公武の亀裂
禎兆九年(1589年) 三月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木滋綱
四郎右衛門と共に父上の許に行くと父上は相談役達と談笑中だった。
「三郎右衛門にございます。四郎右衛門も居ります。宜しゅうございますか?」
「ああ、構わぬぞ。入るがよい」
父上の許しを得て四郎右衛門と共に部屋に入った。父上の前に座る。父上は和やかな笑みを浮かべていた。
「明日は出陣だな」
「はい。ですので御挨拶をと」
四郎右衛門が答えると父上が満足そうに頷いた。父上が俺を見た。
「三郎右衛門は兵を率いるのは初めてだな」
「はい」
「焦るなよ。焦らずとも勝てるのだからな。それと失敗しても落ちこむな。最初は皆戦下手なのだ。少しずつ上手くなれば良い」
”有り難うございます”と答えた。父上の気遣いが嬉しかった。
「父上は戦下手では有りませんが?」
四郎右衛門が問うと父上が”そんな事は無い”と笑った。
「俺がその方の年頃の事だな。浅井攻めで日置五郎衛門に戦が下手だと笑われた事がある。俺もどうも上手くないと思っていたのでな、落ち込んだわ。五郎衛門は口の悪い爺様でな。俺が次は気を付けると言うと次が有ればとまた笑った。とんでもない爺だったな」
相談役達は吹き出しているが俺はとても笑えない。四郎右衛門も目が点だ。
「勝ったのでございますよね?」
四郎右衛門が恐る恐る問うと父上が頷いた。
「運良くな。五郎衛門に戦は下手だが運は良いと言われた。余り自慢にはならぬな」
父上が笑うと相談役も笑った。
「運は大事でございます。運が悪くては大事は成せませぬ」
「まあ、そういう事にしておくか」
平井の祖父と父上が笑いながら話している。父上にもそんな時代が有ったのだと思うと父上を身近に感じる事が出来て嬉しかった。
「四郎右衛門。総大将の又兵衛にとってその方は主君の子だ。嫌でも気を遣う。だから必要だと思った事だけ意見を具申しろ。良いな」
「はい」
「無闇に話し掛けて又兵衛を疲れさせるなよ」
「はい、気を付けまする」
四郎右衛門が答えると父上が頷いた。
「小夜と雪乃にも挨拶するのだぞ。あの二人は俺以上にそなた達の事を心配している。それを忘れるな」
「はい」
「功を上げるよりも無事に帰る事だ。それが一番大事だからな」
「はい」
無事に帰る事か。そうだな、まだ死にたくない。
父上の許を下がり四郎右衛門と共に廊下を歩いていると四郎右衛門が話し掛けてきた。
「兄上、私は母に挨拶をするのが苦手なのです。前に琉球に行った時ですが酷く不安そうな表情をされたので……」
「俺も苦手だ。俺の母も酷く不安そうな顔をする。しかし挨拶をせぬ訳にもいかぬ」
「はい」
四郎右衛門と二人で溜息を吐いた。母上は御屋形様には厳しかった。父上の後を継ぐから厳しく接したのだろう。俺にはそういう厳しさを見せた事が無い。だが不安そうな表情を見せる。それだけ俺は頼りないのだ。親に怖がられるくらいでなければ父上には追い付けない。そう思うのだが情けない話だ。
「兄上、あの三人、どうなるのでしょう?」
あの三人? 四郎右衛門が憂鬱そうな表情をしている。
「……琉球の三人か?」
「はい」
「まだ、琉球には着いていないだろう。着いてからだが徒に騒げば父上の言う通り、殺されるだろうな。……哀れだと思うか?」
四郎右衛門が”はい”と頷いた。
「哀れだと思います。琉球王の重臣達はこの国を侮っています。でもあの三人は違います。日本を侮るのは危険だと認識している。そして琉球を守るために此処に来た。国のために動いているのに殺されるのは理不尽だと思います。兄上はそうは思いませんか?」
足を止めた。四郎右衛門も止まった。梅が咲いている。今度此処に戻ってくる時は梅の実が付いているだろう。収穫が終わっているかもしれない。
「俺は思わぬ」
「兄上」
四郎右衛門が俺を見ている。気付かぬ振りをして梅を見続けた。
「あの連中は日本が琉球を攻めると聞いて慌てて日本に来たのだ。もし、本当に父上を怒らせるのが危険だと思ったのなら去年の内に来た筈だ。しかも彼らは琉球王の同意を得ていない。交渉を長引かせて守りを固めるために時間稼ぎをしようとしたと受け取る事も出来る。俺はあの三人を信じない。あの三人も琉球王の重臣達も日本を、父上を甘く見ている事では左程に変わらぬ」
俺の言葉に四郎右衛門が俯いた。
父上は琉球王を殺さぬと言った。丁重に扱うと。その言葉が琉球王に伝われば琉球王は徹底的に抗戦する事を躊躇うかもしれない。余りに手強く戦うと扱いが酷くなると危惧する可能性も有る。であれば琉球平定は短時間に終わるだろう。
「四郎右衛門」
四郎右衛門が俺を見た。
「彼らが殺されても気にするな。彼らは父上を侮った。それが間違いなのだ」
「はい」
「そして我らは海の外に大きく武を振るわなければならぬ。琉球を滅ぼせば朝鮮は驚くだろう。呂宋のイスパニアも驚く筈だ。それが大事なのだ」
「はい!」
四郎右衛門が大きく頷いた。朝鮮は益々明を頼りにするだろうな。そして頼りにすればするほど日本を敵視し無視する。やはり明は邪魔だな。危険度はイスパニアの方が高いかもしれぬが邪魔なのは明だ。父上は一体どちらを優先するのか……。
禎兆八年(一五八九年) 三月中旬 山城国葛野郡 近衛前久邸 朽木基綱
「一昨日か、琉球攻めの軍勢が京を行進した。奥州攻めに比べれば少ないがなかなか壮観でおじゃったの」
「左様でございますか」
「来月になれば琉球王の処遇を如何するかと公家達に問う事になる。まあ陣定は来月の末になるが……。それで、孫の顔を見に来たというわけでも無さそうでおじゃるの。麿と二人で話したいとは何事かな?」
太閤殿下が軽く笑った。まあね、俺も孫と戯れる爺の役をやりたいが現実はそれほど暇じゃない。困ったもんだ。
「九州に有った伴天連達の寺院ですが破却を決定致しました」
殿下が”ほう”と声を上げた。
「なるほどの、もう触れを出してから一年か」
「はい」
伴天連達の寺だけじゃない。他にも幾つか潰す事を決定した寺が有る。九州の石田佐吉から報告が有った。
「伴天連達は不満を言わぬかな?」
「奴隷として売られた日本人は戻りませぬ。それに昨年は長崎で騒動を起こしましたが信徒五千人が殺されております」
殿下が大きく頷いた。
「なるほど、言いたくても言えぬか」
「はい、イスパニアの兵も討ち破りました。伴天連達は孤立無援です」
殿下が”ほほほほほほ”と笑い声を上げた。佐吉の許には八千の兵が有る。近江から一万の兵も送った。そして長崎での騒動の時は国人達があっという間に集まって蜂起を鎮圧した。どれ程不満でも簡単には騒げない。
「上手く誘い出して潰したの。狙いはこちらかな?」
そんな流し目で俺を見ないで欲しいな。
「そうでは有りませぬ。あれはあくまで万一に備えただけです」
「だが不都合ではないの」
殿下が笑った。確かに不都合じゃ無い。
「直に琉球攻めの兵が九州に到着します。琉球へ攻め込めばイスパニアへの威圧には十分でしょう」
殿下が頷いている。今にして思えば琉球が裏切ったのも悪くない。琉球を滅ぼせばイスパニアは自分を守るので精一杯だろう。日本の伴天連達に手を貸す余裕は無い。
「いよいよ日本が国の外に飛び出すか」
殿下が声を弾ませている。日本が強国への道を歩き出した。そう思っているのかもしれない。
「問題が生じました」
殿下が俺を見た。じっと見てフッと笑った。
「なるほど、本題はこちらか。何が起きた?」
「今月の初めですが琉球から使者のような者達が来ました」
殿下が”使者のようなもの?”と訝しんだ。正式な使者じゃ無いんだ。しかし民間の人間でも無い。権限も有るようには見えないが全く無いとも断言出来ない。
「琉球王の弟が寄越したようです。但し、王はその事を知りませぬ。何かを決める権限も無い」
「それでは正式な使者とは言えぬの」
殿下が頷いた。
「日本が琉球攻めを考えていると知って止めようとしたようです」
「ふむ、それで?」
「追い返しました」
「なるほど、問題は有るまい」
殿下が俺を見た。
「問題が生じたのはその後です」
「……」
「彼らは堺の今井宗久を訪ねました。そして朝廷の有力者を紹介して欲しいと頼んだ」
「なんだと」
殿下の声が高くなった。険しい表情をしている。問題が分かったようだ。
「相国、その連中は朝廷を利用してそなたを止めようとしたのか?」
「正確には朝廷と琉球が約を結ぶ事で某を止めようとしたようです」
殿下が”戯けた事を!”と吐き捨てた。表情が渋い。苦虫を潰したというのはこれだな。「それで宗久は? まさかと思うが誰かを紹介したのではおじゃるまいの」
「いいえ。もう時が無い、間に合わぬと断ったそうです」
殿下がホッとしたような表情を見せた。
「殿下、安心されては困ります。宗久は間に合わぬと言ったのです。朝廷にはそんな権限は無いと断ったのでは有りませぬ」
殿下が顔を顰めた。
「不満か」
「不満ですし不安です」
俺の返事に殿下が頷いた。
「そうでおじゃろうの。宗久は朝廷にはそなたを抑える力が有ると言ったようなものよ」
「はい」
「宗久以外にもそう考える者が居るのか……」
「朝廷にも居るかもしれませぬ」
殿下が俺をジロリと見て”馬鹿な事を”と言った。
「馬鹿な事でしょうか? 某は足利を追い出すために朝廷と結びました。朽木は宇多源氏ではありますが武家としては家格が低かった。領地が広がったからといって周囲から天下人として認められる存在ではなかった。某は朝廷を尊崇する姿勢を周囲に示し朝廷の信任を受けて天下静謐の任を受け天下人になった。それ以外に足利から天下を奪い取る方法は無かったと思います」
「そうでおじゃるの」
殿下が頷いた。まあこの辺りは朝廷と俺の合作だ。
「朝廷が作り出した天下人です。朝廷が復権したと思う者が居てもおかしくはない。そうではありませぬか?」
殿下が溜息を吐いた。領地を広げたのは三好も同じだった。家格が低かったのも同じだ。三好は幕府で勢力を伸ばそうとした。自らが幕府の直臣になり松永や内藤の家臣達も幕府の直臣になった。幕府の直臣になる事で家格を上げようとしたのだろう。だがそれは幕府の権威を認める事でしかなかったと思う。勢威を伸ばしたかもしれないが三好の天下を作り上げる事にはならなかった。
自らが天下人になるなら足利の権威を潰さなければならない。だから俺は朝廷を利用した。この判断は間違っていないと思う。まさか、こんなリスクが生じるとは思ってもみなかった。或いは俺は朝廷を重視しすぎたのか?
「朝廷が異国と結んで武家を抑える事になる。とんでもない事でおじゃるの。公武の間に亀裂が生じよう」
「この問題だけでは有りませぬ。他の問題でも似たような事が起きかねませぬ。その度に亀裂が深まります」
自分の顔を潰す事ばかりする。自分を抑え付けようとばかりする。そうなればいずれは朝廷を尊重しようとはしなくなる。朝廷はそれを不満に思って他の誰かを頼ろうとするだろう。何の事は無い、朝廷が足利になるようなものだ。朝廷が国の安定を壊す事になる。その事を言うと殿下が顔を顰めた。
「そなたとの間ではそんな事は有るまい。そなたは武を以て天下を治めた。公家達もそなたを侮るような事はせぬ。だが……」
「はい。某の後は分かりませぬ。徐々に代を重ねれば……」
俺は焼き討ちや根切りを行った。公家達もそれを知っている。何処かで俺を怖れている。だが大樹は如何だろう。その息子の竹若丸は。国内で武を振るう事は無くなる筈だ。そうなれば徐々に恐ろしさも薄れる。侮る者も出る……。殿下が息を吐いた。
「大政の委任。これを徹底させなければなるまい。朝廷から武家に大政を委任する。これが武家が政を執る根拠になる。それを徹底させるのじゃ。公家には政に関与するなと釘を刺す」
殿下が渋い表情で言った。
「国内の事は問題有りませぬ。ですが異国との事は如何します? 今回の事も琉球の事でした。国の顔は帝でございますぞ」
殿下の表情が益々渋くなった。この辺りが厄介なんだ。俺は統治者だが国の象徴は帝なんだよ。この国はすっとそれでやってきた。いっそ帝に君臨すれども統治せずと言って貰うか? しかしな、自分は飾りですというのは中々難しいだろう。事実はそうでも面白くない筈だ。
「武家からの要請が有った時だけ朝廷で討議する。それしかあるまい」
「それが異国の事」
殿下が”うむ”と頷いた。まあ、そうなんだが……。やっぱり法度かな? 朽木版の禁中公家諸法度を作る。しかしなあ、それをやると朝廷を圧迫していると受け取る奴も出る筈だ。九条前関白が喜びそうだな。
「相国、娘を公家達に嫁がせる事じゃ」
「はあ?」
「公家達を朽木の親族にしてしまえと言っておる」
「……それで防げると?」
殿下がニヤリと笑った。
「玉が入内する。そして玉の叔母を妻にしている公家達が朝廷に並ぶ事になる」
「……」
「いずれ朽木の血を引く帝が、公家達が誕生する。そうなれば朽木を侮るような者は自然と排除するようになる」
「なるほど」
血による朝廷の囲い込みか。朽木ファミリーにしてしまえという事だな。何処まで有効かは分からんがやってみる価値はあるだろう。となると大樹にもドンドン子供を作って貰う必要がある。近江に帰ってきたら相談だな。




