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スペイン帝国の影




禎兆七年(1587年)    十二月上旬      近江国蒲生郡八幡町 八幡城  朽木基綱




「夜分に畏れ入りまする」

闇の中、寝所で千賀地半蔵の声が聞こえた。

「構わぬ。内密に報せたい事があると聞いた。何が起きた?」

「はっ、西肥前では寺社の者達による切支丹への抗議が大分強くなっております」

「うむ、佐吉から衝突も有ると聞いた」

「切支丹の旗色は良くありませぬ」

そうだろうな。キリシタン大名は殆どが没落したのだ。庇護者は失うし邪宗だと非難されるし宣教師達も頭が痛いだろう。


「伴天連達は現状に危機感を抱いております」

「うむ」

「色々と対策を考えているようですが呂宋、あの者共がフィリピンと呼ぶ地からイスパニア軍の派遣、或いはインドのゴアに居るポルトガルの副王の援助を願おうと考えている者がおります。名はガスパール・コエリョ。伴天連共の中でもかなりの高位に有る者にございます」

インドか、遠いな。問題はフィリピンだ、こっちは近い。マニラの総督府の力を借りようというわけだ。イエズス会の本領発揮だな。


「……コエリョの狙いは?」

「寺社を脅し信徒達を守る事、そして切支丹の力を見せ付ける事で大殿に切支丹を蔑にするなとの警告を発するのだとか」

思わず失笑しかけた。コエリョという男、賢いとは言えないな。そんな事をすればより危険視されて叩き潰されるとは思わないらしい。教会の力、イスパニアの力が及ばない所が有るのだと認識出来ていない様だ。


「派遣して如何するのだ?」

「長崎の占拠。以前から伴天連達は長崎に眼を付けておりました。長崎を切支丹の自治都市にと」

史実でも長崎はイエズス会の領地になっていた。この世界では龍造寺の隠居がそれを許さなかった。そうでなければ同じようにイエズス会の領地になっていただろう。連中、余程に長崎が欲しいらしい。


「フロイス、ヴァリニャーノ等の他の伴天連達もそれに賛成したとか。明確に反対したのはオルガンティノだけのようにございます」

「なるほど。如何なる? イスパニアの軍は来るのか?」

「分かりませぬ」

「佐吉は知っているのか?」

「はい、御指示を頂きたいと申しております」

まあ異国との外交問題にまでなるからな、自分では決められないか。


「伴天連、そして寺社の者達をこちらに連れて来るようにと伝えてくれ。俺の方で裁断を下す。佐吉はそれに従って処理をすれば良い」

「はっ」

「他に有るか?」

「いえ、ございませぬ」

方針さえ決めておけば後は佐吉に任せればよい。何と言っても豊臣政権きっての行政官だ。


「これからも伴天連達の動向から目を離すな。それと呂宋のイスパニアにもだ」

「はっ、呂宋に人を送りまする。インドのゴアは?」

「今のところは良い」

「はっ」

すっと気配が無くなった。流石だな。伊賀衆がフィリピンか、八門には朝鮮の内部を探らせたほうが良いな。


しかし武力行使か。可能性は有るだろう。九州再遠征まで伴天連達は大友の不甲斐無さには頭を痛めてもそれほど危機感は無かった筈だ。大友、有馬、大村、九州の切支丹大名は無力な存在では無かったのだ。第一次九州遠征で大友が厚遇されたのも伴天連達を安心させただろう。俺が切支丹に好意的だと勘違いしたかもしれない。だが九州再遠征で大友は没落、有馬、大村は潰された。切支丹は庇護者を一気に失ったのだ。危機感は相当に強い筈だ。


連中が日本に拘るのはイスパニアによる明の征服が狙いだと本で読んだ事が有る。日本の征服計画も有ったらしい。日本の兵力を利用して明に攻め込み明を征服するためだ。イエズス会はそのための尖兵という役割を担っている。日本征服、明征服の理由は銭、正確に言えば戦費調達だ。


今イスパニアはポルトガルを併合しカトリックの庇護者としてプロテスタントとの戦争中だ。太陽の沈まない帝国などと言われているが形勢は必ずしも良くない。むしろ泥沼の状態だろう。イエズス会もカトリックの一員としてイスパニアを応援しなければならない状況に有る。そう言えばアルマダの海戦って何時だろう? もう終わったのかな? だとすると伴天連達の危機感は俺が思っている以上に強いかもしれない。


戦争というのは銭が掛かるのだが厄介な事にイスパニアは敵が多く更に財政基盤が脆弱という弱点が有る。今はフェリペ二世の時代だがフェリペ二世の時代にイスパニアは何度か破産しているのだ。メキシコの銀、東南アジアの香辛料だけでは財源が足りないという事だろう。


明を征服すれば絹、陶磁器が只で手に入る。それをヨーロッパに送ればガンガン銭儲けが出来るだろう。一気に財政状況は改善する。そして軍事費を増やす事が出来る。プロテスタントを打ち破れる力を付ける事が出来るのだ。喉から手が出る程に欲しいに違いない。国の為に、カトリックの為に等と連中は主張するだろうがやっている事は強盗とさほど変わらない。


史実ではスペインが日本に兵を送った事実は無い。多分、秀吉の伴天連追放令と朝鮮出兵が原因だろうと思う。秀吉は九州遠征でキリシタンを危険視して追放令を出した。その後、東日本を制圧して天下を統一、朝鮮に出兵する。大体四、五年の間に行われたと記憶している。


当時の宣教師達にはそれが如何見えたか? 混乱していた日本に十五万もの大軍を朝鮮半島に送り込む統一政権が突然登場したように見えただろう。おまけにキリシタン大名は次から次へと棄教した。当てには出来ない。しかも明が出て来るまで破竹の勢いで日本軍は進撃した。どんな馬鹿でも日本を占領するのは容易な事では無いと判断した筈だ。


秀吉の死後もそれは変わらなかった。関ヶ原の戦いだけでも二十万近い大軍が動員されたのだ。全国的に見れば三十万近い兵が東西に分かれて戦った事になる。その兵力に圧倒されたと思う。日本を占領するには三十万以上の大軍が必要だと思った筈だ。そんな大軍をヨーロッパからアジアに送れるだろうか? 無理だ。そんな国が有るのならとっくの昔にヨーロッパを統一していただろう。


豊臣政権誕生から徳川政権初期における日本は間違いなく軍事大国だった。イスパニアも占領を諦めざるを得ない大国だったのだ。十五世紀末から十六世紀末の戦国時代、約百年かけて軍事大国日本は成立した。要するに足利が弱かったから日本は混乱し軍事大国になったと言う事になる。偶には足利も役に立つらしい。


ではこの世界でも同じかと言えば疑問だ。スペインがコエリョの話に乗る可能性は無いとは言えない。東日本は未だ朽木に服属していないのだ。朽木基綱は日本の有力者では有っても支配者では無い。付け込む隙は有ると考えている筈だ。そして史実ではキリシタン大名が何人もいた。だがこの世界ではそうではない。今のままでは日本の兵力を当てに出来ない、明の征服は覚束ないのだ。宣教師達は危機感と希望を持っているだろう。


俺は何度も連中に政治に関わるなと言ったんだがな。どうも理解出来ないらしい。元々キリスト教そのものがローマ帝国の皇帝を利用してキリスト教の勢力を拡大させたという成り立ちが有る。政治、いや権力者かな、それを利用するという発想から脱却出来ないのだろう。一度ガツンとやった方が良いかもしれない。


イスパニアが来ると言うなら受けて立とう。フィリピンやインドのゴアにある兵力がどの程度のものかは知らないが連中の主戦場はヨーロッパだ。精鋭部隊が置かれているとも思えない。置かれているのは二線級の兵だろう、怖れる必要は無い。厄介なのはイスパニア本国から派兵される事だが日本に大部隊を送る程の余力が有るとも思えない。一旦送ったらヨーロッパに戻るまでに四、五年は掛かる筈だ。イスパニアはヨーロッパに軍事的な空白を発生させてしまう事になるだろう。プロテスタント側がそれを見逃すとも思えない。


例え本国の兵でも小部隊なら怖れる必要は無い。海戦で叩く事も出来るが陸に上げて殲滅する事も可能だ。その上でこちらからフィリピンへの侵攻を考えるという手も有る。簡単に制圧は可能だろう。そしてヨーロッパだけでも持て余しているイスパニアにアジアで長期間に亘って日本と事を構えられるような体力は無い。日本が負ける要素は無いのだ。


もう直ぐ正月だ。正月は少しゆっくりしよう。来年は弓姫の輿入れ、周の輿入れ、関東遠征と忙しくなる。偶には寝正月というのも悪くはないさ。




禎兆八年(1588年)    一月中旬      近江国蒲生郡八幡町 八幡城  朽木基綱




「宜しいのでございますか?」

「ほほほほほほ、麿は既に関白を辞した身、構うまい」

そう言うと太閤近衛前久は盃を口に運んだ。肴はスジエビの素揚げだ、軽く塩を振ってある。

「淡海乃海を見ながら雪見酒を楽しむ。悪くない」

素揚げを一つ摘んで口に運ぶ。眼を細めた。雪見酒を楽しんでいる。八幡城の櫓台からは淡海乃海と雪に包まれる山々が見えた。


「寒くは有りませぬか?」

「うむ、これが有るからの」

太閤殿下が褞袍(どてら)をちょっと引っ張った。褞袍の他にも襟巻をしている。綿が普及した事で防寒着が充実した。良い事だ、冬に風邪を引いて死ぬ人間が減るだろう。


しかし良いのかな? こんなところで遊んでいて。正月は宮中行事が目白押しの筈なんだけど。昨日は鷹狩で(きじ)(つぐみ)(ひよどり)、雉鳩を獲っていた。その前日は釣りだった。大物を釣ったと喜んでいたけど……。俺の疑問を察したのだろう、太閤殿下がまた“ほほほほほほ”と笑い声を上げた。


「麿が居っては関白も遣り辛かろうと思っての。帝、院にはそれとなくその事をお伝えしておじゃる。問題は無い」

「左様でございますか」

まあ多少遣り辛いというのは有るだろう。五摂家の当主は太閤を除けば皆若いのだ。経験も足りなければ修羅場もくぐっていない。どうしても太閤には気圧されるかもしれない。それに公家達も関白殿下よりも太閤殿下を重んじるだろう。関白にしてみれば面白くないに違いない。


「麿よりもそなたの方が問題でおじゃろう、違うかな?」

太閤殿下が悪戯小僧の様な笑みを浮かべながら俺の顔を覗き込んできた。殿下の杯に酒を注いだ。殿下がまた眼を細めている。酒好きなのだな。殿下の話では俺は飲まないから飲み友達には不足だそうだが話し相手には最適らしい。という事で付き合っている。


「某も良いのです。某が正月の行事に参加してはそれこそ関白殿下は遣り辛いでしょう」

「そうでおじゃるの」

太政大臣だから参加してもおかしくは無い、いや参加するべきなんだろうが俺の場合は太閤殿下よりも拙い。何と言ってもスポンサーなのだ。色々と食材などを供している。帝、院、公家達も俺に配慮せざるを得ない。皆遣り辛いだろう。それに本音を言えば堅苦しいのは面倒だし衣冠束帯ってあまり好きじゃないんだ。大きな声では言えないが。


「皆がそなたの事を慎み深いと言っておじゃるぞ」

「慎み深い?」

なんだ、それは。

「滅多に姿を見せぬからの。偶に参内しても深夜の参内となれば誰もそれを知る事は無い。皆に遠慮しているのであろうと言っておじゃる。そなたが参内すれば皆も挨拶が大変だからの」

「遠慮では有りませぬ」

面倒なだけだよ。太閤殿下が分かっていると言う様に頷いた。


「まあ良いではないか。皆が好意的に取っておじゃる。皆、そなたに感謝しておるのよ」

「……」

「朝廷も安定し皆が安心して暮らせるようになった。京で戦が起こる事も無い。異国の使者も来る。今年は天下も統一されるであろう。天下静謐でおじゃるの。目出度い限りよ、皆がそう言っておじゃる。……分かるであろう?」

「はい」


公家達も安心して暮らせる。地方に行って大名の世話になる事も無ければ大名の争いに巻き込まれて死ぬ事も無い。大内氏の大寧寺の変では何人もの公家が殺された。その中には五摂家の一つ二条家も有る。喰うために地方に行ったのだが地方に行くのも命懸けだったのだ。


「太政大臣にはなったが朝廷の内の事に関わろうとせぬ。内心ほっとしておろう」

「それが慎み深い、ですか」

「まあそういう事でおじゃろうの」

太閤殿下が曖昧な表情で頷いた。要するに庇護は求めているが口出しは求めていないという事だ。そういう点からすると朽木はあくまで朝廷の庇護者という立場をとっている俺は公家達にとっては理想の庇護者なのだろう。


「不愉快かな?」

「いいえ、そうは思いませぬ。某が太政大臣を望んだのは政の府の理を整える為です、朝廷の中で威を振るう為では有りませぬ」

「……」

「天下を統一したら相国府を正式に開きます。そして政の仕組みを整える。そうなれば某が何故太政大臣を望んだのかを誰もが理解するでしょう」

“ほほほほほほ”と太閤殿下が笑い声を上げた。


「そなたは本当に面白いの。普通なら不愉快に思う筈なのに」

お互いに棲み分けをしているだけだ。こちらは朝廷の中に入って行かない。公家達は政の中に入って行かない。それが一番良い。

「四月には関東に出兵と聞いた」

「はい」

「麿も同道して良いか?」

「はあ?」

思わず間の抜けた声を出してしまった。それを聞いて太閤殿下が“ほほほほほほ”と笑い声を上げた。


「そう驚く事も有るまい。昔の事だが麿は関東に赴いた事がおじゃる」

「存じております」

越後に行って輝虎と一緒になって関東に攻め込んだ。公家のやる事じゃないな。

「もう一度関東の平野を見たくなっての」

「……」

太閤殿下は懐かしそうな表情だ。妙な公家だ。地方に居て京を恋しがるなら分かるが京に居て関東を恋しがるとは……。


「足手纏いにはならぬ。戦だと分かっておじゃる」

他の公家なら駄目だと言うんだけどな。

「場合によっては奥州に攻め込む事も有り得ます。そちらはなりませぬぞ」

「分かっておじゃる。その時は関東に留まる」

「それならば」

太閤殿下がウンウンと頷いた。


「嫁が懐妊した。秋には子が生まれよう」

「はい」

鶴が懐妊した。正直ほっとしたわ。これで近衛家も安泰だし鶴の立場も一層強くなる。朽木と近衛の結び付きも強まるだろう。しかし出産ラッシュだな、五月に竹が、秋に鶴が子を産む。


「男ならば跡取りだが娘ならばいずれは入内をと考えている」

「入内でございますか」

太閤殿下が頷いた。

「中宮が居らぬようでは朝廷も寂しいからの」

「なるほど」

長い戦乱で公家も朝廷も貧しくなった。入内も出来なければ中宮として遇する事も出来ない。ここ数代に亘って帝の傍に居るのは女官だけだ。その女官が帝の妻となっている。千津叔母ちゃんもその一人だ。当然だが彼女達の実家は羽林家、名家等の家格を持つ中級貴族だ。五摂家は家格から言っても女官は出せない。


「良いかな?」

太閤殿下が問い掛けてきた。ちょっと困った様な表情だ。金銭援助かな?

「某に遠慮は無用にございます。その時にはお手伝い致しましょう」

「そうか、嫁から朽木は武家、皇統には介入せぬ。娘を入れる事もせぬと聞いていたからの。ちと心配でおじゃった」

なるほど、そっちか。


「朽木は平氏のような事は致しませぬ。それだけにございます。鶴の産んだ娘は近衛家の娘として入内致します、朽木はお手伝いは致しますがあくまでそれは財力面での事、それ以上では有りませぬ。もし皇子が誕生した場合も皇位争いには加担致しませぬ」

俺の答えを聞いて太閤殿下が“なるほど”と頷いた。


まあそれでも朽木の血を引く娘となれば宮中ではかなり有利だろうな。朽木の娘を欲しがる公家が増えるだろうな。それも悪くない。それだけ親朽木派の公家が増えるという事だ。朝廷との関係も円滑な物になるだろう。目出度し、目出度しだ。





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揚げ物ができるほど油が使えるって豪勢ですね。さすが銭が有り余ってる!ふと思ったのですが、それだけお金があるなら鉄砲の改良とかできそうですね。攻略範囲を広げる散弾銃や、致死率の高いライフル、ヨーロッパ戦…
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