美濃侵攻
天正四年(1580年) 十月上旬 美濃国不破郡関ケ原村
平井高明
不破の関を越え関ケ原に到達すると若殿は軍を止めた。関ケ原は東山道、北国脇街道が交差する要衝の地だ。周囲には城山、松尾山、天満山、笹尾山、桃配山、岩倉山、丸山等の山が有り街道を見下ろしている。これらの山に兵を置けば侵入してきた敵を包囲する事は容易だろう。美濃は西からの攻撃を防ぎ易い国だ。但し、一つに纏まっているのならばだが。
「初めて御意を得まする。西保城主、不破太郎左衛門尉光治にございまする」
太郎左衛門尉が膝を着き深々と頭を下げた。
「うむ、良く来てくれた。我が軍が不破の関を無事越えられたのもその方が味方に付いてくれた事が大きい。父上にもその方の事は報告しておく、これからも頼むぞ」
「はっ」
太郎左衛門尉が下がると弥五郎様が声をかけてきた。
「伯父上」
「はっ」
「太郎左衛門尉に対する扱いは今ので良かったかな?」
不安そうな表情だ。顔立ちは御屋形様に良く似ているが線の細さを感じるのは経験が不足している事、それによって自信が無い所為だろう。経験さえ積めば線の細さは消える筈だ。
「現時点では十分でございましょう」
「……」
「若殿は太郎左衛門尉の功績を認めお褒めになったのです。そして御屋形様に報告すると約束されこれからも頼むと仰られた。太郎左衛門尉は安心したでしょうし満足もした筈です」
若殿が“うむ”と言って頷いた。
「後は太郎左衛門尉が武功を挙げた時に大声で誉め恩賞を与える事です。さすれば周囲は太郎左衛門尉が認められていると思うでしょうし太郎左衛門尉本人もそう思うでしょう。そこが大事でございます。そうなればこれからも朽木の為に働いてくれる筈でございます」
不破氏は同じ不破郡の国人衆竹中氏と必ずしも円滑な関係を築いているとは言い難い。そして竹中氏の現当主竹中久作は若殿の傳役を務める半兵衛殿の弟だ。その事が太郎左衛門尉の朽木氏に対する不安、不満に繋がりかねないと見ているのだろう。その懸念は尤もだが今のところ若殿はそつなく熟していると言って良い。妹の小夜からも息子を頼むと言われているが十分に良くやっている。左程に心配する事は無い。
「伯父上、恩賞とは? 私の一存では与えられぬが……」
「その事は太郎左衛門尉だけでなく国人衆達は皆が分かっております。ですから当座の物、例えば太刀一振り、短刀一振り、書付で良いのです。その上で八幡城に戻ったら御屋形様に必ず伝えると申されませ。御屋形様が太郎左衛門尉にそれなりの恩賞を与えましょう」
「なるほど、良く分かった」
若殿が二度、三度と頷かれた。
御屋形様が若殿の報告を無視する事は先ず有り得ない。今回の出兵は若殿の御立場を固める為でもある。公家達が官位を与える事で若殿を思う様に操ろうとしたらしい。それを知った若殿は侮られたと涙を流して悔しがったという。今回の出兵で若殿が総大将なのも周囲に若殿を認めさせるため。御屋形様が若殿の御立場を弱めるような事をする筈は無い。万一の場合は私や傳役の半兵衛殿、新太郎殿が御屋形様を説得する。必ずや恩賞を下さるだろう。国人衆達は若殿を新たな上位者として認める筈だ。その事が若殿の力になる。
側近の明智十五郎が近寄ってきた。
「菩提山城の城主、竹中久作様が見えられました」
「うむ、此処へ」
若殿の声が弾んだ。傳役の竹中半兵衛殿の弟だ、嬉しいのだろう。直ぐに男が現れた。半兵衛殿にはあまり似ていない。半兵衛殿は細身の男だが弟の久作はがっしりとした男だった。鎧姿が良く似合う。こういう男は戦場でも働くだろう。頼もしい限りだ。
「菩提山城主、竹中久作重矩にございます」
「うむ、良く来てくれた。そなたの事は半兵衛から聞いている。会えて嬉しいぞ」
「畏れ入りまする。兄が朽木家にて優遇されている事を有り難く思い、陰ながら喜んでおりました。以後は懸命に務めまする」
「うむ、父上も喜んでくださることだろう。頼むぞ」
「はっ」
若殿と久作殿の遣り取りを半兵衛殿が満足そうに見ている。朽木家と織田家に竹中家が兄弟で分かれて仕えた。美濃国主であった一色家と色々とあったとは聞いている。だが分かれて仕える事で竹中の血を残すという狙いも有っただろう。だがその竹中家が今朽木家に集まった。久作殿から見ても朽木の天下取りは揺るがぬという事なのだろう。
久作殿が下がり軍が動き出した。この後は曽根城、大垣城を目指す。曽根城は稲葉氏、大垣城は氏家氏の城であった。両者が滅んだ後は織田氏の直属の城になっている。守備兵はそれほど多くない。味方は四万の大軍、攻略は難しくは無い筈だ。朽木の武威を十分に見せ付けてから稲葉山城を目指す。
稲葉山城の織田三十郎に味方する者は僅かだ。籠城は援軍が有って有効となるもの。足元の弱い三介様が美濃に果たしてどれだけの援軍を送る事が出来るか。それに伊勢には御屋形様が居るのだ、三介様はそちらも気にせざるを得ない筈。中途半端な数の援軍では四万の朽木軍の前に居竦んでいるのが精一杯だろう。孤立しているとなればいくら稲葉山城が堅城と言っても士気は落ちる。攻略にはそれほど手間取らない筈だ。
天正四年(1580年) 十月中旬 伊勢国三重郡菰野村 朽木基綱
「良い湯だな、疲れが取れる」
ほーっと息を吐くと重蔵、五郎衛門、新次郎、下野守が“そうですなあ”とか“真に”とか言って頷いた。皆湯に浸かりながら肩のあたりに湯をかけている。ちゃぷん、ちゃぷんと湯の音がした。
「御屋形様、この湯の山温泉は古くから有るのでございますか?」
「らしいな。京の都が出来る前、つまり奈良に都が有ったころに発見されたらしい。ざっと八百年程前の事かな?」
俺と五郎衛門の会話に他の三人がふーんといった表情で頷いた。もっとも下野守は知っていただろう。蒲生家は伊勢とは強い繋がりが有る。
「怪我に良く効くらしいな。鹿が傷を癒すために浸かりにやって来るらしい。そのため鹿の湯温泉とも言うそうだ」
五郎衛門が“ほう”と声を上げた。伝承では薬師如来のお告げでこの温泉を見つけたと言われている。逆だろうな、鹿とかが湯に浸かっているのを見て怪我や傷に効くと判断して利用したのだろう。薬師如来云々はその後で出来た伝承の筈だ。
最初の利用者は鹿、猪、熊だろう。次は地元の猟師かな? 最後は旅人、商人だと思う。千種街道、八風街道を利用する者達が頻繁に利用したのだろう。歩き疲れた者、山賊に襲われて怪我した者、戦で怪我をした将兵も利用した筈だ。うん、歴史のロマンだなあ。元の世界に居た時、この温泉に入ってそう思った。今また歴史を遡ってこの温泉に入っている。なんか不思議な感じだ。これこそ本当のロマンだな。
この温泉から少し離れた場所に天台宗の大寺院三岳寺が有る。最澄が建立したというからかなり古いし格式も有る寺だ。だが現代ではこの寺は温泉の傍に有る。戦国時代に織田勢によって焼かれたらしい。そして改めて温泉の傍に再建されたのだそうだ。この世界では焼かれていない。だが以前は僧兵を数百人抱える勢力の強い寺だったようだが伊勢が朽木領になってからは五十人程に縮小されている。
俺が怖いらしい。そうだろうな、比叡山は焼いたし長島も潰した。武力を保持していると潰されると思ったようだ。五十人の僧兵も夜盗や山賊を防ぐためだと言っているし政にも関わらないと誓っている。今回も俺の所に主だった坊主が挨拶に来た。湯に浸かりに来ただけだと言ったんだが何処まで信じたかな。何と言っても五千近い兵を率いている。
最初は二、三千で良いと言ったんだが皆に駄目だと反対された。五郎衛門、新次郎だけじゃなく下野守も目を剥いて怒った。まあ信長だって小勢で本能寺に居る所を襲われたからな。それを考えて五千の兵を率いる事にした。心配されてちょっと嬉しかったな。そう思った時、信長の事を思った。信長が小勢で京に行った時、誰も止めなかったのだろうかと。死ねば良いと思ったのかな? そう考えるとちょっと寒いわ。まあここは大丈夫だ。兵の他にも伊賀衆、八門が周辺に警戒網を布いている。ここを襲うのは容易ではない筈だ、そして俺を殺すのはもっと難しいだろう。
石田佐吉が小走りにやってきた。膝を着こうとする、お湯で濡れるから“無用だ”と言って止めたんだが膝を着いた。こいつ、律儀なんだ。
「梅戸左衛門大夫様、千種三郎左衛門尉様が御挨拶に参られました」
地元だからな、挨拶に来たか。ここにも律儀者が居るな。
「挨拶など無用だ、共に風呂に入ろうと伝えよ」
「はっ」
「その方も入れ、遠慮は許さん、孫六、新九郎も連れて来い」
「はっ」
加藤孫六、北条新九郎も此処に連れてきた。折角だから皆で温泉に入ろう、良い思い出になる。
新たに五人が湯に浸かった。最初は“ほー”とか“はー”とか言っている。新九郎はまだ身体が細いな。初陣はもう少し様子を見よう。北条家の跡取りなのだ、無理をさせる事は無い。孫六は大分身体が大きくなった。これなら鎧が重いという事も無いだろう。そろそろ初陣だな。佐吉は……、戦働きは無理だな。やはり兵糧方が良いかな? 性格も大分角が取れた様だ。俺から離れても大丈夫だろう。
綾ママと小夜も来れば良かったんだけどな。弥五郎の事が心配でそんな気持ちにはなれないらしい。それどころか俺の事を薄情だと言い出す始末だ。伊勢で三介を牽制するのだと言っても行かないと言い張った。今頃は城で神仏にでも祈っているのだろう。折角の温泉旅行なのに……。愚痴っていても仕方が無いな。
「三郎左衛門尉、亀千代は如何かな? 手を煩わせているか?」
「はっ、まあ何と言いますか……」
歯切れが悪いな、何か有るのか? 俺は労おうと思っただけなんだが……。
「遠慮は要らぬぞ」
「はっ、されば武を好みませぬ」
皆が顔を見合わせた。武を好まぬ?
「三郎左衛門尉殿、亀千代様は文を好むのかな?」
左衛門大夫が問うと三郎左衛門尉が頷いた。
「書物や算盤を好みます」
「兵書は」
「読みますぞ」
「という事は武を嫌いなのでは無く武技を鍛えるのがお嫌いか?」
「刀、槍、弓、嫌がりますな」
あらあら、二人の会話からすると亀千代は文化系らしい。もしかすると草食男子かな。
「新次郎殿、亀千代様は御屋形様に似たかな? 御屋形様も武技はあまり得手では無かった」
「そうかもしれんなあ」
五郎衛門と新次郎の会話に皆の視線が俺に集まった。何だろう、俺は責められてるのかな?
「確かにそっちの方は得手では無かった。戦も下手だと五郎衛門に笑われたな。随分と落ち込んだものだ」
俺の言葉に皆が吃驚だ。佐吉、孫六、新九郎の三人は必至に感情を押し殺している。
「そういう事もございましたな、あれは小谷城攻めの時でしたか」
「覚えていたか」
「はい、覚えておりますぞ。ですが御屋形様はあの後直ぐに戦上手になられた。頼もしい限りで」
五郎衛門が嬉しそうに言う。
「そうかな、俺には良く分からん」
謙遜では無い。本当に良く分からない。戦上手になったと言うより元から有った知識を上手く利用したという感じがする。
「三郎左衛門尉、近江に戻ったら亀千代と話してみよう。それで良いか?」
「はっ、宜しくお願い致しまする」
「うむ」
好き嫌いが有るのは仕方が無い。だが極端なのは困る。それに文に淫していると思われるのも良くない。戦国なのだ、周囲からの侮りを受けかねない。それは傳役である三郎左衛門尉、休夢に対する非難にもなる。嫌いでもある程度は武技を習得してもらわないと。
「御屋形様、親というものは子供が大きくなるにつれて悩みが大きくなりますぞ」
下野守の言葉に五郎衛門、新次郎、重蔵、三郎左衛門尉、左衛門大夫が大きく頷いた。なるほど、俺が悩むのはこれからか。段々憂鬱になって来た、園の事も近江に戻ったらはっきりさせなければならない、溜息が出そうだ……。
天正四年(1580年) 十月下旬 尾張国春日井郡 清州村 清州城 木下長秀
兄の部屋に四人の男が集まった。兄、私、蜂須賀小六殿、前野将右衛門殿。皆表情は暗い。部屋には重苦しい空気が漂っていた。
「では三介様は美濃へは兵を出さぬと?」
「そうだ」
「美濃を捨てると言うのですな」
「諄いぞ、小一郎」
兄が顔を顰め私を見て息を吐いた。
「良い機会なんじゃ。ここで兵を出し三十郎様を救う。そうなれば三十郎様だけではない、織田家の誰もが三介様を織田家の当主として認めるだろう。織田家は三介様の下に一つに纏まるんじゃ」
「その事を御重臣方は」
「当然申し上げたぞ、小一郎。だが三介様は兵を出されん」
「……三十郎様が邪魔だから見殺しにすると?」
小六殿の問いに兄が首を横に振った。
「それも無いとは言えん。だが一番の理由は三介様は怯えておるんじゃ。美濃の国人衆は皆朽木に付いた。遠山も今回は様子見をしておる、援軍は無い。稲葉山城は美濃の真ん中で孤立しておる。御重臣方の話ではそのような所に助けに行けるかと言われたらしい」
小六殿と将右衛門殿が顔を見合わせた。
「後詰しなければ織田は頼り無しと国人衆に思われますぞ」
「小六の申す通りです、例え負けても美濃に兵を出さなければ……。御重臣方はその事を申されなかったのですか?」
頼り無しと思われれば国人衆の離反を招く。それは織田家の崩壊を招くだろう。それに兵を出せば遠山一族が呼応する可能性もあるのだ。敵の総大将は亜相様ではない、勝ち目は有る。
「申し上げたそうじゃ、だが三介様はお採り上げにはならなかった」
「……」
「美濃の国人衆は自分に敵意を持っている、行けば自分の首を求めて攻めて来よう、そう申されたらしい」
「それは大方様を幽閉するからでは有りませぬか」
今更何を言っているのか! 兄が私を見た。口調が強かっただろうか?
「その通りじゃ、小一郎。怒ったか? 御重臣方も腹を立てておる。自分達が反対したのに押し切った。その挙句がこの有様じゃとな」
兄が吐き捨てた。兄も怒っているのだと思った。
大方様は美濃の出、亡き殿は御嫡男勘九郎様を大方様の養子とする事で美濃を掌握する一助とされようとした。亡き殿は大方様に相応の敬意を払われていたのだ。美濃の国人衆にとってそれは自尊心をくすぐる事であっただろう。だが三介様はそれを踏み躙った。美濃の国人衆が反発する事は目に見えていた。三介様は国人衆の気持ちに余りにも無関心であり過ぎる。
「それに亜相様が伊勢に居られるからの。美濃に向かえば亜相様が尾張に攻め込もう。そうなれば織田軍は美濃で行き場を失う、全滅しかねぬ、そうも申されたそうじゃ」
確かに亜相様は伊勢に居られる。だが兵は五千、尾張に攻め込むには少なすぎる。亜相様が伊勢で兵を集める様子は無い、おそらくは牽制の筈。
「御重臣方はあれは牽制だから十分に手当てをすれば問題無いと申し上げたんじゃ。だが納得されぬ。亜相様が怖いんじゃろう」
「……」
「三介様は尾張に兵を集めるようにと指示を出された」
兄の言葉に小六殿、将右衛門殿と顔を見合わせた。
「尾張なら美濃から攻められても伊勢から攻められても対処出来る、そうお考えの様だ」
「馬鹿な、合戦の際は必ず敵の領内に踏み込んで戦う。例え畦道一本でも踏み込んで戦うのが織田家の戦では有りませぬか」
「……」
兄は無言だ。将右衛門殿の言葉に唇を噛み締めている。
「殿、伊勢を襲いますか?」
小六殿が押し殺した口調で問い掛けてきた。兄は無言だ。
「殿?」
兄が首を横に振って“無用だ”と答えた。
「亜相様に備えが無いとは思えん。丹波の者達の事を覚えておろう。俺はお主達を三介様のために無駄に失いたくない」
小六殿がチラと将右衛門殿を見た。将右衛門殿は無言だ。
「では、亜相様の元に人を送りますか?」
小六殿が兄をじっと見ている。兄がまた首を横に振った。
「三介様のために死ぬつもりは無いが織田を裏切る事はしたくない」
「……」
「済まぬ、いずれは決めねばならぬのは分かっている。だが未だ決められぬのだ。済まぬ」
兄が頭を下げた。
「いえ、殿の御気持ち良く分かりました。我らを無駄死にさせたくないとの御言葉、何より嬉しゅうござる」
「小六の申す通りでござる。ですが時は余り有りませぬ。御覚悟だけはお早めに願いまする」
小六殿、将右衛門殿が頭を下げた。
確かに時は無い。三介様が美濃を捨てた以上、国人衆も三介様を、織田家を捨てるだろう。一気に織田家は崩壊する。覚悟を決めなければならない……。




