信用
禎兆五年(1585年) 十月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
スッと襖が開く音がした。気のせいでは無い、刀を握り締めた。今度は閉めた。という事は敵ではない。敵ならば逃げ易い様に開けたままにする筈だ。
「お呼びにより千賀地半蔵、参上致しました」
闇の中に声が響いた。
「今宵は半蔵か」
「はっ」
身体を起こした。
「九州の状況を聞こうと思ってな。如何なっている?」
「良くありませぬな。大友は内部の対立が酷くなっております」
「と言うと?」
「これまでは宗麟と国人衆の間で対立が有りましたが今では宗麟と嫡男の五郎義統の間も思わしくありませぬ」
半蔵の声には笑いの成分が含まれていた。悪い奴だな、他人の不幸を喜ぶとは。俺は笑いを抑えているぞ。
「宗麟は国人衆を抑えられぬか?」
「はい、街道の整備もようやく納得させたような有様にございます。抑えが利かぬようで」
「頼り無い事だな」
半蔵が含み笑いを漏らした。宗麟は国人衆の統制に苦労している。対島津戦、秋月戦で良い所が全くなかったからな。国人衆に足元を見られているのだ。これでは龍造寺には勝てん。
「嫡男との対立の理由は?」
「隠居したにも拘らず実権を中々渡さないという事が不満のようで。五郎義統は二十歳を過ぎもう直ぐ三十になります。不満も出ましょう」
なるほどな。飾り物の二代目社長か。戦国だけじゃない、現代でも良く有る理由だ。父親が実権を離さず息子は不満に思う。特にこの時代は平均寿命が短い。五十まで生きられれば十分長生きだ。三十近くになって実権が無いとなれば不満を持つには十分過ぎる程の理由だろう。
「もっとも五郎義統には良い評判が有りませぬ」
「無いか」
「有りませぬ。意志薄弱で優柔不断、おまけに酒癖が相当に悪いそうでございます」
酒乱かよ。いや不満が有って酒に逃げているのかもしれない。だが意志薄弱で優柔不断か。当主には一番向かない性格だな。特に今の大友では如何にもならんだろう。宗麟が実権を離さないのはそれが有るのかもしれない。実際大友家は江戸時代には存在しない事を考えれば五郎義統には相当に問題が有ると見て良い。
「宗麟には他に子供が居たな?」
「はい、田原宗家を継いだ田原常陸介親家、田原氏庶流の武蔵田原家に婿入りした田原民部少輔親盛がおりまする。宗麟の信頼厚いのは三男の民部少輔にございます」
武蔵田原家か。宗麟の重臣、田原紹忍の婿養子という事だな。確認すると半蔵がその通りだと答えた。
「掻き回しますか?」
「うむ、肥前の隠居が手を出したくなる程に掻き回してくれ」
「はっ」
半蔵が嬉しそうにしているのが分かった。対立の要因は有り過ぎる程に有る。特に後継者争いによる御家騒動は効果的だ。掻き回し甲斐が有ると思ったのだろう。
「それとな、九州一円で噂を流して欲しい」
「どのような?」
「大友は名門、源氏の流れ。龍造寺のような国人とは違う、とな」
「それは……」
半蔵が低い声で笑い出した。
「大殿も意地が悪い」
「そう褒めるな、半蔵」
肥前の隠居の血圧を上げてやろう。大友に負けたくないと思っている山城守にとっては何よりも頭に来る事の筈だ。
「それで龍造寺は?」
「相変わらず昼間から酒が止まらぬそうにございます。龍造寺山城守は不満が有る様にございますな。大殿の許にも鍋島より報せが参っておりましょう」
「文は来ている。もっともあの男、悪口を言わなければ愚痴も零さぬ。大したものよ。最近の文には街道を整備した事で人の通りが賑わいだしたと書いて有った。今のところは俺との繋がりを維持するだけで良いと考えているのだろう。用心しているようだ、厳しい立場なのかもしれぬ」
半蔵が微かに笑った。
「大分疎まれているようにございます。疑われてもいるようで」
「そうか」
手切れとなれば最初に殺されそうだな。如何する? 逃がす手筈を用意させるか? いや、もう少し様子を見よう。現時点では朽木と龍造寺の間で緊張は無いのだ。
「龍造寺の家臣達は朽木と戦う事に躊躇いは無いのか?」
「さて、随分と威勢の良い事を言っておりますな。朽木と戦っても敗ける事は無いと。しかし正面から戦って勝てるとは思っておりますまい。大方は山城守への迎合でございましょう」
迎合か、或いは傷の舐め合いかな。不満は有る、だが起ち上がるには踏ん切りが付かないと言ったところか。
「龍造寺の隠居は?」
「同じでございましょう、なればこそ酒を飲むのかと」
「そうだな」
本気で勝てるとは思っていない。酒を飲むのも憂さを晴らしているだけだ。いや本当に憂さを晴らしているのか? 煽っているという事は無いか? 自分で自分を追い込んでいる……。考え過ぎかな。
「龍造寺の隠居の我慢が何処まで続くかだな?」
「左様で」
半蔵が含み笑いを漏らした。長くは持たないと見ているらしい。或いは長くは持たせないか。楽しくなってくるわ。
「薩摩、大隅は落ち着いているか? 民が朽木に対して不満に思う様な事は無いか?」
「問題は有りませぬ。薩摩、大隅の民は朽木の支配を受け入れつつあります。何と言っても税の取り立てが緩やかになったと喜ばれています」
結構な事だ、誰だって楽な生活をしたいからな。その内島津の事は忘れてくれるだろう。
「では小山田左兵衛尉を薩摩から呼び戻す」
「……動き易くするのですな?」
「そうだ。薩摩、大隅が安定したなら何時までも二万もの兵を置いておく理由は無い。大友も龍造寺も不審に思うだろう。それに左兵衛尉達も不満に思うだろうからな。琉球の使節が帰ったら呼び戻す」
単身赴任は結構辛いのだ。戻ったら労ってやらなければ。ボーナスとして銭を与え、そして宴会を開いて俺自ら酒を注いで回ろう。それから若い娘達にも酌をさせよう。戦国版コンパニオンガールだ。喜んでくれるよな?
「宜しいのでございますか? 菱刈には金山がございますぞ?」
「構わぬ。奪われても一時の事だ。金山を持って何処かに逃げる事は出来ぬのだからな」
龍造寺が最初に狙うのは大友領の筈だ。薩摩、大隅まで兵を出すのは難しいだろう。出しても良いがその場合は兵力の分散になりかねない。いずれ北から朽木勢が来るのだ。その時には金山の放棄か維持かで悩む事になる。むしろ兵を南に出して貰いたいものだ。第二次世界大戦の日本軍じゃないが手の広げ過ぎによる戦力不足が龍造寺を襲うだろう。
禎兆五年(1585年) 十一月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
「姫君誕生、おめでとうございまする」
「おめでとうございまする」
「うむ、有難う。母娘共に元気だ。目出度い事よ」
家臣達の祝いの言葉に答えながら満足そうな笑みを浮かべた。夕が娘を産んだ。何人目だったかな? 九人目? 十人目? 竹、鶴、百合、幸、福、寿、杏、毬、絹、桃、十人目だ。はっきり言って感動は無い。いや別な意味で感動は有るな。良く頑張ったわ、俺。娘だけで十人だ。褒めてやりたい。
「御名前は何と?」
「桃と名付けた」
彼方此方から“桃姫様”と言う声が聞こえた。“愛らしい御名前ですな”と言ったのは真田源五郎だ。源五郎よ、愛らしいだけじゃない、御目出度い名前なのだ。桃には昔から邪気を払い不老長寿を与える効能が有ると言われている。清らかで皆に幸せを運んでくれる女の子になるだろう。
しかし子供が生まれる度に名前を如何付けるのかで頭を悩ます。特に女児の場合がそうだ。この時代の女性の名前は必ずしもバリエーションが豊富じゃない。代表的なのは菊、松、竹、梅、夕、鶴、万等で娘が多いと大変なのだ。生まれた年の干支で名前を付ける所も有る。寅、巳、辰等だ。
夕は生まれた子が男子じゃない事を嘆いていたが俺は母子共に無事な事で十分、桃は母親似の美しい娘に育つだろうと言って慰めた。気休めでは無い、夕は愛らしい娘だ。母親に似れば桃はきっと愛らしい娘になるだろう。でもね、納得しないんだ。次は男子をと張り切っている。また頑張らなくてはならん。とほほ……。
「慶事が続きますなあ」
「真に」
平九郎と重蔵の言葉に皆が頷いた。その通りだ、今月末には百合が三好家に嫁ぐ。来年は次郎右衛門の結婚だ。畿内の有力者三好家、中国の有力者毛利家と縁を結ぶ事になる。宮中では近衛と結んだ。政略結婚は十分に上手く行っている。そして来年は九州制圧の予定だ。目出度い限りだ。そう言えば倉の底が抜けたと平九郎が言っていたな。益々目出度い、銭が有るのは良い事だ。次に娘が産まれたら倉と名付けるか。
琉球の使者が帰った。敦賀、堺、京を中心に見物したのだが案内した北畠右近大夫将監によれば大分驚いていたらしい。敦賀、堺の繁栄は予想以上だったようだ。そして京見物でも自分達とは違う文化が有ると知って吃驚したらしい。日本が力自慢の野蛮国では無いと認識したようだ。結構な事だ。無知から来る偏見程始末の悪い物は無い。
本当は大極殿で謁見して欲しかったんだが建造が間に合わなかった。已むを得ん、次からだな。使者には来年また来てくれ、別な人間を連れてきてくれと頼んだ。向こうもそれを了承した。今回の使節は日本への服属に賛成派、反対派、中立の三人だったが程度の差はあれ日本との関係は強化すべきで有り日本をもっと理解すべきだと思ったらしい。その中で服属か否かを考えるべきだと判断したようだ。
別な人間を連れてくる事に同意したのも百聞は一見に如かずという事だろう。右近大夫将監によれば三人はしばしば真剣に話し込んでいたようだ。時々筆談で右近大夫将監に問い掛けてくる事も有ったらしい。特に連中が重視したのは朝廷とは何なのか? 朽木と朝廷の関係は如何なのかだ。俺が簒奪するのかという質問も有ったようだ。右近大夫将監も吃驚しただろう。まあ中国なら簒奪を考えそうな状況では有る。だが此処は日本だ。簒奪なんかしたら政権は不安定になる。大事なのは長期安定政権を創る事だ。その為には権力は朽木、権威は天皇、それで良いのだ。
来年使者が来たら謁見の後に馬揃えでもやろうか。帝、院には使者と共に軍事パレードを見て貰う。効果有るかな? 後で兵庫頭に訊いてみようか? 飛鳥井の伯父に訊いた方が良いかもしれない。朝廷に対する圧力と取られては困る。いや、信長の馬揃えは公家も参加していたよな。そういう形で行えば良いかもしれん。うん、やってみよう。
禎兆五年(1585年) 十一月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 川勝秀氏
大殿が意見書を読んでいる。時に頷き時に“ふむ”と声を出す。読み終わった。“少し待て”と仰られるともう一度最初から読み始めた。念入りに読んでいる。不満な所、疑問に思う所が有るのだろうか。御倉奉行、荒川平九郎様は心配そうな表情だ。読み終わった。大殿が大きく息を吐いた。
「如何でございますか?」
平九郎様が問い掛けたが大殿は暫く無言だった。
「……平九郎、この意見書には甲斐の武田の制度を取り入れると書かれてあるが」
「はっ。武田は甲州金を使った銭の制度を作っております。彦次郎が甲斐に行って調べ、これを取り入れようと進言してまいりました。中々良い案だと思いまする」
大殿が俺を見た。
「大殿は金と銀の銭を造ると仰せになりました」
「うむ」
「某、各地の大名がどのような銭を造ったのかを調べましたがいずれも金、銀の量で価値を決めております。これでは銭とは申せませぬ」
「うむ」
「それに対して甲斐の武田は甲州金に刻まれた額で価値が決まっております。銭の価値をこちらが決めるのでございます。大殿の御意に適う物かと思い進言致しました」
「うむ」
大殿は“うむ”としか申されない。不安に思っていると大殿が“ふふふ”と御笑いになられた。機嫌は悪くない様だ。ホッとした。平九郎様も安堵している。
「なるほどなあ。武田の制度を参考にするか」
「はい」
「良いだろう。朽木が銭の価値を決める。それを北は奥州、蝦夷地から南は九州、琉球まで使わせる。つまり、朽木の権威をその者達が認めるという事だ。そうだな?」
「はい!」
嬉しかった。大殿は俺の考えを理解して下さる。
「形は四角いのだな?」
「はっ」
「この一枚で銀十両と等価、十両金か」
「はっ、銀は一枚で銀一両とします。これを一両銀と呼び一両銀を基準に考えておりまする」
「なるほどな。つまり十両金一枚で銅二貫、二千文という事か」
「はい」
大殿が頷かれた。
「一両の下に分、朱、糸目を置く。一両は四分、一分は四朱、一朱は四糸目か。これを銀で造るのだな?」
大殿が俺を見た。
「はい、金よりも銀の方が産出量は多うございますれば」
「うむ。平九郎は如何思うか?」
「良き案かと思いまする。なにより制度としては武田で使ったという実績がございます」
「そうだな」
大殿が二度、三度と頷かれた。
「それで十両金と一両銀、一分、一朱、一糸目だが何か混ぜるのか? その辺りの記載が無いが」
平九郎様と視線が有った。そうなんだ、此処が困っている。意見書を出したのも大殿の御考えが知りたいという事も有る。如何お考えになるのか……。
「その辺りを決めかねております。価値を高める、信用を付けるという面から見れば混ぜ物は少ない方が宜しゅうございましょう。皆からも受け入れられ易いかと思いまする」
平九郎様の答えに大殿が“なるほど”と頷かれた。平九郎様は高い方が良いと考えておられる。混ぜ物、銅か鉛を考えているが二割ぐらいにしたいと御考えだ。俺は三割から四割くらいで良いんじゃないかと思う。それ以上はちょっと拙いと思うんだが……。
「混ぜ物は八割では如何か?」
“え!”と思わず声が出た。俺だけじゃない、平九郎様もだ。平九郎様は眼が点だ。飛び出そうなくらい見開いている。大殿が声を上げて御笑いになった。冗談? 驚かそうとしたのか。大殿も人が悪い。
「大殿、冗談はお止めくだされ」
「冗談ではない。本気だ、平九郎」
「はあ」
驚いていると大殿が“聞け”と仰られた。
「良いかな? 銭に信用を付けようと言ったな。銭に信用を付けるのは金銀の割合では無い、朽木の力よ。そこを間違えてはならん」
それはそうだが……。
「早い話がその辺に転がっている石ころに十両と刻めば十両として通用する。そういう世の中にしなければならんのだ」
「それはまた……」
平九郎様が絶句している。俺も声が出ない。仰られる事は分かるが石ころ? それは……。俺達を見て大殿がまた御笑いになった。
「今は戦国の世だ。戦で人が死ぬ。つまり銭を使う人は少ないのだ。だが天下を統一すれば戦は無くなる。人が増える。この意味が分かるか? 銭を使う人が増えるのだ。百年と経たずに銭を沢山造らなければならん時代が来るぞ。金銀は幾ら有っても足らんという状況になる」
「なるほど」
「確かに」
平九郎様と俺が同意すると大殿が頷かれた。
「今も蓄えているのだろうが金銀は自然に増えるという事は無い。掘り尽くせば無くなってしまうのだ。分かるな? 金銀の量で信用を付けるのは限界がある。信用を付けるのは金銀の量では無い。朽木の力、政への信用だ。それを踏まえた上でもう一度検討してみよ」
「はっ」
平九郎様が畏まったので俺も慌てて頭を下げた。百年か……。そんな事、考えてもいなかった。まだまだだな……。




