稀有
禎兆九年(1589年) 三月上旬 和泉国大鳥郡堺町 今井宗久邸 謝啓紹
「謝殿、遅くはないか?」
巴択信が焦れたように話し掛けてきた。
「落ち着きましょう。この家の主は外出しているそうです。直ぐに戻ると言っていました」
「どういう方なのかな?」
高嶺顕の声にはそれほど焦りは無い。歳が上な分だけ我慢が出来るのだろう。
「今井宗久様。この堺でも有数の商人です。もう七十になったかもしれません。人を見る目を持ったお方です。今井様が生きていたのは幸運でした」
胆力もある。今井様が力になってくれれば心強い限りだ。心配なのは年齢だ。歳を取ると心が弱くなる人も居る。今井様がそうで無ければ良いのだが……。足音が聞こえた。早足で近付いてくる。高嶺顕、巴択信の二人が居住まいを正した。私も姿勢を正し下腹に力を入れた。
カラリと戸が開いて老人が入ってきた。間違いない、面影がある。今井宗久様だ。
「お久しゅうございまする。謝啓紹にございます」
「おお、謝殿」
相手が顔を綻ばせた。そして私達の正面に座った。
「驚きましたぞ。家の者から謝啓紹という人物が訪ねてきたと言われた時ははて誰だったかと首を傾げました。二十年前と言われてああ、あの謝殿かと……。ははははは、歳は取りたくないものですな」
「いえ、二十年ぶりに訪ねたのです。無理もありませぬ」
「そういう事に致しましょう」
二十年前は髪も黒かったが今は真っ白だ。だが顔色は良い。元気なのだと思った。
「それにしても懐かしい。お元気そうですな」
「有り難うございます。今井様もお元気そうで」
「はははは、意地汚くこの世にしがみついております。謝殿は琉球に?」
今井様が訊ねながらチラッと高嶺顕、巴択信を見た。
「はい、琉球に居ります。この二人は高嶺顕、巴択信といいます。訳あって今は行動を共にしておりますが二人はこの国の言葉を話せません」
今井様が”ほう、訳あって”と呟いた。二人に紹介した事を告げると二人が頭を下げ今井様も頭を下げた。
「どうやら昔を懐かしんで此処に来たという訳ではないようですな」
「はい、今井様のお力をお借りしたいのです」
今井様が一つ息を吐いた。
「厄介事のようですな。しかし謝殿には随分と世話になりました。私だけでは無い、家の者も具合が悪くなれば謝殿に治して貰った。それに謝殿には無理を聞いて貰った事も有る。力になれるかどうかは分かりませぬが先ずはお話を聞きましょう」
「有り難うございます」
二人に今井様が話を聞くと言っていると教えると二人が頭を下げた。
「相国様が琉球を攻めようとしています」
「そのようですな」
今井様が頷いた。驚きが無い。知っていたのだと思った。
「あのお方は琉球を滅ぼすと言いました」
今井様が眉を上げた。
「謝殿は相国様に会ったのですか?」
「はい」
「琉球王の使者として?」
「いえ、違います。私達は琉球王の弟君、尚宏様の依頼で動いています」
「なんと……」
今井様が息を吐いた。
「尚宏様は自分が人質になる事も覚悟しています。その事も伝えました。今一度琉球が従属する形で約を結べないかと思ったのですが……」
「断られたのですな」
「はい」
「念のため聞きますがこの件、琉球王はご存じですか?」
「いえ」
首を横に振ると今井様がまた息を吐いた。高嶺顕、巴択信の二人が不安そうにしている。今井様との遣り取りを手短に話した。
「それでこの宗久に何を?」
「朝廷の有力者を紹介して頂けませぬか?」
今井様がジッと私を見た。
「……謝殿は朝廷を動かして相国様を抑えようとお考えかな?」
「はい。琉球と朝廷が交渉する事で戦が防げないかと。戦になれば琉球は滅びます。なんとかそれを防ぎたいのです」
答えると今井様が首を横に振った。表情が険しいと思った。
「紹介する事は出来ます。朝廷の有力者と言えば太閤近衛様、関白一条様でしょう。私が会って欲しいと頼めば断るとは思えませぬ。しかし無駄でしょう。近衛様も一条様も動くとは思えませぬ。時間を無駄に費やすだけです」
表情が動きそうになるのを懸命に堪えた。
「無駄、ですか」
今井様が”ええ”と言った。
「今、朝廷を支えているのは相国様なのです。朝廷も相国様も相手を重視し尊重してきました。だから朝廷と相国様の関係は極めて良好、緊密なのです。それが壊れるような事を近衛様、一条様がするとは思えませぬ」
「……」
「それに昨年、琉球が約を破った時ですが朝廷からは琉球を討つべしという激しい声が湧き上がりました。琉球に対して不満を持っているのは相国様だけではないのです。朝廷も同じです。近衛様や一条様が琉球を守るために動くとは思えませぬ」
駄目か……。可能性が高いとは思っていなかった。一縷の望みだったのだが……。溜息が出た。今井様がこちらを気遣うように見ている。いや、未だ諦めるな。
「人質の他に領地の割譲、賠償金の支払いも考えております。それでも難しいでしょうか?」
「なるほど。殆ど降伏に近いですな。しかしその条件で琉球王を説得出来ましょうか?」
「それは……」
今井様が溜息を吐いた。
「説得出来るという確言が無ければ私も紹介出来ません。無意味な事をさせたと私も咎めを受けかねないのです。それに時も無い」
「時も?」
問い返すと今井殿が頷いた。
「先月から九州へ兵糧や武器、弾薬が運ばれています。琉球攻めのためのものでしょう。そしてこの堺にも物が集まっています。そしてそれを九州へ運ぶ船も。着々と準備が整っています」
「……」
「その直前に相国様が朝廷に参内しました。夜にです。以前、琉球が従属すると言ってきた時も夜に参内しています。それを考えれば今回の参内は琉球攻めを朝廷と相談したという事でしょう。朝廷は反対しなかった。いや、むしろ賛成した。だから兵糧が九州へ運ばれている。相国様が兵を動かすのは間近でしょう」
遅かったと思った。一ヶ月、いや二ヶ月遅かった……。いや、そうではない。琉球王を説得するのが先だったのだ。そして条件を詰めるのが先だった。あのお方が我らを相手にしなかったのも琉球王の同意が無かったからだろう。醒めた目をしていた。我らの提案など悪戯に時間を潰すだけで意味が無いと思ったのかもしれない。
「今井様は相国様を如何思います? 正直なところをお聞かせ願えませぬか?」
今井様がジッと私を見た。
「希有のお方だと思います」
希有……。
「この国は足利氏が治めていました。謝殿もご存じでしょう」
「ええ、覚えています」
どうしようも無い連中だった。二つに分かれて争っていた。この国を混乱させるだけだった。
「相国様の朽木家は身分の低い小さい家でした。ですがあっという間に家を大きくしました。そして足利氏を滅ぼし天下の支配者になった。誰も出来ない事をやったのです。あの方の下でこの国は戦が無くなりました」
「それが希有だと?」
今井様が首を横に振った。
「それだけではありません。この国は驚くほど豊かになりました。相国様が豊かにしたのです」
「確かに、豊かになったと思います。二十年前とは比べものになりません」
「君臣豊楽」
今井様が”ふふふ”と笑った。
「それは?」
「君も臣も豊かに楽しく。あのお方の目指すところです」
君臣豊楽。そんな事を考えていたのか……。
「私はもう歳です。それを見届ける事は出来ないと思います。ですがあのお方に会えた事で希望を持つ事が出来ます」
「希望ですか」
「ええ、この国は益々豊かになるだろうと。私だけじゃない。皆がそう思っている筈です」
なるほど、それが希有の方か……。琉球にはそんな方は居なかった。明にも居なかった。そんな希望を人に与える事が出来るのなら確かに希有の方なのかもしれない……。
「謝殿、琉球へ戻りますか?」
ハッとした。今井様が私を心配そうに見ている。どのくらい自分の考えに没頭していたのだろう。高嶺顕、巴択信も不安そうに私を見ている。
「ええ、船をお願い出来ましょうか?」
「それは問題有りません。ただ、今戻れば戦に巻き込まれますよ」
そうだな、戦に巻き込まれるだろう。しかし私を信じてくれるあの方を見離す事は出来ない。
「お気遣い、有り難うございます。ですが琉球に戻ろうと思います。私は戦う事は出来ませんが負傷者を看る事は出来ます。必要になるでしょう」
「そうですか、分かりました。船の手配を致しましょう」
今井様が立ち上がった。
「宜しくお願いします」
頭を下げて部屋を出て行くのを見送った。
「謝殿」
高嶺顕が話し掛けてきた。不安そうな表情のままだ。巴択信も同じだ。私と今井様の様子から上手くいかないと感じたのだろう。
「残念です。今井様から聞いたのですが朝廷では琉球を討つべしという声が強いそうです。それに相国様の琉球攻めに賛成していると……。有力者を紹介しても無駄だろうと言われました」
二人が息を吐いた。
「九州には兵糧や弾薬が運ばれていると教えて頂きました。琉球攻めは間近のようですね」
また二人が息を吐いた。
「琉球へ戻りましょう」
「……」
二人が力無く頷いた。
「この事を尚宏様にお伝えしなければなりません。そして戦が迫っていると琉球王に進言して貰うのです。戦をするのか、和を請うのか、決めて貰わなければ……」
二人が顔を見合わせた。
「戦をするなら戦支度をしなければなりません。和を請うなら和睦の条件を詰めなければ……。明にも報せた方が良い。或いは仲介してくれるかもしれません。そうなれば和睦の条件が緩くなる可能性も有る。私達がこの国で知った事を役立てて貰うのです」
二人が頷いた。
「そうだな、未だ諦めてはなるまい」
「ああ、出来る事は有る」
高嶺顕、巴択信が声に力を込めた。その通りだ、未だ出来る事は有る。
禎兆八年(一五八九年) 三月上旬 山城国葛野郡 近衛前久邸 近衛前久
抱き上げると玉がニコッと笑った。
「おお、可愛いのう。爺に抱かれて嬉しいか」
「はははははは」
「ほほほほほほ」
息子の右府が笑うと嫁の鶴も笑った。
「毎日飽きませぬか、父上」
「飽きぬのう。少しも飽きぬわ」
二人が益々笑った。爺馬鹿だと思っているのだろう。その通りよ。少しも構わぬ。この孫は可愛い。色白で目鼻立ちも整っている。将来が楽しみよ。帝の后になりいずれは国母と呼ばれるようになろう。玉を支える弟妹が必要じゃの。幸い鶴の母親は子沢山じゃ。鶴も若い。これから幾らでも子が生まれよう。それも楽しみよ。
玉が手をもぞもぞと動かした。小さな手じゃ。まるで紅葉よ。
「おお、如何した。手を出しては寒いぞ」
分かったのだろうか? 玉が手を引っ込めた。大樹の娘が毛利に嫁ぐ事が決まった。上杉の血を引く娘じゃ。玉の従姉妹でもある。相国も着々と手を打っている。朽木の天下はまた一つ盤石になった。そして近衛にとっても……。鶴がニコニコしている。良い嫁を貰ったわ。
「左府と内府の事、お聞きになりましたか?」
右府が笑いながら問い掛けてきた。
「カステーラの事か? 相国から三本ずつ貰ったと聞いている。随分喜んでいるそうでおじゃるの」
問い返すと右府が頷いた。
「大分周りに吹聴しております」
顔が自然と綻んだ。
「相国との関係は円滑だと言いたいのでおじゃろう。良い事よ」
前関白と相国の関係は必ずしも良く無かった。いや、むしろ悪かった。左府も内府も頭を痛めていたのだろう。
「四月には琉球の件で陣定がおじゃります。その前に皆の懸念を払拭しておこうと言うのでしょう」
「そうでおじゃろうの」
相国と仲の悪い人物が左大臣では公家達も意見が言い辛かろう。おお、玉よ。そのようにむずかるでない。眠いのか? 玉があくびをしている。
「父は公家の方々に怖れられているのでしょうか?」
鶴が問い掛けてきた。右府と顔を見合わせた。右府は困ったような顔をしている。答え辛いか……。
「まあ、そういう部分もおじゃろうの。だが公家達が本当に怖れているのは朝廷と相国が対立する事だと麿は思う」
鶴が”対立”と呟いた。首を傾げている。
「父は朝廷を重んじておりますが?」
「そうじゃの、重んじている。朝廷と相国の関係は極めて良好じゃ。皆がそれを喜んでいる。だから怖れるのじゃ。この関係を壊したくないと」
鶴が頷いた。
「前関白は関白の時に相国を無闇に疑った。朝廷を圧迫するのでは無いか、簒奪するのでは無いかとな」
「簒奪!」
鶴が高い声を出した。
「父はそのような事は致しませぬ! 武家は朝廷を守る者だと常々言っております!」
鶴が憤懣やるかたないというように強い口調で断言した。おうおう、怖いのう。玉よ、そなたの母は怖いぞ。自慢の父を疑われて怒ったわ。ここは宥めなければ。
「その通りじゃ、相国はそのような事はせぬ。そうであろう、右府」
「はい、その通りにおじゃります」
儂と右府が宥めると鶴が渋々頷いた。
「公家達もそのような事は思わぬ。だから困ったのよ。前関白と相国の不和が朝廷と相国の不和になるのでは無いかとな」
「……」
「左府と内府が相国からカステーラを貰って喜ぶ。他愛ない事でおじゃるの。しかしそうする事で周りの公家達を安心させているのじゃ。自分達も相国と朝廷の関係を維持する。心配は要らないとな」
鶴が頷いた。落ち着いたか。
たかがカステーラじゃ。他愛ないと嘲笑う者も居よう。あの二人も馬鹿馬鹿しいと思っているのかもしれぬ。しかしカステーラで皆を安心させる事が出来るのじゃ。大事なのはそこよ。針の一穴から堤が崩れるという事も有る。それを防げると言うのなら馬鹿には出来ぬ。そうじゃろう、玉。
「おう、眠ったようじゃの」
「左様でおじゃりますな」
右府と共に玉の寝顔を覗く。可愛いのう。早く大きくなれ。




