暴れ馬のような妃と結婚した男 〜魔女と呼ばれた女〜
俺の妻サラは淑やかで、妾のジョシーもミナも素直で愛らしい。
三人とも豊かな胸を持ち、いつも俺を癒してくれる。
夜ごと相手を変えても、彼女たちは静かに受け入れ、幸せそうに微笑む。
――女に恵まれた暮らしに、不満などなかった。
だがあの日、友のグユウを訪ねた俺は知った。
暗く沈んだ彼が、よりによって“嵐のような女”を妻に迎えようとしていることを。
◇
「これからワスト領へ行ってくる」
妻であり妃でもあるサラに告げると、彼女は控えめに微笑んだ。
「お気をつけて・・・」
「あぁ」
そう答えて、俺は彼女の額にそっと唇を落とす。
頬を赤らめ、ちらりとこちらを見上げるサラが、なんとも可愛らしい。
「いってらっしゃいませ」
城門前でサラが控えめに微笑む。
その後ろには、ジョシーとミナが胸元を揺らして並んでいた。
今夜はジョシー、明日はミナ。明後日はサラと過ごそう。
そう思うだけで心が和む。
――だが、ワスト領の友は違う。
女の温もりを知っているはずなのに、彼はなぜか幸せそうに見えない。
俺はシズル領の領主、トナカ。
これから友であるワスト領の領主、グユウのもとへ向かう。
幼い頃からの付き合いだ。
元来暗い性分の男だったが、政略で結ばれた妻と離縁し、さらに陰を増したと聞く。
馬車に身を沈め、窓の外を流れる景色に目をやる。
「あのグユウ、どうしているのだろう」
心の奥で小さく呟いた。
――落ち込んでいなければ良いが。
久しぶりに会ったグユウを一目見て、俺は確信した。
――やはり予感は当たっていた。
暗い。なんて暗いんだ。
グユウは元来、明るい男ではない。
けれど今日の彼は、いつも以上に深い影をまとっている。
男の俺ですら嫉妬するほど整った顔立ち。
その黒い瞳には、生気のかけらもない。
――笑顔のひとつでも振りまけばいいものを。
何度そう思ったことか。
せっかくの色男が台無しだ。
湖を見つめながら、グユウは突っ立っていた。
一見、無表情。
だが、その横顔からは痛々しいほどの傷心がにじみ出ている。
慰めの言葉が見つからない。
やがて彼は淡々と告げた。
「・・・離縁した」
「・・・そうか」
小さく呟いた俺に、彼は黒髪を揺らし、深々と頭を下げる。
「すまない。婚礼のときは祝いの品を、あんなに頂いたのに」
俺は手を挙げて首を振った。
ーーそんなことはどうでもいい。
俯いたまま、彼はかすかに顔を上げる。
「聞いたぞ。ミンスタ領のゼンシと同盟を組んだそうだな」
「ああ。同盟の証として、ゼンシ様の妹が嫁いでくることになった」
頷く俺にグユウは、ポツリとつぶやく。
「妻とは心が通じなかった。
・・・オレは話すのが得意じゃない。二年間、まともに会話すらなかった」
――だろうな。
心の中で俺は苦くつぶやく。
グユウの口下手は筋金入りだ。
結婚すれば少しは変わると思っていたが・・・甘かった。
「離縁を切り出したときも、妻は何も言わずに出て行った。
・・・きっと、オレといても退屈だったんだ」
俯いた横顔は、あまりに暗い。
ーーあぁ、暗い。
周囲の空気まで沈んでいくようだ。
グユウは優しい。
長く共に過ごせば、その誠実さに胸を打たれる。
だが――優しさは、表に出さねば伝わらない。
彼のように不器用な男は、言葉の欠片や沈黙の裏を読み取れる者でなければ、到底付き合いきれない。
「・・・なぜ、ミンスタ領と組んだ?」
問いかけると、グユウは淡々と答えた。
「父も重臣も賛成だった。領のためだ」
それだけで察しがついた。
彼自身の望みではない。
断れば、戦になる可能性があったのだ。
だが、ふと彼の表情が和らぐ。
「・・・ただ、一つ条件を出した」
「条件?」
「シズル領に手を出さないように。書面で残させた」
思わず目を見開いた。
「それを・・・条件にしたのか」
「当然だ。ミンスタがその気になれば、オレたち小領などすぐに呑まれる。・・・だから必要な交渉だった」
「・・・グユウ。感謝する」
声が震えた。
ミンスタと手を結んだことで距離ができるのでは、と怯えていた。
だが彼は、自分の領だけでなく、俺の領までも守ろうとしたのだ。
胸が熱くなり、慰めの言葉を探して口をついた。
「姫は美人らしいな。ゼンシが二十まで手放さなかったとか」
ーーどうせ愛のない結婚なら、美しい方がまだ救いだ。
「噂は聞いた。父上は『ミンスタの魔女に騙されるな』と再三言っていた」
どこか投げやりな声で、彼は続けた。
「・・・でも、美人かどうかなんて関係ない。オレは、結婚に向いてない」
静かに落とされた言葉に、胸が詰まる。
俺は彼の肩を軽く叩いた。
「仲良くする必要はない。子を作って同盟を強めれば、それでいい。好いた女がいれば、妾にすれば・・・」
「・・・一人で手一杯なのに、そんな器用な真似、できるか」
グユウは湖面をまっすぐ見つめ、吐息を漏らした。
その横顔を見ながら、胸が締めつけられる。
この不器用で傷つきやすい友が――よりによって、ミンスタの姫と結婚する。
どうなるか、まるで想像がつかない。
――グユウ。幸せになれ。
心からそう祈らずにはいられなかった。
グユウと別れた俺は、重苦しい思いを抱えたまま自領へ戻った。
城に着くと、正妻サラが嬉しそうに出迎えてくれる。
その後ろでは、妾のジョシーとミナが静かに頭を下げた。
彼女たちと共に過ごす時間は心を和ませ、安らぎを与えてくれる。
女と過ごすことが、こんなにも楽しいということを――グユウは知らない。
その後まもなく、ワスト領にミンスタの姫が嫁いだと耳にした。
気にはなったが、領務に追われ、訪ねることはできなかった。
◇
二ヶ月後、俺は再びワスト領へ向かった。
グユウに嫁いだのは、あの“ミンスタの魔女”。
――ゼンシの妹が、いったいどんな女なのか。
この目で確かめてやろう。
そして、あの不器用なグユウと、本当にうまくやっているのか――それも気になる。
結婚直前に会ったときのグユウは、全身に黒いオーラをまとっていた。
だが二ヶ月ぶりに再会した彼は、まるで春の陽気のように柔らかく、温かな空気をまとっていた。
近況を語り合ったあと、グユウがふと切り出す。
「・・・シリに会いたいだろう」
シリ、妃の名前だ。
「もちろんだ」
俺は思わず口の端を吊り上げた。
すぐに呼び出しの声がかかり、妃が挨拶に来るという。
やがて廊下から軽い足音が響いてきた。
――妃にしては落ち着きがない。
まさか走っているのか?
“ミンスタの魔女”が来る!
扉が開いた瞬間、俺は息を呑んだ。
髪には小さな赤い薔薇。
青のドレスを纏い、金の髪と澄んだ青の瞳を持つ女。
ただそこに立つだけで、周囲が一気に華やぎ、光が差したように見えた。
――女神のようだ・・・。これが“魔女”?
思考が真っ白になり、口が半ば開いたまま固まってしまう。
「シリ、こちらはシズル領の領主トナカ・サビだ」
「トナカ、オレの妻、シリだ」
“妻”と紹介するグユウの声は、誇らしげで、喜びが隠しきれていなかった。
妃が近づくと思わず息を呑んだ。
――背が高い。
女にしては異様なほどだ。
だが、長身のグユウと並べば遜色はなく、むしろ対等に見える。
ただの妃ではない。
並び立つだけで、二人は人目をさらってしまう。
慌てて気を取り直す。友の妃を前に、我を忘れるなど情けない。
「グユウ・・・綺麗な奥さんだな。見ていると、俺まで嫁をもらった気分になる」
その言葉に、シリは澄んだ声で笑った。
「シリです」
恐ろしいほど澄んだ青い瞳が真っ直ぐに俺を見据える。
だがその瞳は決して従順ではない。
気の強さが隠しきれずに輝いていた。
差し伸べられた手を握りながら、俺は心の中でつぶやく。
――気の強そうな妃だ。
三人で昼食をとることになった。
席に腰を下ろすやいなや、妃が問いかけてきた。
「シズル領の特産品は何か、教えていただけますか?」
面食らった。
妃が口にするにはあまりに場違いな質問だ。
その後も彼女は、税収だの収益だのと、まるで商人か役人のような話を繰り広げていく。
――女がする話ではない。
女とは、男の話を大人しく聞き、微笑んでいるものだ。
それが女性の美徳であるはず。
なのに、この妃は堂々と自分の考えを述べ、未来のことまで口にする。
俺の周囲の女たちは誰ひとり、政治に関心を持ったことなどなかった。
女に口出しするなと教育されてきたからだ。
――これが、新しい時代の女なのか。
そう思いながらも、胸の奥にざらつく感覚が残る。
確かに頭の回転は速い。
話していて退屈はしない。
だが、心が安らぐことはまるでない。
思わずグユウの顔を盗み見た。
信じられないことに――グユウは楽しそうにしている。
その表情を見た瞬間、違和感と共に、不安が背筋を這い上がってきた。
――本当に、大丈夫なのか。
昼食後に妃は質問をした。
「グユウさん、これから客間に行くの?」
「外に行こうと思う」
淡々と答えるグユウに、彼女はすぐさま言った。
「じゃあ、私も行こうかな」
「それなら・・・北の谷へ行くか」
「そこはまだ行ったことがないです!」
妃の声が弾んだ。
――馬車でドライブでもするのか?
俺が訝しげに眉をひそめると、グユウが淡々と告げる。
「乗馬をしよう」
数分後、馬場に着いた俺の目に飛び込んできたのは――妃の姿だった。
髪をきりりと後ろで縛り、手には鞭。
そして何より俺を驚かせたのは、その装いだ。
――男装。妃が・・・男装をしている!
口を開けたまま固まる俺を尻目に、彼女は慣れた手つきで乗馬の支度をてきぱきと進めていく。
まるで当たり前のように。
グユウも、後ろに控える重臣も、何ひとつ驚いた様子を見せない。
俺だけが呆然としていた。
「女に・・・乗馬ができるのか?」
心の声のつもりが、うっかり口に出てしまった。
その言葉を聞きとめたのだろう。
妃はひらりと馬にまたがり、顎を高く上げてこちらを見た。
「一緒に行きましょう」
金の髪が風に揺れ、青い瞳がまっすぐ射抜いてくる。
挑むようなその笑みは、妃というより騎士のものだった。
だが俺の目は、別のところに留まった。
男装の上からでは、胸の膨らみがまるでない。
ーーだからこそ、余計に男のように見える。
グユウ。お前は大丈夫なのか?
妃というより騎士。
従順さのかけらもない。
規格外の女に振り回され、傷つくのではないか。
そう思うと、胸の奥に妙な不安が広がった。
妃の乗馬の腕前は、並ではなかった。
馬上で目を輝かせる姿に、思わず息を呑む。
平坦な道を駆けると、妃の馬がすっと俺とグユウの前へ躍り出た。
振り返った青い瞳が、後ろにいる俺たちを煽るように射抜く。
その視線に、胸がどきりと鳴った。
妃は片手で手綱を操りながら、もう片方の手で遠くの木を指差す。
「あの木まで競争しましょうか」
笑顔だが、その瞳には挑戦の光が宿っていた。
次の瞬間、鞭が鋭く鳴り、妃は馬を疾駆させる。
舞い上がる土煙。力強く伸びる背筋。
俺は思わず口笛を吹いた。
――完敗だ。
馬を降りた妃は、じっと崖の上を見つめていた。
――もう、たいていのことでは驚かない。
そう思っていたのに、彼女の行動からはやはり目が離せない。
「やっぱり、あの草よ!」
指さした先には、崖の途中に小さな紫の花が風に揺れている。
――草だろう?
次の瞬間、妃は迷いなく崖をよじ登り始めた。
「危ない!」
思わず声を上げる俺の腕を、グユウが静かに制する。
「トナカ、いいんだ」
黙って妃を見上げるその目に、俺は苛立ちすら覚える。
――何を考えているんだ、グユウ!
「落ちたら――」
叫んだ俺の声に、妃は振り返りもせず、口元に笑みを浮かべた。
「だから楽しいんじゃない!」
岩肌に指をかけ、身を軽々と持ち上げる。
靴底がずるりと滑り土が舞ったが、怯むどころか笑い声をあげた。
「すぐに取るわ!」
心臓が縮む思いで見上げる俺の横で、グユウが静かに呟く。
「シリは・・・女扱いされるのを嫌がる」
――あれは女じゃない!
女の皮を被った、向こう見ずな男だ!
俺は心の中で叫んだ。
やがて日差しに照らされた花をもぎ取ると、彼女は勝ち誇ったように頭上へ掲げる。
風が吹き抜け、草いきれの中で彼女の笑顔がいっそう輝いた。
崖から軽やかに降りてきた彼女は、摘んだ花を高く掲げながら笑った。
「グユウさん、見て! これ、普通のタイムじゃないのよ! ワイルドタイムっていうの!」
「・・・そうか」
短い返事。
けれど、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいるようにも見える。
俺はただ呆然と見ていた。
命を賭けてまで取ったのが、たかが草だ。
だが彼女は本気で嬉しそうに、その花を抱きしめてはしゃいでいる。
――顔かたちは美しい。だが、あれは暴れ馬だ。
胸もない。
俺には抱けない、こんな女。
・・・グユウ、お前は本当に大丈夫なのか。
その妃と共に歩んで――疲れ果てたりしないのか。
妃は首の青いスカーフを外し、摘んだ草を丁寧に包み始めた。
その瞬間、開かれた襟元から乳白色の胸元がのぞく。
――胸は、ない。
だが、そこに赤い痕がいくつも点々と残っているのを、俺は見逃さなかった。
――あれは・・・!
思わず息を呑む。
俺の視線に気づいたのか、グユウが慌ててスカーフを取り出し、不器用に彼女の首元へ巻きつけた。
――見たぞ、グユウ。
声にならない声で友を見やると、グユウは耳まで真っ赤に染めていた。
そんな無言のやり取りを彼女は気づかない。
「これはね、勇気を与えるハーブって呼ばれているの!」
目を輝かせながら草を抱える妃。
「あぁ・・・シリに相応しい」
グユウの声は低く穏やかで、確かな温かみを帯びていた。
そのやり取りを見て、ふっと力が抜けた。
――すごい女だ。
ゼンシの妹と聞いて身構えていたが、目の前にいるのは恐れていた“魔女”ではなかった。
魅力と生命力にあふれ、常識外れの輝きを放つ女。
俺にはとても扱いきれない規格外の存在だ。
だが――そんな女を受け入れ、静かに見守るグユウこそ、本当にすごい。
彼が向ける眼差しは、これまで一度も見たことのないほど優しかった。
その顔を見た瞬間、胸のざらつきも不安もすべて消えていった。
――グユウは変わった。
あの規格外の女と共にあって、幸せになったのだ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
ブックマークをしていただいた皆様、ありがとうございます。
この短編は『秘密を抱えた政略結婚』本編のスピンオフで、
友人トナカ視点によるエピソード(第9作目)です。
短編だけでもお楽しみいただけますが、
本編を読むと二人のすれ違いや政略の背景がより深く伝わります。
本編はこちら
『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』
(Nコード:N2799Jo)
https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
本日、新作短編を投稿しました。
「政略で結ばれた夫婦が、秘密を受け入れた日」
作品ページはこちら
https://book1.adouzi.eu.org/n8008ld/
お腹の子の父親が誰なのか――決して口にしてはいけない。
それでも、夫婦は愛で結ばれていく。
不器用な男と真っ直ぐな妃、その二人を見守る乳母の視点から描いた一篇です。
ぜひ読んでいただけると嬉しいです。




