青女房
――楽しげな笑い声がした。
控えめな、だけど明るい声だった。
霞む視界の先に、男の人と、女の人と、縁側に仲良く並んで座っている。男の人は狩衣、女の人は十二単で、背中を流れる黒髪が床まで垂れていた。
夕方の赤い空に、雁の群れが飛ぶのを二人は眺めているようだった。
でも不意に男の人が空から目を離し、隣の女の人を眺めてそなたは美しいなあとつぶやいた。
女の人は恥ずかしそうに扇で顔を隠したけれど、よく見せてくれと伸びる手に邪魔な扇はどかされて、男の人はああやっぱり美しいと言って笑った。
心温まる、幸せな光景だった。何も邪魔するもののない、ここは二人だけの空間なのだ。
これがいつまでも続くんだと思った矢先、ぐにゃりと視界が歪んで二人の姿も夕日の輝きも消え失せた。
かわりに崩れた壁がはっきり見えるようになる。頬にはちくちく逆立った床板が刺さり、体の節々が痛む。
誰かが私の体を揺すっている。
ひどく、生臭い匂いがした。
「――さま、佐久間様、佐久間様っ」
目が覚め、飛び起きようとしたけどできなかった。
手首と足首を縛られていたのだ。私の体を揺すっていたのは尻尾が二股に分かれた三毛猫。本来の姿に戻った猫又さんだ。
「やっと起きてくだすった」
「・・・ここ、は?」
「鬼の巣でありんすよっ。しっかりしておくんなんし、このままじゃ佐久間様は鬼に喰われちまうっ」
「え・・・?」
物音に、目をやればぼさぼさの黒い髪の人が、桶をたくさん並べている。
こちらに背を向けていたのが、騒ぎ声に気づいて、ゆっくりと振り返った。
「――大人しく、待っておれよぉ」
にぃ、っと口が耳まで裂けた。
皮膚は赤く、黒く、茶色く、まるで皮が剥けて腐ったような色をしている。
目が額より前に飛び出し、角が、生え際の辺りから二本、生えている。
彼女の吐く息は生臭く、血の匂いがした。
私はあまり妖怪に詳しくない。
でも一目でわかる。
鬼、だ。
「ああ本当にちょうどよい時に迷いこんでくれたわいなあ」
皺枯れた、その鬼の声は嬉しげに弾んでいた。
「ついこの間、うっかり捕まえた獲物を逃したばかりだったところによぉ。しかし、運よく二人もと思うたが、片方は猫又なんだからぬか喜びじゃったわいなあ。まあ一人でもおればよかろうて。待っておれよぉ、今そなたの血を一滴たりとて無駄にせぬため、桶を集めておるからのう」
たくさんの桶は、中には破れているものも多い。
この鬼の巣自体が、そもそも朽ちた屋敷跡のようなところなのだ。
私は床の上転がされているが、他は地面が剥き出しで、壁は壊れ衝立は破れ、柱は折れ屋根もほとんど残ってない。
竹林がここを避けるように周囲にそびえ立っていた。
それらがまるで牢屋の格子のように見える。
「佐久間様、逃げないとっ」
「で、でも、縄が・・・」
「そんなのわっちが噛み切ってやりんすっ」
「よけいな事はするんじゃないよぉ猫又ぁ」
ぞっとする声音に、猫又さんの動きも止まる。
「よけいな事をするならぁ、お前も殺してやるからなあ」
恐ろしい顔で凄まれた猫又さんは、たまらず私の後ろに隠れ、ぷるぷる震えた。
「ご、ごめんなんし佐久間様。わっちにアレに勝る力はありんせん」
謝らなくたって、怯える猫又さんを責める気など少しもない。
むしろそんなに怖いのになおも傍にいてくれる彼女のおかげで、私は幾分か平静でいられた。
実際問題、たとえ縄を解いてもらっても、逃れられる自信は私にだってない。
それができたならそもそも、さらわれることはなかった。こうなったらもう、拓実さんの助けを待つしか・・・。
「さあて、このくらいでよかろうか」
そうこうするうちに桶が集まったらしい。
まずい、このままだと助けが来る前に殺される!
「ああああああのっ! すみません!」
舌を舐めずり、ゆっくりとこちらへ歩み寄る相手へ、必死の時間稼ぎを試みる。
「なんだえ?」
「死ぬ前に、死ぬ前にどうか教えてください! どうして、あなたはその、人の血を集めているのですか!?」
それしか、思いついたことがなかった。
好物だからだと一言で済まされたらどうしようと心配していると、鬼の歩みはぴたりと止まり、満面の笑みが陰った。
「・・・わらわは、醜かろう?」
「・・・え?」
赤黒い頬に手を当て、そのヒトが言った。
「醜い、醜い、わらわはなんと醜い・・・いつの間にかこんな顔になっていた。これではあの方が来られた時、幻滅されるやもしれぬ。捨てられるやもしれぬ。わらわはうつくしゅうあらねばらなん。――そうさ、もっともっと、うつくしゅうなれば、あの方はまたここへ通って来てくださろう。わらわだけの旦那様となってくださろう」
ほう、と息を吐くそのヒトは、虚空を見上げて恍惚としていた。
「若い女の血を浴びれば、肌は玉のようとなり、髪には艶がさすと聞く。飲まば鈴の転がる声となり、ゆうに十は若返るそうな」
歌うように語っていた。
人間の血にそんな効能があるとは思えない。けど、彼女は信じきっている様子だ。
さっき、この前獲物を逃がしてしまったと言っていた。
ということは、彼女はずっと昔からその話を信じて、ここに迷いこんだ女性を捕まえて、殺して血を浴びているのだろうか。
「・・・あなたは、いつからここにいるんですか?」
彼女の格好は朽ちかけているけれど、十二単だ。教科書で見たことがある。
この服装を普通にしていた時代というと、どれだけ昔になるか。
どれだけの歳月、血を浴びていれば、こんなに肌は赤黒く、吐息は血生臭くなるんだろう。
「貴様の肉体はとっくに滅んでおろう! いくら血を浴びようが相手の男も死んでおるぞ!」
猫又さんが激しく叫んだ。
そう、きっと、そうなんだ。
彼女はここで誰かを待っていたんだろう。
恋人なのか旦那さんなのかわからないけど、その人を待ち続けているうちに、どんどん時が経って、自分は醜くなってしまったと思った。
それでまた美しさを取り戻そうと、若い女性の血を求めるようになった。
でもたぶん、そんなことを考えた時には彼女はもう、人ではなくなっていたんじゃないだろうか。
とっくの昔に、人としての寿命を終えてしまっていたんじゃないだろうか。
だから相手の人だって――
「黙れぇっ!」
鬼が吼えた。
とんでもない声量に空気が震える。
「わらわがうつくしゅうなれば、あの方は戻って来てくださるのじゃっ! わらわがうつくしゅうなればよい、もっともっと、うつくしゅうなれば、あの方は再びわらわを抱いてくださる!」
「っ――」
この、人は・・・。
押し寄せる恐怖とともに、胸がひどく締めつけられた。
もう、とっくに歯止めはきかなくなっているのかもしれない。
鬼となって、人でなくなって、終わりがなくなってしまった。
たとえ相手が死んでしまっていても、狂気を終わらせることができない。
自分では絶対に止まれない。この人は、鬼は、誰かが止めてあげなきゃいけないんだ。
「ぎにゃあっ!」
猫又さんは悲鳴を上げて逃げ出し、私の目の前には真っ赤な口が広がった。
それでも、声の一つも上げられなかった。
「――っが!?」
彼女の姿が視界から消えた。
首を動かして探すと、穴の開いた壁から外へ飛び出し、地面に倒れている緋袴が見えた。
私の傍にはかわりに、長い朱塗りの棒を持った拓実さんが立っていた。
床に転がる私を見下ろし、
「ご苦労」
ひと声かけて、鬼のいるほうへ飛んだ。
「――佐久間」
「ひあっ!?」
続けて背後から急に声をかけられ、思わず悲鳴を上げてしまった。
「落ちついて。俺」
「っ、あ、天宮くん!?」
いつの間にか天宮くんがいて、縄を解いてくれた。
「怪我は?」
「ないです。けど、どうして・・・」
拓実さんが連絡を入れてくれたのだろうか?
天宮くんは苦々しい表情で、起き上がった鬼に棒で殴りかかっている拓実さんのほうを見ていた。
「ったく、何考えてんだ? 佐久間を囮に使うなんて」
「あ、あの、拓実さん一人で大丈夫なんですか?」
「別に死んでもいいよ、あんな奴」
「そ、それは」
その時、どぉん、と大きな音が響いた。
拓実さんが棒で鬼を突き飛ばし、崩れかけていた壁を壊したのだ。
倒れた彼女の額には、白い紙が貼り付いていた。
「――万物は然るべき在処へ。然るべき道を通り還れ」
顔の前で両手を合わせ、拓実さんが呪文のような言葉を唱えた瞬間、彼女の額に張り付いた紙が光を放ち、辺りを包んだ。
「あああああああああああああああっ―――・・・・」
光は収まり、しかし悲鳴はまだ、こだましていた。
黒かった髪の毛は老婆のような白髪になり、肌に皺が垂れ、ところどころ骨が見えている。先ほどよりも、長い歳月を反映した姿に変わっていた。
彼女は自分の手を見つめ、顔に触れ、震えた。
「あぁ・・・あぁっ・・・わらわが、わらわがまた醜くっ!」
震えながら、涙を流していた。
「しぶてえな」
拓実さんが後ろに飛んで、私たちの横に降り立つ。
「術のかけ方が甘いんだよ」
私を起き上がらせながら、天宮くんが言うとそちらへ拓実さんは視線を落とした。
「じゃあやってみせろ」
「てめえの仕事だろうがっ」
二人が言い争ううちに、彼女が復活する。
「あああああぁぁぁぁああっ! おのれぇぇおのれぇえぇぇっ!」
猛然と、こちらへ襲い来る。
髪が逆立ち、彼女の怒りに呼応したかのように竹がけたたましく鳴いている。
すると天宮くんが炎を彼女の行く手に出現させた。
紅蓮の火が鞭のようにからみつき、彼女は悲鳴を上げながら飛び退った。
「結局手伝うんじゃねえか」
「佐久間が危ねえからだ! 早くなんとかしやがれ!」
天宮くんに怒鳴られた拓実さんは、炎が消える前に、腰にさげていた竹筒を手に取った。
蓋を開けると、ほんの小さな穴から飛び出した二匹の狐が彼女に襲いかかる。
「邪魔をするなぁぁっっ!」
しつこく取り付いてくる二匹の狐を振り払うのに手こずっている間、拓実さんは棒を振りかざして彼女を左手へ突き飛ばす。
地に落ちた瞬間に、ぱん、と両手を合わせた。
「――悪鬼を祓い、安鎮を得んことを」
拓実さんが何かを唱えたら、倒れている彼女の下が光り出し、
「慎みて願い奉る」
再び、光が彼女を焼いた。
「ぎゃああああああああああああああああああああっ!?!?」
耳を塞ぎたくなるくらいの、悲痛な叫びが響く。
彼女は悶え、苦しみ、地面をのたうち回る。だけど光はまとわりついてどうしたって消えない。
彼女を、完全に滅ぼすまで。
「佐久間」
天宮くんに腕を掴まれて、私は自分が身を乗り出していたことを知る。
そして拓実さんも、首だけ振り返った。
「妖怪は完全に消えるまで油断ならねえ。死にたくなきゃ動くな」
「・・・どう、して」
「あ?」
言葉が、勝手に口を突いて出た。
「どうして、あの人は、あんなにも・・・」
光に呑まれる彼女の体は、どんどんぼろぼろになっていく。
それでも、消えない。まだ消えない。
歯を食いしばり、目を剥いて、皮膚が溶けてしまった手を必死に虚空へ伸ばしている。
まるで何かを、求めるみたいに。
「・・・気が遠くなるくらい昔の話だ。どっかの女が、どっかの男に囲われてたんだと」
拓実さんは鬼を見つめながら静かに語った。
「男が死んでも、女は知らずにずっと男を待ち続けてた」
私は、それを聞いて目を閉じた。
思い出していたのは、ついさっき見たばかりの、夢の光景。
夕方の穏やかな時の中にいた、男の人と、女の人。
幸せそうに笑い合っていたあの夢は、夢ではなく、この朽ちた屋敷に残る思い出だったのかもしれない。
――ああそっか。
彼女はもしかして、それを忘れているのかもしれない。
だから人の血なんかを顔に塗ったのだろう。
だってあの時の、新雪のように白い肌の自分を覚えていたのなら、こんな錆びた赤色なんか塗らないはずだ。
それで自身を醜い醜いと嘆く。
そんな気持ちのまま、あの思い出を忘れたまま、彼女は、消されてしまうの?
「っ――」
衝動的に、私は駆け出していた。
「っ、佐久間!」
制止を振りきり、無我夢中で光に包まれる彼女の体を抱き起こす。
「っ、つうっ・・・!」
光に触れたら、まるで神経を直に焼かれるみたいな激痛が走った。
熱いのではなく、ただただ触れた部分が痛い。だけど光はすぐに消えてしまった。
「馬鹿っ、離れろっ!」
焦ったような拓実さんの声も聞こえる。
でも構わない。後でたくさん怒られよう。
光に一瞬触れただけで、びりびりと皮膚の下のほうが痙攣している。
全身を包まれていた彼女はきっと死ぬほど痛かっただろう。
それに比べたら、こんな痛みはなんでもない。
お腹に力をこめて、私は彼女を真正面から見つめた。
「――あなたは醜くなんかありませんっ」
彼女が少し首を前に出せば、簡単に喉を喰い破られてしまう距離だ。
でも、私は逆に彼女が逃げられないよう、骨が露出している手を握りしめた。
「あなたは、きれいです。とても美しい人です」
「・・・なん、と?」
瞼がなくなった眼球が、ぐりんと回って私を睨みつけた。
「嘘を申せっ! このあさまし姿のどこがうつくしいと!?」
「嘘じゃありませんっ!」
牙を剥く彼女に、私も必死になって訴える。
「私には見えます! あなたの恋人が愛した、あなたの本来の姿が!」
「な・・・?」
「私は、ここで夢を見ました。夕焼けの中、二人で縁側に座って、あなたはその人に美しいと言われていました。その美しさは今も変わらずにあります。あなたが忘れてしまっているだけです」
私は背負ったままだったリュックを降ろした。
スケッチブックと鉛筆を出し、目を瞑る。
瞼の裏に、夢の光景を思い浮かべた。
扇をどかして現れた彼女の顔は、まるで少女のようだった。
ふっくらした頬はゆでた卵みたいにすべすべで、黒目がちの瞳は鈴のように丸い。
恋をすると女性はきれいになるという。
それは、ずっとずっと昔の人も、今の人も、同じことだろう。
「――見てください。これがあなたの姿です」
完成した絵を、彼女の眼前に突きつけた。
どうか、思い出してほしい。
あなた自身のことを。
彼女は剥き出しの目で、呆然と絵を見つめていた。
「こ、これが・・・?」
「はい、あなたです。全然、醜くなんてないでしょう? あなたはどこも変わっていません」
あの男の人が言っていた美しいという言葉は、きっと愛しいという意味で、ただその瞬間を賛美しただけの言葉ではないと思う。
彼女が生まれてから、傍にいる現在、そしてその先にいる彼女のことまでを想い、過去から未来まで存在すべてを愛おしむ、その心から零れた一言だったに違いない。
だから、どんな姿になろうが関係ないんだ。
彼にとって、彼女はいつまでも美しい。
愕然としたように、彼女はただただ絵を見つめ続けた。
やがて震えながら、おそるおそる口を開く。
「では、なぜ、あの方は、わらわのもとに来てくださらないの・・・?」
途方に暮れた顔をしていた。
恋人がもう亡くなっていることに、頭はまだ追いつけていないんだろう。
「――でしたら、会いに行きませんか」
「・・・え」
それは現代に生まれた私たちであれば、簡単に思いつくこと。だけど彼女には思いつきもしなかったこと、あるいは、当時は許されなかったのかもしれないこと。
「その方は、こことは別の世界にいます。ここに来たくても、来られないんです。ですから、あなたのほうから会いに行ってみませんか?」
「わらわ、から?」
「その方はあるべき場所にいるはずです。あなたも、そこに行くことができます。もう、待っていなくていいんです。会いに行っていいんです」
彼女は、聞いたこともない言葉を聞いたかのようだった。
「会いに、行ってもいいの・・・?」
「はい。あなたはもう十分に待ちました。だからいいんです。会いに行ってください。きっと、その方もあなたのことを待っているはずです」
「――・・・」
すると、彼女の姿が変化した。
ただれた肌が修復し、骨を肉と皮が埋め、赤黒い肌はまっ白に、老婆のような白髪は艶やかな黒髪となり、角や牙が消えた。
目の前に現れたのは、私が絵に描いた通りの美しい人。
本来の、彼女の姿。
彼女は呆然とする私を見つめて、微笑んだ。
「――」
何かを囁くと、彼女の体からやわらかな光が発せられた。
目映さを増しながら光は形を変え、最後に、ふわりと散った。
たんぽぽの綿毛が舞い飛ぶように。光が空に消えた。
もう、妖怪の気配はない。
最後の最後は人に戻って、彼女はこの世を去ることが、できた。
「ふっ、う・・・」
我慢できない嗚咽が漏れた。涙が溢れ出し、止まらなくなる。
どうして泣いているのか自分でもわからない。
怖かったからなのか、悲しかったからなのか、嬉しかったのか、安堵したのか、その全部か。
彼女が死後の世界で恋人に会えればいいと思った。
けれどそんな世界が存在するのか、本当は知らない。
彼女の恋人の事情も、なぜこんな寂しい場所に彼女がいたのかも、何も知らない。
拓実さんの邪魔までして、本当にこの行動が正しかったのか、わからない。
たぶん、一生わからない。
でも彼女は最後に笑顔を見せてくれたから。
私にとっては、それだけでよかった。




