忘我
―――た、そ―――
どこからか声が聞こえる。
目の前は闇だ。
何もない。何もいない。でも声が聞こえる。
―――た、そ―――
一体何を言っているんだろう。
意味がわからない。それより、他にもっと大事なことがあった気がするんだけど。
―――た、そ―――
これは、私に向けられた言葉なのだろうか。
どうして私に、何を言いたいんだろう。もっとはっきり言ってくれなきゃわからない。私の頭はあんまり上等じゃないんだから。だって私は、
・・・ん?
だって、なんだろう。
だって私・・・私って、なんだっけ?
ワタシ?
オレ?
ボク?
ワレ?
あれ・・・?
急に、何もかもがわからなくなってきた。
さっきまではわかっていたはずなのに、どうしてだろう、今はさっぱりわからない。
不安になって、怖くなって、何かを確かめるために両手を見ようとしたら、その瞬間に自分に手というものがあったかどうか、わからなくなる。
では足と思ったら足もあったかどうかわからなくて、胴や頭も同じ。そもそも目があったかどうかすら忘れてしまった。
愕然とした。
自分が、どんな姿をしていたのかわからない。
何者か、わからない。
―――ワタシハ、誰ソ?
つぶやいた時、強く紅い光が、闇の底から湧いてきた。
あっという間に、視界をすべてそれが塗り潰す。
まぶしくて、思わず目を瞑り、それで自分がずっと目を開けていたことを知った。
「佐久間っ!」
サクマ・・・? って、誰だっけ。
サクマ、さくま・・・
「佐久間!」
そうだ、私の名前。
佐久間ユキ。
そして私を呼ぶ人は・・・そう、そうだ、天宮くんだ。
目を開くと、明かりに揺らぐ彼のきれいな顔が、すぐ近くにあった。どうやら私は彼に上体を抱えられて、床に倒れているらしい。
「気がついたか」
天宮くんはほっとしたように表情を緩めた。こんな彼の顔は初めて見た気がする。
一瞬、泣いているのかと思った。
どうしてそんな顔をするのかなあと、しばらく私は事態を飲み込めなかった。
「大丈夫? どっか変なとこない?」
「・・・あ・・・うん」
彼に助けてもらいながら、ゆっくり体を起こす。
辺りは夜みたいに暗くなっていた。
窓の外を見ると、実際に星空が広がっている。
天宮くんの炎に照らされている範囲に、一つ目入道さんと椿さん、大禿さんに、古御堂兄弟は相変わらず縛られたままでいるのが見える。
頭が、ぼうっとする。全身がだるく、力が入らない。
「あの・・・一体、なにが・・・」
「憑りつかれてたんだよ」
「・・・え?」
「変な光にぶつかったのは覚えてる?」
言われて、止まっていた思考が回り出す。
「あ・・・うん。そうだ、私、避けられなくて、ぶつかってしまって、そしたら目の前が真っ暗になって、変な声が聞こえてきて・・・」
あれは、一体なんだったのだろう?
「あの光が、ここに僕らを閉じ込めている妖怪なのかもしれないね」
龍之介さんが口を開く。
「画霊という絵から抜け出す付喪神の類はいるが、外から絵に憑りついて実体化する妖怪なんて聞いたこともないな。光はどこかに行ってしまったし」
辺りを見回す龍之介さんが言う通り、あれだけたくさんあった光は、もうどこにもなくなっている。
「ねえユキちゃん、憑りつかれてる間に何か見たり聞いたりしなかった?」
椿さんに尋ねられ、改めて私は先ほどのことを思い出してみる。
「・・・《たそ》って、私は誰? と聞こえていました」
もしあれが、妖怪の声なんだとしたら・・・
ある考えが私の中に浮かんだ。
「もしかしたら、その妖怪は自分で自分のことがわからないのかもしれません」
はっきりと確信できるわけじゃないけれど、私が自分で自分のことを忘れてしまったあの怖い感覚が、私じゃなくその妖怪のものだったとしたら。
たどたどしく皆さんに説明すると、椿さんは細い顎に指をあてて、首を傾げた。
「自分の姿を忘れた妖怪、ねえ? 一体どうしてそんなことになったのかしら」
「姿を忘れているということは、現在、本来の姿をとれていないと考えられます。だとすると椿さん、先ほどの光はやはり妖怪の欠片なのかもしれませんよ」
「元の姿に戻りたがって、ユキちゃんに助けを求めている?」
椿さんと龍之介さんで話を進めていると、不意に遠くから、てんつく、てんつく、太鼓のような音がかすかに聞こえてきた。
とんとこ とんとこ 落ちやんな
おいらは 怖く ねえけどさ
可愛い あの子が 怖がるからよ
どこかで聞いた覚えがあるような、わらべ歌みたいなものも、太鼓と一緒に聞こえてくる。すぐに椿さんたちも話を止めて耳を澄ませる。
「これは、雷の歌?」
龍之介さんが眉をひそめて言った。
「後半の部分は万葉集の東歌に似ている。たぶん、これは雷の歌だ」
「雷・・・?」
そこで私は、前の夜にお狐様がつぶやいていたことを思い出した。
「そういえば夏休みが始まる前に、この辺りに雷が落ちた、って」
「そうなのか?」
私は天宮くんに頷く。
「うん。雲のない夜だったのに、いきなり落ちたからびっくりしたの。この辺りに落ちたみたいだって、お狐様が言ってました」
「なるほどね?」
話は椿さんがまとめてくれた。
「誰のヒントか知らないけど、姿を忘れたまぬけな妖怪は、雷に関するものだと言いたいのかしらね?」
「うーむ、雷に関連するものというと妖怪から鬼から神まであるなあ」
龍之介さんは窓の外を見上げてつぶやく。
「有名なところでは雷獣、雷神・・・雷龍に、雷小僧、あとはキの神か」
その時、辺りが光った。
「わ・・・」
どこからともなく、光の粒がたくさん現れたのだ。私たちを囲み、空中を浮いている。
「反応したわね」
「・・・キの神?」
龍之介さんが再び言うと、光が瞬いた。
「そう、キの神だったのね」
皆さん、納得したお顔だったけれど、私は一人、やっぱりわからない。
「キノカミ、ですか?」
「その名の通り、雷の神さ。神社にも祀られているのだよ。江戸後期にはキの神信仰が盛んで、神札が大量に出回って一時期のブームになったことも」
「よけいなうんちくはいらないから」
龍之介さんのセリフは途中で椿さんに遮られた。
「妖怪じゃなくて、神様だったんですか?」
「ええ。――地上に降りた神は器を必要とするわ。キの神も適した器を欲して、周りの妖怪たちが持っていたユキちゃんの絵に宿り、なんとか存在を保っていたのね」
様子のおかしな妖怪はつまり、キの神様が宿っていたもの、だった?
「待ってください椿さんっ。神の器になり得る絵を描けるだなんて、彼女は一体何者なのですか?」
龍之介さんはひどく驚いていた。
そちらを見もせずに、椿さんは素っ気なく答える。
「古来より、技芸に秀でる者に神妖は魅入られる。彼女には才能があるというだけのことよ」
そうして椿さんは私と目を合わせた。
「ユキちゃん、キの神の絵を描いてみてくれる?」
「え?」
「名を思い出したのだから、本来の姿の器を用意してやれば復活できるかもしれない」
ちょうど絵を描く道具もそろっていたので、それはできたのだけど、私がそもそもキの神様の本来の姿というものを知らない。
よって、伝説に基づく大まかな特徴を、皆さんに教えてもらいながら描くことになった。
「ええと確か、一本足しかないのよね」
「文献によれば鼓のような体、つまり丸みを帯びた形をしているとされている」
「人か猿みたいな顔をしてるとか・・・」
「白い顎髭が生えてるらしい」
情報を頭の中で整理し、足りないところは精一杯想像力を働かせ絵にしていく。
神様と呼ばれるもので、私がこれまで描いたのはお狐様と、天宮くんに宿る神様。
お狐様ももちろん他の妖怪とは別格だけど、もとから地上にある存在のせいか親しみやすい。
でも天から落ちてきたキの神様はきっともっと神秘的で、天宮くんに宿る神様と近い存在なんだろう。
憑りつかれた時の感覚がまだかすかに残っていたから、それをじっくり自分の中で見つめていると、やがて脳裏にある光景が浮かぶ。
見たこともない相手であるはずなのに、不思議と筆が迷うことはなかった。
「――できました。こんな感じでしょうか」
白い紙の上に、奇妙な姿がある。丸い体から一本だけ生えた足は、まるで地上に落ちる雷の軌跡に似ていた。
なんの感情もない、しかしなんらかの意志のある金色の瞳が見る者へと向けられる。
「っ! 佐久間!」
いきなり天宮くんに腕を引っ張られ、半ば引きずられるように後ろに飛び退く。
どうしたのかを問う前に、私は目の前に広がる光景に口を閉じた。
光が、落ちたスケッチブックの上に集まっていく。
周囲に浮いていた幾千もの粒子が、急速に絵に吸い込まれていく。
同時に空気の変化も感じた。散っていた気配が、どんどん固まっていく。
力が、膨れ上がる。
やがてスケッチブックの上に、まさしく私が絵に描いた姿のモノが立っていた。




