疑惑
禎兆六年(1586年) 七月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 児玉元良
「ところで恵瓊、対馬の宗氏の事だが何か聞いているか?」
「いえ、特には」
恵瓊が答えると相国様が“そうか”と頷かれた。わざわざ口にされたという事は何か有る。
「何か御気にかかる事が?」
訊ねると相国様が“ふむ”と鼻を鳴らされた。そしてチラッと朽木の家臣達を見た。中に頷く者が居た。
「そうだな、話しておいた方が良かろうな。宗氏の家中に龍造寺に通じる者が居るらしい」
「何と!」
「まさか!」
私が声を上げると恵瓊も声を上げた。恵瓊は心底驚いているようだ、演技ではあるまい。だが相国様は首を横に振って“そういう報告が有った”と仰られた。伊賀、或いは八門からの報せだろう。油断無く探っているという事か。後れを取ったな。
「しかし讃岐守様は相国様に従うと申されておりましたが……」
恵瓊が納得がいかないという様に小首を傾げると相国様が微かに笑みを浮かべられた。苦笑か。
「讃岐守ではない、家中の者よ。それに讃岐守は病ではないかと思われる節が有る」
“何と!”とまた恵瓊が声を漏らした。
「では家中に混乱が生じているという事ですな?」
恵瓊の問いに相国様が首を横に振った。
「分からぬ。讃岐守の病というのも推測でしかない。事実か、偽りか、どちらにしても面白からぬ事ではある」
相国様が太い息を吐かれた。病が偽り? その場合は讃岐守自身が龍造寺に通じたという事だろう。確かに面白からぬ事よ。
「しかし何故に? やはり朝鮮の事が原因でございましょうか?」
「多分な、他には考えられぬ」
「相国様は宗氏を邪険に扱ってはおられませぬぞ」
恵瓊の言う通りだ。相国様は宗氏を邪険には扱っていない。むしろその立場を理解しておいでだ。だが相国様がまた苦笑を漏らされた。
「俺の天下では宗氏の将来に希望が無いと思ったのかもしれぬ」
「……龍造寺なら希望が有ると?」
疑問に思いながら私が問うと相国様が膝を叩いて御笑いになった。そして笑い終えるとすっと生真面目な御顔で私を見た。
「三郎右衛門よ、宗氏にとってはな、今のままで良いのだ。朝鮮の事に口出ししなければ誰が天下人でも気にかけまい。足利でもな。いや、天下人などという面倒な者は居なくても良いと思っているかもしれんぞ」
「……」
相国様がクスクスと御笑いになった。
「あの連中にとって朝鮮との交易は何よりも大事な事なのだ。俺はその大事な事に口を出す困った男なのかもしれん。……邪魔よな」
シンとした。私も、恵瓊も、朽木の家臣達も何も言えずにいる。そんな中、相国様だけが笑みを浮かべて我等を見ている。ぞっとするような暗い笑みだ。宗氏に対して強い御不満が有るらしい。邪魔というのは宗氏から見た御自身の事か、それとも宗氏の事か。
「恵瓊よ、右馬頭殿に宗氏の動きに注意するように伝えてくれ。何かおかしいと感じたら躊躇わずに報せを寄越して欲しい」
「はっ、必ずや」
恵瓊が答えると“頼むぞ”と仰られて頷かれた。
御前を下がり屋敷に戻ると恵瓊が“少し御話し出来ませぬか”と言ってきた。深刻な表情をしている。何か今の会談で思う事が有るようだ。倅の六次郎元次に茶を用意させ二人だけで向き合った。
「先程の宗氏の一件、如何思われました」
「聊か信じかねる思いにござる。確かに宗氏の中には相国様に反感を持つ者が居るのかもしれぬ。しかし龍造寺と組むというのは……」
有り得ぬ。首を横に振って答えると恵瓊が頷いた。
「愚僧も最初はそう思っておりました。無謀である、到底勝てぬ、そのような事を考えるなど有り得ぬと。しかし……」
言葉が途切れた。
「有り得ると御考えか?」
恵瓊がゆっくりと頷いた。
「宗氏と龍造寺だけなら無謀でござろう。勝ち目は無い。なれど其処に朝鮮が加われば如何か?」
「朝鮮?」
問い返すと恵瓊が頷いた。
「宗氏が朝鮮に服属していた事を忘れてはなりますまい」
朝鮮に服属していた事か……、まさかな……。
「宗氏が朝鮮を後ろ盾に相国様に対抗しようとしている。龍造寺と朝鮮を結び付けようとしていると?」
恵瓊が頷いた。
「途方も無いと御考えかな?」
「聊か」
何時の間にか顔を寄せ合い小声になっていた。
「愚僧もそう思わぬでもない。だが……」
「恵瓊殿?」
恵瓊がじっとこちらを見た。
「相国様が朝鮮の地に野心を抱いていると訴えれば如何でござろう」
「……朝鮮がそれを信じると?」
それだけで信じるだろうか? とてもそうは思えない。だが恵瓊は頷いた。恵瓊は朝鮮が信じる、或いは信じる可能性が有ると見ている。
「相国様は琉球を服属させようと御考えでござる。現に琉球の使者が日本に来ている。その辺りも含めて朝鮮に訴えれば如何でござろう。朝鮮も荒唐無稽とは一笑出来ますまい、そうは思われませぬか?」
「……」
声が出ない。恵瓊がこちらをじっと見ている。絡め取られる様な気がした。
「龍造寺にとっても悪い話ではない。実現すれば相国様は朝鮮への抑えの兵を置かねばなりませぬ。その分だけ龍造寺の勝ち目は増える。その辺りを訴えれば龍造寺もその気になるやもしれませぬぞ。朝鮮、対馬と組み、北九州から南へと向かう」
可能性は有るのかもしれない。しかし本当に成ると考えているのだろうか。異国と組む? その事を言うと恵瓊が“御尤も”と言った。
「喉が渇きましたな」
「真に、カラカラにござる」
「茶を頂きましょう」
恵瓊が一口茶を飲んだ。こちらも茶を口に含みゆっくりと飲んだ。互いに視線を合わせない。身体が軽くなる様な気がした。飲み終わり茶碗を置くとまた見合った。身体が重くなった。
「昔の事ですがな、あの地には新羅という国が有り、その新羅と九州の有力者が手を結んでその時の帝に逆らったという記録が有ります。筑紫君磐井の乱、でしたかな」
「……」
「過去に一度有った事でござる。もう一度無いとは言えますまい」
確かに無いとは言えない。恵瓊が低く含み笑いを漏らした。
「分かりませぬよ、あの地で何が起き宗氏が何を考えているのかは分かりませぬ。なればこそ注意が必要でござろう」
「確かに……、讃岐守様の病でござるが……」
問い掛けると恵瓊が頷いた。
「仮病かもしれませぬな。もし仮病なら朝鮮と組むという疑いは一気に真実味を増します」
「……」
仮病か、それとも病は真実か……。
「もし、相国様が敗れ朝鮮の力が九州に及ぶのなら我等毛利とて安閑とはしておれませぬ。我等にも必ず影響は及ぶ筈です」
その通りだ。筑前の毛利領はあっという間に失われるだろう。龍造寺が南に行けば良いが海を渡って毛利領に攻め込むという可能性もある。
「今の事、相国様には?」
問い掛けると恵瓊が首を横に振った。
「三郎右衛門殿からお伝えくだされ。愚僧は戻りまする。宗氏の事、朝鮮の事、龍造寺の事、早急に調べなければなりませぬ……」
「確かに。知らぬでは済まぬ事にござる」
「油断しました。世鬼の尻を叩かねば……」
恵瓊が坊主頭をつるりと撫でた。いつもなら可笑しく思う、だが今日は少しも笑えなかった……。
禎兆六年(1586年) 七月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
「では御戻りになられますか?」
「はい」
目の前の老女が穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「越前はこれから暑くなります。御気を付け下さい、義叔母上」
「有難うございます。相国様も御気を付け下さい」
「はい、十分に気を付けまする」
北畠の義叔母が立ち上がったので俺も立ち上がった。相手は驚いていたが見送らせて欲しいと言うと嬉しそうにした。手を引いてゆっくり歩く。義叔母が何を思ったのかクスクスと笑い出した。
「如何なされました?」
「このように若い殿御に手を引いて貰うなど久方ぶりの事ですので嬉しくなったのです」
思わず苦笑が漏れた。
「それほど若くは有りませぬ。もう直ぐ四十になります」
「十分に若うございます」
未だ笑っている。困った御婆様だ。
俺を困らせて喜んでいる老女は権中納言北畠具教の妻だった女性だ。六角定頼の娘で承禎入道の妹でもある。そして北畠右近大夫将監、北畠次郎の母親だ。名前は笛。俺とは義理とはいえ叔母、甥の関係になる。つまり北畠右近大夫将監と次郎は俺にとって義理筋の従兄弟なのだ。義叔母の夫であった北畠具教は俺が殺した。本当なら恨まれても仕方が無いのだが北畠具教と義叔母の関係は冷え切っていたためそうはならなかった。
冷え切った理由は二つある。一つは息子の扱いだ。北畠具教は義叔母の産んだ右近大夫将監と次郎を疎んじた。そして側室が生んだ男児を可愛がった。嫡男である右近大夫将監を廃して側室が生んだ男児を跡継ぎにしようとしたのだ。俺が介入しなければ右近大夫将監は殺されていただろう。義叔母は俺が息子達を救ったと思っているしそれぞれを引き立てているとも思っている。
特に喜んでいるのは右近大夫将監が作った妖怪の本を俺が朝廷に献上した事、そしてその本が朝廷で喜ばれている事だ。義叔母にとっては俺は右近大夫将監の理解者であり後援者でもある。母親にとっては息子を全否定した夫などより俺の方がずっと好感を持てる存在だ。天と地ほども違うだろう。俺と義叔母の関係は円満そのものだ。
もう一つの理由は北畠具教の持っていた名門意識だった。確かに北畠家は名門だが義叔母から見れば武家なのか公家なのか分からないという変な家だった。おまけに北畠家は南朝側について活躍した家だ。室町幕府の中では必ずしも重んじられていない。義叔母には六角家の方が武家としては名門だし室町幕府でも重んじられているという意識が有った。何と言っても管領代の娘だからな、そのあたりの意識は強い。
そんな義叔母には北畠具教の持っていた名門意識など笑止なだけだった。ついでに言えば剣の達人というのも低評価に繋がったらしい。大将が剣術に夢中になって如何するのか、一騎打ちでもするのかと馬鹿にしていたようだ。北畠具教が死んだ時は砂で目潰しを喰らって何も出来ずに死んだのだがその死に様も軽蔑しているようだ。北畠具教が右近大夫将監と次郎を疎んじたのは義叔母に対する反発も有ったのかもしれない。
城の玄関口には輿が置いてあった。義叔母が礼を言って輿に乗った。ゆっくりと輿が去っていく。それを見届けてから部屋に戻った。義叔母が越前から近江に出て来たのは一つは右近大夫将監の顔を見る為であったらしい。そしてもう一つは六角家の事だ。三郎右衛門が六角家を継いだがその妻を如何するかで俺と最終調整を行いに来たのだ。
義叔母は出来れば六角家所縁の娘を妻に娶って欲しい。そうなれば名跡だけでなく血も繋がると考えている。だが適当な娘がいないのだ。梅戸、北畠、細川、土岐、畠山、いずれも居ない。もっとも細川と土岐は義叔母の方で嫌がったかもしれない。六角は土岐の所為で道を誤ったと言っていたし細川は左京大夫輝頼の事を養子のくせに家を潰した愚か者と罵っていた。まあその通りなんだけどね。
結局のところ三郎右衛門の代で六角家の血を入れる事は無理だとなった。三郎右衛門の息子の代で六角家の血を入れる事で決まった。義叔母はがっかりしていたな。だが直ぐに気を取り直して“三郎右衛門殿には六角家の当主としてそれなりの家の娘を娶って貰わねばなりませぬ、自分が嫁を捜します”と宣言したのは天晴れだった。思わず平伏しそうになったわ。男だったら良い当主になったかもしれない。
それと三郎右衛門に与える領地の件も話し合った。六角家を継いだ以上、三郎右衛門を近江に置くのは面白くない。その事は義叔母も渋々では有ったが認めた。近江は朽木の近江なのだ、六角の近江ではない。三郎右衛門には近江以外で領地を与える。十万石ぐらいだ。九州、四国だな。そのどちらかに入れる事にしよう。さてと、鼓でも打つか。
恵瓊が朝鮮と龍造寺が組むのではないか、宗氏が仲立ちをするのではないかと心配している。確かに過去に北九州では磐井の乱が有った。だがあの当時は日本と朝鮮半島は密接に絡んでいた。今とは違う。今の朝鮮は日本には関心は無い。龍造寺と組むような事は無いだろう。それにあの国には外に踏み込んで戦をするほどの軍事力も無い。まあ念のために水軍の配備は忘れずにおこう。それと情報収集だな。毛利にも働いて貰わなければ……。
禎兆六年(1586年) 七月中旬 周防国吉敷郡上宇野令村 高嶺城 小早川隆景
「ふむ、それで三郎右衛門は何と書いて寄越したのだ」
兄が興味津々といった表情で問い掛けてきた。
「例の朝鮮の件です。三郎右衛門の文に寄れば相国様はその可能性は小さいだろうと考えているようですな」
文を取り出して“お読みになりますか?”と訊くと兄は首を横に振った。私から話を聞きたいという事らしい。
「朝鮮が日本に関心を持っているとも思えない。関心の無い相手と組むとも思えないと」
「なるほど、まして相手が龍造寺ともなれば……」
兄がまた“ふむ”と鼻を鳴らした。兄の言う通りだ、龍造寺は日本の一地方を治める大名でしかない。朝鮮が龍造寺を何処まで知っているか。良く分からぬ相手と簡単には組めまい。
「それに同盟を結ぶにしても時が無さ過ぎると。九州遠征までに同盟が結べるか、結んだとしても如何協力するか、協力後の報酬を如何するか、決めるのは難しかろうと」
「確かにそうだな。となると朝鮮の一件は坊主の先走りか」
兄が顔を顰めた。恵瓊を認めてはいるが好意は持っていない。本人が目の前に居れば叱責が飛んだであろう。その恵瓊は九州の四郎の元に行っている。今頃は宗氏と龍造寺の動きから目を離すなと注意している筈だ。
「兄上、相国様は念のために水軍を送るそうです。朝鮮が兵を送るとなれば海を渡ってです。それを阻止しようとの事でしょう。それと婚儀の後で相談したいと申されたとか。心の備えが必要だと三郎右衛門の文には書かれて有りました」
“油断はせぬか”と兄が小さく舌打ちをした。面白くないのだろうな。相国様の油断が見えれば顔を綻ばせたに違いない。
「しかしな、左衛門佐。水軍を送るとなると……」
「はい、根拠地が要ります。九州、朝鮮、対馬に睨みを利かせるとなると……」
「対馬かな?」
兄が首を傾げた。
「離反が間違いなければそれも有りましょう。一気に宗氏を攻め潰す。朝鮮、龍造寺に対して同盟は無意味だと教える事になります。龍造寺の士気を挫きましょう。そうでなければ……」
兄が顔を顰めた。
「毛利領か」
「そうなりましょうな。九州、対馬、朝鮮を横から睨む形になります。その辺りを婚儀の後で話す事になると思います」
「やれやれ、婚儀の後で軍議か」
兄が呆れたように言う。
「已むを得ますまい。この婚儀は朽木と毛利の絆を強めるために結ぶもの。それが試されるのは戦場の筈です」
兄が“そうだな”と言って頷いた。




