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心臓



 

禎兆八年(1589年)    一月上旬            近江国蒲生郡八幡町 八幡城  朽木基綱




「塩津浜、大浦、海津、今津、大津、草津が寂れれば長浜、佐和山も影響を受けましょう。近江は徐々に廃れていきます。船も少なくなりましょうな。某は淡海乃海を走る船を見るのが好きなのですが……」

 陣八郎がぼやいた。ぼやいたのでは無いかもしれないがぼやいたようにしか聞こえん。御爺も淡海乃海を見るのが好きだった。俺もだ。困ったものだ。

「だから大殿は塩津浜と敦賀を水路で結ぼうと言うのですな? 国が貧しくなればその分だけ朽木の力は衰えます」

 曽衣の言葉にまた呻き声が聞こえた。


「曽衣、石山に居を移すという手段も有るぞ。朽木の手で石山に船を集め石山から物を畿内に流す」

「大殿、近江の者達に恨まれますぞ」

 平九郎が呆れたように言った。俺が”ふん!”と鼻を鳴らすと皆が溜息を吐いた。何でそんな事をする。俺は選択肢の一つを言っているんだ。


「俺が思うに俺達は淡海乃海を十分に活用していないと思う」

「それが敦賀、塩津浜の水路でございますか?」

 重蔵が問い掛けてきた。

「それだけでは無いのだ、重蔵。仮にだが敦賀と塩津浜の間で水路を作ったとする。そうなればだ。必ず大浦、海津も水路を欲しがろう。まあ敦賀と塩津浜の水路にくっつければ良いから左程に長いものにはならぬ。負担も少ない筈だ」

 皆が頷いた。


「問題は敦賀と塩津浜の間で水路を作れば此処が死ぬ事だ」

 俺が若狭湾を扇子で指し示すと呻き声が幾つも上がった。

「小浜でございますか」

「正確には小浜と今津だ。弥兵衛」

 弥兵衛が渋い表情をした。小浜は敦賀と並ぶ日本海側の良港だ。その理由の一つが小浜から今津の物流ルートだ。淡海乃海に流して京へと運んでいる。


「安くて楽な敦賀と塩津浜の水路が有るのだ。わざわざ難儀な小浜、今津の道を使うとは思えぬ。間違いなく廃れる。そうなれば鯰江は小浜、今津に水路を作れと必ず言うだろう。距離は敦賀と塩津浜よりも長くなる」

 溜息が聞こえた。鯰江一族は若狭を中心に二十万石を領しているのだ。その要求を無視は出来ない。

「分かるだろう? 俺が石山に移るのも一案だと言った気持ちが。膨大な銭が掛かる。時もだ」

 皆が渋い表情で頷いた。石山に移る方が面倒が無いんだよ。


「移りますので?」

 阿呆!

「移るのだったら相談などせぬ。悩んでいるのだ」

 平九郎が頭を下げた。

「話を戻すぞ。敦賀、小浜を淡海乃海と直接水路で繋げればだが北の出入り口が広がった事になる。産物の扱い量は間違いなく増える。となればだ、京への出入り口を広げよう、整備しようという話が必ず出る。そうは思わぬか?」

 溜息が聞こえた。


「大殿、それは……」

「ああ、そうだ、弾正。淡海乃海と京を水路で繋ぐ。そしてその水路を石山まで延ばす。瀬田川から宇治川、桂川、木津川、淀川。これらの川を整備して敦賀から石山、小浜から石山を繋ぐ」

 扇子を移動させながら皆を見渡した。誰も何も言わない。黙って地図を見ている。

「そうなればだ、瀬戸内の海と淡海乃海が繋がる。北陸の物が瀬戸内に流れ山陽、四国の物が淡海乃海に流れる事になる」

 今度は呻き声が聞こえた。


「そしてだ、そこまでやれば必ず伊勢と淡海乃海を繋げようという話が出る。東海道から関東、奥州の荷が伊勢から近江に入る。分かるな? 東海道、関東、奥州が淡海乃海、瀬戸内へと繋がるのだ」

 また呻き声が聞こえた。

「淡海乃海を十分に活用していないとはこの事なのですな?」

 ”そうだ”と答えると重蔵が大きく息を吐いた。


「俺はこれまで近江は日本の臍だと折々言ってきた。だがこれが実現すれば近江は日本の心臓だと言われるだろう。近江は四方に街道が繋がり水路を通して日本全土と繋がる。近江を制する者が日本を制する事になる」

 皆が黙ったまま地図を見ている。

「組屋達はそれを?」

 陣八郎が問い掛けてきた。


「いや、そこまで考えてはいないだろう。あの者達は敦賀と塩津浜を繋げたいと思っただけだ。だがそれをやれば必ず今俺が言ったようになる。そしてやらなければ石山が物の流れの中心になる。近江は寂れるだろう」

 溜息が聞こえた。首を横に振る者もいる。


「何故それを我等に?」

 弾正が訝しんでいる。

「奉行衆は朽木の譜代だ。当然だが近江に愛着が有る。相談役は必ずしも近江出身者では無い。経歴も様々だ。俺の考えを如何思うか、評定に掛ける前に確かめておきたいと思った」

 また溜息が聞こえた。


「銭が掛かりますぞ。膨大な銭が」

 平九郎が俺を睨んでいる。

「この工事だけでは有りませぬ。関東では藤吉郎殿が城造りと利根川を東へ移す工事をしております。そして琉球を攻めれば明、イスパニアとも戦になりましょう。銭が幾ら有っても足りますまい」

 皆が頷いた。


「琉球を攻め獲ればイスパニアとイエズス会が慌てて銀五十万両を持ってくるだろう。違うか?」

「……」

「それにだ。銭が無ければ集めれば良い。そういう話をした筈だぞ、平九郎」

 平九郎が顔を顰めた。


「領民達から集めると? しかし出る一方では返す当てが有りますまい。領民達も朽木に銭を貸しませぬぞ」

「案ずるな、平九郎。水路が出来上がれば船から通行料を取れば良い。朽木が作った水路なのだ。文句は言わせぬ。恒久的に銭が入る事になる」

 平九郎が”それは”と言って口を噤んだ。高速道路の料金みたいなものだな。しかし陸路を使うよりも安価なのだ。利便性も良い。琵琶湖運河は作れば間違いなく役に立つ。


「水路が全て出来上がれば日本全国から荷が集まるのだ。通行料は膨大な額になるだろう。水路の維持、修繕だけでは余っておつりが来るな。借りた金は間違いなく返せる」

 俺が見渡すと皆が頷いた。将来的には朽木の重要な財源になるかもしれない。

「問題はこれがこれからの政を何処で執るかに関わる事だ。この近江で執るか、それとも石山で執るか。水路を作るのなら近江で政を執った方が良い。だが水路を作らぬのなら石山に居を移すべきだ」

 また皆が頷いた。


「月末の評定は大評定にする。そこで議題に出す。それまでに良く考えて欲しい」

「周囲に話しても構いませぬか?」

 弥兵衛が問い掛けてきた。

「構わぬぞ。石山は海に面している。石山の方が良いという者もいるだろう。様々な考えを聞いた方が良い。その上で決めよう」

 皆が頷いた。

「それとな、敦賀から塩津浜と敦賀から石山への掛かりを調べて欲しい。平九郎、頼んで良いな?」

 平九郎が”分かりました”と頷いた。


 どうなるかな? 徳川の天下では大阪が天下の台所になった。徳川は江戸が本拠地だったから余りこの問題に関心が無かったのかもしれない。しかし朽木は近江に居を構えている。朽木の天下では大阪が天下の台所になるのか、大津がその地位を守るのか。後世では此処が朽木政権の性格を決めたと言われるかもしれない。色んなテレビ番組で取り上げられそうだな。




禎兆八年(1589年)    一月中旬            山城国葛野郡    近衛前久邸  朽木基綱




「年内に来るかと待っていたのだが」

「申し訳ありませぬ。行かねばならないと思ってはいたのですが長きに亘って留守にすると色々と決めねばならぬ事が溜まりまする」

 太閤殿下が”そうかもしれぬのう”と頷いた。いや、ほんとだよ。長期出張の後は事務処理と決裁が溜まるんだ。おまけに新年の挨拶は俺も受けなければならない。とんでもないお土産を持ってきた者もいる。簡単には出向けないんだって。


「院も帝もそなたを待っておる」

「琉球の件でございますか?」

 問い掛けると殿下が頷いた。

「それも有る。伴天連達の事、イスパニアの事、明、朝鮮の事も聞きたいと仰せじゃ。何と言っても日本が海を越えて国の外に兵を出すなど未だ奈良に都が有った頃以来でおじゃるからの」


 なるほど、白村江の戦いか。あの時は負けたな。あれは何時だっけ? 六六〇年代だったな。だとすると今は一五八九年だから九百年ぶりに外征する事になる。日本って国内はともかく対外的には大人しい国だったんだな。大人しくなくなったのは豊臣と大日本帝国だろう。どちらも失敗した。その辺りは注意しないと。


「正月は何かと忙しゅうございましょう。二月には参内致しまする」

「夜かな?」

「はい」

 殿下が”ふふふ”と笑った。

「そうじゃの、その方が良かろう。麿からそのようにお伝えしておく」

「よしなに願いまする」

 俺が頭を下げると殿下が頷いた。琉球王を公家として朝廷に仕えさせる話はその時が良いだろう。


「邸を作るそうじゃの。兵庫頭が土地を探していると聞いた」

「はい、隠居所をと思いまして」

 殿下が”ほほほほほ”と笑い出した。

「隠居? 未だ未だ先の事でおじゃろう」

「先では有りますが場所だけでもと」

 また殿下が”ほほほほほ”と笑った。これもその時だな。


「皆、喜んでおじゃる」

「左様で」

「うむ、そなたが京を重んじているという事でおじゃるからの」

 軽んじているつもりは無いんだよ。ただね、何を話して良いか分からないんだ。ついでに言えば面倒も御免だ。という事であまり近寄らないようにしている。パトロンなんて金は出しても口は出さないのが一番なのさ。


「それにしても天下統一は成らずか。戦に勝ったと聞いた時はこれで終わったと思ったのだが……」

「戦ったのは一部です。その殆どが逃げました」

 殿下が”ホウッ”と息を吐いた。

「何のために戦場に出てきたのやら……。分からぬの」

「真に」

 奥州人の意地や誇りを示したのは伊達と相馬だけだった。他の連中はただ朽木に頭を下げたくない、それだけだったのだろう。


「仕上げは大樹か」

「はい」

「大丈夫かな。此処まで来て失敗は許されぬが」

 太閤が不安そうな表情をしている。この辺りが大樹の弱いところだな。未だ絶対的な信頼が無いんだ。

「大丈夫だと思います」

 将来のために此処は踏ん張って貰わないと。それに連中が一つになって立ち向かう事は先ず無い。油断さえしなければ大丈夫だ。


「ところで琉球攻めは如何するのかな? 天下統一は未だ成らぬが。延期かな?」

「三月に攻めまする」

 殿下が”なんと”と言った。目を見張って驚いている。

「良いのか? 天下統一は未だだが」

「奥州は雪で動けますまい。それに奥州が一つに纏まる事はないかと思います。笹野村の戦いでは有力大名の最上が裏切りました」

 殿下が”なるほど”と頷いた。


「それに呂宋のイスパニアですが日本侵攻に失敗した事で船を失いました。そのせいで呂宋の海を倭寇が荒らしているようです。対応に苦慮しているようですな。今なら琉球を攻めてもイスパニアは何も出来ませぬ」

 殿下が”うーむ”と唸った。

「今か」

「はい」

 俺が頷くと殿下も頷いた。今が攻め時だ。


「琉球に動きは?」

 俺が首を横に振ると殿下が息を吐いた。琉球は俺が奥州平定に苦戦していると見ているのかもしれない。伊賀衆が上手く噂を流したのだろう。こちらを危険視しての働きかけは無い。まあ実際天下統一は成っていないんだ。油断とは言い切れないよな。

「そろそろ孫娘を見に行くか」

「左様でございますな」

 同意すると殿下が嬉しそうに顔を綻ばせた。可愛いんだろうな。鶴からの手紙には殿下が毎日抱き上げて喜んでいると書かれていた。いずれは入内させて中宮にと口にするとも。あと十五年は先の話だな。




禎兆八年(1589年)    一月中旬      山城国久世郡 槇島村  槇島城  朽木基綱




『水路の件、是非是非小浜をお忘れ無きようにお願い致しまする。鯰江の者達、皆々それを案じておりまする』

 読み終わって文を畳んだ。照伯母ちゃんからの文だ。琵琶湖運河の件はあっという間に広まったらしい。鯰江は相当不安視している。まあ敦賀に水路が作られて小浜に作らなければ小浜が廃れるのは間違いない。鯰江にとって小浜は大事な湊だ。死活問題だと認識している。


 商人達は諸手を挙げて大賛成だ。やはり陸路は不便なのだろう。銭が掛かるのだ。運河が出来れば通行料を取られても格段に安いと判断している。それに陸路よりも水路の方が積載量も多いし速い。反対する理由は無いのだ。石山、堺の商人達は様子見だ。余り騒ぐのは良くないと判断しているのだろう。それに石山にまで水路が繋がれば損は無いと見ているようだ。実際損は無いだろう。


 反対しているのは運送業者だ。水路が出来れば失業だからな。史実でも反対しているがこの世界でも反対している。まあこれについては金で解決する事が可能だろう。なんだったら朽木で雇っても良い。生活の不安が無くなれば反対はしなくなる筈だ。国人衆も賛成している。近江が寂れる事を案じているのだ。特に大津、草津に近い国人衆にそれが強い。やはり今の繁栄が失われる事が不安なのだ。


 問題は金だな。どんな事業でもそうなのだが金がネックになる。しかし金は何とかなるだろう。平九郎があの後訪ねてきてやるべきだと言った。銭は掛かるが全部を一気に作るわけでは無い。一本一本作れば費用はそれほどでも無い。そして一本作れば其処から通行料が取れる。最初に伴天連、イスパニアから銀五十万両を取れればそれほど心配は要らないとみている。そして水路が増えれば通行料も増える。工事は余裕を持って出来るだろうと言っていた。


 後は決断力だな。この手の大事業は二代、三代と代を重ねると慎重論が出る。やはり守成の意識が強くなるせいだろう。この計画は長期に亘る。ならば俺が決断しこの計画を大々的に公表するべきだな。大樹は俺が敷いたレールを歩けば良い。そういう形にしよう。そして敦賀、石山、伊勢を近江の外港として整備する。石山を畿内の中心にと考えた事も有ったが琵琶湖運河が出てきた。これを作るのなら近江を拠点にするべきだ。


 



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― 新着の感想 ―
商人達と違い鯰江なら小浜からの水路を作れないのかな?琵琶湖まではもちろん無理、でも領内だけでも工事を進めたいと願い出る事で水路完成が速くなるし、通行料の権利が主張できるようにならない。鯰江は初期から物…
どうしても日本の土地開発は平地がどれだけ広がっているかが大事になるからな……。 関東平野はともかく、大阪平野も濃尾平野も相当に広い。 一方で近江盆地は狭いからなぁ。
奥州人の意地や誇りを示さなかった有象無象の輩は官位剥奪。私称も許さない野武士として討伐しては如何でしょう?
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