渡したい。


ただそれだけだった。


城へ戻る道中は、シリに逢いたい気持ちは募るばかりだった。


思わず馬に鞭を打つ。


「グユウ様!」

ジムが慌てて声を上げる。


「そんなに飛ばされたら・・・皆が追いつけません!」


振り返ると、後方で家臣たちが必死に馬を駆っていた。


「・・・そうか」

我に返り、手綱を引く。


馬は並足に戻り、風の音が穏やかに変わった。


胸の奥の焦燥は、まだ鎮まらない。


だが、それを表に出すわけにはいかない。



城門に到着した途端、甲高い声が響いた。


「シリ様! お待ちください!」

乳母エマの金切り声だ。


怪訝そうに顔を見合わせる家臣たちの視線の先で、扉が勢いよく開いた。


ドレスの裾をたくし上げ、シリが駆け出してきた。


「足が・・・丸見えだ」

隣のオーエンが呆れたように低くつぶやく。


この時代、貴婦人が走ることなどあり得ない。


ましてや、裾を持ち上げて露わになった足は、裸と同じ意味を持つ。


金の髪が陽を受けて揺れ、真っ直ぐにこちらへ駆け寄ってくる。


息を呑んだ。


――あり得ない。


だが、目を離せなかった。


「おかえりなさい!」


息を切らし、笑顔でそう告げるシリ。


衝撃的すぎて、言葉が出ない。


「あぁ」

ようやく搾り出した声は、それだけだった。


オレの顔は、にやけていたらしい。


「・・・お気持ちが・・・隠しきれない」

サムがぼそりと呟く。


「お二人とも、どれほど寂しかったのでしょうね」

ジムは柔らかく微笑む。


その横で、オーエンだけが小さく鼻を鳴らした。


「・・・妃が人前であんな無様な姿を晒すとは」


低くつぶやいた声に、場の空気が一瞬張りつめる。


だがオレには、彼らの言葉など届かなかった。


――嬉しかったのだ。


たった一言「おかえりなさい」と息を切らしながら駆け寄ってきてくれる妻がいる。


その事実だけで、胸の奥に熱が広がっていく。


抑えようとしても、瞳の奥に浮かんだ柔らかさを隠すことはできなかった。



夕刻、二人きりの散歩道。


シリは横を歩きながら、何かを言いたげに口を開きかけては閉じる。


その落ち着かない仕草に気づきながらも、

オレは言葉を探せず、ただじっと彼女の横顔を見つめた。


ーーどうやって、櫛を渡そうか。


ポケットにある櫛を服の上から確かめる。


無言の時間が重くのしかかる。


胸の奥にざわめきが広がり、いつもの癖で顔から表情が消えていく。


――彼女の生家は裕福だ。


良い櫛など、すでに山ほど持っているはず。


・・・それでも、渡すべきだろうか。


彼女が不思議そうに自分を見つめていた。


迷いを振り切るように、ポケットへ手を入れた。


「・・・これを」

小さな包みを、不器用に差し出す。


驚いたように目を見開くシリ。


「これは・・・私に、ですか?」


小さくうなずくと、彼女は恐る恐る布をほどいた。


次の瞬間、ぱっと花が咲くように顔が綻ぶ。


「キレイ・・・」


その表情に胸が熱くなる。


だが照れと不安が入り混じり、思わずまた無表情に戻ってしまう。


「・・・こういう色も、似合うと思った」


我ながらぎこちない言葉。


けれど、シリは微笑みながら真っ直ぐに答えてくれた。


「ありがとうございます、グユウさん」


その笑顔に救われる。


無表情の奥に隠していたざわめきが、静かにほどけていった。


日が暮れ、夜になった。


二人きりで彼女の瞳を見たい。


声を聞きたい。


――そして、腕の中に抱きしめたい。


いそいそと寝室へ歩く自分の様子に、

家臣たちは苦笑いで目を向けていたが、どうでもよかった。


扉を開けると、シリがいた。


整えられた寝衣姿で、背筋をすっと伸ばして座っている。


その顔には、覚悟を決めたような強さが宿っていた。


一瞬、胸の奥がざわめいた。


ーーただ抱き寄せたいだけだったのに。


彼女はまるで、裁きを下すような瞳でこちらを見ていた。


「グユウさん」

一歩近づいて、オレを見つめる。


「・・・私以外の女性と、夜を共に過ごしましたか?」


震える声が、静かな寝室に落ちた。


「兄上は・・・きっと、あなたの部屋に女の人を送ったはずです」


青い瞳が揺れ、声は小さい。


胸の奥がひやりと冷えた。


ーーやはり気づいていたか。


シリの感覚は鋭い。


「・・・その方と、夜を過ごしたのですか?」


返す言葉を探す間に沈黙が流れる。


視線を逸らさずにいようとしたが、ほんのわずかに顔が揺れた。


「・・・その・・・部屋には来た」

それだけを絞り出す。


シリは視線を落とし、唇を噛んだ。


細い肩が、かすかに震えている。


「そうですか。きれいな人だったでしょうね」


――落胆している? 


それとも・・・妬いているのか。


まさか。


けれど、彼女の横顔を見た瞬間、胸の奥に温かいものが広がった。


ーーオレを想ってくれている。


そう感じられて、嬉しかった。


「酒を勧められた」

努めて淡々と話す。


シリは黙って聞いていた。


以前、オレは彼女に『嘘はつかない』と伝えた。


だから、最後まで正直に話す。


「翌朝、鍛錬があると断って・・・帰らせた」


シリの青い瞳がぱっと見開かれた。


驚きと安堵が入り混じっている。


「・・・帰らせたのですか?」


「あぁ」

短くうなずく。


「どうして・・・」


言葉が詰まった。


ーーそれは、シリを好いているから。


だが、どう口にすればいいのかわからない。


結局、オレはただ彼女を見つめ返すことしかできなかった。


「グユウさん・・・」


呼ばれた名前が胸に沁みた。


――いつも与えてくれるのはシリの方だった。


口づけも、手を握るのも、優しい言葉も。


オレはそれに応じるばかり。


だが今は違う。


喉が締めつけられるほど、言葉がせり上がってくる。


この想いを、伝えなければ。


「シリ・・・」

掠れた声が出た。


それでも吐き出す。


「・・・逢いたかった。・・・その、抱いてもいいか」

唇が震え、息が乱れる。


それでも視線を逸らさず、まっすぐに見つめ続けた。


シリの瞳が潤み、頬が赤く染まる。


やがて小さく頷いた。


「グユウさん・・・寂しかったです」

両手が差し出される。


その温もりを掴んだ瞬間、胸の奥で何かがほどけた。


――失いたくない。


だから、言葉にする。


「・・・シリより、美しい女性はいない」


ーーもっと、上手に自分の気持ちを話せたら。


だが、それが今の俺の精一杯だった。


シリは微笑んで、そっと胸に顔を寄せた。


無表情で通してきた顔が、今はこんなにも歪んでいる。


それを許し、受け止めてくれるのは――シリだけだ。


寝室に満ちる静けさの中で、初めて心が安らいだ。



不器用に、一途に、政略の妻を、本当の妻として選んだ男。


それは、生涯変わらなかった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

評価をしていただいた方、ありがとうございます。


この短編は『秘密を抱えた政略結婚』本編のスピンオフで、

グユウ視点によるエピソード(第10作目)です。


短編だけでもお楽しみいただけますが、

本編を読むと二人のすれ違いや政略の背景がより深く伝わります。


本編はこちら

『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』

(Nコード:N2799Jo)

https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/



本日、新作短編を投稿しました。


『彼女のすべてを受け入れた日』

https://book1.adouzi.eu.org/n3091le/


お腹の子が誰の子でも、オレにはどうでもいい――妻が生きていてくれるなら。

義兄の影に震える妻と対峙した一日を、寡黙な領主グユウの視点で描く短編です。

「受け入れる」という愛の形、その瞬間の揺らぎと確信をぎゅっと結びました。


こちらもよろしかったら、どうぞ。

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