猫の誘い
「・・・ユキ? どうかした?」
夕飯時、お父さんが眼鏡の下で瞳を丸くし、お母さんも箸を止めて唖然としていたが、私は構わずご飯を口に掻き入れる。
「なにが?」
「いや、あの、いつになく豪快だなあ、と」
「お母さん、おかわりっ」
「え、おかわりなんて食べられるの?」
お茶碗一杯食べたら大概お腹が膨れてしまう私がおかわりするのは、親が驚くくらい稀なのだ。
「あのね、私、強くなりたいのっ。おじいちゃんみたいにっ」
「それは、えーっと、どうなんだろう?」
「おじいちゃんは別に強くなかったわよねえ?」
「おじいちゃんくらいには強くなりたいのっ」
「無理して食べたってそうはならないと思うけど」
「お茶碗三分の一くらいにしておきなさい」
両親にそろって止められ、ま、まあそこは妥協することにする。
別に私もいっぱい食べれば強くなれると思ったわけじゃなくて、気合入れみたいなものというか。
お風呂を済ませて、課題を片付けたら余計なことはしないですぐベッドに入る。よく食べてよく寝て、明日の行動への英気を養うのだ。
とはいえ、私の頭では課題がぱっぱとは片付かず、うんうん唸っていると窓を叩く音がした。
一瞬、心臓が止まる。
二階の窓を夜に外から叩かれるのは、初めてじゃない。あの時は妖怪がいて、窓を開けた途端にさらわれた。
天宮くん曰く、家はそれ自体が結界になっているから、簡単には入って来られないのだとか。
つまり無視していればそれ以上は妖怪といえど何もできない。
「佐久間様? わっち、猫又でありすんよっ」
ところが、窓越しに聞こえたのは知っている声と名前。
緊張が解け、すぐさまカーテンを開けると、尾が二つに分かれた三毛猫が、サッシの上に器用に乗っかっていた。
その猫さんが落ちないように、そっと窓を開ける。
「こんばんは猫又さん。どうしたんですか?」
警戒しなくてもこの猫又さんは気のいい妖怪だ。
美術室にもよく遊びに来てくれる。家に来られるのはさすがに初めてだけど。
「今宵はお誘いに来んしたの。もしよかったら、ネネコ姐さんの宴にいらっしゃいません?」
「ネネコさんの?」
ネネコさん、と言えば夏休みに南山の沼で会った河童の女親分さんだ。
「また絵を描いてほしいって、姐さんも大禿様もお会いしたがっているんでありんすよぅ。他にも佐久間様に絵を描いてほしがっている者がおりんす」
大禿さん、も夏休みにお会いして絵を描かせてもらった方だ。
どうやら宴のメンバーはけっこう知り合いが多いみたい。
うーん、でもなあ・・・。
「お誘いありがとうございます。ですが、夜に私一人で出歩くのは、さすがに」
「にゃあ? やはり天宮の旦那がおらねばいけませんので?」
言われて、はっとなる。
もし、おじいちゃんのようになりたいのだったら、ここで一人で行き、けろっと帰って来れるようにならなければならない。
そうしたら天宮くんたちも、案外こいつ放っておいても大丈夫なんじゃ、と思ってくれるかも。
西山のお狐様の宴に行った時も大丈夫だったし、これも大丈夫だったなら、私への信用度を上げてもらえるかも。
まずは小さな一歩からだ。
私に足りないのは勇気。まあ、他にも色々いっぱい足りないけどひとまずはそれ。
「――わかりました。ぜひ、参加させてください」
「にゃあ! そうこなくっちゃ!」
「支度をするので少しだけ待ってもらえますか?」
「もちろんでありんす! では、下でお待ちしておりんすっ」
ぴょい、と猫又さんが飛び降りてから窓を閉め、パジャマを着替えてスケッチブックや鉛筆や絵具を鞄に詰める。
「お父さん、お母さん、私ちょっと南山の宴に行ってくる」
リビングで、寛いでいた二人に声をかけておく。
すでに九時を回っていたけれど、うちの若干ずれた親たちは少し驚くだけだ。
「南山? お狐様のところじゃなくて?」
「そっちにも最近知り合いができたの。迎えにまで来てもらっちゃったから、ちょっとだけ行って来たいんだけど」
「あ~、わざわざ迎えに。そっか、じゃあ朝までには帰って来るんだよ。明日も学校だろう?」
「うん。二人とも心配しないで寝ててね」
それだけ言って、玄関を出る。
ドアのすぐ前に猫又さんがおり、外に出るやぴょんと飛びつかれた。
「にゃはあ、今日はわっちが佐久間様に抱っこでありんす♪」
猫又さんは抱っこされるのが好きなようで、腕の中でごろごろ喉を鳴らしているのが可愛い。
尻尾が一本で喋ったりさえしなければ、本当にただの猫にしか見えない。
「会場はどこなんですか?」
「佐久間様をお呼びするつもりでありんしたから、南山の麓の、人の屋敷があったところにいたしんした」
「・・・もしかして、小学校を取り壊したところですか? そこならわかります」
夏休みに、キの神様をお送りした廃校だ。怪異がなくなり、取り壊し工事が進んでもう更地になったんだろう。
肩に移動した猫又さんとともに、満月に近い月夜の下を歩いていく。
この町には妖怪が多い。途中で何かに出くわしたりするかと気を張っていたものの、結局何もなく、小学校跡地に到着した。
❆
建物がなくなり、かろうじて外壁だけが残っている校庭で。
火の玉がいくつも空に揺らめいて、様々な異形の影が輪になっていた。
「――ようこそ佐久間様」
菊の模様が入った朱色の着物をまとう、とても大人っぽい表情の小さな女の子の形をした妖怪が、傍の暗闇から現れた。ちょっとびっくり。
「こ、こんばんは、大禿さん。お邪魔します」
「夜半のお越し、ありがとうござんす。天宮抜きでお連れできるとは、ようやったのう猫又」
切れ長の瞳が肩の上の猫又さんを見る。なんだか、不穏な感じもするような・・・いや、もともと妖怪たちは祓い屋のことをよく思ってないから、そういうことかな。
「うにゃにゃ! 大禿様に褒められんした!」
猫又さんは嬉しさのあまり飛び跳ね、落ちる途中で艶やかな少女の姿に変身した。
「ささ、佐久間様どうぞこちらへっ」
猫又さんに手を引かれ、恐縮しながら輪に入る。
「よく来たなあ佐久間ぁ!」
「わっ、はい! ネネコさん、おひさしぶりですっ」
輪の奥にあった岩の上から、飛び降りざまに肩を組んできたのは、ネネコさん。気風のいい、河童の女親分さんだ。全身を覆う鱗が首筋に当たってひんやりする。
「また絵を描きに来てくれたんだろう? 礼にたっぷり楽しんでいきなっ。ほれ、魚喰うかい?」
「あ、ありがとうございます。どうぞお構いなく・・・」
生の魚をぐいぐい頬に押し当てられてちょっぴり大変。けど、歓迎されているのだと思えば嬉しかった。
するとその時、くん、と腰を引っ張られた。
何かと思えば、そこにきらきらした細い糸のようなものが巻きついており、それをネネコさんが片手で掴んでいる。
「やめな女郎蜘蛛」
ネネコさんが睨む先を見やれば、校庭の隅にある池の淵に、全裸の女性が座っていた。
白い肌が闇に浮いて見える。私の腰に巻き付いている糸の端を、彼女が握っていた。
「佐久間を喰うのは許さないよ」
ネネコさんが凄むと、糸はほどけて女性の手中にするすると戻っていった。
「やだ姐さんったら怖い顔。ほんの冗談ですよぅ」
女性は血のように赤い唇を歪ませる。
「あたしが喰うのは男だけ。評判の絵師様を近くで見たかっただけですよぅ」
「そのまま水底に引きこむ気だろう」
「まさかぁ。そんなことをしたら絵をいただけないじゃありませんか」
どうやら女郎蜘蛛さんというのは、人を水の中に引きこんで食べてしまう妖怪、みたい。
ネネコさんが糸を掴んでいてくれなかったら・・・と思うと背筋がぞっとした。
他にも長い舌を閃かせている舌長婆さん、動くたびに鈴の音がする付喪神の鈴彦姫、下半身が伸びて空を飛んでる高女さん、以前美術室に来てくれたろくろ首さん、可愛らしい江戸の町娘みたいな感じに化けた狸娘さん、赤い扇で顔を隠している笑い女さん・・・とまあ、おそろしくも美しい妖怪たちがたくさん集まっている。
こうして見ると、女性の形をした妖怪ばかり。
たまたまなのか、主催がネネコさんだからなのか。
そういえばこの南山の主も山住姫という女性の妖怪だ。この場には姫も、姫のお使いの蛇さんの姿もないけれど。
ともかく、おひさしぶりな方には頭を下げ、初めてましてな方にはご挨拶をひと通り済ませた。
「皆さんは南山に住んでいらっしゃるんですか?」
手ごろな草場に腰を下ろし、いつの間にか音もなく隣にいた大禿さんに訊いてみると、小さな彼女は鷹揚に頷いた。
「ええ、ほとんどはこの辺りに棲みつき、おひいさま――山住姫やネネコ姐さんの守護を受けておりんす。姫は滅多にお出ましになりんせんが、この山の中で姫の目に付かぬところはありんせん。ゆえにご安心を佐久間様」
大禿さんは口元に袖を軽く当てて、微笑んだ。
「おひいさまが見守りくださる限り、どんな者も山で乱暴はできんせん。西山にお行きになるように、どうぞ南山にもお気軽にお越しくださいなんし」
「は、はい、ありがとうございます・・・」
誘っていただけるのは嬉しいのだけど、西山のお狐様たちと違い、山住姫とはあんまり交流がない、どころか、お使いの蛇さんを通して話したことがあるだけで直接会ったこともないので、本当に守ってもらえるのかどうか。
まあでも、ネネコさんや大禿さんは歓迎してくれているし、そんなに警戒する必要はないのかな。
少なくとも、ここにいる妖怪たちは私を食べたり、無理やりさらったり、帰そうとしないような感じはあんまりない。
よし、よし、大丈夫だ。
私は安心して、皆さんとお話をしつつお絵描きを楽しんだ。
天宮くんに無断でここにいることが若干そわそわしたけれど、来てしまえば特に問題らしい問題は起きない。
もしかしたら今まで怯え過ぎていただけなのかも。妖怪は人のおそれだけど、心優しい友達でもある。
そうやって調子に乗り、乞われるがままに絵を描いていたその時。
頭上で、風を切る音がした。
同時に両肩を強く掴まれる鋭い痛み。
「っ、っ!?」
次の瞬間には、私は宙にいた。肩を吊られ、下で皆さんが悲鳴を上げている。
「良いぞ化け蝙蝠! こっちじゃ!」
キュキュキュキュッ、と私を掴んでいるものが甲高い奇声を上げて、思いきり私を闇へ放り投げた。
下に何があるともわからない。
目を瞑って身構えると、何かに受け止められた。二本の腕を最初は人かと思ったけれど、びっしり生えた硬い毛の感触に、すぐ違うとわかる。
わずかな火の玉の明かりに照らされて、白い狩衣に烏帽子をかぶった大きな猿の姿が見えた。
「猿神っ!」
ネネコさんの鋭い声とともに、顔に水しぶきが当たった。
女郎蜘蛛さんがいた池の水を操っているのか。龍のように立ち上った水の、影が迫る。
「その子を返しなっ!」
猿神さんと呼ばれた妖怪は、私を肩に担ぎ直し、扇を広げて煽ぐや、高く高く飛び上がり鉄砲水をかわす。
さらにネネコさんのほうへ、最初に私をさらった大きなコウモリがまとわりついて邪魔をした。
「ネネコ河童は厄介じゃ、とっとと去ぬぞっ」
猿神さんはコウモリに向かって叫び、木々の中へ走り逃げる。
「佐久間様ぁっ!」
猫又さんの叫び声がこだまする。
私はろくな抵抗もできずに連れ去られて、やがてどことも知れない山の中で降ろされた。




