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勝利?




禎兆七年(1587年)    二月下旬      肥前国佐賀郡大堂村 太田城  朽木基綱




喚声が聞こえる。ワー、ワーと騒ぐ声の中に時折“押せ!”、“退くな!”という声が聞こえる。状況は良くない。“押せ!”という声が良く聞こえる。つまり、“押せ”と言っているのは龍造寺の兵だ。そして“退くな!”という声には余裕が無い。味方は防いでいるが押されている。結構厳しい状況だな、頭が痛いわ。


もう少しの辛抱だ。一条、長宗我部の四国勢が太田城を抑える五千の兵に攻めかかる。一条と長宗我部の兵は合わせれば六千程になるだろう。そこに太田城の鯰江満介が三千の兵で加勢すれば簡単に追い払える。隠居は如何するかな? 手当をするとなれば手持ちの兵が少なくなる。戦況は徐々に厳しくなるが……。もっとも後詰をしなければもっと厳しくなるだけだ。


問題は多布施川だ。別働隊が来るのか、来ないのか。来ると思うのだが来なければ毛利勢一万五千は遊軍となる。この状況で一万五千が無駄になるのは痛いな。しかし多布施川を警戒するのは当然の事だろう。割り切ろう、これは必要な手当てだ。敵が来ないのならこちらから隠居の本陣に突っ込ませても良い。それで勝負は決まる。


それにしても隠居の奴、小細工をする。いや、それだけ必死だという事だ。侮るべきじゃない。だがあの症状、如何見ても狭心症、心筋梗塞だと思うんだが……。周囲にそんな人間が居て症状を利用したという事かな。或いは本当に病気かもしれない。自分が病んでいると知って最後の力を振り絞って戦いを挑んできた……。


考えるな! 考えても仕方が無い事だ。今はこの戦いで勝つ事を考えればよい。此処を耐える。そして戦線を増やして行く。兵力の多い此方が有利になる筈だ。そして隠居は徐々に兵力不足で追い詰められていく。兵力が無くなる前に何処かで勝負に出る筈だ。其処を潰す。潰せば隠居には打つ手が無くなる。俺の勝ちだ。それにこちらが有利になれば内応を約束している連中が寝返るだろう……。


三郎右衛門、孫六郎が緊張した面持ちを見せている。状況は良くないからな。不安なのかもしれない。

「孫六郎殿、三郎右衛門」

「はい」

二人が声を合わせて答えた。まだ声変わりも十分にしていない。可愛いわ。微笑(ほほえ)ましくなる。


「味方は押されているが負けたわけではない。もう少し肩の力を抜いては如何かな?」

「はい」

二人が顔を赤らめている。本当に可愛いわ。思わず笑ってしまった。周囲からも笑い声が聞こえる。ひりひりしていた空気がジワリと緩んだ。


「未だ戦は始まったばかりだ。先手は取られたが悲観するには及ばぬ。これからが勝負だ」

「はい!」

二人が勢いよく答えた。そして皆が頷く。本当にそうだと良いんだけどな。夜戦は戦況の把握がし難いから嫌いだ。


戦況は動かない。味方は押されたままだ。だが小半刻程経つと毛利の使番が本陣に駆け込んできた。そして膝を着く。

「申し上げまする!」

「申せ!」

「多布施川にて龍造寺勢を発見! 現在戦闘中、こちらが龍造寺勢を押しておりまする!」

どよめきが起きた。皆が頷き合っている。やはり来たか……。無駄にならずに済んだ。内心でホッとするものが有った。


「敵の兵力は如何程か?」

問い掛けると使番が“はっ”と畏まった。

「約一万にございまする」

「うむ、御苦労。下がって良し」

「はっ」

使番が下がった。一万か、妥当な所だろう。毛利は一万五千、こちらが有利だ。負ける事は無い。


「前線に報せよ。多布施川より押し寄せた龍造寺勢一万を毛利勢一万五千が打ち破ったと。大声で叫ばせるのだ、龍造寺勢に聞こえるようにな」

「はっ」

宮川重三郎が使番を五人走らせた。これで前線も精神的に楽になるだろう。攻めてきている龍造寺勢は目論見が外れてがっかりだな。それが戦況にどう影響するか……。多久長門守、小河武蔵守、鍋島豊前守、龍造寺下総守、龍造寺安房守。如何見る?


「父上!」

三郎右衛門の声が弾んでいる。

「如何した」

「本当に龍造寺勢が来ました。凄い」

思わず苦笑(にがわら)いが漏れた。不安に思っていたとは言えないな。


「感心するよりも考えろ。正面に八千、太田城の抑えに五千、多布施川に一万、合わせて二万三千だ。隠居の手元には一万七千の兵が残っている」

三郎右衛門、孫六郎が頷いた。

「もう直ぐ一条、長宗我部の兵が太田城の敵に襲い掛かる。こちらは鯰江の兵も入れれば一万に近い。隠居が戦線を維持するなら最低でも五千は後詰に出す筈だ」

「では残りは一万二千……」

三郎右衛門が呟いた。


「多布施川も劣勢だ。そちらにも後詰を出すとすれば隠居の手持ちは一万を切る。徐々に追い込まれるのだ」

「……」

「言ったであろう。これからが勝負だと」

ごくりと唾を飲み込む音がした。三郎右衛門か、孫六郎か……。良く覚えておけ、これが戦だ。




禎兆七年(1587年)    二月下旬      肥前国佐賀郡大堂村 太田城  朽木滋綱




本陣の中はさっきまでとは全然違っていた。ピリピリした苛立った雰囲気は消え皆の表情には余裕と笑みが浮かんでいる。父上の仰る通りだ。これからが勝負だ。

「凄い」

孫六郎殿が呟いた。本当に凄いと思う。父上は不意を突かれた劣勢を跳ね除けて徐々に龍造寺勢を圧し始めている。


「申し上げまする」

使番が駆け込んできた。空気が変わった!

「正面の味方、徐々に敵を押し返しておりまする!」

彼方此方で“おお”、“良し”という声が上がった。父上が“御苦労”と声をかけると使番が下がった。


「なるほど、押せという声が聞こえなくなったな」

「左様でございますな」

父上と重蔵の会話に皆が頷いた。そう言えば敵の声が聞こえなくなった。そうか、敵が遠ざかっている、味方が圧し返しているという事か。


「多布施川の龍造寺勢を打ち破ったというのは嘘なのだがな。敵も味方も信じたようだ」

「三万の援軍に匹敵する嘘にございましょう。御見事にございまする」

曽衣が賞賛すると皆が“真に”、“その通りにございまする”と口々に声を上げた。父上が声を上げて御笑いになった。

「嘘が上手いのは自慢にならぬ。余り褒めるな」

今度は皆が笑った。味方が圧し始めた事で皆の表情が明るくなっている。


「申し上げまする」

また使番が駆け込んできた。空気が瞬時にして引き締まった。

「一条、長宗我部勢は鯰江勢と共に太田城を囲む龍造寺勢を攻撃! 龍造寺勢にも五千程の後詰が到着し互いに押し合っておりまする」

「うむ、御苦労」

これで龍造寺山城守の手持ちの兵は一万二千に迄減った。


「隠居は正面か、多布施川で勝負をかけるつもりらしいな」

父上の言葉に皆が頷いた。如何いう事だろう? ……そうか、同程度の兵を援軍に出しただけだ! 優位に立とうとはしていない。他で決戦するために兵を残しているのだ。

「如何なさいますか?」

宮内少輔が問い掛けると父上が“ふむ”と鼻を鳴らした。ピタ、ピタと軍扇で首筋を叩いている。叩くのが止まった。


「一条、長宗我部に援軍を出そう。如何思うか?」

父上の言葉に“良き御思案”、“某も同意致しまする”という声が上がった。

「では三好孫七郎、孫八郎、真田徳次郎、寒川丹後守を出せ」

「はっ」

宮内少輔が使番に三好孫七郎、孫八郎、真田徳次郎、寒川丹後守に一条、長宗我部の後詰をするようにと命じた。使番が掛け出す。


「如何するかな? こちらは大凡五千を追加した。放置すれば太田城の龍造寺勢は崩れる。となれば正面の兵も横腹、あるいは後背を突かれるのを怖れて崩れよう。負けが見えているが……」

「援軍を出せば手持ちの兵が減りまする。或いは太田城を決戦の場とするやもしれませぬ」

「多布施川も劣勢だぞ、源五郎」

「多布施川の龍造寺勢が崩れる前に攻め寄せる事も有りましょう。或いは後詰を出してから太田城へ攻め寄せる……」

源五郎が答えると父上が“そうだな”と頷かれた。父上が私を見た。


「三郎右衛門、孫六郎殿。こういう戦は良くないのだ」

「良くない?」

思わず孫六郎殿と顔を見合わせた。孫六郎殿も不思議そうな顔をしている。

「兵を少しずつ小出しに後詰する。このやり方は良くない。徒に戦を長引かせ兵の損害を増やすだけだ。だが夜戦なのでな、敵の動きが見えん。どうしても相手を計りつつその場凌ぎの戦になってしまう」

そうなのか、さっきから凄いと思っていたのに父上にとっては不本意な戦なのかもしれない。

「だがそれももうすぐ終わるだろう。隠居は勝負をかけて来る筈だ」

父上の言葉に皆が頷いた。




禎兆七年(1587年)    二月下旬      肥前国佐賀郡大堂村 太田城  朽木基綱




大分陣内の空気は明るくなった。笑い声も聞こえる。そして龍造寺勢の喚声も以前程には聞こえない。戦況は落ち着いている。龍造寺勢と朽木勢は揉み合っている。戦場は大きく分けて三つ。正面、太田城、多布施川だ。最初は圧されていたがこちらは兵を前線に投入する事で龍造寺側を圧し返し始めた。隠居も前線に兵を投入する事で何とか崩壊を防いでいる。


だが俺と隠居では手持ちの兵数が大分違う。俺には潤沢に使える兵が有るが隠居の手持ちの兵は徐々に少なくなりつつある。予備兵力が少ないという事は戦場で採れる選択肢が少なくなるという事だ。隠居は追い詰められつつある。……しかし兵力の逐次投入なんて拙い戦だわ。だが戦況がはっきり見えないからどうしても思い切った手が打てない。小出しに兵を増強して隠居の反応を見て戦う事になる。理想と現実の違いだな。


隠居も頭が痛いだろう。後詰をしながら戦況を窺うか? それとも一気に勝負に出るか。或いは兵を引くという選択肢も有る。このまま戦況を窺うならジリ貧になりかねない。だが勝負に出ればもう戻れない。勝機が有るなら出るだろうが隠居にその勝機が見えるのか? 見えなければ兵を引くという選択肢も有る。しかし夜戦だ、兵を引くのは簡単ではない筈だ。


いや、兵を引くのは無理だろうな。十兵衛が肥前を攻略しているのだ。此処で兵を引けば配下の国人衆が龍造寺に勝機無しと判断して逃げ出しかねない。となると遮二無二此処で決着を着けようとする筈だ。何処に来る? 正面か? 太田城か? それとも多布施川か……。


「申し上げまする!」

気が付けば使番が目の前に居た。どうやら俺は思考の海で溺れていたらしい。

「如何した?」

「三好孫七郎殿、孫八郎殿、真田徳次郎殿、寒川丹後守殿、敵に打ち掛かりましてございまする」

ざわめきが起きた。


「御苦労、敵に増援は有るか?」

「ございませぬ」

「うむ、下がって良し」

「はっ」

敵に増援は無い。太田城は決戦の場では無いという事か。となると何処に来る? 正面か? 太田城の敵が崩されれば正面は攻撃を受け易い、そこに来るとは思えない。……多布施川か。多布施川なら正面、太田城の戦況から影響を受ける可能性は少ない。


正面と太田城の敵が崩れれば味方は追撃する。当然だが本陣は手薄になる。そこを多布施川から毛利勢を突き崩して隠居が攻めてくるという事か。つまり正面と太田城の敵は囮だ!

「九州勢を多布施川に出せ!」

「毛利勢が圧しておりますが?」

舅殿が首を傾げている。

「隠居が来るかもしれん。正面と太田城は捨てたようだ」

「直ちに!」

重三郎が使番を走らせた。洟垂れ小僧の岩松も今じゃ子供も三人居るっていうんだからな。時が流れるのは早いわ。


時間だけが流れる。時折一言、二言話すのが聞こえるが陣内は静かだ。龍造寺勢の声もあまり聞こえない。ワー、ワーという声は聞こえるのだが迫ってくる感じは無い。三郎右衛門、孫六郎も静かに控えている。おかしい、来るべきものが来ない。隠居は何を考えているんだ?


「申し上げまする!」

来た! 使番が掛け込んできた。

「太田城の敵、崩れましてございまする!」

どよめきが起きた。

「申し上げまする!」

また使番が駆け込んできた。

「田沢又兵衛殿、成松遠江守を打ち破り江里口藤兵衛に攻めかかりました! 正面の敵、退きつつありまする!」

またどよめきが起きた。“勝った!”という声も聞こえる。


「追撃は無用。その場にて陣を固めよと伝えよ」

皆が不満そうな顔をしている。使番もだ。

「良いか、此処は敵地である。夜間の不用意な追撃は敵の反撃を喰らう。追撃は無用である」

使番が立ち去った。念のために本陣からも更に八人の使番を送った。勝ち戦で厄介なのは無秩序な追撃だ。こいつの所為で勝ち戦を失った奴は幾らでも居る。隠居がこの時点で釣り野伏をやるとは思わんが用心は必要だ。


「申し上げまする!」

また使番が掛け込んできた。毛利の使番だ。隠居が来たか!

「後詰を得て多布施川の龍造寺勢を打ち破りました!」

三度どよめきが起きた。勝った? 如何いう事だ、隠居は?

「御苦労、右馬頭殿に多布施川のこちら側にて陣を布くようにと伝えよ。敵が再度押し寄せる可能性が有る。決して油断するなと」

「はっ」

使番が立ち去った。


皆が顔を綻ばせている。正面、太田城、多布施川、その全てで龍造寺勢を打ち破った。勝ったという事なのだろう。だが……。

「勝ったのか?」

俺の問いに皆が顔を見合わせた。

「隠居は何故来ない?」

誰も答えてくれなかった。どうなっているのだろう、さっぱり分からん……。





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