打ち合わせ
禎兆九年(1589年) 二月中旬 山城国葛野郡 一条邸 伊勢貞良
「さて、そろそろ本題に入らなければなるまい」
「左様でございますな」
関白殿下、大殿が頷いている。お二人の間にギスギスした空気は無い。関白殿下は前関白殿下のように大殿を危険視する事は無い。それに殿下の北の方である春齢内親王様は大殿の従妹だ。幼い頃から文を遣り取りする仲で大殿に好意的だ。これから大殿は新たな天下を造る事になる。この方が関白として朝廷の第一人者で有る事は幸いだろう。大殿は運が良い。
「先ず大樹が奥州を平定すればじゃ、朽木家から朝廷に報せが届く。この報せは兵庫頭で良かろう」
「某でなくとも構いませぬか?」
殿下が私をチラッと見た。
「兵庫頭と話したのだが大樹が戻ってから吉日を選んで二人で参内し天下統一を報告する。そして日を改めて大政の委任の式を行う。そういう形の方が良いと思うのじゃ。如何かな?」
大殿が”なるほど”と頷いた。
「兵庫頭からの報せは取り敢えずの第一報。正式な報告は某と大樹が揃ってから大政の委任と併せて一緒に行う。そういう形にしたいという事ですな?」
「うむ。日は改めるが一つの流れで行うものと考えている」
「某は構いませぬが大樹が戻るまでに相当間が空きますぞ。宜しいので?」
殿下が息を吐いて”已むを得ぬ”と言った。
「朝廷は大樹に馴染みがおじゃらぬ。関東から奥州で戦っていたから仕方が無いのだが多くの公家達は大樹に親しみを持てずにいる。その辺りは兵庫頭も認識している。そうでおじゃろう?」
殿下が私に視線を向けた。
「大殿、公家の方々から御屋形様についての問い合わせが有りまする。その多くは先日の大殿の御不例からでございますが……」
大殿が顔を顰めた。自分が死んだ後の心配かと不快になったのだろう。
「御不快とは思いまする。しかし公家の方々は不安なのです。それを取り払わなければなりませぬ」
「そうだな、朽木の天下はこれからだ。無用な不安は取り除いておいた方が良かろう」
大殿が顔を顰めながら頷いた。
「済まぬの、不快でおじゃろう。だが前関白が大樹を怒らせた事もおじゃった。そういう事も公家達を不安にさせているのじゃ」
大殿が大きく息を吐いた。
「確かにそういう事もございました。しかし随分と昔の事でございますぞ」
殿下が”確かに昔の事でおじゃるの”と頷いた。
「あれは前関白のした事で麿には関係無いと言う事も出来る。だがこれは麿と大樹との問題ではおじゃらぬ。朝廷と次期天下人との問題じゃ。大樹の心に朝廷への不快感という棘が有るなら早急に抜かねばならぬ」
大殿が私を見た。訝しんでいる。
「大殿、この件を案じているのは殿下だけでは有りませぬ。多くの公家の方々が案じておられます」
私が答えると殿下が頷いた。
「そうじゃ。皆が朝廷と大樹が敵対するような関係になっては困ると案じている。そなた同様に良い関係を築きたいと願っているのじゃ。そのためには朝廷は大樹を重視している、頼りにしているという姿勢を示さねばならぬ」
大殿が大きく頷いた。
「分かりました。某も大樹が朝廷と敵対するような事は望んでおりませぬ。朝廷への報告は大樹が戻ってから二人で行う事と致しましょう」
殿下が”うむ”と頷いた。
「報告は大樹からさせましょう。その際に帝からお言葉を頂ければ」
「そうじゃの。そなたと大樹を褒め称えて頂こう。麿から帝にお願いしよう」
「お願い致しまする。大樹には某から朝廷がそなたを重視していると伝えまする」
「うむ、頼む」
殿下の表情が緩んでいる。ホッとしたのだろう。
「その際だがそなたと大樹には御剣と天盃が下賜される事になる」
「畏れ多い事にございまする。大樹も誇りに思いましょう」
大殿が頭を下げると殿下の表情が益々緩んだ。大殿は朝廷を尊ぶ姿勢を常々見せている。だから朝廷も大殿には不安を抱かない。前関白は、あれは例外だ。この辺りは御屋形様にも学んで頂かねば……。
「院、帝から御下問が有るかもしれぬ。そこは上手く答えて貰いたい」
「はっ」
「朝廷への報告はこれで終わりになる。おお、忘れていた。報告の場所は紫宸殿じゃ。その場には院、帝の他に納言以上の者が参列する」
大殿が頷いた。
「異存ございませぬ。ところで殿下、某と大樹の介添えはどなたが?」
「飛鳥井准大臣が介添えを努める。准大臣には既に伝えておじゃる。喜んでいたぞ」
「左様でございますか」
准大臣にとっては甥が天下を統一したのだ。心も弾もう。
「その後だが日を改めて相国と大樹には参内して貰う。場所は朝堂院の大極殿じゃ。百官の揃う場で天下の大政の委任を帝からそなたと大樹に伝える事になる」
大殿が大きく頷いた。再建した大極殿で式を行うのだ。思う事が有るのだろう。
「朽木が天下の仕置きを行う。その始まりの日という事ですな」
殿下が”うむ”と頷いた。
「実際には今でも朽木の天下じゃ。だが天下が統一されたのじゃ。改めてそなたに天下の大政を委任するべきでおじゃろう」
「なるほど。殿下、例のお言葉は?」
大殿の問いに殿下が頷いた。
「勿論、帝から直接そなたに伝える事になる。そして詔書として天下に公布される事になる」
「有り難うございまする」
殿下が顔を綻ばせた。
「なんの、天下は天下の天下なり。その言葉がこの国の平和を守る事になると院も帝も認識しておられる。武家の恣意で天下が乱れる事は無いとな」
「畏れ多い事にございます」
大殿の言葉に殿下が首を横に振った。
「院も帝もそなたに期待している。そなたなら足利のように世を乱れさせる事はない。これまで以上に世を繁栄させてくれるとな。それ無しには朝廷の繁栄もおじゃらぬ。世が乱れ朝廷だけが繁栄するなど無いと……」
「必ずやご期待に添いまする」
殿下が”うむ、頼むぞ”と言った。
「天下統一と大政の委任については以上となる。また、これ以降だが大政の返還は紫宸殿で行い大政の委任は大極殿で行う事になる」
「異存ございませぬ。色々と御配慮頂き有り難うございました。これからも宜しくお願い申し上げまする」
大殿が深々と頭を下げると殿下が満足そうに頷いた。
「改元の事も頼むぞ」
「改元でございますか」
「天下統一が成ったのじゃ。新しい天下よ。元号も新しくせねばならぬ」
「道理にございます」
大殿が頷くと殿下も頷いた。
禎兆九年(1589年) 二月中旬 山城国久世郡 槇島村 槇島城 朽木基綱
「御苦労だったな、兵庫頭。殿下と協力して良く取り纏めてくれた」
俺が労うと兵庫頭が”畏れ入りまする”と頭を下げた。
「面倒だったのではないか?」
俺が訊ねると兵庫頭が顔を綻ばせた。
「そのような事はございませぬ」
「本当か?」
兵庫頭の顔が益々綻んだ。
「公家の皆様は儀式が大好きでございます。それに天下統一の儀式です。これ以上の喜びはございませぬ。悩みながらも殿下は楽しんでおられました。某もこのような儀式の手順を考えるのは誇らしゅうございましたし楽しゅうございました」
まあそうだな。朝廷に実権は無い。だが権威は有る。権威とは何かと言えばやはり儀式祭礼だろう。
「そうか、ところで儀式の場所が紫宸殿、大極殿と変わるのは何故だ? 不満では無いぞ。少し気になったのだが……」
兵庫頭が頷いた。
「天下統一、大政の返還は朽木家から帝への報告となりますので場所は紫宸殿となります」
「うむ」
「しかし大政の委任は朽木家が天下の政を司ると朝廷が宣言する事になりますのでこれは国家の大事となりまする。百官が揃い大極殿で行いまする」
「なるほど」
「その後は詔書として公布されまする。嘗て朝廷に実権が有り地方に守や介が居た時には詔書の写しを地方に送ったそうにございます」
大政の委任は国家的行事か。だから詔書も出すという事だな。
「良く分かった。それにしても儀式は大樹が戻ってからか。御剣と天盃も頂く。朝廷は随分と大樹に気を遣っているな」
兵庫頭が神妙な表情で頷いた。
「怯えているのかもしれませぬ」
「怯えている?」
聞き捨てならんな。問い返すと兵庫頭が頷いた。
「最初は天下統一の報告と大政の委任の儀式は別のものと殿下は考えておりました。天下統一は天下の慶事。先に祝おうとお考えだったのです。その方向で打ち合わせもしておりました」
「なるほど」
おかしな考えじゃ無い。それが覆った。誰が覆した?
「ですが二条左大臣様、鷹司内大臣様が御屋形様が戻ってから一緒に行った方が良いと関白殿下に提案したそうにございます」
兵庫頭がジッと俺を見ている。なるほど、二条左府に鷹司内府か。二人とも九条前関白の弟だ。
「殿下は受け入れたのだな?」
「院、帝の御前で話し合いが行われ受け入れる事になりました」
左府、内府だけじゃない。院、帝も大樹が一緒の方が良いと判断したのか……。兵庫頭が”大殿”と俺を呼んだ。
「如何した?」
「二条左大臣様、鷹司内大臣様が御屋形様に気を遣うのは御屋形様に疎まれては出世に響くと考えての事でしょう。つまり疎まれては関白になれないのではないかと怖れているのです」
そうだろうな。俺は朝廷の人事に関与しなかった。それは出来なかったのではない、しなかったのだ。彼らもそれは分かっている。そして俺と大樹は別な人間だ。大樹が人事に関与しないという保証は何処にも無い。
前関白の九条は何かと俺を危険視したし抑えようとした。俺が朝廷を圧迫するのではないかと疑ったのだ。大樹を利用しようともした。弟達にとっては迷惑な兄だったのだろう。自分達は違うとアピールしているわけだ。俺に、そして大樹に。待てよ? 前関白の辞任だがあれは内実は罷免か? 理由は俺との不仲だ。だから前関白の弟達は怯えているのか?
「ですが院、帝のお考えは少し違います」
「それは?」
「院、帝はそれが原因で近衛・一条と二条・九条・鷹司で朝廷内で対立が生じるのではないかと案じておいでです。殿下より伺いました」
溜息が出た。
「なるほどなあ。義昭公の時には近衛、二条で争いが有ったな」
「はい、その前には近衛、九条で争いが生じました」
そうか、九条は三好寄りだったな。武家だけじゃない、公家も争ったのだ。上に立つ人間は好き嫌いを表に出してはいけないというのは本当だな。九条前関白の辞任が罷免なら説得力が増すわ。
「大樹にはその辺りも伝えなければならないという事だな」
兵庫頭が”はい”と頷いた。
「分かった。それは親である俺の務めだ。大樹には朝廷を混乱させるような事はするなと教えておこう」
「宜しくお願い致しまする」
兵庫頭が畏まった。まあ、あれは意地の悪い人間じゃ無い。大丈夫だろう。その事を言うと兵庫頭が頷いた。
「ところで以前頼んだ俺の隠居所だがどうなっている?」
「はい、中御門大路に用意しておりまする。四月の末には完成致しましょう」
「うむ。四月の末か、十分間に合うな」
兵庫頭が顔を綻ばせた。
「公家の方々は喜んでおりますぞ。大殿が京に邸を構えると」
「ははははは。その事は以前太閤殿下から聞いた。琉球王の住まいだとは誰も気付いておらぬのだな」
「はい、太閤殿下も関白殿下も気付いておりませぬ」
俺が笑うと兵庫頭も笑った。
「京は琉球征伐を求める声が高いのだろう? 気付いても良さそうなものだが」
新たな国造りはこれからだよ。隠居なんて未だ未だ先だろう。おかしいと思っても良いんだが。
「淡海乃海の水路の件がございます。公家の方々は皆様そちらに気を取られているようで」
「ほう」
なるほど、琵琶湖運河がカモフラージュになったか。
「水路が出来れば近江、敦賀、桑名に行き易くなると」
「まあ、そうだろうな。悪くない」
「は?」
兵庫頭が訝しんでいる。うん、分からなかったか。
「公家は如何しても京を尊び地方を蔑みかねぬ。地方に行く事でそういう所が是正されれば良いと思うのだ」
兵庫頭が”なるほど”と頷いた。公家は文化の伝承者でもある。戦国時代は公家が地方に避難する事で小京都と呼ばれる都市が生まれた。大内氏の山口、朝倉氏の一乗谷、今川の駿府だ。これからは避難じゃなくて旅行で文化を広げて貰えば良い。
「朽木の天下では地方がどんどん発展していくぞ。街道を整備し河川を整備する。これまでのように関が人や荷が動くのを制限するなどという事は全く無くなるのだ。北から南まで人々が行き交い荷が動くようになる。必ず発展する。その中心に近江が、淡海乃海が有る」
「はい!」
兵庫頭が力強く頷いた。俺が生きているうちに琵琶湖運河は完成させたい。琵琶湖運河が出来れば日本の経済的発展は史実よりもずっと早まる筈だし地域間の結び付きも強まる筈だ。国内経済を発展させつつ海外との交易で国を豊かにする。それが朽木の治める日本の姿だ。




