蝕む痣
闇が渦を巻いている。
じっと見つめていると酔いそうで、顔を逸らしたら目が覚めた。
机の上で目覚まし時計がけたたましく鳴っている。
よく覚えていないけど、変な夢を見ていたみたい。
昨夜は寝つくまで時間がかかったせいか、寝不足で、頭が重かった。
ベッドの中から目覚ましを止めようとして、何気なく右腕を伸ばした時、ふと黒い痣が見えた。
「あ、れ・・・?」
傷口の周りにあった痣はガーゼに隠れていたはずだった。けれど、今、大幅に飛び出している。
ずれたのかと思い、直してみたけれど、やはりどうしたってガーゼの下にはおさまらない。
も、もしかして、痣が広がってる?
考えたらぞっとした。寝ている間に腕に広がる黒い痣だなんて、まるで・・・いや、やめよう。
不吉な考えを打ち切り、急いで着替える。下に降りるとすでに朝食が用意されていて、お父さんもお母さんも起きていた。
「腕はどう?」
本当はあまり見せたくなかったけれど、夏服なのでどうしても見えてしまう。明らかに広がっている痣に、お父さんもお母さんも朝から真っ青になっていた。
ガーゼではもう隠しきれなかったから、包帯を巻いてもらって、登校した。
ちょっと後悔したのは、教室に着いてから。包帯というのはかなり大げさに見えてしまうもので、すぐにクラスの友達に事情を訊かれるはめになってしまった。
「え、ちょ、え、どうしたの?」
隣の席の、沙耶なんか誰よりも驚いて、珍しく言葉をつかえさせていた。今朝もテニス部の朝練があったのか、彼女は汗拭き用のタオルを首に巻いたままでいた。
「その・・・犬に、咬まれちゃって」
他の友人たちにしたのと同様に、適当なごまかしを返すと、沙耶は「ええ大丈夫!?」と大きな声を上げたものだから、また何人かがこちらを見た。
それらの視線が非常に居心地悪く、首を竦めていると、
「佐久間」
ちょうど、教室にやって来た天宮くんが、声を聞きつけたみたいだった。普段なら目礼くらいで済ませるところ、わざわざ私の席にまで来てくれた。
「あ、お、おはよう天宮くん」
「おはよう。どうしたの腕」
「犬に咬まれたんだって!」
沙耶が答えると、天宮くんは怪訝そうに眉をひそめた。
「・・・ただの犬?」
どきりと心臓が鳴ると同時に、包帯の下が疼いた。
もしかして、天宮くんは何かを感じ取ったのだろうか。向けられている瞳が疑わしげだ。
でも、沙耶のいる前で妖怪に咬まれたんだとは言えない。
「み、見たこともない、犬だったのっ」
これで伝われと、一心に見つめると、天宮くんは何か言いかけて口を閉じ、それから改めて開いた。
「具合は?」
「今のところは、大丈夫です」
痛みは続いているものの、耐えられないほどではない。
「そっか・・・後で詳しく教えて」
「うん」
短い会話を終え、天宮くんは窓際の列の前から二番目にある自分の席へ行った。
どうやら、伝わったらしい。
「まさか野良犬にでも咬まれたの?」
見たこともない犬というのを沙耶はそう解釈したようだ。なので、この場ではそういうことにしておいた。
「天宮くん心配そうだったねー」
怪我が大したことないんだとわかると、沙耶は途端に、にやにや~と笑みを浮かべた。
「順調に仲良しって感じだよねっ」
「だ、だから、そういうのじゃないってば」
こうして今日も虚しい弁解をする。
他のクラスメートとあまり交流しない天宮くんが、唯一私には話しかけるというだけで、付き合っていると誤解されてしまっており、何度違うんだと言っても、なぜだかみんな信じてくれない。
「照れちゃって、可愛いなあもう」
沙耶は私をからかうのが楽しくてしかたないらしい。
でも明るくて人気者の沙耶のほうが、浮いた噂があるってことくらい、私も知っている。というか私のは誤解です。
始業ベルが鳴ると担任の鈴木先生が来て、必要な連絡をしたら一時間目が始まる。
ふと前を見ると天宮くんはすでに突っ伏して寝ていた。彼はしょっちゅう授業中に居眠りをするのに、不思議とあまり怒られない。
先生が無視しているというよりは、目に付いていないという感じ。
天宮くんの緋色の髪が見えたなら、きっと嫌でも目に入ってしまうだろうけれど、あれは彼がその身に宿す神様の色だから、普通の人には決して見えない。
私も今日はちょっと眠かったが、痛みのおかげで居眠りはできそうになかった。
あきらめて、黒板をノートに写すためにシャーペンを握り――
「痛っ・・・」
力を入れた瞬間、鋭い痛みが走り、シャーペンを落としてしまった。力を抜いても痺れが残る。
もう一度、挑戦してみたけれどやっぱり無理だった。耐えられないほどの激痛に冷や汗が浮かぶ。
「ユキ? 大丈夫?」
呆然とする私に、沙耶がこっそり声をかけてくれた。
「ペン、持てないの?」
頷くと、「全然大丈夫じゃないじゃん」と、呆れた顔をされた。
「無理しないで。後で私のノート貸すよ」
「・・・ありがとう」
沙耶に感謝する傍ら、内心ではパニックに陥っていた。
どうしよう。
本当に、尋常じゃないくらい痛い。あんな小さな妖怪にちょっと咬まれただけのはずなのに。
瞬間的に嫌な考えが広がり、動悸が激しくなる。
とにかく落ちつこうと、こっそり深呼吸を繰り返した。
今は痛いけど、きっと治るはず。後で天宮くんにも相談するのだから。だって、本当に少し咬まれただけなんだもの。腕が取れたわけじゃない。
そうして自分を落ちつかせるのに必死になっていたら、ほとんど授業を聞き逃してしまった。
ところが、時間が経つにつれ、痛みはどんどん増していった。
動かすたびにひどくなっていく気がする。
決定的だったのが、四時間目の体育を見学している時。体育館で、なにげなく右腕に目を向けたら、包帯からはみ出して、肘の裏に黒い痣がわずかに見えた。
びっくりして、慌てて包帯の端をずらして隠した。
確実に、朝よりも痣が広がっている。
もう、手首から肘まで届いてしまってる。
普通の痣がこんな短時間で広がっていくわけがない。痛みも腕だけに留まらず、吐き気までしてきた。
本格的に、まずいかも・・・。
座っていることすら、もはやつらい。頭痛がし、胸の奥では何かが暴れているみたい。
たまらず目を閉じると、瞼の裏で闇が渦を巻く。
夢でも見た、出どころの知れない闇。
ちっとも肌になじまない、これは私のものじゃない。外から入って、内から自分の色に染めていこうとしている。すべて侵食されたら、私は私でなくなる気がした。
――ずいぶん遠くから、騒がしい声がする。
複数あって、すべて知っているような、まったく知らないもののような・・・。
すると、急に体全体が浮き上がるような感覚があり、渦巻く闇が遠のいた。
あれ・・・今、なにしてたっけ?
薄く瞼を開けると、間近に緋色の髪と整った顔があり、それが天宮くんであるということを認識するまで、しばらくかかってしまった。
隣のコートでバスケをしていた彼が、今、私を抱えて廊下を急いでいる。
「ん、大丈夫?」
涼しい顔で天宮くんが訊いてくるのに対し、私は若干混乱気味だった。
「あ、天宮くん? 一体・・・」
「さっき、いきなり倒れたんだよ。保健室に、とは言ったけどその前に」
天宮くんは階段を駆け上り、立ち入り禁止のロープを乗り越え、屋上に出た。
扉の横に私を降ろし、
「腕、見せて」
言いながら手早く包帯をほどく。
現れたのは、表も裏もまんべんなく漆黒に染まった、右腕。
「っ!? ぁ・・っ」
こんなに、ひどくなっているとは思わなかった。まるで腕全部が壊死してしまったみたい。おそろしさのあまり、声も出せなかった。
天宮くんはとてもとても真剣な眼差しを痣に注いでいる。
「何があった?」
私は、震えながら昨夜のできごとを話した。
天宮くんはすべて聞き終えると、人差し指と中指を立てて腕の黒く染まった部分に当てた。
指先から緋色の炎が湧きおこり、私の腕に巻きつく。
炎は皮膚の中に染みていき、黒い痣の上に緋色の細い帯が巻きついている、我ながら人のものとは思われない怪しげな腕になった。
染み込んだ炎はじんわりと温かく、痛みが少しだけ治まる。
「・・・これで少しは進行を止められる」
そう言って天宮くんはちゃんと痣が隠れるよう、丁寧に包帯を巻き直してくれた。
「佐久間はその妖怪に呪いをかけられたんだ」
「え・・・」
心臓を、ぎゅっと握りしめられたような感じがした。
「徐々に体を蝕み、やがて死に至らしめる。かなりタチの悪い類だ」
つまりは、死の呪い?
名前も知らない、出会ったばかりの妖怪が、私にかけたのだ。広がっていく痣に、嫌な予感はしていたけれど・・・。
「どう、して」
「そこにいたから、だと思う」
包帯を巻き終え、天宮くんはそっと手を離す。
「状況から考えるに、佐久間を狙ったわけじゃないと思う。きっと理由はない。妖怪はそういうものだ」
そういうもの。
理不尽に、人に不幸をもたらすもの。
死の呪いを受けたのはただ近くを通りかかったから、存在に気づいてしまったから、不用意に触れたから。
「・・・痛くて、鉛筆を握れないんです。これは死ぬまでずっとそうなの?」
あとどのくらい命が残っているのか知れない。でもきっと長くはないだろう。
字が書けないのなら、きっと絵も描けない。
残り短い命の間に、私はもう、絵を描くことができないのだろうか?
せっかく、妖怪たちと知り合えたのに、ようやく描きたいものを思う存分描けるようになったのに、何も描けずに死んでしまうの?
「まだまだ、全然っ・・・描けて、ないのにっ」
不幸も災難もいくらでも降りかかって構わない。すべて絵に深みをくれるものとなるから。
でも、それらを描けないのなら意味がない。
次から次へと絶望の涙がとめどなく、あふれて抑えることはできなかった。
「だ、大丈夫、大丈夫だ佐久間っ、落ちついてっ」
すると慌てた様子で天宮くんが言い募る。
「大丈夫だ。呪詛をかけた妖怪を殺すか、祓い清めれば呪いは解ける。だから、泣かなくていい」
すっかり混乱した頭で、今、何を言われたのか考えてみる。ええと、つまり、
「・・・た、助かるの? 私」
「助けるよ」
天宮くんは力強く言ってくれた。
もうだめかと思ったのに、なんて、頼もしいことだろう。ああでもまた迷惑をかけてしまった。
「ありがとうっ、ありがとうございますっ。もう、ほんとっ、迷惑かけてばかりでごめんなさいっ」
何度も何度も頭を下げる。涙は絶望から希望へ変わる。
「いや、まだ礼を言われることは・・・」
泣きながらお礼と謝罪を繰り返す私に、天宮くんは若干、戸惑っていた。
「えっと、まあ、今度からはなるべく、知らない妖怪には関わらないほうがいいよ」
「はい、気をつけますっ」
「俺より当主に診てもらったほうが確実だから、放課後にうち来れる?」
もちろん、断る理由なんてなかった。
保健室で少し休み、午後の授業は途中から出席した。
天宮くんの術のおかげでだいぶ気分もましになっていたのだ。でも、やっぱり物を掴むと痛みがあり、字も絵も無理そうだった。




