断腸の思い
禎兆八年(1588年) 六月下旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 雪乃
「随分と日に焼けたのですね」
「はい、日の照りが強く琉球は暑うございます。南の国なのだと実感しました」
四郎右衛門が戻ってきました。日焼けしています。笑うと歯の白さが目立ちました。
「戻るのが遅かったのではありませぬか?」
「事情が有って少し琉球を出るのが遅くなりました」
半年ぶりに会う息子は少し大人びていました。背も伸びましたし身体つきも逞しくなった様な気がします。もう子供では有りません。
「母上、その……」
「これですか?」
お腹を擦ると四郎右衛門が困った様な表情で頷きました。本当に困った事、まさか子が出来るなんて。
「ええ、そなたの弟か妹がお腹に居るのです」
四郎右衛門が“はあ”と言いました。薄々は私が御褥辞退をした事を知っていたのでしょう。それなのに子が生まれる。驚きも有るのでしょうが呆れてもいるのだと思います。
「そなたが居なくなって落ち込んでいたのです。見兼ねた大殿が子を授けてくれたのですよ」
「そういうものですか」
「ええ、そういうものです」
また四郎右衛門が“はあ”と言いました。少し恥ずかしいですけれど恥ずかしがってはお腹の子が可哀想です。それに私自身とても嬉しい。大殿もとても喜んでくれました。
「父上は何時頃お戻りになるのでしょう?」
「年内にはお戻りになります。年内に関東、奥州攻めが終わるかどうかは分かりませぬ。ですが奥州は冬は雪が降ります。例え終らずとも年内で打ち切り次の戦は春になってからになるでしょう」
「そうですか」
浮かぬ顔です。思い悩む事が有るのかもしれませぬ。
「父上に御話したい事が有るのですか?」
「はい」
「琉球の事ですか?」
「それだけでは有りませぬ」
「ならば文を書けばよいでしょう」
四郎右衛門が眉を寄せ俯くようにして考えています。こうして見ていると本当に大殿に良く似ています。四郎右衛門が顔を上げました。
「いえ、奥州に行きます。如何しても父上に御話しなければならぬ事が有るのです。場合によっては今一度琉球に行かねばなりませぬ」
「まあ」
「此処からなら桑名に行き船で小田原だな。その後は馬で父上の元に行けば良い。小田原でなら詳しい事も分かる筈だ……」
立ち上がると戸を開け“左兵衛大夫、作兵衛”と声を上げました。ドタドタと足音がして傳役の蒲生左兵衛大夫殿、守山作兵衛殿が現れました。
「父上の元に行く。桑名まで出て桑名からは船で小田原だ」
「はっ、供回りは」
「急ぐ、小勢で良い」
「なりませんぞ、奥州は戦場でござる。万一の事がございます。最低でも五百は要りまする」
「それでは遅くなる! 急がねばならぬ事はその方等も分かっていよう」
左兵衛大夫殿の諌めに四郎右衛門が苛立ちました。
「騎馬のみで参りましょう。どのみち小田原からは騎馬でござる。小田原で準備に手間取るくらいなら此処から騎馬で東海道を駆け抜けた方が効率は良い。既に準備は出来ております」
「真か、作兵衛」
「はい、御下命が有ると思い用意しておりました。四郎右衛門様は結構せっかちでございますな、大殿に良く似てござる」
作兵衛殿が笑うと左兵衛大夫殿も笑いました。せっかち? 四郎右衛門が?
「四郎右衛門様、御仕度を」
「仕度? 鎧か?」
「勿論にございます。平服で行っては大殿に怒られますぞ」
「分かった」
“母上、失礼致しまする”と言って四郎右衛門は部屋を出て行きました。なんとまあ、確かにせっかちかも……。
禎兆八年(1588年) 七月上旬 出羽国置賜郡米沢村 米沢城 片倉景綱
殿が書状を見ている。一つ息を吐いた。若殿が頭を下げた。
「父上、御不快とは思います。しかしこのままでは伊達家は滅ぶ事になりましょう。何卒御理解頂きとうございます」
「この事は某が若殿を説得して行いました。お叱りは某が受けまする。なれどこの機を逃せば間違いなく伊達家は滅びまする。何卒、御決断を」
殿がまた一つ息を吐いた。
「怒ってはおらぬし不快にも思ってはおらぬ」
確かに表情に怒りは無い。沈痛な表情だ。だが受け入れたとも思えぬ。若殿が“父上”と声を掛けた。殿が若殿を見た。
「良い案では有る。だが難しかろうな、重臣達は受け入れまい」
「そんな事は有りませぬ。父上が御決断下されば重臣達も受け入れましょう。何より蘆名が滅びれば重臣達も次は伊達が危ういと分かる筈です!」
「若殿の申される通りでございます。蘆名が滅んだ時点でこの書状を見せ重臣達を説得致しましょう」
殿は俯いて考え込んでいる。顔を上げた。
「藤次郎、その方幾つになった」
「……二十二にございます」
「儂は四十五だ」
はて、殿は一体何を言いたいのか……。若殿が困惑している。
「相国は儂と五歳違いでな、今年で四十になる」
「父上?」
殿が“まあ聞け”と言って笑った。
「その方が物心付いた時、朽木は既に大きかった。畿内を制し毛利を降していただろう」
「はい。幕府は名前だけの存在になり朽木が天下を制する事になると思いました」
殿が頷かれた。私が物心付いた時には朽木は三好と畿内で争っていた。新興勢力である朽木の勢いに胸が弾んだ覚えが有る。
「儂が物心付いた時、朽木の名を知る者は奥州には居なかった。当然だが儂も知らなかった。儂が朽木の名を意識するようになったのはお東を娶った頃からだ。されば今から二十五年程も前の事になる。もっともその頃はまだ朽木は小さい存在だった」
殿が若殿をそして私を見た。
「朽木が大きくなったのは、天下を動かし始めたのは二十年程前からだ。あっという間で有ったな。次々に有力大名を滅ぼした。幕府も滅ぼした。天下獲りに邁進しておる。些か信じられぬ事では有るな」
殿が苦笑を漏らされた。
「父上、今はそのような……」
殿が手を上げて苛立つ若殿を止めた。
「分からぬか? 藤次郎」
「……」
「その方や小十郎は大きい朽木を見て育った。朽木が天下を獲ると思いながら育ったのだ。いずれは奥州に攻め寄せるとも思ったであろう。だからその心構えが出来た。だが伊達家の重臣はその多くが儂と同年代、或いは年上なのだ。彼らは朽木が無名であった事を知っておる。その朽木が幕府を滅ぼし天下を獲ろうとしている事を受け入れられぬのだ」
「そんな……」
若殿が声を上げたが殿が首を横に振った。
「受け入れられぬし理解出来ぬのだ」
「理解出来ぬ?」
「うむ、足利の幕府は強い存在では無かった。我らを力で押さえ付ける事は無かった。この奥州の秩序は我ら奥州の大名が作って来たのだ。戦で、話し合いで、婚姻でな。我らが治めてきた。だから敵対する事は有っても滅ぶ事は無かった。それが足利の世の奥州の秩序であった。その中で皆は育ってきた。そしてそれが永遠に続くと思ってきた」
「……」
「だが朽木は違う。足利の様に弱くは無い。強いのだ。だからはっきりと服従を求めて来る。それに抗えば龍造寺の様に滅ぶ」
「それが理解出来ぬと?」
殿が頷かれた。
「そうだ、足利の天下と朽木が求める天下は違う。その事が理解出来ぬ。いやもしかすると理解したくないのかもしれぬ。朽木と誼は結べる。朽木を天下人と敬う事も出来る。だが服従は出来ぬ。奥州は我らの土地、我らが治める。朽木は関係無い、何故我らを支配しようとするのか? これまで通りで良いではないか? 」
「……」
「分かるであろう、理解出来ぬし受け入れられぬのよ」
「……」
シンとした。我らと殿の間には大きな溝が有るという事か……。気付かなかった……。若殿も悲痛な顔をしている。
「蘆名が滅びてもでございますか?」
「蘆名が滅びてもだ、小十郎」
「……」
唖然とすると殿が苦笑を漏らされた。
「儂が同盟を結んだのはその所為だ。最上や蘆名等恐ろしくは無かった。ただの領地争いなら儂は戦っただろう。重臣達も反対しなかったに違いない。だがな、この戦いは領地争いではないのだ。奥州人の生き方を決める戦いだ。奥州を上方に差し出すか、我らの物として守るか」
「……」
殿が“分かるか?”と訊いて来た。
「朽木に従うという事は奥州を差し出すという事だ。重臣達はそれが受け入れられぬのだ。だから同盟を結ばねば外からの攻撃よりも内からの混乱で伊達は滅ぶだろうと儂は思った。蘆名が滅び朽木と一戦する。負けるであろう、だが負ける事で初めて朽木の支配を受け入れる事、朽木の天下を受け入れる事が出来るようになる。そう思ったのだ。その時なら降伏出来るとな。領地は減らされるであろうが已むを得ぬ事だ」
「……」
言葉が出なかった。若殿も呆然と殿を見ている。奥州の力を朽木に見せてから和睦というのは嘘なのか。殿の真の狙いは朽木の力を伊達の重臣達に見せる事か……。殿は何処か哀しげだった。自らの無力を噛み締めているのかもしれぬと思った。
「……では我らが行った事は無駄で有ったと?」
若殿が問うと殿が首を横に振られた。
「いや、意味は有る。この書状はその方が朽木に服従しようとした、朽木の支配を受け入れようとしたという証拠だ」
「では蘆名と戦って負けた時に役に立つと?」
私が問うとまた殿が首を横に振られた。
「残念だがそれまで保たぬ」
保たぬ? 若殿と顔を見合わせた。若殿も訝しげな表情をしている。
「奥州で伊達が同盟を裏切るという噂が流れている。この伊達領でも流れている。その事で最上、大崎、葛西、そして重臣達が危ぶんでいるのだ」
「まさかとは思いますが……」
若殿が問うと殿が頷かれた。
「そのまさかだ。おそらくは朽木であろう。朽木から見ても伊達は弱点に見えるのであろうな」
「……」
「重臣達はその方を疑っている。その方が朽木贔屓だというのは皆が知っている。最上、大崎、葛西の疑心を晴らし同盟を維持するにはその方を世継ぎから外すべきだ、廃嫡すべきだとな。重臣達はその方が朽木の支配を受け入れようとしていると忌諱しているのだ」
若殿の顔が歪んだ。
「お東もその方を危うんでいる」
若殿の顔がさらに歪んだ。
「母上もですか、某が伊達の世継ぎに相応しくないと」
殿が首を横に振られた。
「そうではない。その方はあれを誤解している」
「ですが……」
言い募ろうとする若殿を“藤次郎”と言って殿が宥めた。切なげな声だった。
「あれはその方を守って来たのだ。最上や重臣が何を言っても自分が藤次郎に意見する、決して馬鹿な真似はさせぬと言ってその方の楯になって来た。だからその方に厳しい事を言ってきたのだ。だがその方の邪魔はしなかった。何故ならその方を伊達の跡継ぎに相応しい男だとお東は信じているのだ」
「……」
「あれは奥州が朽木に服するのは納得が出来まい。儂が降伏すると言えば喰ってかかるだろうな」
殿が苦笑を漏らされた。
「だがその方がその道を選ぶのならそれが必要な事なのだと無理矢理受け入れるだろう。小次郎を可愛がってはいるが兄を助けよと常に言っている。だがもう守りきれぬ、このままではその方の身が危ういと儂に泣き付いて来た。状況はそこまで深刻だ」
なんと……。そのような事が……。若殿が“母上が”と呟いた。
「重臣達がその方を忌諱するのは他にも理由が有る」
「それは?」
「若い者にはその方同様朽木の支配を受け入れようという者が多いのだ。その方の周りには特にそういう者が多い筈だ」
「父上、父上はまさか」
殿が頷かれた。
「その方が伊達の当主になる頃には天下は朽木の物になるだろうと思った。それゆえ朽木の天下を受け入れられると思える者を選んでその方に付けたのだ。だがそれが裏目に出た。重臣達にとってはその方同様に面白くない存在だ。重臣達はその方を排斥する事で若い連中を抑えようとしている」
「……」
「そしてそれは最上、大崎、葛西も同様なのだ。伊達がその方を排斥すればそれを口実に最上、大崎、葛西の親朽木派を抑えられるとな」
「つまり最上、大崎、葛西にも某と同じ事を考える人間がいると」
殿が“そうだ”と言って頷かれた。
「某は如何すれば……」
「逃げよ」
“父上”と若殿が悲痛な声を上げた。
「廃嫡となれば命も奪われよう。儂が止めても誰かがその方を殺す筈だ。後顧の憂いを断つと言ってな。此処に居ては無駄に死ぬ事になる。朽木の下に行くのだ。説得は不調に終わった、自分は朽木に付くと言って儂と戦え」
「……父上……」
「伊達七十万石、大きく削られような。十万石も残るかどうか……、儂も腹を斬る事になろう。だが家を残す事は出来る。最上、大崎、葛西は……、危うかろう」
「……」
「その方に同心する者を連れて行け。此処に居ては無駄に死ぬ事になる。その方が伊達の当主になる時、その方の傍に必要な者達だ」
若殿が唇を噛み締めている。
「殿、他に道は無いのですな?」
「無い」
「分かりました。若殿、御仕度を」
「小十郎……」
若殿が私を見た、泣き出しそうな顔をしている。
「殿の御気持ちを無駄にしてはなりませぬ。伊達家のためにございます」
「……分かった」
殿が頷くのが見えた。
「小十郎、頼むぞ」
殿が私を見ている。哀しそうな、そして何処かホッとした様な顔だった。見ているのは辛かった。だが視線は逸らさなかった。これが最後かもしれぬのだ。
「必ずや、御期待に沿いまする」
殿が頷く。頷く事で答えた。




