平和の景色
禎兆九年(1589年) 二月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 片倉景綱
久し振りに八幡城へ戻ると直ぐに相国様より呼び出しを受けた。はて、何事か有ったか。急いで相国様の許へと向かった。
「片倉小十郎にございまする。お呼びと伺いましたが」
「おお、来たか小十郎。そう畏まるな。特別な用が有って呼び出したのではないのだ。その方が戻ったと聞いてな。急に顔が見たくなって呼び出したのだ」
「左様でございましたか」
相国様はニコニコしている。嘘では無いようだ。ホッとすると同時に憎いお方だと思った。こちらの心を上手にくすぐるわ。
「どうかな、色々と見ているようだが面白いものが有ったかな?」
「はい、平和というものを見ました」
相国様が”ほう”と声を上げた。
「平和を見たか」
「はい。畿内では人の顔が明るいと思いました。皆が生きる事を楽しんでおります。もう十年以上も畿内では戦が無いと聞きました。戦のない世の中が当たり前になっているのでしょう。平和とはこういうものかと思いました」
相国様が頷いた。
奥州とは違うと思った。民の顔が違うのだ。奥州の民の顔には何処かに暗さが有る。生きる事を十分に楽しんでいなかったのだろう。戦に怯えていたのだ。或いは諦めが有ったのかもしれない。豊かさで奥州が畿内に劣っているのは事実だ。賑わいも豊かさも全然違う。だがそれ以上に戦が民の心に陰を落としていたのだと思う。だから奥州の民の顔は暗い。その事を言うと相国様が頷いた。
「応仁・文明の乱は十年続いた。その十年で京は荒れ果てた。戦国乱世の始まりだな。それからは畿内も相当に荒れた。畿内を制す事が天下を制す事になる。それだけに畿内での争いは激しかった。細川が分裂して争った。三好が台頭すると細川と三好が争い細川が没落した。三好は足利とも争い一時は畿内を制したが直ぐに分裂して一族で争い始めた。それぞれに足利を担いでな。民にとっては迷惑なだけだろう。誰が支配者でも良い、戦の無い世の中をと思っただろうな」
相国様の口調からはうんざりしているのが分かった。朝廷が足利では無く相国様を信任したのも相国様なら戦の無い世の中を作れると思ったからだろう。それは足利では戦が無くならないと失望も有ったに違いない。
「まあ俺もそれに加わった一人だ。他人事のように言うのは無責任だな」
相国様が苦笑いを浮かべた。
「今は畿内は平和で賑わっております」
「いずれ奥州も平和で賑わうようになる」
「はい」
そうだな、このお方の天下でならそうなるだろう。このお方は飢饉の対策をしている。海の外から米を買う事も考えているのだ。
「琉球王が亡くなったと聞きましたが」
相国様が”ほう”と声を上げた。
「何処で聞いた?」
「堺で聞きました」
以前から堺には行ってみたいと思っていた。行って驚いた。あれほどまでに豊かだとは思わなかった。異国の産物も沢山入ってきている。日本の商人、異国の商人が運んでくるのだ。海は異国と繋がっているのだと実感した。奥州には異国の船は来ない。そういう点でも貧しいのだと思った。
「俺も代替わりが有ったと聞いている。しかし琉球からの正式な報せは無い」
「……」
約を破ったのだ。代替わりが有ったになら都合の悪い事は全て先代の王のせいにしてしまえば良いのに……。そうであれば攻められずに済むのだ。相国様が”ははははは”と笑った。
「小十郎は拙いと思うか?」
「思いまする」
相国様がまた”ははははは”と笑った。琉球は滅ぶと思った。危機感が無い。相国様が攻めてくると思っていないのだろう。これではとても国を守れるとは思えない。
「俺もそう思う。良い機会なのにそれを活かせぬ」
「はい」
「琉球王が一番に重視しているのは明だ。俺の事は交渉で宥められると見ているのだろう」
愚かだと思った。このお方の事を何も分かっていない。
「京では琉球を征伐すべしとの声が有ります」
相国様が苦笑を浮かべた。
「その声は大きいのかな?」
「彼方此方で聞こえまする」
相国様の苦笑が大きくなった。相国様は琉球攻めを考えている。だが琉球攻めを望むのは相国様だけでは無い。京では多くの者が海の向こうの事に強い関心を持っている。奥州に対する関心よりも強いだろう。
「呂宋のイスパニアが攻めてきた。琉球が約を破った。その事で京では公家達が異国に厳しく当たるべきだと言っていると聞く。それに煽られているのだろうが……」
京では伴天連達に厳しく当たるべきだという声も相当に強い。呂宋のイスパニアが九州に攻め込んだ事、伴天連が門徒を唆して挙兵した事を皆が重視しているのだ。日本が異国に攻められたのは元寇以来だ。衝撃を受けているのかもしれない。その事を言うと相国様が頷いた。
「そうだな。昔は日本も遣唐使を送った。異国と積極的に交流したのだ。だが唐が混乱すると使者を送るのを止めた。日本は異国との交流に消極的になった。それ以来日本人の頭に有る異国と言えば半島に有る国と大陸に有る国、それに琉球だ。何度か国が変わったが日本人の頭にある異国はその三つだった。そして日本が攻められたのは元寇の時だけだ。だが今は違う。イスパニアやポルトガルという国がやってきた。あの連中は貪欲だ。元などよりもずっと危険だろう。油断は出来ぬ」
危険だと言ったが声に切迫感は無かった。むしろ淡々としていた。何時かは戦うのだと思った。
「石山にも行きました。かつては本願寺の本拠地でしたが今では水軍の根拠地となっております。大きいと思います。驚きました」
相国様が”はははははは”と笑い声を上げた。
「朽木の水軍では無い。日本の水軍を創る。そのための場所だ」
日本の水軍か。石山が水軍の根拠地になったのは奥州遠征の前だった。相国様の目は相当以前から海の外に向かっているのだと思った。イスパニアやポルトガルに対する水軍なのだ。相国様の声に切迫感が無いのは水軍に手応えを感じているからだ。日本に攻め寄せたイスパニアの水軍は全滅した。
「水軍は何時頃出来上がりましょう?」
「さあ、何時になるかな。俺にも見当が付かぬ」
相国様が私を見た。
「日本が豊かになればなるほど日本の富を狙う者が現れるだろう。それらの者に備えるのが水軍だ。小十郎は備えに終わりが有ると思うか?」
首を横に振った。備えに終わりなど無い。油断すれば不意を突かれるのだ。
「銭が掛かるぞ。水軍を創るのも、維持するのも。莫大な銭が掛かる。そのために俺は国を豊かにしなければならん。だが豊かになれば敵の欲心を刺激するだろう。これはな、終わりが無いのだ」
その通りだと思った。何時頃出来上がるかなど馬鹿な質問をしたと思った。国内の大名同士の戦いでは無いのだ。これからは国と国の争いになる。戦の規模もずっと大きくなるだろう。相国様の言う通りだ。終わりは無いのだ。
「俺は直に京に行く。三月になる前に戻るだろう。小十郎は如何する?」
「某は伊勢に行こうと思っております。三月になる前にここに戻りまする」
伊勢では大湊を見たい。大湊からは琉球へも船が出ていると聞く。伊勢神宮にも行きたい。
「土産話が楽しみだな。奥州へは何時戻る?」
「三月の始めにはここを発ちまする」
相国様が頷いた。帰りは関東で木下様と会わなければ……。
禎兆九年(1589年) 二月中旬 山城国葛野郡 一条邸 朽木基綱
「大丈夫なのかな? 相国」
関白殿下が困ったように俺を見ている。はて?
「大丈夫とは何をでございましょう」
「いや、身体の事よ。月の初めに具合が悪くて寝込んだと聞いた」
はあ? 思わず首を傾げそうになって堪えた。なんで? 熱が出るなんて誰だって有ると思うんだけど……。
「少し熱が出て休んだだけでございます。薬師からも疲れたのだろうと言われました。一日休んで次の日からはいつも通りにしております」
関白殿下が頷いた。
「まあ、顔色も良い。そうでおじゃろうの」
同席している伊勢兵庫頭も安心したような表情で頷いている。
「大分噂になっておりますので?」
問い掛けると殿下、兵庫頭が頷いた。
「それはそうじゃ。相国御不例、宮中は大騒ぎでおじゃった。兵庫頭も大変でおじゃったぞ」
俺が視線を向けると兵庫頭が苦笑を浮かべた。
「公家の方々が大殿の御具合は如何かと。近江に見舞いに行きたいと申されまして抑えるのが大変でございました」
「そうか、迷惑をかけたな」
兵庫頭が首を横に振る。
「いえ、こちらには熱が出ただけだと報せが有りましたので。公家の皆様方には余り騒がれては大殿も困惑するだけだろうと説得致しました」
その頃には俺は元気になっていた。見舞いに来られたら面倒だったな。偉くなると寝込む事も出来なくなる。権力者の健康状態ほど厄介なものは無いのだ。俺も昔は三好、織田、上杉で一喜一憂した。
「まあ、相国も四十を超えたからの。身体に不調が出てもおかしくはおじゃらぬ。そなたにもしもの事が有っては大変という思いも有るが見舞いに行って点数を稼ぎたいという思いも公家達には有る」
点数稼ぎ? 俺は妙な顔をしたのかもしれない。殿下が”ほほほほほ”と笑い声を上げた。
「昔からの、宮中では力有る者が体調を崩すと公家達は見舞いに押し掛けた。そうする事で自分は貴方を心配していると相手に伝えたのよ。たとえ会えずともな」
「なるほど。しかし相手が病では鬱陶しがられるのではありませぬか?」
俺なら迷惑だと顔を顰めそうだが。殿下がクスクスと笑った。可笑しそうに俺を見ている。あれ、変な事を言ったかな。兵庫頭も苦笑いだ。
「見舞いに行かなければ後で報復が有るかもしれぬからの。出世に響きかねぬ」
殿下の言葉に兵庫頭が頷いている。そうか、室町幕府は京に有った。それだけに将軍と公家の関係は密接だった。将軍が病気となれば挙って見舞いに行ったのだろう。足利って陰険だからな。行かないと意地悪しそうだ。あ、もしかすると仮病を使って公家達を試したとか有ったのかもしれない。
「某は宮中の人事には関わりませぬが?」
殿下が”ほほほほほ”と笑った。
「そうでおじゃるの。だが関わるだけの力は有る。皆はそなたの機嫌を損ねたくないのよ。そなたには色々と世話になっておじゃるし正月の行事も滞りなく行われた。その直後でもあったからの」
まあ、スポンサー、パトロンの機嫌は損ねたくないっていうのは分かるな。殿下が意味有りげな笑みを浮かべた。
「左府も内府も頻りに見舞いに行きたがったぞ。そなたを案じていた」
二条左府と鷹司内府か。一月の末に殿下が左大臣を辞任した。まあ朝廷の人事は順送りだ。右大臣が左大臣へ、近衛内府が右大臣になった。そして空いた内大臣には鷹司権大納言が任命された。五摂家で大臣を独占したがそれほどおかしな人事じゃ無い。しかし見舞いに行きたがった? 殿下の意味有りげな笑み……。
「何か意味が?」
問い掛けると殿下が頷いた。
「自分達は前関白とは違うと言いたいのよ。分かるでおじゃろう?」
「なるほど、そういう事でございますか」
腑に落ちた。兵庫頭も頷いている。前関白の九条兼孝は二人の兄だ。そして何かと俺を危険視した人物でも有る。朽木の天下統一を望んでいないという噂が流れた事も有った。まあ、実際望んでいなかっただろう。俺が朝廷を圧迫するのでは無いか、簒奪するのでは無いかと疑っていた。
「公家達の間でも前関白を危ぶむ声は少なからず有った。あの二人はそれを分かっている。だからの」
殿下が兵庫頭を見た。
「殊更に近江に行きたがったのだと思います。朝廷の皆様も安心したでしょう。特に殿下が左大臣を辞任した後ですので」
兵庫頭が続けると殿下が頷いた。なるほどなあ、周囲へのアピールも有ったのか。私達は安全ですよと言ったわけだ。
「琉球の件では陣定が復活した。あれは左大臣が管轄する。これから先、陣定めが行われる事もおじゃろう。左大臣が反朽木ではそなたも困ろうし公家達も安心して意見を述べる事が出来ぬ」
「左様でございますな」
これから先は琉球攻め、イスパニア攻め、明、朝鮮とも戦になるかもしれない。その中で朝廷の同意を必要とする事も有るだろう。陣定めが行われる可能性は有る。公家達が案ずるのもおかしな話じゃ無い。
「麿の見るところ、あの二人には反朽木の感情はおじゃらぬ。前関白の事は迷惑に思っていたかもしれぬ。しかし周りの危惧に配慮したのでおじゃろう」
上に立つのも楽じゃ無いな。前関白か……。俺を危険視したがそこに周囲への配慮が有ったとは思えない。周りの公家達は顔を顰めて関白に近寄らなかったのかもしれん。関白の辞任は孤立が原因かな。
「偉くなるのも善し悪しでございますな。うっかり熱を出す事も出来ませぬ。これからは気を付けねば」
俺の溜息混じりの言葉に殿下と兵庫頭が笑い出した。
「そうでおじゃるの。そなただけではない、麿も四十を超えた。健康第一よ。相国は酒を嗜まぬと聞いた。麿も酒は控えておじゃる。妻が煩いからの」
「夫婦円満、それが一番でございますな」
皆で笑った。健康第一、家内安全、夫婦円満は大事だよ。天下獲りは長期プロジェクトなのだ。短命では全う出来ない。家でストレスを抱えちゃ長生きは出来ないのだ。史実の徳川政権が安定したのは家康が長命だったからだろう。関ヶ原で天下を獲ってから十五年以上生きた。生きる事も戦だ。




