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外伝Ⅰ 焼き討ち

今回は外伝です。比叡山焼き討ちから堅田制圧までの部分を書きました。六角家臣の立場から、朽木家臣の立場から見た基綱です。




永禄八年(一五六五年) 十月下旬 近江蒲生郡  観音寺城  平井丸 平井定武




「なんと! 真か?」

「真にございます」

倅、弥太郎の顔が強張っていた。両手は袴をきつく握りしめている。私の顔も弥太郎同様強張っていような。頬が引き攣る様な自覚が有る。


「比叡山は判金五百枚、そして堅田領の譲渡を申し出たそうにございます。しかし弥五郎殿はそれを受け入れず……」

「焼いたか」

弥太郎が頷いた。判金五百枚ともなれば五千貫以上にはなろう。それを受け入れぬとは……。思わず息を吐いた。


堅田が越前の一向一揆に同調し朽木に敵対した。本願寺からの要請も有ったようだが一向一揆が勝つとも見たのであろう。実際に両軍が動かした兵力は朽木勢一万三千に対し一揆勢は三万五千と大差が付いた。一概に堅田の判断を短慮とは責められぬ。だが木の芽峠で一揆勢は敗れた。南条郡から撤退せざるを得ない程の敗北だったようだ。堅田の思惑は外れた。

 

当然だが朽木は堅田を放置しなかった。越前から兵を南下させると真っ直ぐに滋賀郡へと向けた。堅田は判金二百枚を差し出す事で詫びようとしたようだが弥五郎殿は受け入れなかった。予想外の事だったのだろう。慌てた堅田は比叡山に助けを求めた。比叡山はそれに応じ三千の兵を動かした。多少の睨み合いの後、話し合いで和を結ぶのだと思ったが……。


「日吉大社を焼いたのにも驚きましたが比叡山を焼くとは……」

「容赦はせぬという事よ」

弥太郎が“はい”と言って頷いた。顔には畏怖の色が有る。比叡山の三千の兵はあっという間に朽木勢の前に敗れた。僧兵を匿った日吉大社は焼かれた。徹底している。敵対する者は何者であれ叩き潰すという事か。南近江の者達にその姿が如何見えたか……。


「堅田は如何なりましょう?」

弥太郎が不安そうな顔をしている。

「分からぬな。……堅田の湖族は如何した?」

「既に朽木に付いたらしゅうございます」

「そうか」

堅田の水軍は朽木に付いた。つまり淡海乃海は朽木の物という事か……。堅田は抵抗出来まいな。となれば焼き討ちは無かろう。だが処分は厳しい物になるだろう。


亡き承禎入道様は朽木は北に勢力を伸ばす。比叡山が有る以上、西へは進めぬと見ておられた。承禎入道様の御考えでは朽木はあくまで越前朝倉への抑えであったのだ。実際弥五郎殿は北に向かった。だが一向一揆が堅田を唆した。その事が朽木の眼を西に向けた……。


しかし日吉大社、比叡山を焼けるものなのだろうか? 家臣達はそれに唯々諾々と従ったのだろうか? 信じられぬ想いが有る。己に出来るか? 命じられるか? 命じられて従えるか? ……無理だ。自分には出来ぬ。比叡山を放置するのは危険だと分かっていても出来ぬだろう。そこには越えられぬ壁が有るのだ。人の目、常識、心、だろうか。その壁を弥五郎殿は越えた。軽々と越えた。自分とは違う、何処かが違う。


「鬼神の強さよな」

私の言葉に弥太郎が頷いた。そう、人ではない強さだ。武勇ではない、心。鬼神の心を持っている。弥五郎殿の強さは心の強さなのかもしれぬ。皆が人の心で動く時、弥五郎殿だけが鬼神の心で動く。此度の日吉大社、比叡山攻めは人では出来ぬ事よ。


「厄介な事になる。覚悟しておけ」

「と言いますと?」

「六角家を見限る者が出よう」

弥太郎が驚いた表情をした後“なるほど”と言って頷いた。どうやら気付いたか。


「一向一揆を退け越前南条郡が朽木の物になった。敦賀郡は安全になったのだ。其処が肝要よ」

「……敦賀からの物の流れが安定したという事ですか」

「そうだ。そして滋賀郡を得、堅田の湖族が朽木に付いた。淡海乃海は朽木の物になったと言って良い」

「……六角よりも朽木、ですな」

弥太郎の表情に苦渋の色が有った。完全に差が付いた。北が安定し淡海乃海は朽木の物になった。朽木の力は完全に六角を凌いだ。平井はその朽木と縁を結んでいる。必ず疑いの目で見られよう。


「一波纔かに動いて万波随うとも言う。六角家から朽木家へと移る者が続出しような」

弥太郎が頷いた。先ずは大津、駒井……。あの者達は商いに関心を持たない左京大夫様に不満を持っている。彼らが望むのは弥五郎殿の様な主君だ。必ず朽木へと移るだろう。

「当家も難しい立場になります」

「そうだな」

それ以上は言わなかった。いずれは平井家も六角家を去る事になるのかもしれぬ。弥太郎もそれを感じていよう……。




永禄八年(一五六五年) 十一月上旬 近江高島郡安井川村  清水山城 井口経親




「きつい戦であったのう、茶が美味いわ」

儂の言葉に皆が頷いた。

「全くじゃ。木の芽峠から燧城。野分を避けて柚尾城、杣山城、茶臼山城を落とした。殿は人使いが荒い」

「柚尾、杣山、茶臼山には敵は居らなんだぞ、藤三郎殿」

ぼやく若宮藤三郎を小林左馬頭が冷やかす。藤三郎がテレを隠すかのようにカラカラと笑い声を上げた。


「そうじゃがな、泥道が酷かったわ、泥が顔にまで飛んで来よる。あれは敵より始末が悪い。口の中に入ったが不味うてかなわん」

「嫌な事を思い出させるの。折角の茶が苦くなるではないか」

左馬頭が顔を顰め二人の会話に皆が笑い声を上げた。二人も笑う。儂も笑った。泥を喰ったのは儂も同じだ。皆も同じであろう。だが勝ったのだ、今となっては笑う事が出来る良い思い出よ。


堅田からの帰途、清水山城で休息を取っている。漸く鎧を脱ぐ事が出来た。この解放感が何とも言えぬ。そして熱い焙じ茶。今宵はゆっくりと休めるだろう。命の洗濯だな。雨森弥兵衛、安養寺三郎左衛門尉、西山兵部、岩脇市介、小林左馬頭、若宮藤三郎、小堀新助、阿閉淡路守、中島備中守、宮部善祥坊が共に寛いでいる。いずれもかつては浅井家に仕えた男達だ。そして今は朽木家に仕えている。


「勝ったのだな、あの一向一揆に」

「ああ、勝った。朝倉を滅ぼした一向一揆にな」

阿閉淡路守、雨森弥兵衛の言葉に笑い声が止んだ。

「正直不安であった。一揆勢は三倍近い大軍じゃ。木の芽峠の天険を頼んでも良くて引き分けであろうと思っていた」

茶を啜りながら安養寺三郎左衛門尉が呟くと皆が頷いた。一向一揆に大勝ちしたのは朝倉宗滴以来の事であろう。それ程までに厄介な相手だ。


「だが勝った。なんとも果断な御方よ、まさかあそこで打って出るとは思わなんだわ」

儂の言葉に“驚いた”、“儂もじゃ”という同意の声が上がった。

「おかげで泥を喰う羽目になったがの」

藤三郎の言葉に皆が笑った。藤三郎は余程に泥に祟られたらしい。

「堅田が有ったからのう、急がれたのであろう」

「おそらくそうであろうな」

小堀新助、阿閉淡路守の言葉に座が静まった。皆が互いに顔を見合わせている。先程までの賑やかな空気は無い。


「比叡山を本当に焼き討ちする事になるとは思わなんだわ」

「日吉大社もじゃ、驚いたぞ」

中島備中守、宮部善祥坊の言葉に皆が頷いた。二人とも声が小さくなっていた。皆もこれまでその事を話さなかった。殿を畏れ憚る気持ちが有るのだろう。同じ気持ちは儂にも有る。


比叡山を潰すと申された。堅田を叩くと申された。滋賀郡を獲るとも申された。越前攻めの為には背後を安定させる必要が有るのは確かだ。そのためには比叡山攻め、堅田攻めは当然だと言える。だから殿の御考えは比叡山を、堅田を武力で脅し、或いは多少の戦闘で叩く事で朽木の支配下に置くという事かと思った。皆がそう思った筈だ。だがそうではなかった。


“神罰も仏罰も俺が引き受ける。その方等は俺の命に従え。朽木の者が畏れるのは俺の命ぞ。従えぬのなら朽木を去れ!”

比叡山の僧兵を匿った日吉大社を前に殿が申された言葉が蘇る。そして殿は日吉大社の焼き討ちを我等に命じた。今なら分かる。乱世じゃ、下が上を試す様に上が下を試す事も有る。あれは我等の覚悟を試したのだろう。自分に従えるのか、否か……。その事を話すと皆が頷いた。


「そう言えば譜代衆は焼き討ちを躊躇わなんだの」

「そらそうじゃ。何と言っても殿は朽木を一代で大きくされた方じゃ。躊躇う筈が無いわ」

西山兵部、岩脇市介の言葉に皆が頷いた。日吉大社への焼き討ちを躊躇っていると譜代衆が動いた。慌ててその後を追った。本当に焼くのかと思った。本当に焼いた。躊躇わずに焼いた。焼いた事よりもその事が衝撃であった。自分も慌てて兵達に焼き討ちを命じた。


「信濃衆もじゃ。木の芽峠では先を争って一揆勢を追っていた。死に物狂いじゃ」

「高野瀬もだ」

「藤三郎、善祥坊、彼らは後が無いのよ。分かっておろう」

儂の言葉に皆が頷いた。相木市兵衛、小泉宗三郎、芦田四郎左衛門、室賀甚七郎、信濃衆は領地を失い国を追われた。高野瀬備前守も領地を失った。此処で、朽木で身を立てるしかないのだ。一所懸命、一所を得るために命を懸ける。それこそが武士というものであろう。


「譜代衆も同じかもしれぬ。負ければ元の八千石に戻る。だから……」

弥兵衛の言葉に皆が頷いた。勝ち続けなければならぬ。そして勝たせてくれる大将が居る。ならば躊躇う事無く付いていく。そういう事なのだろう。良く分かる。負けるという事は全てを失うのだ。あれほどに繁栄を極めた朝倉は今では影も形も見えぬではないか。浅井も無くなった。


「北近江、越前の一部。合わせれば四十万石を越え五十万石に近い。躊躇う理由は有りませぬな」

小堀新助が茶を飲みながら言った。その通りよ、今ではかつての浅井の倍以上の大きさになった。躊躇わぬからこそ大きくなった。躊躇っていれば今の朽木は無かった筈だ。


「それにしても強いわ。戦ではないぞ、心よ。殿には何者にも退かぬ強さが有る。胸が震えるほどの強さじゃ。今でも震えておる」

西山兵部が胸を擦りながら言った。皆がその言葉に頷いた。

「有り難い事ではないか。敵に回せば恐ろしいが御大将と仰ぐなら頼もしい限りよ。腰抜けの大将では戦えんからの」

岩脇市介が皆を見回しながら言った。同感だ、腰抜けでは戦えぬ。皆も“その通り”、“同感じゃ”と同意した。今回の一連の戦いで殿の恐ろしさを敵も味方も認識したであろう。御若いからと言って侮る事は無くなる筈だ。それだけでも我等付き従う国人衆は安全になる。


「御若い故の勢いかと思ったがそうではないの」

「弥兵衛殿もそう思われたか、儂もじゃ」

雨森弥兵衛の言葉に中島備中守が同意すると他にも同意する声が上がった。

「かと言って朽木の恐ろしさを知らしめるだけでもない。儂はそう思うのじゃが弥兵衛殿、お主はそうは思われぬか?」

儂が問うと弥兵衛が“同意する”と言って頷いた。


「応仁の乱より百年、天下乱れ世に戦乱絶えず。しかるに叡山は鎮護国家を口で唱えながら天道の畏れをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀賂(きんぎんまいない)にふける。此度堅田が非道を犯すも叡山の乱れに倣うもの。もはや叡山は天下に害なす無用の長物、我これを天に替わりて滅せん、であったかな?」

弥兵衛が我等に問い掛けてきた。何人かが頷く。


「殿はあの者達が嫌いなのだ。いや邪魔と思っておられるのだろう」

「弥兵衛殿、あの者達とは?」

藤三郎が問うと弥兵衛が一つ息を吐いた。

「比叡山や一向門徒の事よ。堅田に対する扱いを見れば分かる」

唸り声が上がった。


堅田か。越前の一向一揆に同調した堅田は文字通り踏み躙られた。日吉大社、比叡山を焼き討ちした殿の前では堅田は全くの無力だった。寺は破却され門徒の主だった者は首を刎ねられた。門徒達は命乞いをしたが殿は一顧だにせず首を刎ねさせた。堅田は殿の前に膝を屈した。だが比叡山が残っていれば如何だっただろう? 堅田は屈服しただろうか? 弥兵衛の言う通りだ。勢いだけではない、殿の行動には冷徹な計算が有る。


「以前から狙っていたのよ」

安養寺三郎左衛門尉の言葉に皆が顔を見合わせた。そんな我等を見て三郎左衛門尉が軽く笑い声を上げた。

「分からぬかな? 殿は滋賀郡を獲り西への抑えとして坂本に城を築くと申された。以前からその考えが御有りだったのだと某は思う」

“なるほど”、“確かに”と声が上がった。


「一向門徒を破った。越前を獲れるやもしれぬ。そうなれば北近江、越前、それに若狭を入れれば百万とは言わぬが九十万石はあろう。嘗ての六角を越えるな」

唸り声が上がった。確かに三郎左衛門尉の言うとおりだ。今となっては越前を獲るのは夢ではない。朽木は勝ったのだ。


「三郎左衛門尉殿は殿が京を目指すと言われるか?」

中島備中守が問い掛けると三郎左衛門尉が首を横に振った。

「分からぬな。だがそこまで大きくなった時、三好が殿を放っておくとも思えぬ」

“確かに”、“三郎左衛門尉殿の申される通りじゃ”と声が上がった。


「比叡山、堅田を放置しては戦場は滋賀郡から高島郡になろう。殿はそれを嫌ったのではないかの。それに三好との決戦の最中にあの連中に掻き回されては堪らぬ。そう御考えになったのかもしれぬぞ」

シンとした。なるほど、そちらが有ったか。皆が顔を見合わせている。


「幸いと言うのは変だが公方様は弑され六角はあの有様じゃ。殿が若狭を獲っても文句を言う者は居ない。そうであろう?」

三郎左衛門尉が我等を見回した。皆無言だ。

「危機かと思ったがの、案外殿は待っておられたのかもしれん、この日が来るのを」

彼方此方で唸り声が上がり左馬頭が“当代一の軍略家か”と呟いた。


「……かもしれんのう。比叡山も堅田の一向門徒も容赦無く潰された。あれを見れば六角も簡単には殿に敵対は出来まい。坂本に城を築き西を防ぐ。越前、若狭を獲れば……、天下が見えてくるのう」

弥兵衛の言葉に皆が頷いた。

「怖いのう、底が見えぬわ。だがそこが良い、頼もしい限りよ」

三郎左衛門尉が笑った。皆も釣られたように笑った。


「躊躇えぬの。我等も死に物狂いで働かなくてはならぬ」

儂の言葉に皆が頷いた。比叡山を焼き討ちし堅田の門徒を叩き潰した。滋賀郡を得、越前でも優位に戦を進めている。天下か、そろりとだが天下が見えてきたのかもしれぬ……。



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