山神楽
薄暗い森をよくもわからず進むにつれ、やっぱりじっとしていたほうがよかったのかな、と今さらながらの考えが浮かんだ。
天宮くんに詳しい現在地を伝えたわけではないから、どこにいたって同じと言えば同じなんだけれど、動き回っていては探しにくいだろうか。
太陽の位置は確認したものの、進んでいる方角が本当に合っているかよくわからない。鬱蒼と生い茂った木々の葉は、空を隠してしまうから。
夜までに出られるといいけれど・・・。
時に這って進まなければいけないようなところもあって、歩みは平地の何倍も遅いし、体力をたくさん削られる。それでいて方向にも自信がないから、最初の勢いがどんどんしぼんでいく。
けれど気持ちは、早く人のいるところに出たいと焦る。不安で心細くて、送り犬さんはいてくれるけれどやっぱり人の姿が恋しい。
また山の中は薄暗く不気味で、なんだか背中がそわぞわしてくる。
そんな時に、笛の音を聞いた。
「――?」
最初は気のせいかと思った。が、耳を澄ませていると、その方角までわかるくらいに、はっきり聞こえてくる。
ほとんど無意識に、そちらへ向かって足を踏み出すと、くん、とリュックを後ろに引っ張られた。
見れば送り犬さんが肩紐の端を噛んでいた。
「あ・・・えと、行かないほうがいいですか?」
すると送り犬さんはリュックの紐から口を離す。
行っていいのか、だめなのか、どっちなんだろう。単に私が転びそうになったと思って引っ張ってくれたとも考えられる。
「・・・ちょっとだけ覗いて来てもいいですか? もしかしたら、人がいるのかもしれませんし」
山の中で笛の音なんて、妖怪の仕業っぽいけど、麓に近づいているのなら、住宅街から響いてきてる可能性だってある。
足を踏み出すと、今度は止められなかった。送り犬さんはただ、後に付いて来てくれる。
近づくにつれ、笛の音だけでなく、太鼓や笙のような、まるでお囃子が聞こえてきた。同時に、肌に触れる空気が変化する。
目を閉じて、次に開けると、傍を薄桃色の花びらが通り過ぎた。
木々の隙間から、先を覗くと、咲き乱れる桜に囲まれて、袖のたっぷりした昔の衣装をまとい、烏帽子をかぶってお面をつけた人々が、楽器を鳴らし、扇を掲げて舞っている。
信じられない光景に言葉を失う。
ここは人の世界じゃない。すぐに引き返さなければ。
誰にも気づかれていない今なら、まだ間に合う。
なのに、私の目はその光景に釘付けになり、顔を背けることが、足を後ろへ引くことが、どうしてもできなかった。
荷物を降ろしてスケッチブックを広げ、目の前のものを写しとっていく。こうなると、自分でも自分を止めることができなかった。
「――っほ。人の子がおるわ」
やがて私は見つかって、彼らの前に引きずり出された。
送り犬さんが助けてくれようと飛びかかったけれど、翁のお面を付けた人に扇子で叩かれ、遠くへ飛ばされてしまった。
「あっ――」
この頃には我に返って、私は自分の失態を自覚していた。
「お、送り犬さん!」
「案ずるな。山の精霊を殺しはせぬよ」
翁のお面の人は優しげに言っていた。
それにほんの少し安堵できたものの、では私のことはどうするつもりだろうと、怖くなる。
ここにいるのは一体、どういう妖怪たちなのだろう。
縛られているわけでもないのに、恐怖で指一本も動かせなくなっていた。
「久方ぶりの客じゃ。どれ、お前は何者であろう?」
と、翁の面の人が指で私の頬をなぞる。
軽い痛みが走った。
そこに擦り傷があったのか、それとも今、皮膚を裂かれたのか。
その人は爪の先に血の付いた指を、自分の口に突っ込んだ。
ぴちゃ、と濡れた音がしたので、舐めているんだとわかる。
あぁ・・・たぶん私、食べられるんだ・・・。
絶望に涙が滲んだ。
けど翁の面の人は嬉しそうに、不思議なことを言い出した。
「やぁ、お前にはあずまの者の血が流れておるようじゃ」
「それはよい」
楽器を奏でていた人たちも、なぜだか声が弾んでいる。
「北山様にお仕えさせよ。あずまの者を侍らさば少しは御心が慰められようぞ」
「だが西の血も混ざっておる」
「詮なきことであろう、幾千年も経った後では、純血が残っておるものか。肝要なのは、ここへ辿り着けたということじゃ。北山様に浅からぬ縁があるということではないか」
「さもあらん」
そして翁の面の人が、私に向き直った。
近くに迫ったお面の隙間を覗いても、闇があるばかりで、目や口などが見えなかった。
「お前は北山様にお仕えするために生まれたのじゃろう。我らとともに、哀れな方をお慰めしようぞ」
手を取られ、私は振り払うことも、どういうことか尋ねることもできずにいた。
どうやら食べられるわけではなさそうだけれども、この先はきっと取り返しのつかない道だ。
なのに、抵抗する気持ちは歩を進めるにつれ薄れていった。
本当に、不思議でしかたがない。
怖い以上に、なぜだかとても懐かしかったのだ。
道の先にあるものを、すでに私は知っている気がした。
❆
いくつもの鳥居を抜け、黒い石段を登って行くと、大きなお社が目の前に現れた。
裾の広がった三角の大きな屋根。
出入り口の頭上には紫色の幕が下り、正面の左右に植えられた小さな桃の木が、ささやかな花を咲かせている。
桜が舞っていた石段の下の明るい風景と異なり、ここは黄昏時のように薄暗い。けれど建物や地面の白砂がうっすら青い光を帯びていて、細部までよく見える。
そしてお社の横には、赤い断面を見せている大きな木があった。
根元の辺りから斜め上に向かって切れている。
ううん、たぶん切ったのではなく、折れたのだろう。断面はぎざぎざで、腐っているようだった。
あんなの、前にあったかな――
不意にそう思ってしまった自分に、自分で驚く。
前って、なに?
私は、やっぱりここに来たことがあるの?
「・・・あの」
我慢できず、手を引いてくれる翁の面の人に尋ねた。
「私は、ここに来たことがありますか?」
「知らぬな」
翁の面の人は素っ気なかった。
それもそうだ。自分の記憶を他人に訊いたってしかたない。
でもまだ翁の面の人の言葉は続いていた。
「人の子が迷いこむのは初めてではない。そのうちの一度がお前であったとしても、不思議はなかろうさ。迷い子になるのに特別な素質はいらぬ。すべては時の巡り合わせじゃ」
「巡り合わせ・・・?」
何か最近、どこかでそんな言い回しを聞いた気がする。
どこだったっけ。
思い出そうとしている間に、正面の社に連なる建物の中に導かれた。
靴を脱ぐ暇もなく、長い長い廊下を引かれて行く。
どこまでもまっすぐ続く廊下だ。先を見やると、視界がぐにゃりと歪んで、奥に何があるのかわからなくなる。
果てしなく続く廊下の途中には、襖も扉もない広い部屋がいくつもあり、お面を付けた人が、子供みたいなのから大人のようなのまで、音もなく動いているのをたまに見かけた。
「――ちとここで待っておれ」
やがて箱や葛籠などが積み置かれた部屋に着くと、翁の面の人に手を離された。
「そのみっともない格好では北山様にお仕えさせられぬゆえ、衣を調達して参る」
確かに私の服装は、ぼろぼろのどろどろで、おまけに傷だらけ。
みっともないと言われても納得するしかない。
「よけいな物には触れるでないぞ」
翁の面の人がいなくなり、私は部屋の隅に、ちょこんと正座する。
さあ、どうしよう。
携帯の入った荷物は捕まった時に落としてしまっているし、こんなところじゃきっと天宮くんでも見つけられないだろう。
かといって、石段の下ではお面をつけた妖怪たちが大勢で宴会をしているのだから、脱出できそうもない。
私はこのまま、よくわからない何かに一生お仕えすることになるのかな。
だとしたらとても大変な状況なのに、不思議と心は山でさまよっていた時より落ちついていた。
なんでかな、慌てる気にもならない。
それが必要なほど危ないものが、ここにはいない気がする。畏れ多い何かは、いそうだけれども。
慣れない山歩きで疲れているせいなのかもしれない。
実際、座っていたらちょっと眠くなってきた。
壁に軽く頭を寄りかけて、少しだけ目を瞑る。
そして、ずっと感じている不思議な懐かしさの正体を、記憶の中に探していった。
山のお社・・・翁の面・・・お囃子・・・桜・・・桃・・・北山・・・
そういえば、私は北山で迷子になったことがあった。
記憶もないくらい小さな頃、家族とお祭りの花火を見ている時に姿が消えて、翌朝にいなくなった神社で発見された。
もちろん、そんな場所は隈なく探されていたのに、だ。
――もしかしてその時、私はここに迷い込んでいた?
人の世界ではない、ここに。
私を見つけたのはおじいちゃんだったと聞いている。
警察でも他の誰でもなく、唯一妖怪を見ることができた、おじいちゃんだったと。
・・・ああ、少しずつ繋がってきた。
それに先ほどのお囃子、あれも聞き覚えがある。
しかも、そちらは昔の話じゃない。ほんの数か月前のこと。
「――ユキ、ユキ」
軽く揺すられて、目を開ける。
ぼんやりした視界の中に、見えたのは小さな白と、赤だった。




