防衛体制
禎兆七年(1587年) 十月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 児玉周
「小夜、入るぞ」
声と共に相国様が姿を御見せになりました。御台所様と共に頭を下げて御迎えします。腰を下ろされると相国様はホウッと一つ息を吐かれました。
「御疲れでございますか?」
「一つ荷を下ろした、そんな感じだ。もっとも我が家は子が多いからな、まだまだ荷は多い」
御台所様がコロコロと御笑いになりました。少し不思議です。脇腹の御子も居るのです、不愉快に思われてもおかしくは無いのですが御台所様からはそのような感情は感じられません。豊千代様の事も大切に育てています。
「雪乃は大分万千代、いや四郎右衛門が可愛いらしい。声が詰まっていたな」
「竹姫、鶴姫と二人姫君が続きましたから……」
「そうだな。……四郎右衛門は月が変われば琉球に行く。今のうちに母子で氣比神宮に行っては如何かと勧めた。琉球に行けば暫くは会えなくなるからな」
“そうですね”と言って御台所様が頷かれました。四郎右衛門様が琉球に行きます。朽木家の若君が異国に行く、信じられない事です。父もその事に驚いていました。そして朽木家は進取の気風が有る、それは相国様だけのものではないと感心していました。
御茶をお出しすると相国様は一口飲まれて“美味い”と仰られました。
「周、そなたの婚儀の事だがな、聞いているか?」
「はい、九鬼家の孫次郎守隆様との縁談が有ると父より聞いております」
相国様が満足そうに頷かれました。九鬼家との縁談、九鬼家と言えば日本でも有数の海賊です。伊勢、瀬戸内、今では対馬にも根拠地が有ります。毛利に服属する村上水軍も精強ですがそれに勝るとも劣りません。南蛮船を数多く持っていると聞きます。
「親父の宮内少輔が乗り気でな。是非にも息子の嫁にと願ってきた」
「大丈夫ですか? 海賊衆は気が荒いと聞きますが……」
御台所様が心配そうな御声を出されると相国様が御笑いになりました。
「まさか周を取って喰おうとはするまい、案ずるな。それに周は俺の娘として九鬼家に嫁ぐ。大事にして貰えるだろう」
私が相国様の養女! その話は初めて聞きます。驚いていると相国様がまたお笑いになりました。
「九鬼家からそういう願いが有ったわけではないぞ。孫次郎はそなたの事を見初めたようだ。それで父親の宮内少輔に相談したらしい。宮内少輔はそなたの事を調べて良い娘だと思った。それで息子の嫁にと願ってきた」
「まあ、では養女というのは」
御台所様が問い掛けると相国様が“念のためだ”と仰られました。
「児玉家は毛利の家臣、後々煩い事を言う者が出ないようにな、俺の娘という身分で嫁ぐ」
「陪臣という事でございますか?」
御台所様の問いに相国様が“そうではない”と首を振られました。
「九鬼は対馬に詰めている。毛利と妙に親しいなどと言って詰まらぬ邪推が入らぬようにだ」
「と申されますと?」
「あそこで万一の事が有った場合、九鬼にとって頼りになるのは毛利と国東水軍だ。そういうわけでな、日頃から或る程度の付き合いは要る。そこに支障が生じぬようにしなければならぬ」
溜息が出そうです。私の婚儀にそこまで気を遣わなければならないとは……。
「御配慮、忝のうございます」
頭を下げると“気にするな”と声が有りました。
「後は毛利家にも周が俺の娘として嫁ぐと報せなければならん。婚儀は来年だな。小夜、娘が嫁ぐのだ、準備を頼むぞ」
「はい」
御台所様が嬉しそうな御声を出しました。畏れ多い事です。
「毛利家の事は案ずるな。右馬頭に子が出来たらしい」
「真でございますか?」
驚きました。新しい側室を入れたのかしら。
「うむ、正室の南の方が身籠ったそうだ。仲は円満とは聞かなかったのだがな、右馬頭も龍造寺攻めでは武功を上げたし豊前一国の加増となった。南の方も見直したのかもしれぬ」
相国様が楽しそうに御笑いになられました。驚きましたしホッとしました。南の方様が御懐妊、後は御子が男子である事を祈るだけです。
禎兆七年(1587年) 十月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
周がホッとした表情を見せ小夜は可笑しそうにしている。まあ可笑しいよな。俺も笑いが止まらない。毛利右馬頭夫妻の仲の悪さは結構有名なのだ。正室の南の方は右馬頭を見ると顔を背ける程に嫌っていたようなのだが龍造寺軍を打ち破り豊前一国を得た事で右馬頭はやれば出来る子らしいと評価を変えたようだ。
そうなるとだ、自分達に子供が無い事が不満になったらしい。南の方には自分の身体には毛利元就と元就の正妻妙久の血が流れている。これこそが毛利で一番尊い血だという誇りが有った。輝元にもその血が流れている。自分と輝元の子こそ、毛利の嫡流に相応しいというわけだ。八門の調べによれば次郎右衛門に弓姫が嫁ぐ事にも不満を漏らしたようだ。弓姫には妙久の血が入っていない、毛利を代表する娘ではないという事だろう。当然だが次郎右衛門と弓姫の子を毛利の養子になんて論外だった筈だ。
突然南の方が子作りに積極的になった事で右馬頭は驚いただろう。だが右馬頭にも子供が必要な事は分かっている。南の方に子が出来れば一番問題が無い事もだ。せっせと励んで御懐妊というわけだ。まあ何と言うか子作りに励んでいる内に段々夫婦円満になってきたようだ。多分この二人、行き違いによるコミュニケーション不足が原因の不和だったのだろう。もっと早いうちに子作りに励んでいればよかったのに……。
まあこれで周の問題は解決した。周だけじゃない、児玉の家も安泰だろう。だが念のために朽木にも児玉の家を入れた方が良いな。児玉三郎右衛門には男子が三人居る。一番下の男子は児玉六次郎元次といって今年十五歳、元服したばかりだ。こいつを朽木家に貰おう。周を朽木の娘として九鬼に嫁がせる以上朽木家に児玉の人間が居た方が良い、そういう理由なら可笑しくは無い筈だ。
「九鬼の家はな、琉球に船を出している。伊勢の長島を通して美濃や信濃とも繋がりが有る。極めて裕福な家だ」
「はい」
「まあ海賊の家だからな、陸の家とは多少違う所も有るだろう。戸惑う事も有るかもしれぬ。だが馬には乗ってみよ、人には添うてみよとも言う。九鬼孫次郎守隆は中々の若者の様だ。添うてみるのだな」
「はい」
周の答えを聞いて部屋を出た。周の声は明るかった。右馬頭に子が出来る、その事でホッとしたのかもしれない。幸せになれるだろう。なんか本当の父親みたいだな。
周を養女にする事で父親の児玉三郎右衛門との関係はより密な物になる筈だ。毛利との関係も同様だろう。そして毛利も九鬼を無視は出来なくなる。対馬の防衛体制はこの婚儀でより連携が良くなる筈だ。九鬼宮内少輔嘉隆も喜ぶだろう。朽木との関係もより強いものになる。
廊下を歩いていると庭から声がした。
「兄上、もう少し」
「うん、もう少しだ」
見ると柿の木に子供が上っている。菊千代だな。柿を捥ぎ取ろうと必死に手を伸ばしている。そして娘が柿の木の下で笊を持っている。娘は龍だ。慌てて外に出た。
「無理をするな、菊千代」
“父上”と二人が声を出した。
「そのままでいろ、良いな、動くなよ」
近寄って手を差し伸べて“さあ、こっちへ”と声を掛けた。
「大丈夫です、もう少しで取れます」
「止めよ! さあこっちへ!」
強い口調で言うと渋々菊千代が身体を預けてきた。受け止めて降ろす。今年で十一歳だが小柄なせいか思ったよりも軽かった。
龍の持つ笊には柿が四個有った。禅寺丸柿という甘柿だ。というよりこの時代、甘柿はこの禅寺丸柿しかない。他は皆渋柿だ。
「二人で柿を取っていたのか」
菊千代が“はい”と答え龍が頷いた。龍は甘い物が好きだからな、菊千代に頼んだのだろう。この二人、仲が良い様だ。
「危ない事をする。柿は枝が折れ易いのだ。落ちたら大怪我をするぞ。二度としてはならん」
「はい」
素直に二人が頷いた。
現代では柿を取るために柿の木に登る子供は少ないだろう。スーパーに行けば柿なんて簡単に買う事が出来る。だがこの時代にはスーパーは無い。柿が欲しければ自分で柿の木から捥ぎ取らなければならない。夢中になる余り柿の枝に体重を掛け、枝が折れて落下、大怪我をする子供は少なくないのだ。
俺の手の届くところに三つ程色付いた柿が有った。それを捥いで龍の笊に入れる。龍が嬉しそうに笑みを浮かべた。
「さあ、戻りなさい」
二人が声を揃えて“はい”と言って館に戻った。龍は一人で居る事が多いと聞いている。他の兄弟姉妹とは親しくないのかと思ったがそうでもないらしい。少なくとも菊千代とは仲が良い様だ。ちょっとホッとした。
四郎右衛門を琉球に送る以上、その周囲にはしっかりした人物を付ける必要が有る。傳役の蒲生左兵衛大夫、守山作兵衛の他に誰を送るか……。若手でしっかりした人物か、雨森弥兵衛の次男が中々良いと聞いたな。次男か、これを機に召し出すか。名前は何と言った? 勘六だったかな、新六? 後で確認しよう。それから北条又二郎氏益を付けよう。これからは若い連中をドンドン召し出す。倅達が成人する。それを支える人材が必要だ。
禎兆七年(1587年) 十一月上旬 筑前国那珂郡博多 博多代官所 石田三成
「市兵衛にござる。宜しいか?」
「構いませぬぞ」
部屋の外からの問いに答えると戸が開いて秋葉市兵衛殿が入って来た。すっと対面に坐る。身ごなしが軽い。戦場では幾つもの武功を挙げている。若いが戦巧者として評価が高い。
「石田殿、近江より書状が届いたと聞きましたが?」
「如何にも、これにござる」
書状を差し出すと“宜しいので?”と訊ねて来たので頷いた。市兵衛殿が書状を受け取って読み始める。直ぐに眉を寄せた。大殿の直筆の書状だ。決して読み易い書状ではない。
読み終わるとこちらに書状を返してきた。
「なかなか難解な書状でございますな」
「左様、まるで判じ物にござる」
市兵衛殿がキョトンとした表情を見せ直ぐに笑い出した。
「いや、御許しあれ。石田殿が左様な冗談を申されるとは……」
未だ笑っている。私はそんなに生真面目な男だろうか?
「気にしてはおりませぬ。それにしても大殿も祐筆を使えば宜しいものを……、如何いうわけか御自身でお書きなされる事を好まれる」
「貰う方は大殿の直筆の文を喜びますからな」
「読み辛いですぞ」
「そこが良いのです。皆読み辛いとは言いますが楽しんでおりますよ」
そういうものか。私には読み辛いだけにしか思えぬが……。
「それより石田殿、書状の内容の事でござるが朝鮮にも書状を出すと書かれてありますぞ」
「四郎右衛門様が琉球に行かれると書かれてありました。天下統一の前では有りますが琉球との結び付きが強まった以上、朝鮮との交渉も始めるべきだと御考えになったのでしょう」
市兵衛殿が頷いた。おそらくは瀬踏みだろう。交渉が本格化するのは天下統一後、来年以降になる筈だ。
「どうなりますかな。宗氏が筑後に移されてから商人達は何かと不自由をしていると聞きます」
市兵衛殿が小首を傾げている。朝鮮と宗氏の繋がりは太く強かった。毛利、大友も宗氏を利用して朝鮮との交易に手を出していた。商人達も宗氏を頼りにした。問題が有れば宗氏を通して朝鮮と交渉したのだ。だが大殿はその繋がりを切った。商人達はその事に不満と不安を持っている。
「一安心と言いたいところですが交渉が簡単に纏まるとも思えませぬ」
市兵衛殿が“左様ですな”と頷いた。
「宗氏は朝鮮に服属していた。その宗氏は対馬を追われた。面白くはありますまい。良く分からぬのは対馬ですな。朝鮮は対馬を如何見ているのか。日本の領土と見ているのか、朝鮮の領土と見ているのか……」
市兵衛殿が私を見ている。私の考えを聞きたいらしい。
「康応の頃に高麗が、応永の頃に朝鮮が対馬を攻めたそうです。倭寇の根拠地を潰すという目的が有ったようですな。その折に宗氏が朝鮮に服属する形で和を結んだそうです。対馬を朝鮮の一部にするという話も有ったようですが日本側が拒んだために有耶無耶になったとか」
「左様な事が……。御調べになったのですな」
問い掛けて来たので頷いた。宗氏を追われた柳川権之助調信、柚谷半九郎康広から聞き出した。あの二人は今では朽木に仕えている。私も積極的に仕官を勧めた。大殿の御役に立つだろう。
「宗氏としては交易を保証してくれれば倭寇をする必要は無い。その為の服属という考えだったのでしょう。実際朝鮮からの歳賜米も朝鮮からの貢物と周囲には言いました。朝鮮側もその辺りの事を全く理解していないとも思えませぬ」
「左様ですな」
「ですが一度は朝鮮の一部にするという考えが出たのです。彼らの中に対馬は朝鮮の領土という考えが有ってもおかしくは有りませぬ」
市兵衛殿が唸った。大殿が宗氏を筑後に移したのは正しいだろう。宗氏は交易の為なら形振り構わぬ所が有る。生きる為には已むを得ぬ事では有るが極端な事を言えば朝鮮の出方次第では宗氏は対馬を朝鮮に売った事になりかねなかった。朝廷でも宗氏の事を重視している方々が居ると聞く。放置は出来ない。対馬を朽木の直轄地にする事で朝鮮に対して日本の領土であると示したのは間違っていない。だがその事が交渉にどう影響するかは別問題だ。
「最近倭寇がまた勢いを増しているようです。商人達はその事でも不満を漏らしています。長崎の彦十郎殿からもそのような報せが届いています」
島津が滅んだ頃から増え始めたらしい。そして宗氏が対馬から居なくなった事、龍造寺が滅び大友が領地を減らされた事で更に増えた。喰えなくなった者が海に出たのだ。
「対馬の九鬼、堀内は?」
市兵衛殿が問い掛けて来たから首を横に振った。
「九鬼も堀内も倭寇対策には乗り出さぬようです。朝鮮との交渉の為でしょう。大殿を無視するよりも大殿を利用した方が利が有ると思わせるためだと思います」
「なるほど」
要するに宗氏の代わりに大殿を使えという事だ。しかしそう上手くいくかどうか……。




